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【第三章】アニマーリア

 それから、必死で走った――――刀と銃だけを携えて、残りの荷物を投げ捨てて。

「ディオス、待って!」と私の身を案じて止めてくれたライルさんとソンブルさえも置いて、私は一人で平原を駆け抜けた。

 一時間近く走ったと思う。(はる)か遠くに見えていた街がどんどん近付いてきた。それに伴い、あの黒い化物――――ライルさん曰く『リヴァイアサン』というらしい、怪物の姿もはっきりしてくる。

 遠目から見た通り、魚とトカゲを足したような姿だった。基本の形はトカゲのまま、後ろ足がなく、尾びれ、背びれがあって、全身が木炭のように真っ黒な鱗で覆われている。市場で見る魚や民家に出没するようなトカゲと違うのは、目がギョロギョロと不安定に動いていること、口の中にサメのようなノコギリ状の牙があること――――そして、その体がとてつもなく巨大だということだ。リナさん達が乗っていた馬車の百倍と言っても過言ではない。

 その巨大な尾びれが街を()ぐ。大きな口が建物を丸飲みにする。崩れた建物の破片が街中に降り注ぐ。

 その光景を見て余計焦()れったくなった。――――が、既に全速力で走っていた私はこれ以上のスピードを出すことはできない。

 気持ちだけが焦る。早く街に辿り着かねば――――そこでリヴァイアサンに襲われている人々を、絶対に助け出さねば。


 それから何分も経って、やっと足が気持ちに追いついた。遠く見えていた街の入口に(ようや)く辿り着いたのだ。

 私の到着と同時に、再び尾びれが振られ、建物が薙ぎ倒されて瓦礫(がれき)が舞う――――そんな轟音(ごうおん)の中に、今度は悲鳴が混じった。

「うわぁああ――――――っ!」

「!」

 幼い男の子の声。それを聞いて焦りが加速した――――が、既に全速力を出していた私はこれ以上のスピードを出すことはできない。

 気持ちだけが(はや)る。もどかしい。早く助けに行かなければいけないのに。

 あんな巨大なモンスターを倒すのは無理だ。絶対に不可能だということは分かっている。しかし、目の前で苦しんでいる人を一人助けるぐらい、私にだってできるはず!

 宙に浮いているリヴァイアサンの腹の下、瓦礫の山と化した建物の下から、(かす)かに「助けて!」と声が聞こえた。先程聞いた声と同じ声だった。

「待ってて、すぐ助けるから!」

 周囲では未だに瓦礫の雨が降り続けている。急がなければ私の、そして少年の命も危うい。

 一般人なら動かすのも難しいであろう、重い重い石の塊。しかし幼少期から厳しく鍛え上げられていた私にはなんのこともない。

 隙間に手を入れて、腰で踏ん張って持ち上げる。さすがに軽々とはいかないが、人の手を借りなくても一人で何とか動かせるレベルだ。

 大きな塊を五つは取り除いただろうか。瓦礫の下に一つ、影が見えた――――しかしそれは、人ではなかった。

 下半身は瓦礫の下敷きになったまま。見えている上半身は、どこからどう見ても?犬?だった。

 両手で抱き上げられそうな子犬。クリーム色の毛並みは(すす)で汚れてしまっている。

 誰かのペットが巻き込まれたか、野良犬が迷い込んできていたのか? そう思って、改めて人間を探そうとした。――――その時、その犬の口が動いて、

「助けて……」

 と助けを請う声が、その口から漏れた。

「!」

 ――――犬が喋った!?

 予想もしていなかった出来事に一瞬固まってしまった。しかし子犬の苦しそうな表情を見て、考えるのを後回しにして再び瓦礫を撤去する手を早めた。

 最後の一つまで投げ捨てて、子犬を抱き上げる。

「あ、ありがとう……」

「どういたしまして! それよりも、逃げるよ!」

 お礼を言う子犬。それに対して無駄に大声で返事をした私は、できるだけリヴァイアサンから離れるように走り出した。

 リヴァイアサンは今、こちらに背を向けている。まだ見つかっていないから追われることはない――――が、こちらを向いていないということは、あの強力な尾の一撃が降ってくる可能性があるということ。

 駈け出した直後に轟音と地響きが襲ってきた。近くの建物がまた倒壊したのだろう。砂煙が充満し、視界も足場も悪い中、必死に足を動かしてリヴァイアサンから離れた。

 砂煙はすぐに抜けられた。目の前に転がっていた大きな瓦礫の陰に身を隠して、一旦息を整えた。

「……大変な目に遭ったね」

 抱えていた子犬を地面に下ろす。子犬は私に向かって何度も頭を下げた。

「本当にありがとう。お姉さんは大丈夫?」

「うん、怪我はしてないよ。ただかなり疲れたから、ちょっと休んだらまた逃げよう」

 そう言ってもう一度、深呼吸。

 街の外でリヴァイアサンを見てから一時間近く全力で走り続けた上、この子犬の救助作業。さすがの私も体力の限界だ。

 全身から汗が噴き出してきて、水分不足のためか頭がくらくらする。息切れはまだ収まってくれそうにない。額の汗を拭おうとしたら、手の甲から頬にざらっとした感触がした。驚いて自分の手を見ると、手の甲も手の平も土で汚れ、爪の間には砂が入り込んでいる。

「……あれ、一体何?」

 呼吸の合間に尋ねる。『あれ』と示したのはもちろんリヴァイアサンのことだ。

 子犬は立てていた耳をしゅんと垂らして「分かんない……」と呟いた。

「今日の朝、急に現れたんだ。昨日まではいなかったのに……僕は騒ぎで目を覚まして逃げたから、その前のことは分からない……ごめんなさい」

「……そっか」

 奴に関する手がかりは一切なし、か。

 ……一人で突っ走らないで、ライルさんの言うことをちゃんと聞いておけば良かった。今更そんな後悔をした。

 あの怪物を『リヴァイアサン』と呼んだライルさん。物知りな彼ならば、もしかしたら弱点の一つでも知っているかもしれない。

 しかし、過ぎてしまったことはしょうがない。もう一度、大きく息を吸って立ち上がる。

「お姉さん、大丈夫?」

「うん、もう大丈夫だよ。とにかくここから離れようか」

 子犬を促して再び移動を開始しようとした。


 ――――その時、私達の体の上に、巨大な黒い影が覆い被さってきた。


「!」

 影の元を追って天を仰ぐ。目に入ったのは、視界全てを覆い尽くさんばかりの?赤?だった。

 リヴァイアサンの口の中の色。

 ――――食われる!

 恐怖が足を動かした。飛び退(すさ)って避けた、その元々の場所をリヴァイアサンの牙が(えぐ)った。

 大地が震え、大小混じった石が飛び散る。幸い私にも子犬にも石は当たらず、怪我はなかった。

 また攻撃してくるかもしれない――――そう思ってリヴァイアサンに視線を向けた時、奴と目が合った。

「……!」

 悪寒が走った。奴は私を、私達を見ていた。

 闇雲に暴れ回っているだけではなかった。奴は私達の姿を見つけて、殺すことを目的にこうして突っ込んできたのだ。

 私の身長よりも大きな、巨大な目。その目が私達を睨んでいる。

 逃げても無駄だ。そう思った。

 だとしたら――――戦うしかない!

「隠れて!」

 子犬を庇うように立って刀を抜いた。同時に敵との間合いを詰める。

 彼が隠れるのを確かめている余裕はなかった。抜いた刀を両手で握り締めて、振り上げて、飛び掛かる!

