犬耳のくれた安らぎ1
熱が出た。
恐らくは前回の戦いで負った傷から、悪いモノが入っていたのだろう。
応急処置はしたのだが、人目を避けて町に入らず、街道を使わずに移動して体力を消耗したのが拙かったらしい。
傭兵をやっていた頃、戦闘ではなく、戦闘で負った傷が元になった感染症で死んだ仲間も見て来たが、まさか自分がそうなるとは夢にも思わなかった。
頑丈さと頑健さには些かの自信があったのだが、劣悪な条件が揃えば、まぁ所詮はこんな物か。
自分でも弱気になっている事を自覚しながら、俺はせめて少しでも身体の中の熱を冷まそうと、水を飲む為に川辺に降りる。
ゲラルド伯領はとっくに抜けたから、仮に野垂れ死にをしたとしても、それがゲラルド伯の子息であるジャーチルに伝わる可能性は低い。
それだけが幸いだったが、兎に角今は、あまりものを考えたくもない位に頭も身体も熱かった。
川の水に直接口を付けて飲むも、然程に身体は冷えた気がせず、俺は頭をザブリと水中に突っ込んだ。
息が苦しくなるほどに浸したら、漸く少しだけスッキリした気分になったので頭を上げると、ぐらりと眩暈がする。
意識が途切れる寸前に聞いたのは、ドボンと自分の身体が水の中に落ちる音だった。
どうやら俺は、病じゃなくて水に溺れて死ぬらしい。
……あぁ、まぁどちらでもそんなに大差はありはしないか。
昔、考えた事がある。
もしかして死神は俺の事が嫌いなのではないだろうか、と。
あの時、矢の雨が降って来たのがもう少し前なら、最前列の俺は死んでいた。
あの時、部隊が奇襲攻撃を受けた時、真っ先に狙われたのが隣に立つ古参傭兵でなく俺だったら、やっぱりきっと死んでいた。
そう言った事は何度かあるのだ。
運が良いと、俺にそう言った傭兵も居る。
でもソイツは、運にあやかると言って俺の傍で行動して、そして死んだ。
その時は俺も大怪我をしたから、あぁ、これは別に運が良い訳じゃないな、単に何故か死なないだけだとそう思った。
だったらやっぱり、死を司ると言う死神か、或いは戦士が死んだ際に天の戦場へと案内する戦乙女が、俺の事を嫌ってるんだろう。
そんな事を思い出す。
何が言いたいのかって話だが、……要するに俺はまだ生きていた。
ここがどこかは、わからない。
痛みと引き攣りを堪えて、自らの身体を弄れば、膿んでいただろう傷口には丁寧な手当が施され、寝かされている場所もそこ等の地面じゃなく、敷物の上である。
あぁ、つまり誰かがわざわざ俺を助けてくれたのだろう。
何にせよ、生きているなら動かねばなるまい。
精一杯に気合を入れて身を起こせば、強烈な痛みが走り、身体からは動く事を嫌がってるか様に大量の汗が噴き出す。
それでも幸い、今の今まで寝てた分だけ、そんな身体の嫌がりを捻じ伏せるだけの気力はあった。
……のだが、そんな時、不意に天幕の入り口を潜って、女が一人入って来る。
あぁ、そう、俺が寝かされていた場所は天幕の中だったのだ。
「あぁ!? アンタ何してんだい! まだ寝てなきゃ駄目じゃないか!!」
女の吠え声の様な叱責に、頭がくらくらとする。
崩れ落ちそうになる身体を、手を地に突いて支えて堪えていると、近寄って来た女に強引に再度寝かされてしまう。
彼女の力は思いの外強く、俺が弱ってるって事を差し引いても、あまりに容易く押さえ込まれてしまった事に驚く。
何よりも、彼女の掌は、武器を扱う者に特有の硬さをしている。
寝かし付けられながら改めて、恐らく俺を助けてくれ、手当をしてくれたのであろう彼女を見ると、その頭部に見慣れぬ物を見た。
「……獣人?」
思わずそう呟けば、彼女はこちらをじろりと見て、俺と目が合う。
美しいと、そう思った。
エルフの様な嫋やかさとは無縁だが、力強い、出来の良い武器にも似た美しさがそこにはあった。
艶やかな毛に覆われた犬耳も、鋭い深紅の瞳も、開こうとする口に覗く牙の様な八重歯も、溢れんばかりの生命力を感じる。
「何だい、お偉い人間様は獣人なんかに助けられたくなかったって?」
しかし彼女の口から出た言葉は、非常に棘に満ちた物だった。
あぁ、まぁ、そりゃあ、そうだろう。
この地の人間は、獣人に対して碌な扱いをしていないから。
大陸西部の人間が、他の亜人を見下して碌な扱いをしていないのは確かだが、それでもミスティラの様にエルフならば、奴隷としてもまだ丁寧に扱われる。
何故ならエルフは見目が美しく数も少なく、希少価値があるからだ。
だがそれ以外の種族、特に個体数が多く、捕虜として捕まる事も多い獣人の扱いは、男であろうが女であろうが、非常に悪い。
獣人は、人間に近しい姿をしながらも、獣の様な耳や尻尾を持ち、背の一部や腹などが毛に覆われた種族だ。
人間よりも力が強く、人間よりも頑丈な獣人は、敵に回せば恐るべき相手だが、奴隷にすれば頼もしい労働力になる。
また子を良く産む獣人の女性は『性欲が強いと人間が思い込んで居る』為、安い娼婦、或いは使い捨ての娼婦としてそれなりに需要があった。
人間に近しくも毛深い姿を嫌悪して避ける者も居るが、その毛の手触りや、多少乱暴に扱っても壊れない頑丈さを好む者も、例えば傭兵等には数多い。
「いや、見惚れてただけだ。不躾で済まない。それよりも、何故助けてくれたんだ?」
俺はエルフにしか、ミスティラにしか興味がないと思っていた為、他の女に見惚れてしまった事に驚きながらも、彼女に問う。
優しくされて絆されたのか、そんなにも俺は容易く心揺らぐ男だったのか、それとも単純に彼女の美しさが本物なのか。
グルグルと頭の中を何かが渦巻いているが、兎に角、それでも優しさの理由を知りたかった。
獣人が、人間を嫌わない理由なんて一つも無いのに。
すると彼女は、心底呆れた様な表情を浮かべて溜息を吐く。
「あぁ? 何を馬鹿な事言ってるんだい。アンタは死に掛けて助けが必要だった。助ける理由なんてそれだけで充分だろうさ」
その言葉は、まるで染み込む様に、俺の胸に落ちて来た。
そうか、それだけで充分なのか。
不思議な気持ちだった。
だったら、俺は素直にこの美しい獣人の世話になりたいと、そして生きたいと、そんな風に思う。
「……ありがとう」
以前の戦場では、傭兵として散々に獣人の戦士を殺した俺が、今更図々しい事ではあるのだけれど。