犬耳のくれた安らぎ3
タウーニに助けられてから十日ほど経った日の朝、俺は漸く天幕の外に出る事を彼女に許された。
けれども天幕から出、久しぶりに見る太陽の眩しさに目を細めた俺に、踊りかかって来る一つの影。
「オマエ姉ちゃんに何をしたぁっ!」
牙を剥き出し、拳を握り固めて振りかざし、見事な跳躍からの攻撃を繰り出そうとする、まだ少年と言って良い年頃に見える獣人。
獣人の筋力は、人間を遥かに上回る。
例え相手が十台の前半に見えようとも、身のこなしが戦士のそれである以上、まともに受ければ、今の俺なら死ぬかもしれない。
故にそう認識した途端、命の危機に、身体は勝手に動き出す。
巻き込む様に外側から振るわれた拳、フックの様なパンチを、俺は真っ向からは受け止めずに身体を逸らしながら手を添える。
そして彼の身体を内側に巻き込む様に、パンチの勢いを活かして放り投げた。
何時もの俺なら、間違いなく受け身も取れない様な形で地面に叩き付けただろうが、タウーニの関係者であるかも知れないとの考えが脳を過ぎり、咄嗟に手を離して投げたのだ。
投げ飛ばされた獣人の少年もそれを察したのだろう。
見事に中空で身体を翻して地面に足から着地しながらも、悔し気に表情を歪めてこちらを睨む。
流石は獣人と言うべきか、人間では早々見られない様な身の軽さだ。
先程の迎撃は上手く行ったが、だからこそ自分が未だ復調には遠く、本来の実力は到底発揮出来ないであろう事を自覚する。
だってたったアレだけの攻防で、既に身体が少し重い。
飛び掛かって来るのをあしらう位なら兎も角として、じっくりと腰を据えて獣人の腕力で攻められたなら、目の前の少年にも多分勝ち目は薄いだろう。
しかし俺と少年が次の動作に出る前に、辺りに響くはタウーニの怒鳴り声。
「こら、アンタ達! こんな所で暴れるんじゃないよ! 特にダーン、アンタどう言う心算でアタシが拾ってアタシが助けた、アタシの客に手を出してるんだい!!!」
……ちょっと怖い。
十日間もの間世話になったからだろうか、主に叱られてるのは俺じゃないのだが、それでも怒鳴り声を聞いていると心がしゅんとしてしまうのを感じる。
「だ、だって、姉ちゃん、ソイツは人間だぞ!」
にも拘らず必死に反論する少年、もといダーンは、凄いと思う。
そう、獣人にとって、人間は憎むべき敵で間違いはないのだ。
今の俺はダーンの言葉を哀しく思うが、それでも事実は変わらない。
彼の言い分は、間違いなく正しい。
「はん、だからなんだい。もう一回言うよ、ダーン。アスィルはアタシが拾ってアタシが助けた。だからどこのどなた様でも関係ないね。アタシの客だ。病み上がりじゃなきゃ喧嘩位は許してやるけどね、今やるってならアタシが相手だよ!」
でもタウーニの態度は一切変わらず、その剣幕に今度こそダーンは顔を引き攣らせ、耳と尻尾が垂れて竦む。
タウーニの言葉は嬉しかったが、けれども驚いた事に、俺はそんなダーンを可哀想に思い、何とかしてやりたいと言う気になる。
今まで可哀想だなんて誰かを思った事は、両手の指で数えれる位にしかない、この俺がだ。
「ま、待って、タウーニ。彼の、ダーンの反応は当然だ。俺だって逆の立場なら、君を心配するよ」
だからその言葉は、咄嗟に口を突いて出た。
そんな俺の言葉に、タウーニも、ダーンも驚き、それから少しバツの悪そうな表情を浮かべる。
「あぁ、まぁ、アンタがそう言うなら、今回は良いよ。油断してアンタを外に出したアタシも悪いしね。でもアンタが意外と強くて良かったよ。……あぁ、そう言えば闘技場のチャンピオンだったね?」
タウーニがそう言って、取り敢えずその場は収まった。
ダーンは安堵とバツの悪さと、悔しさが混じり合った複雑そうな表情をしていたが、それ以上は詳しい事情を知らない俺には、口出しできない領域だ。
その後、騒ぎを起こした罰としてダーンに俺の面倒を見る様にと言い残してその場を後にする。
何でも同じ事が起きない様に、集落の面々を説得して来るらしい。
……穏便に言葉で説得してると良いなと思う。
ダーンはタウーニの言い付けだったからだろうが、最初は渋々であっても色々と俺の質問に答えてくれた。
どうやら彼は、タウーニを姉ちゃんと呼んでた事からも察せられる通り、彼女の弟なんだそうだ。
では何故一緒に暮らしていないのかと言えば、獣人の中でも犬人と呼ばれる彼等は、一つ所に定住せずに獲物の豊富な狩場を求めて部族単位での移動を繰り返している。
そしてジャージャーニと言う彼等の部族では、狩りを行える戦士は、自らの天幕を得て独り立ちする物なんだと言う。
故にダーンも以前はタウーニと共に暮らしていたが、十四になって戦士として認められた際に独り立ちしたらしい。
「そりゃあ独り立ちは寂しいけどさ、オレみたいな邪魔者が居たら、姉ちゃん何時まで経っても婿も取れぇしさ。ただでさえ部族で一番の戦士だとか言われて、ちょっと若い衆にはビビられてるんだよ」
ジロリと俺を見て、ダーンは言う。
あぁ、うん、弟のダーンがそんな風に考えてタウーニの天幕を出て行ったなら、俺を邪魔者だと思う彼の気持ちも理解は出来る。
そしてタウーニが、殊更に俺の世話を焼いてくれたのは、早くに弟が出て行って彼女自身が寂しかったからだろうとも、やっぱり理解が出来た。
因みにタウーニとダーンの両親は、人間との戦いから戻らなかったそうだ。
……そうだろうなぁとは、思ってたけれども。
「ま、良いや。姉ちゃんが言い出したら聞かないのは前からだしな。アンタも早く身体治せよな。ちょっと信じられないけど、アレでも本調子じゃないんだって? 本当かよ。一体アレどうやったんだよ。ちょっと教えろよ」
割り切りが早いと言うか何と言うか、話してる間にダーンはさくりとわだかまりを放り投げると、俺が彼を投げた技に付いて聞きたがる。
別に教える事を惜しむ程の技ではないが、ダーンの切り替えの早さには付いて行けなくて面食らう。
本当に、不思議だ。
俺はこれまで、獣人と一括りにして犬人なんて存在を知りもせず、彼等がこんなにも気が良いなんて知りもせず、傭兵として戦って来た。
一体何故、戦う必要があったのか。
勿論俺にとって、生きる事とは戦いであり、生きる事とは即ち敵を殺す事だった。
だけれども、彼等を敵とする必要が本当にあったのか。
或いは、誰にとってそれが必要だったのか。
それがどうしても、わからない。