「――――――ッ!」

 ……しかし、攻撃は届かなかった。

 私の刃が振り下ろされるよりも早く、あの巨体からは想像もできない速さで、リヴァイアサンが地面に埋まっていた口を引き抜いた。その瞬間に発生した風圧は、私を怯ませるには充分すぎるほどだった。

 もはや衝撃波に近い。風圧で瓦礫が飛び散り、砂煙が上がる。視界が悪くなったその時、

「うぐっ!?」

 額に激痛。棍棒で力いっぱい殴られたような衝撃を覚えながら、


 私の意識が一瞬で闇に沈んだ。


        *


 ……目覚めは最悪の気分だった。頭に鈍痛が走り、その痛みで夢の世界から引きずり戻されて飛び起きた。

「……!」

 起き上がった瞬間に目が回った。地面ごと上下が回っているような、気持ち悪い感覚。一度開いた(まぶた)を再び閉じてもまだ収まらない。

 リヴァイアサンと向き合った時、飛んできた石の塊が頭に当たって気を失った、というのは把握できている。しかしそのまま食い殺されてもおかしくなかった状況で、私は何故生きているのか――――


「――――ディオス、起きた!? 大丈夫!?」


 と、混乱している私の耳に男の人の大きな声が飛び込んできた。

「……ライルさん?」

 視線を声の方向へ向けると、ライルさんが私の横に片膝をついているのが分かった。その一歩後ろには人型に実体化したソンブルも座っている。

「大丈夫!? 何があった!?」

 ライルさんと目が合った瞬間、両肩を掴まれてがくがくと前後に激しく揺さぶられた。

 大声と揺さぶりが頭に響いてきて、痛くてたまらない。吐き気に耐えながら「やめて下さい」と言おうとしたその時、

「ライルさん、いけません!」

 と、全く知らない、初めて聞く男の人の声が響いた。

「頭を怪我しているんですよ! 下手に動かしたら危険です!」

「あ、そ、そっか……」

 強い口調で(とが)められて、ライルさんが手を止めた。

 助かった……と思いながら視線を声の方へ向ける。初めて見る顔がそこにあった。

 年齢は私とあまり変わらないと思う。雪のような真っ白な肌に(たん)(せい)な顔立ち。背中まで伸びていて一つ結びにされている髪は、肌とは対照的に太陽のような黄金色だ。心配そうに私を見ている瞳は森林を高台から見下ろした時に見るような深い緑色。腰に差してある剣と(さや)の立派な装飾、そして彼が着ている純白のローブから、きっと(くらい)の高い家の人なんだろうということが推測できた。

『ディオスのことを助けてくれた人だ』

 混乱している間にソンブルが短い言葉で教えてくれる。それに気付いた男の人が私に向かって丁寧に一礼した。

「申し遅れました。僕はアギオ・ルチーフェロ。『アドヴェント』というグループのリーダーをしています」

「アドヴェント……?」

「設立して日が浅いのであまり有名ではありませんが、簡単に言うと無償の何でも屋みたいなものです。荷物持ちのような簡単なお手伝いもしますし、モンスターの討伐のような仕事も請け負っています。そんな我々アドヴェントの理念に則り、余計なお世話だったかもしれませんが、ディオスさんをリヴァイアサンの元から引き離しました」

 アギオ曰く、私と子犬を見つけて声をかけようとした瞬間にリヴァイアサンが突っこんできたらしい。そして私が石の塊を頭に受けて気絶したところを抱えて逃げてくれたんだとか。

「……だとしたら、あの子犬はどこに!?」

 アギオに詰め寄ったが、彼は首を横に振った。

「分かりません……あの視界の悪さでは。どうか、無事であってほしいものです」

「……そっか。分かった」

 不安に思ったけど、すぐに思い直した。アギオが子犬の姿を――――遺体を確認していないということは、きっとどこかに隠れたか逃げ切ったに違いない、と。

 アギオは私を抱えて必死でリヴァイアサンからの追跡を振り切ってくれたらしい。おかげでリヴァイアサンは私達を見失って、まだ見つけられていない。

「アギオは、あいつがどこから来たのか、何をする気なのか知ってる? さっきの子犬は分からないって言ってたんだけど」

「僕にも分かりません。そもそも『リヴァイアサン』という生物はドラゴンの亜種で、水棲のものを言いますから、近くに海も大河もないこの場所にいる理由が理解できないのです。対話もできそうにありませんから、本人に聞くこともできません」

「確かに……ドラゴンなら言葉を話せるはずだよね。でもあのリヴァイアサンは『話さない』んじゃなくて『話せない』みたいだった」

 アギオの分析に同調するライルさん。「リヴァイアサンって元々話せるものなんですか?」と聞くと、ライルさんは頷いた。

「リヴァイアサンもドラゴンの一種だからね。ドラゴンって種族は寿命が長くて知能が高いから、人間の言葉含めて、色んな言語が話せるはずだよ。とはいえ今のは本で読んだ知識だし、もちろんドラゴンなんて見るのは初めてだから、それが本当なのかどうかも分からないけど」

『その上 言葉が通じたとしても 分かり合えるとは限らない』

『言語を理解した上で 人間に牙を剥く 凶暴な者もいる』

 悲観的なソンブルの言葉。それに対し、しかし、とアギオは言い返す。

「確かに和平を受け入れてくれるかは分かりません。しかし、話し合おうとすらせず、最初から彼を拒むというのはどうかと思います。分かり合えるか、合えないか、判断するにはまだ早すぎます」

『どうやって対話をするつもりだ』

『街を破壊し 動物達を傷付け 暴れ回っている』

『あの姿は ただの獣だ』

「僕達は彼から逃げることしかしていません。まだ彼に一言も声をかけていないんです。まずはそこから……」

『近付くことすらできないというのに?』

 ソンブルの容赦ない表現にアギオが言葉を詰まらせる。

 納得はしていないが、ソンブルを言い負かせる言葉も出てこない、そんな悔しそうな表情。

「槍……」

「え?」

 ソンブルとアギオが火花を散らしている中、私の口から漏れた小さな声。すぐ隣にいたライルさんが私の呟きに気付いた。

「リヴァイアサンの頭に黒い槍が刺さっていました。あれをどうにかできれば……」

 リヴァイアサンに刀を振り下ろそうとした、その時――――ほんの一瞬だったけど、私は確かに見た。リヴァイアサンの頭に刺さった、真っ黒な槍を。

 二メートルほどの細い槍。形状はごく普通で、おかしな点はなかった。ただ私があの槍が原因に違いないと断定した理由は、その色だった。

「私の刀の色と同じなんです」

 そう言って刀を抜いて見せた。ライルさんとソンブルはもう見慣れているけど、アギオへの説明に必要だと思ったからだ。

 黒い武器は何度も見たことがある。私が持っている銃だって黒い。しかし私の刀の?黒?と、他の武器の?黒?は全く別物だ。今までそんなこと意識したことはなかったけど、あの槍を見た瞬間に直感的に思った。

 私の刀とあの槍は同類だ、と。

「……ディオスさん」

 そう私を呼んだアギオの声は、先程より一段低くなっていた。

「その刀はどこで手に入れたんです?」

「人から貰ったんだけど……どうかした?」

 まるで(きつ)(もん)するような強い口調。ただならない様子に思わず問い返すと、アギオは険しい表情を崩さないまま理由を述べた。

「僕は自分で言うのも何ですが、高い魔力を持っています。ソンブルさんなら分かると思いますが、魔力が高くなると、他者への魔力に対しても敏感になります。――――こういった前提で、お尋ねします。ディオスさんの刀にかかっている呪いの力は尋常ではありません。一体どなたから(ゆず)られたものなのか、その方はどこでその刀を手に入れたのか、全て答えて下さい。答えて下さらないと、僕は貴方を信用できません」

 怖い顔で問い詰められて、困ってソンブルの方を見た。答えていいのか分からなくて助けを求めたのだが――――ソンブルは私に向かって頷いた。大人しく答えろ、ということなのか。

「……ディオス、俺にも教えてほしい」

 横からライルさんが割り込んできた。私を真っ直ぐに見つめているライルさんの眼差しはいつになく真剣で、同時に恐怖しているようにも見える。

「ディオスと初めて会った日、俺、その刀を触らせてもらったよね? その時凄く嫌な感じがしたって言ったけど、あれは気のせいで済ませられるようなレベルじゃなかったよ。ディオスは体に害はないって言ったけど、正直俺は今でも、その言葉だけは信用できてない」

「………」

「教えてほしい。その刀の呪いって、一体何なんだよ!?」

 ……あのライルさんが声を荒げるほど恐ろしいものだったなんて知らなかった。

 理由は分からないが、この刀が人に与えるという悪寒は、私にはまったく効力を発揮していないからだ。

 ライルさんも、ソンブルも、触れることさえしなければ大丈夫。そう思ってろくに説明することもしていなかったのだが、どうやらこの刀の力は私の想像以上に強かったらしい。ライルさん達からしたら、こんな得体の知れないもの、怖いに決まってる。

「……これをくれたのは、私が二年前、一緒に旅をしていた人です」


「その人の名前はトゥバンさん。トゥバンさんは故郷から持ってきたものだって言ってました」


        *


 トゥバンさんと共に故郷の街を出て、二か月ほど経った頃。私達は着ぐるみの街『フェッセルン』を訪れた。その街の人は生まれてすぐ親によって着ぐるみを着せられて育つ。そして成長して着ぐるみを着ていられなくなり、それを脱ぐことによって成人として認められる――――という、変わった風習のある街だった。

 昼間は街中を観光して、日が沈む頃には宿へ。そこでご飯を食べ、シャワーで汗を流して、昼間の疲れを取るためすぐにベッドへ入って夢の世界へ旅立った。


 ふと目が覚めた時はまだ真夜中だった。

 いつもは日が昇るまで絶対に目が覚めない。目が覚めるとしたら、それはモンスターや盗賊の気配を察知した時だ。

 宿の中だけど、誰かに狙われている? ――――警戒して枕元の拳銃を片方手に取った。安全装置を外して引き金に指をかけ、いつでも発砲できる状態にしてベッドから下りる。

 警戒心を保ったまま、部屋の中をぐるりと見回す――――が、何も変わったところはない。むしろ静かすぎるくらい――――

 ――――静かすぎる?

「!」

 はっと気付いて隣を見る。同じ部屋の隣のベッドでトゥバンさんも寝ていたはずなのに、ベッドの中身は空っぽだった。

 毛布は畳まれず、慌てて出て行ったかのように放り出されている。あまりにも静かだと感じたのはトゥバンさんの寝息も何も聞こえなかったからだ。

 トゥバンさんも私と同じで、一度寝たらなかなか目の覚めない人だ。二人そろって夜中に目が覚めるなんてなかなかあることじゃないし、真夜中に部屋を出て行く意味もない。

 嫌な予感がした。とにかくトゥバンさんを探すべきだと、そう判断した。

 銃を構えたままドアの方へ足を向ける。片手をドアノブにかけて、開く。ドアの向こうは廊下だったが、明かりは消されて真っ暗闇が口を開けて私を待っていた。

 生物の気配がない廊下へ足を踏み出す。ぎし、と床の板が鳴る、その音が響いて聞こえるほど静寂に包まれた宿の中。

 ぎし、ぎし、と音を立てながら廊下を進む。遂には宿の出入口のドアまで辿り着き、またそのドアを開けて夜風の元へ身を晒す。勘だが、トゥバンさんは宿の中にはいない気がした。外にいるような予感がする……何となく。

 昼間は(にぎ)わっていた街中も、真夜中は虫の鳴き声すら聞こえないほどの静寂に包まれている。

 季節は真冬。薄着で部屋を出てしまった私の肌に冷たい風が突き刺さる。吐いた息は真っ白で、銃を持つ手も寒さに震え出す。

 ――――なんてことを気にしてる場合じゃない!

 とにかくトゥバンさんを探さないと。そう思ってぐるっと周囲を見回すと――――意外とあっさり見つかった。宿の出口から見える位置に、トゥバンさんはこちらに背を向けて立っていた。

 私と違ってちゃんとコートを着て、防寒状態で立っている。その恰好から、どうやら自分の意思でちゃんと準備をしてから部屋を出たのだろうということは分かったが――――それにしても様子がおかしい。

 背中しか見えない、表情や手元が見えないので何をしているのか分からない。突っ立ったままで動こうとしない。妙だ。

「トゥバンさん、どうしたんですか?」。そう声をかけようとした――――その時、


「――――くそっ!」

 突然苦しそうな呻き声を上げて、トゥバンさんが地面に膝をついた。


「トゥバンさん!」

「……ディオス?」

 驚いて駆け寄る。トゥバンさんはそこでやっと私の存在に気付いたようで、肩越しにこちらを振り返った。

「何してるんですか、こんな寒いのに……」

 そう言って正面に回り込む……と、私の視界に入ったのは、トゥバンさんが持っていた刀とその鞘だった。

 出会った頃からずっとトゥバンさんが持ち歩いていた刀。しかしトゥバンさんは一度もそれを抜刀することはなかった。モンスターと戦う時でもだ。

 それが今、鞘から解き放たれた状態で、地面の上に投げ捨てられている。

 初めて刀身を見た。刀というと剣と似ているイメージだから刀身も鉄色かと思っていたが、トゥバンさんの刀はまるで暗闇を(ぎょう)(しゅく)して刃の形に鍛え直したような?黒?だった。

「刀、どうかしたんですか?」

 尋ねる。しかしトゥバンさんは「あー、ちょっとな……」と言葉を濁した。

 トゥバンさんが言いよどむのは珍しい。私の質問にはわりと何でも答えてくれる人だったからだ。時たま言いづらそうにすることはあるが、それは大抵、私への配慮の時だ。

 初めてヴァイナーで出会った時もそうだった。街の外はどうなっているんだという私の質問攻めに対し、トゥバンさんは終始答えづらそうにしていた。それはヴァイナーが世界の全てだと思っていた、ヴァイナーが世界で一番平和だと思い込んでいた私への配慮だった。

 だから今も言葉を濁すのは私に対する気遣いなのだろう。そう思って、あまり追及しないことにした。トゥバンさんが世話焼きなのはこの二か月でしっかり分かっていたので、その優しさに甘えるのがトゥバンさんとしては一番嬉しいだろうと思ったからだ。

「何でもないなら部屋に戻りましょうよ? こんな寒いところいられませんって」

 そう言ってトゥバンさんの代わりに刀を拾い、鞘に収めて返した。寒いから帰りたい、というのは私の(わが)(まま)だったが、手が寒さでかじかんだ状態では敵に襲われても全力で抵抗ができないという恐れもあった。

 だから早く――――と思ったのだが、トゥバンさんは私が差し出した刀をなかなか受け取ろうとしない。それどころか、(きょう)(がく)に満ちた目で刀を差し出す私を見ている。

 何かまずいことをしてしまったか――――と思わず私も恐れてしまった。

「まずいこと」と言っても悪いことという意味ではなくて、常識外れの行動という意味だ。ヴァイナーを出てからすぐに感じたが、私の常識は外の世界での非常識のようだった。だからたまに自分では当たり前の行動を外の人々に凄く驚かれてしまうことがある。例えば、虫が飛び込んでしまったスープを平気で飲んでしまったり、地面に落とした泥塗(まみ)れのパンを無意識のうちに拾って(かじ)ってしまったり。

 そういった意味で、トゥバンさんに驚かれてしまったのかと思った。しかしトゥバンさんの口から出てきた言葉は、予想とは全く別のものだった。

「お前……平気なのか……?」

「は? 平気じゃないですよ、さっきから寒いって……」

「……そうじゃねぇ」

 トゥバンさんの声が低くなった。こんなに真剣な表情のトゥバンさんを見るのは、ヴァイナーを出たあの日以来だった。

「お前、それに触って平気なのか?」

「『それ』って……これですか?」

 トゥバンさんに指差されてやっと気付いた。トゥバンさんは、私がこの刀に触って平気なのが信じられないと言っているのだ。

 しかし、どういった意図でそんなことを言うのだろう? ヴァイナーの外の人間は刀にただじゃ触れないとでも言っているのだろうか?

 頭の上に疑問符を浮かべている私の表情を見て、トゥバンさんはまた少し困った顔になった。しばらく考え込んだ後に、

「……部屋で話す」

 と言って、私から刀を受け取って立ち上がった。

 一体今の時間は何だったのか――――とすぐにでも問い詰めたかったが、部屋に戻ったら教えてくれるということなので質問は我慢した。しかし部屋に行き着くまでのたった数十秒間が、ただ(わずら)わしくて仕方なかった。


「――――それで、さっきの話の続きだが」


 部屋に戻ってベッドに腰掛け、トゥバンさんはそう切り出した。

「今まで黙ってて悪かった。――――この刀は、ある『呪い』がかけられた刀だ」

「『呪い』!?」

 思わず声が大きくなりかけた。口から飛び出す前に慌ててボリュームを下げたものの、それでも驚きは隠せない。

『呪い』という言葉はヴァイナーを出てからすぐに聞いた言葉だ。魔法の一種に『(じゅ)(じゅつ)』というものがあり、恨みや(ねた)み、怒りや(ひが)みといった負の感情を詰め込んだ恐ろしいものだ。一言で呪術と言っても色んな効果があるから「呪術とは、こういうものだ!」と断言することはできないけど、とにかくあまり表舞台では見られないものだということは私でも知っている。

 その『呪い』が、トゥバンさんが持っていた刀に。

「まぁ、そんなに驚くもんじゃない。こいつの効果は「触ったら何となく嫌な予感がする」程度のもんだ。寿命が縮んだり、体調が悪くなったりはしない」

「なんだ……」

 少し安心した。先程トゥバンさんが刀を鞘から解き放っていたから、もしかしたらトゥバンさんの体にも何かしらの呪いがかかってしまったのではないかと思ったのだ。

 ……いや、待て。「触ったら嫌な予感がする程度」にしては、刀を抜いた時のトゥバンさん、ひどく動揺していたような……?

「あー、それは……悔しかったんだ。家出した時にこいつを持ち出して、もう何年も経ってさ。そろそろこいつも俺のことを認めてくれただろうと思ってちょっと触ったら、まるで前と変わってない。俺はちっとも成長してねぇのか、って考えたら(みじ)めになったんだよ」

「『こいつ』って……この刀、ですか?」

 まるで物が生きているかのような物言いをする。その言い方が少し引っかかって突っ込んでみたら、トゥバンさんはさも当たり前かのようにあっけらかんと言った。

「刀じゃねぇ、刀の中に封印されてる魔物だよ」

「――――まもの!?」

 今度は本当に大きい声が出た。トゥバンさんに睨まれて思わず口を押さえた。

 幸い、宿に泊まっているはずの人達からは何の苦情も来なかった。声は大きかったけど一言だったし、気のせいだとでも思ってもらえたのだろう。

「魔物って言っても悪い奴じゃねぇよ。心配すんな」

「……良い魔物なんているんですか?」

「いるだろ。人間だって良い奴と悪い奴がいるんだ。魔物にだって良い奴、悪い奴がいたっておかしくない」

 確かに……とその答えには納得したが、それはそれだ。まだ重要な質問が残っている。

「その中にいるのが良い魔物だとしたら、何でそんな呪いなんてばら()いてるんですか?」

「……それは俺にも分からねぇ。ガキの頃に一回親父に聞いた話では、こいつも好きでこんなことしてるわけじゃないって言ってたな。正直俺もよく覚えてねぇが、とにかくこいつ自身に敵意はない。それでも触った奴はもれなく、洗礼を受けることになってるわけだが……」

「……何故か、私は何ともなく触れた、と」

 小さな声で呟いた私に、トゥバンさんは「その通り」と頷いた。

 結局何故私が何ともなく刀に触れたのか、その理由は分からなかった。トゥバンさんは「中の魔物に気に入られたんじゃねーの」と適当なことを言っていたが、それが理由ではないような気がした。


 ――――時は過ぎ、更に一か月後。

 トゥバンさんに別れを切り出された私は、別れ際、トゥバンさんには扱えないその刀を譲り受けることとなる。


        *


「……今話した通り、トゥバンさんは「中に魔物が封じられているが、悪い奴じゃない」って言ってました。良い魔物がどうしてこの刀に呪いを付けてるのかは分かりませんけど、私が知ってるのはこれだけです」

 改めてこの刀について思い出してみると、私が知っていることは本当に少なかった。

 この刀に魔物が封印されるに至った経緯は分からない。トゥバンさんは家出した時に思わず持ってきた、と言っていたが、どうしてこんなものがトゥバンさんの家にあったのか、そして何故よりによってこの刀を持ち出したのかも聞いていない。

 今となっては不審に思うが、ヴァイナーを出て日が浅く、常識外れだった当時の私は、そのことを「そんなものなんだろう」と何も知らないまま納得して、それ以上追及しなかった。

「話は戻るけど、リヴァイアサンの頭の槍、あれも私の刀と同じで、呪いがかかってるものなんだと思います。もし同じだとしたら、あの槍に触ったらまずいことになります。だからあの槍に触れ続けているリヴァイアサンは危険すぎます」

『あの槍を 貴方の刀と同じだと 断定した理由は?』

『色だけか? それとも別の理由が?』

「勘」

 ソンブルからの問いかけに私は短く答えた。

 物心ついた時から鍛えられていた、私の戦闘に関する勘が動いた。明確な理由があるわけではない。しかし自分の勘には絶対の自信がある。

「……現状、他に手立てはありません。あの槍を抜けないか、挑戦してみるしかないでしょう」

「そうだね」

『誰が?』

 意見が一致した私とアギオに対し、ソンブルは最後まで(なん)(しょく)を示した。

 呪いがかかっているかもしれない槍。抜けるとしたら、同じく呪われている刀に触れても問題ない私しかいない。

『まさかディオスにさせるつもりか』

「それは……」

「そうだよ。だって私しかいないじゃん」

 問い詰められてアギオが口ごもる。私はそんな二人のやりとりを遮ってソンブルに答えたが、ソンブルはなかなか首を縦に振ってくれない。

『危険すぎる』

『下手をすれば 死んでしまう』

『私は 影になれば怪我はしない』

『しかし貴方は 私と違って常に生身だ』

『この街を見捨てて 逃げるべきだ』

「心配してくれてるのは分かったけど、逃げても一緒だよ。あいつはきっと、この街を破壊し尽くしたら別の街に行く。私達を追ってくるかもしれないし、ナダエンデ・ノックスへ向かうかもしれない」

 あれだけ暴れているリヴァイアサンがアニマーリア一つで満足するとは到底思えなかった。だとしたら一番近い獲物、もしくは一番近い街を狙うと考えるのが妥当。

 どちらにせよ衝突は避けられない。それに――――

「人を助けるために鍛えてきたんだから、今逃げたら意味がないよね」

 ヴァイナーで生まれて、旅へ出るまでの十六年間、私はずっと、街の外の人々を助けるために訓練し続けてきた。

 ヴァイナーでは、街の外ではモンスターが人を襲い、人類が絶滅しかかっていると信じられていた。実際のところそれは嘘っぱちだったけど、それを信じていた私は、モンスターに襲われている人々の助けになるために常に修行を続けていた。

 だからアニマーリアが襲われ、その他の街の人々にも危害が及ぶ可能性がある以上、私はリヴァイアサンを野放しにしておくなんてことは絶対にできない!

「……女性にこういうことを頼むのはたいへん申し訳ないのですが、ディオスさん、槍を引き抜く役目、お願いしてもよろしいですか? もちろん、僕にできることなら何でもお手伝いさせていただきます」

 本当に申し訳なさそうに頭を下げてくるアギオ。当然の役割分担だから気にしなくてもいいのに……

「お、俺も、できることは少ないけど、できるだけ頑張るよ!」

『私も手伝おう』

『どれだけ止めても どうせ聞いてはくれない』

 ライルさんからはちょっと頼りない宣言が出てきて、ソンブルからは呆れたような、諦めたような言葉をもらった。

 一部納得していない人もいるけど、「リヴァイアサンを止める」という共通の目的がある以上は特に問題ないはずだ。

「じゃあ――――行きましょうか」

 刀と銃がしっかり装備されていることを確かめて、私は立ちあがった。


「リヴァイアサンを止めに――――この街を救いに!」


        *


 作戦内容は()(ごく)単純。アギオが(おとり)になってリヴァイアサンを引きつけ、私が高い建物の屋上から飛び降りてリヴァイアサンに乗り、槍を抜く。

 作戦は単純だが、実行するとなるとかなり難易度が高い。

「これが仕事だったら、成功報酬は相当なものだっただろうね……」

 街で一番高い建物――――時計塔の屋上で、ソンブルと共に待っていた私は呟いた。

 行く先々の街で日雇いの仕事を探し、旅の資金を稼いでいる私。色んな仕事を経験した上で一番報酬が高かったのは、凶暴なモンスターの討伐だ。もちろん対象のモンスターによって報酬額は変わるが、リヴァイアサンクラスならきっと一生遊んで暮らせるぐらいのお金は貰えることだろう。

「そう考えたら損な気がするんだよね、タダ働きっぽくなるし」

『しかし 報酬で動いていたら ヒーローとは言えない』

「そうなんだよねー」

「悪い奴をやっつける、みんなを助けるヒーローになりたい」。かつてヴァイナーで、私の師匠であったおじさんにも語った夢だ。

 そんな感じで雑談を続けていたものの、私は笑みの一つも見せることができなかった。笑う余裕がなかった。

 今から始まるのは命をかけた大作戦だ。この時計塔からリヴァイアサンへ向かって飛び降りる、その瞬間に少しでもタイミングがずれてしまったら。上手く飛び乗れたとしても、振り落とされてしまったら。その一瞬で命を落としてしまうのは明白。

 遠くで響いていた破壊音が段々大きくなってくる。リヴァイアサンの力強く恐ろしい(ほう)(こう)が少しずつ近づいてくる。

 アギオが上手くこちらへ誘導してくれているようだ。あとはライルさんも含めて二人とも無事であることを祈るのみ。

『どうか 気を付けて』

「大丈夫だよ、人一倍頑丈にできてるから」

 心配そうなソンブルに答えて、私は(へい)から頭の上半分を覗かせて様子を(うかが)った。真っ黒な鱗で覆われた巨大な姿が物凄いスピードでこちらへ向かって来ている。視線がやや下を向いているので、おそらくあの下にアギオがいるのだろう。

 アギオの実力を全く知らないまま任せてしまったことをつい先程まで後悔していたのだが、あの様子だと心配なさそうだ。

「……そろそろだね」

 リヴァイアサンが完全に意識を私達へは向けていないことを確認し、私は自分の腰ほどの高さの塀の上に立った。

 大地が、時計塔が揺れて、足の裏に振動が伝わってくる。少しでもバランスを崩せばこのまま真っ逆さまに落ちてしまいそうだ。

 足が竦む。そんな臆病な自分を内心叱咤(しった)して奮い立たせる。爪が手の平に食い込むほど強く、拳を握り締めた。

 最後に一度、深呼吸――――そして。

「――――始めるよ!」

 宣言して、空中へ飛び込む!

 気持ちを落ち着かせている間に、リヴァイアサンは一気に迫ってきていた。

 私が落ちるスピード。リヴァイアサンの移動速度。両方を計算したタイミングに間違いはなかった。

 足からリヴァイアサンの背中に着地する。瞬間、両足全体に伝わってくる大きな衝撃と鈍い痛み。

「――――ッ!」

 歯を食い縛って耐える。反射的に膝を折ってしゃがみ込み、振り落とされないようリヴァイアサンの鱗に指をかけてしがみ付く。

 あの高さから落ちたら足を痛めることは分かっていたし、骨折も覚悟していた。その上で私は自分の腕力と体力に全てを賭けていた。

 例え足が使えなくなっても、腕で這って、あの槍まで辿り着く!

「痛いけど、折れてない! 大丈夫!」

 ソンブルに伝えるためにわざわざ声に出した。しかしソンブルに怪我の具合を報告するためというよりもむしろ、自分自身を()()するための叫びだった。

 大丈夫。まだ立てるし、走ることもできる。私はまだ戦える!

 リヴァイアサンの鱗は、魚のように重なり合っている鱗でもなければ、トカゲのように規則正しいタイルのような形でもなかった。まるで岩壁のように不規則なごつごつとした感触をしていた。不規則なため這って進むには多少頭を使うが、掴みやすい点は助かる。

 暴れるリヴァイアサン。上へ下へ、大きく揺れる。体が宙へ浮かんだり、リヴァイアサンの体に叩き付けられたり。遠心力で吹き飛ばされそうにもなったけど、

「絶対に、離すもんか!」

 宣言は建物が崩壊する轟音に掻き消されてしまったが、自分を奮起させるには充分だった。

 鱗の一枚一枚が、決して小さくはない私の手の平と同じ大きさだった。そんな大きな鱗がびっしりと埋め付けられたリヴァイアサンの体の上を、頭の方向を目指して進んでいく。

 リヴァイアサンの動きは変わらない。上下左右、自由自在に飛び回って、障害物を薙ぎ倒していく――――その動きは、私を振るい落とそうとしているそれではなかった。

 リヴァイアサンの体に触れている状態でも、まだ気付かれていないようだ。私だったら背中に虫が一匹付いていたとしても気付かないし、気にしない。リヴァイアサンからすればそれと似たような感覚だろう。

 どうでもいい虫なら気にも留めない。――――害虫なら、殺す。

『伏せろ』

 手元の影が動いて文字を作った。注意を促す文言に、はっとして前を向く。リヴァイアサンが建物に突っ込んでいくところだった。

「……!」

 進むのをやめて、鱗にかける手に力を込めた。その次の瞬間鼓膜が破けんばかりの轟音と大地震のような強い揺れが伝わってくる。――――しかし崩れた建物の一片も、塵の一つすら私の体に触れることはなかった。

 今の私の周囲には見えない壁があった。ソンブルの魔法によって作られた、風のシールドだ。障害物を弾き飛ばすだけでなく、私が落ちそうになった時には軌道修正してくれる役割も持つ。

「ソンブル、ありがとう!」

 お礼を言うのと同時にシールドが消えた。ソンブルの魔力は確かに高いが、決して無限ではないため、必要のない時はこうして(ひか)えておかなければいずれは尽きてしまう。

 こうして私は、再び槍を目指して進み始めた。

 それから何度か建物に突っ込み、一度だけ落ちかけた。その度にソンブルに助けられ、ほんの少しずつ、前進していく。

 そして、辿り着く。あと(わず)か数歩で槍に手が届きそうな位置まで。

 近くで見てもやはり何の変哲もない、ただの槍だった。ただ色が黒いだけ。新しくはないが古くもない。()びてはいないが新品特有の輝きもない。おそらくは鉄製の槍。

 ここまで来るのにかかった時間は十分程度だろう。そんなに長い時間ではないが、私の体はもう限界だった。飛び降りた時に痛めた足だけではなく、頭の痛みも蘇ってきた。握力も弱まってきて、もうこれ以上鱗に掴まっていられそうにない。

 槍は目の前。それが気持ちを焦らせた。

「ソンブル、行くよ!」

 吠える。鱗から手を離して、立ち上がり――――跳躍!

 落ちる可能性も充分にあった。しかしこれ以上は私の体がもちそうになかった。

 眼下には建物の崩壊から逃げ惑っている動物達が見える。急がなければこの街の住民全員が命を落とすことになる。

 跳ぶ――――そして槍の()を、掴む!

 ――――その瞬間。

「……!」

 おぞましい感覚が体全体を貫いた。

 例えるなら、巨大な怪物の口の中で飴のように舐め転がされているような、生きたまま体の端から大量のゴキブリに齧り取られていくような……そんな、気味の悪い感覚。

 氷水へ突き落されたかのように体温が下がった。視覚の神経を切られたかのように一瞬で目の前が真っ暗になった。


 ――――気が付いた時には、私の体は宙を舞っていた。


 視覚はすぐに戻った。しかし光を取り戻しても上下左右が分からないまま、ただ、ただ、落ちていくだけだった。

「……ッ!」

 悲鳴すら上げられなかった。指一本も動かせないほどの脱力感に襲われ、私には抗う気力すら起きなかった。

 ひたすら落ちる。落ちる。

 リヴァイアサンの咆哮が、遠ざかって行く。


「ディオス――――――――――ッ!」


 と、その時、リヴァイアサンにも勝るほどのライルさんの大声が耳に飛び込んできた。

 (もう)(ろう)としていた意識がはっきりと目覚めるのと同時に、落ちるのとは逆の方向から突風が吹きつけてくる。一瞬の浮遊感の後、再び体が落下した。

 但し、落下時間は一秒にも満たなかった。すぐに背中が固い物にぶつかって、鈍痛と共に落下が止む。

「……今の、ソンブルが助けてくれた?」

 上体を起こして問いかけると、私の影が――――私の影と一体化していたソンブルが頷いた。

 地面と激突する寸前、強い風を起こして私の体を浮き上がらせたのだろう。おかげで大きな怪我はなかった。

「ディオス、大丈夫!?」

 そこへ駆け付けるライルさん。私の横に膝をついて心配そうに聞いてくる。先程アギオに怒られて反省したのだろうか、今回は揺さぶってくるようなことはなかった。

「大丈夫です。……と言いたいところなんですけど、しばらくは動けそうにないですね。あの槍は、私でも触れないみたいです……」

 強がろうとしたけど、やっぱりやめた。

 戦場では仲間内の戦力をしっかりと把握しておく必要がある。怪我や病気を隠して無理をしたら、いざという時に味方の足を引っ張ることになるからだ。おじさんに教えてもらった。

『一旦離れよう 奴に気付かれる前に』

 ソンブルに促されて、私達は一旦退却することにした。とはいっても私は体が思うように動かず立ち上がることすらできなかったため、ライルさんに背負ってもらうことになったのだが。


        *


 合流地点に到着して数分後、アギオが遅れてやって来た。怪我はないようだが、折角綺麗だった純白のローブは汚れてしまって灰色になっている。

「ディオスさん、大丈夫ですか!?」

「全然大丈夫じゃない……やっぱりあの槍、とんでもない(しろ)(もの)だったよ……」

 ライルさんに運んでもらっている間、そしてアギオを待っている間に、かろうじて立って歩けるまでには回復した。しかし全力で走るのはまだできそうにない。刀を振り回したり銃の引き金を引いたりするのは論外だ。握力が戻らない。

「ほんのちょっと握っただけでこんな調子。できると思ったんだけど、抜くのは無理そうだね」

「……だとすると」

「壊すしかない」

 私は断言した。それしか思いつかなかった。

 あのまま野放しにはできない。奴がじっと大人しくしてくれているのならその他の方法も考えられるけど、あんなに暴れ回っている状態だと、一思いに破壊するしかない。

「……それなら、今度は僕にやらせて下さい」

 申し出たのはアギオだった。

 弱っている私を見てずっと申し訳なさそうな表情をしていたので、そう言い出すのは予想できていた。が、それに待ったをかけたのはライルさんだった。

「壊すって、どうやって? ディオスが触っただけでこんな状態なのに、そう簡単にいく?」

「僕も、何の考えもなく言っているわけではありません」

 そう言ってアギオが自分の剣を抜いた。私の刀やリヴァイアサンの槍とは正反対の、光を凝縮したような、目が眩むほど眩い白銀の剣だ。

 そして、アギオは短く語った。何故自分ならば、自分の剣ならば槍を破壊できるのかを。

 衝撃的な話だった。すぐには信じられなかったが、その話が本当なら、確かに彼ならリヴァイアサンを止められるかもしれなかった。

『何故 最初にそれを言わなかった』

『最初から そうした方が 早かった』

「あの槍を壊すことにおいて、僕は(かい)()(てき)だったからです」

 相変わらず刺々しいソンブルの物言いにアギオが言い返す。今度はソンブルが言い負ける番だった。

「もし下手に壊して封印が解け、中の魔物が発現してしまったら? その点で僕は槍を破壊するのではなく、まずは抜くことを考えました。その結果、ディオスさんにたいへんな負担をかけることになってしまいましたが……おかげで決意ができました。あのままリヴァイアサンを放っておくよりも、何も起きない方に賭けて槍を破壊するしかありません」

 アギオが自信を持って言い切る。先程の焦りに満ちた早口の答弁とはうってかわって説得力があった。

 しばらく全員が沈黙する。そして、

『納得した』

 と、ソンブルが文字を描いたのをきっかけに再び作戦会議が始まった。

 作戦といっても、内容は先程とほとんど変わらない。役割が入れ替わっただけだ。

 囮役は私。槍を壊すのがアギオで、それをサポートするのがソンブルだ。ライルさんには「自分にも囮役をやらせてほしい」とごねられたけど、彼には別にしてほしいことがあったから却下した。

 どの建物からソンブルとアギオが飛び降りるのか、そこまでどうやって誘導するのか……そういった話し合いをしているうちに、私の体調も元に戻った。多少の空腹感はあるが、我慢できる程度だ。財布の事情で過去に三日ほどご飯を食べられなかった時に比べればどうってことはない。


「みんな、くれぐれも気を付けて」


 ライルさんの心配の言葉を最後に、みんなそれぞれ持ち場に散って行った。

 私がやるべきことは、まずリヴァイアサンに私の存在を認識させること。この街についたばかりの時、奴は私に対して敵意を剥き出しにしていた。それならば、私が再びリヴァイアサンの前に姿を現せば必ず奴は私を追ってくる。

 その後は無事に逃げ延びること、そしてアギオが待機している建物の傍までおびき寄せること。以上の三つが私の役目だ。

 疲れを知らないかのように暴れ続けているリヴァイアサン。その攻撃範囲に入らないように気を付けながら、障害物に身を隠しつつ接近する。

 奴の攻撃が届かない。しかし私の存在には気付いてもらえる、そんなギリギリの位置を見極め――――銃を抜いて、リヴァイアサンの目の前に飛び出す!

「くらえッ!」

 叫び、引き金を引いた。連続で三発。

 敵との距離がありすぎて、弾丸は途中で失速した。かろうじて攻撃の手は届いたが、奴の鼻先に当たった後、簡単に弾き返されてしまった。――――でも、それでいい。

 私の存在に気付いたリヴァイアサンが眼球をこちらに向けた。そして私を視界の中に捉えて、一つ、咆哮。

「――――オォオオオォオォォオオオオオッ!」

 その咆哮が始まった瞬間、私は身を翻していた。

 作戦の第一段階は成功だ。先程の銃撃は、私がリヴァイアサンに対して敵意を持っていると気付かせるものだった。

 建物と建物の間を通り抜け、行く手を阻む瓦礫を乗り越え、走る。振り返る余裕はなかったが、リヴァイアサンが私を飲み込むべく追って来ているのは気配で分かった。

 作戦の第二段階は、このままリヴァイアサンをアギオのところへ連れて行くこと。

 リヴァイアサンの咆哮と建物の崩壊する音が響き渡って、自分自身の息遣いすら聞こえなかった。凶暴な音に支配された街の中を必死に駆け抜けた。

 真っ直ぐな道の途中、大きな瓦礫で地面が埋まっていた。私の腰ほどの高さだ。

 ()(かい)するか? 一瞬そう考えたが、リヴァイアサンの(うな)り声に背中を押され、直進を決意した。

 (ゆる)めかけていた駆け足を加速させて、地面を蹴り、飛び越える。――――直後、嫌な予感がして前方の空間へ飛び込んだ。間一髪、私が立っていたその場所をリヴァイアサンの牙が(えぐ)った。

 デジャヴを感じた。しかし今度は反撃せず、振り返ることもなくただ走り続ける。

「ノロマなトカゲさん! ここまでおいでー!」

 挑発の台詞を吐いて引きつける。アギオのところまで連れて行けるように――――他の動物達に目が向かないように。

 今のリヴァイアサンが人の言葉を完全に理解しているとは思えない。しかし自分が馬鹿にされているのは分かったのか、奴は更なる怒りの声を上げた。

 凄まじい叫び声で大気が揺らいだ。耳が裂けそうな轟音に、(ひる)んで足を止めそうになった。

 しかし――――止まれない。止まるわけにはいかない。

 先程はアギオが頑張ってくれていた。今の私と同じようにこんな巨大な化物を相手に奮闘して、私をサポートしてくれた。――――そして、失敗した私を決して責めようとしなかった。

 初対面の私に対してああも必死になってくれたアギオの期待に応えたい。あの凶悪なリヴァイアサンのことすら助けようとしている優しい彼の力になりたい。

 砂煙と黒煙に満たされた街の中を、太陽の方向を目印に駆けた。絶対に間違っていない自信があった。……しかし。

「!?」

 建物の角を曲がった先の道。倒壊した建物で塞がれていて、通れなくなっていた。

 よじ登ることはできそうだが、リヴァイアサンには既に距離を詰められている。そんな状況で、私の身長の二倍ほどの高さがある瓦礫の山を登る時間はなかった。

「私は……絶対に、死なない!」

 勇気を持って足を止める。振り返って、頭上の巨大な影を見上げて、私は力いっぱい叫んだ。

「どこからでもかかってこい! 私は絶対、お前なんかには殺されない!」

 リヴァイアサンへ対する私の咆哮。それに呼応するように、奴も口を大きく開いて私へ襲いかかってきた。

 リヴァイアサンの口の中を見るのはもう三度目だ。未だに恐怖を覚えるが、だからこそ私は全力で抗う。

 私の方もリヴァイアサンの方へ向かって走る。真っ直ぐ走って、牙をかわし、奴の腹の下へ潜りこんで駆ける。背後でリヴァイアサンの嘴が地面に突き刺さる音がする。もちろん、振り返る余裕はなかった。

 牙による攻撃はかわしても、未だリヴァイアサンの攻撃範囲に捕らわれているのは変わらない。もしも奴がのしかかってきたりでもすれば、私はぺしゃんこにされて一瞬で終わりだ。

 走る。走る。影から出て、陽の下へ出る。

 ――――が、光を感じたのはほんの数秒。

 再び私の上に影が覆い被さってくる。何事か、と頭上を見上げた私の視界に飛び込んできたのは、リヴァイアサンの太い尾びれだった。

 大きな建造物をいくつも簡単に薙ぎ倒した、強力な一撃。

 まずい。逃げなければ。

 右へ? 左へ? 真っ直ぐは駄目だ。叩き潰される。

 ――――右だ!

 本能だった。理由もなく、あえて言うならばこの十八年間で(つちか)った第六感に突き動かされて、私は走った。

 みるみるうちに尾が迫ってくる。あっという間に距離が詰められる。疲弊(ひへい)しきった私の足では、この差を伸ばすことはできそうにない。

 それでも諦めずに全力で走ったが、そのあがきは意味を成さなかった。

 私のコートの端に、奴の尾が追い付く――――

 ――――直後。


 爆風。

 轟音。


 バランスを崩した私は走っていた勢いをそのままに、前のめりに地面へ倒れ込んだ。すぐに状況を把握し、これ以上吹き飛ばされないよう地面にしがみ付いた。

 砂煙が上がり、すぐに晴れる。安全を確認して起き上がった私の耳に「ディオスーッ!」とライルさんの叫び声が届いた。

 北の方角からライルさんと、全く知らない男の人が何人か走ってくる。全員、動物ではなく人間だ。

 ……ん? 北……?

「ディオス、何でこんなとこいんの!?」

 合流して開口一番、ライルさんから怒声が飛んでくる。

 冷静になって、太陽の方向を確認して……ここで私は、方角を勘違いして走っていたことに気付いた。

 アギオがいるのは街の東出入口の門の上だ。だから東へ向けて全力で走っていたつもりだったが、冷静になって太陽の位置とライルさんを含めた人々が走ってきた方向を考えると……ここ、街の南だ……

「何でこんな大事な場面で間違えるんだよ!」

「知りませんよ! 私だって間違えたくて間違えたんじゃないんです!」

 ライルさんにも暴露済みだが、私は方向音痴だ。方向音痴は空間把握能力や方向感覚が絶望的に欠落している。そんな人間が何で道を間違えるんだと問われたら、それはもう「知るか」としか答えようがない。

「おい兄ちゃん達、ケンカしてる場合じゃねーぞ!」

 睨み合っている私とライルさんへ、いかつい顔をしたおじさんが大声をかけてくる。その呼びかけで我に返った私達は慌てて元の仕事に戻り始めた。


 ライルさんと共に現れたこの集団は、アニマーリアより東の『武器の街・アルージエ』の自警団の人達だ。

 アルージエに助けを求めたのはアギオの提案によるものだ。私の銃と刀、ソンブルの魔法、そしてアギオの剣は充分強い。しかしそれでもリヴァイアサンに勝てる見込みはない。そのためこうして一番近い街へ援軍を要請したのだ。

 ライルさんの仕事は彼等へアニマーリアの状況を伝え、断られたとしても説得し、ここへ呼んでもらうことだった。連絡手段は昨日リナさんから買った『アッティモ』だ。

 遠く離れた人とも会話をすることができるという、魔法の鏡の欠片アッティモ。話す相手が知り合いでないといけないという条件付き。そのため実際はライルさんがナダエンデ・ノックスの領主さんに連絡し、領主さんが武器の街の知人へアッティモを使って連絡し……と、伝言ゲームが行われて今に至る。

 こういった経緯のため自警団へ情報が届くのに時間がかかってしまったが、そこからは早かったらしい。すぐさま武装して()()へ跨り、アニマーリアへ駆け付けた。

 そしてアニマーリアの東端でライルさんと合流。そこから私が見当違いの方向へ走っているのに気付き、慌てて追いかけてきてくれたそうだ。


 そこからの展開は圧倒的――――とはお世辞にも言えなかったが、一人で走り続けるよりも随分と楽になった。

 一人が狙われると死角から別の人間が攻撃する。そちらに狙いが変わればまた別の人が……と、上手いことリヴァイアサンを(ほん)(ろう)していた。

 それだけなら楽だったが、これを移動しながら行わなければならなかったから大変だった。自警団の人達もアニマーリアには初めて来たらしく、誰一人としてこの街の地形を知らなかったのだ。

 しかし、諦めなかった。私を含めた全員が、怯むことすらなくリヴァイアサンに立ち向かう。

「こっちだ、化物!」

 金髪のお兄さんが大きなライフルでリヴァイアサンを()(げき)した。

 銃口から放たれたのは銃弾ではなく、火の弾だった。何故か銃口よりも大きな火炎弾が()を描いて飛び、リヴァイアサンの頬に当たって爆発する。

 間違いなく魔法弾だろう。お兄さんが魔法を使えるのか、ライフルに魔法がかかっているのかは分からないが、あのような道具を媒介にした魔法はよく見かける。

 火炎弾はやはり、リヴァイアサンへダメージを与えることはできなかった。リヴァイアサンの位置が高すぎて弾の勢いが落ちている。

 ダメージはなかったがリヴァイアサンは怒りの声を上げた。人間に例えれば顔面に輪ゴムを飛ばされたようなものだろうか。目に近い場所を叩かれたのだから怒るのは当然だ。

 狙われたお兄さんを中心に走る。追いかけるリヴァイアサンは周囲の建物を巻き込みながら突き進む。

「危ない!」

 今度はお兄さんがリヴァイアサンの尾びれに叩き潰れそうになる――――しかしその直前、同じく自警団のお姉さんが大鎌を振るった。大鎌から放たれた斬撃はそのまま一筋の風の刃となって、お兄さんを潰そうとした尾びれに襲いかかる。

 さすがにリヴァイアサンにダメージを与えることはできない。しかし斬撃による衝撃はリヴァイアサンの尾を少しだけ押し返し、軌道をずらした。軌道がずれた一撃はお兄さんの体すれすれの所に叩き付けられ、地面を(かん)(ぼつ)させる。

「もうすぐ目的地だ! 最後まで気を抜かないで!」

 ライルさんが声を張り上げる。みんな「応!」と声を上げているが、明らかに表情が緩んだ。「気を抜くな」とは言われても、終わりが見えたことに安心してしまっている。

 大丈夫かなぁ……と不安になったその時、胸の奥で悪寒が膨れ上がった。

 理由はない、本能的な恐怖。その恐怖に追われるように足が動き、

退()いてッ!」

 ライフル使いのお兄さんを突き飛ばして自分もその場から飛び退(すさ)った。間一髪、お兄さんが立っていた場所に大きな(れん)()が雨あられと降り注ぐ。

 あと一瞬でも遅かったら血まみれだった。ひとまず二人とも助かったことを喜びつつ、未だ腰を抜かしたままのお兄さんを「早く立って下さい!」と()かして立ち上がらせる。

「ここからは私が何とかしますから、皆さんはリヴァイアサンの後ろから追いかけてきて下さい!」

「ハァ!? あんた、一体何言って――――」

「私はここだ! 来い、リヴァイアサン!」

 自警団の人に止められるのを無視して、上空へ一発、銃弾を放つ。

 リヴァイアサンの眼球だけがこちらへ向いた。視界に入ったのを確認して銃を下ろし、存在感をアピールするため大きく手を振る。

「のろまなトカゲさーん! 小さな人間一匹捕まえられない、頭の悪いお魚さーん! 悔しかったらここまでおいでー!」

 挑発しながら私は走った。予想通り怒りの矛先をあっという間にお兄さんから私へ変えたリヴァイアサンは、身を(ひるがえ)して私を追ってきた。

 こちらが不安になるくらい簡単に挑発に乗ってくれる。力では絶対に敵わないが、立ち回りさえ間違えなければ死ぬことはないだろう。

 アギオがいる街の東側はまだ破壊の波が届いておらず、道が(ひら)けていて走りやすかった。

 私が自警団の人達を無視して駆け出したのはこの地形が理由だった。瓦礫で埋まった道は走りづらくて誰かの助けが必要だったが、整備されている道は集団よりも一人の方が小回りが利く。それに万が一何かあった時の被害を最小限に抑えるためには、やはり一人で走るべきだと判断した。

 アギオが待機している門はとっくの昔に見えている。もう道に迷うこともない。後は一直線に走るだけ。

 走って、走って、走って――――門の目前に辿り着いて、足を止め、リヴァイアサンを振り返る。

 左手の銃を振り上げて、声を張り上げる。

「さあ、来い! その口で私を食べてみろ! その喉奥に、この銃弾をぶち込んでやる!」

 最後の挑発。そう、これで最後だ――――最後であってほしい。

 血走った眼で私を睨んだリヴァイアサンが大きく口を開けた。肉を引き裂くための鋭い牙が迫ってくる。

 みるみるうちに距離を詰められる。憎い私を食い殺すべく突進してくる。

 ――――怖い。

 早く逃げた方がいいのは明白だ。しかし今回の作戦を成功させるためにはまだ動けない。

 湧き起こる恐怖。それに(あらが)って立つ。

 もう少し。ギリギリまで。もう少し――――


「――――ディオスさん!」


「!」

 頭上から呼び声が降ってくる。それにつられて天を仰ぐと、人のシルエットが――――リヴァイアサンを狙って門から飛び降りた、アギオの姿が見えた。

 白いローブをはためかせ、白銀の剣を振りかぶり――――黄金の翼で羽ばたくアギオが、リヴァイアサンの黒い槍へ向かって、その剣を振り下ろす!


        *


「壊すって、どうやって? ディオスが触っただけでこんな状態なのに、そう簡単にいく?」

「僕も、何の考えもなく言っているわけではありません」

 作戦会議の時――――アギオはそう言って腰に差している鞘から剣を抜いた。

 白銀の剣。光を凝縮して剣の形にしたような、(まばゆ)い白銀だ。

「この剣は?神剣?なんです」

「しんけん?」

「神の剣。神界で(つく)られたと言われ、魔を滅する力を宿す光の剣です。あの槍と同じ魔の力を持つディオスさんが太刀打ちできなかったとなると、相反する力――――光の力なら、あれを破壊できるかもしれません」

「……それ、そんなに凄いものだったんだ……」

 見せてもらった時は綺麗だなーとしか思わなかったけど、思っていた以上に物凄い代物だった。私の目利きもまだまだのようだ。

「それ、どこで手に入れたの?」

 尋ねたのはライルさんだった。心なしか言い方に(とげ)があるように感じる。

「本当に神様が創ったならきっと上手くいくと思うけど、ただ光属性の魔法がかかってるだけなら正直不安だよね」

『そんな代物 簡単に手に入るとは思えない』

『ディオスの刀でさえ 出自は分かっていない』

『その剣が神剣だという根拠を知りたい』

 ()()ぎ早に繰り出される質問。アギオはそれを受けて一瞬迷うような素振りを見せ、

「……信じてもらえるかは分かりませんが」

 と一言前置きをして、灰と土で汚れたローブを脱ぐ。その光景を見た私は思わず息を飲んだ。

 その下に現れたのは――――アギオ自身をすっぽりと覆い隠してしまうくらい大きな、金色の翼だった。

 黄金の羽が集まって形成されている翼。太陽の光を反射しているだけなのに、まるで翼自体が光を放っているかのように眩しい。その形状と色彩は、芸術に対してまるで関心のない私でさえ『美しい』と感じるほどだった。

 ただ一つ、違和感を覚えたのは、その翼が左側しか――――片方しかなかったことだ。

「もしかして……アギオって、(しん)(ぞく)!?」

 ライルさんが驚愕の声を上げる。その反応を見たアギオは言いづらそうに目を伏せた。

「神族『だった』、と言った方が正しいです。僕は(しん)(かい)に生まれましたが、この片翼が神族としては不完全として、神界にいられなくなり、(じん)(かい)へ下りてきました」

「ちょ、ちょっと待って!」

 言葉を(たた)み掛けてくるアギオに一旦制止をかける。

 情報量が多すぎて理解が追い付かない。シンケン、シンゾク、という言葉すら初めて聞いたのに、更にシンカイとかジンカイとか言われても全くピンとこない。

「えーっと、つまりだね……」

 説明はライルさんが引き継いだ。

「神界、っていうのは神様が住んでいる世界のことで、天国とも言われている。僕達が住んでいるこの世界とは別の世界だ。そして神界に住んでいる人達を、神様とか、天使とか、神族っていう呼び方をする。アギオはその神界にいたけど、色々あってそこにいられなくなって、僕達の世界――――人界へやってきた。神剣は神界にいた頃に使っていたもので、神様が創ったものだからもちろん闇の力には有効。

 ……ってことで、合ってるよね?」

「はい。細かいところまで話すと長くなるので今は(かつ)(あい)しますが、その認識で間違いありません」

「えっ、アギオって神様だったの!?」

 私が驚いて声を上げると、アギオは恥ずかしそうに苦笑して答えた。

「言うほどのものではありませんよ。神界にもカーストがあって、人々に?神様?として信仰されているのはその中でも上位の方々です。僕では手が届きません」

「かーすと……?」

「ディオス、その話は後にしておこう」

 まだまだ気になることがあるのに、呆れ顔のライルさんにストップをかけられてしまった。

 一瞬不満に思ったが、すぐに思考を切り替えた。今はリヴァイアサンを止めるのが最大の目的なんだから、細かい言葉の意味は後回しでいい。

 ただ、気になるのは変わらないので、後でまたライルさんとアギオに聞こう。特にライルさんには普段質問攻めに合っているので、今回は私がライルさんとうんざりさせてやろうと思う。

 しかしそれは全部、全員無事に生き残ったらの話だ。

「それじゃあ、アギオ! しっかりね!」

 わりと強めにアギオの肩を叩く。私の体調が元に戻ったのを感じ取ったのか、アギオは明るい笑顔で頷いた。

「任せて下さい。ソンブルさんも手伝ってくれます。絶対に成功させてみせます」


        *


 剣が振り下ろされるのと同時に視界が真っ白に染まった。目を開けていられないほどの純白の光が辺り一帯に満ち渡る。

「――――ギャアアアアアアッ!」

 視界を奪われている中、今度は聴覚まで塗り潰されんばかりの悲鳴が上がった。リヴァイアサンの苦痛に満ちた声だった。

 悲鳴の直後、足の裏に大きな振動が伝わってきた。立っていられなくなり、転ぶ前に自ら地面に片膝をつく。

 嗅覚を突く土の臭い。口の中にも砂が入ってくる。目は開けられないが、砂煙が上がっているのは予想がついた。

 悲鳴も、地鳴りも、全てが尾を引いて消えていく。先程の(せん)(こう)のおかげでまだ(まぶた)の裏で光がチカチカしているが、とにかく状況を確かめねばと、無理矢理目をこじ開けた。

 目を開けた瞬間、視界に飛び込んできたのは黒一色の風景だった。視力がまだ戻っていないのかと思い、何度も(まばた)きを繰り返したり、目を(こす)ったりしてみたけど……見間違いではなかった。

 視界を埋め尽くしていた?黒?は、私の目の前に倒れ伏しているリヴァイアサンの鱗だったのだ。

 槍を破壊され、()(もん)の声を上げ、そのまま地へ落ちた。――――私が手を伸ばせば届く距離に。

「……危なかった……」

 思わず呟いてしまった。ほんの何十センチでも落下位置がずれていれば、私は避けることもできないまま押し潰されて死んでいたはずだ。

 (あん)()。しかしすぐに気を引き締める。

 槍を壊したからといって、リヴァイアサンが暴れるのをやめる保証はどこにもない。また、壊れた槍の中から封印されていた魔物が出てくるかもしれない。

 リヴァイアサンが再び暴れ始めたら。更に中の魔物まで私達と敵対したら。そう考えると、最悪の事態になる。

 なるべく音を立てないように立ち上がる。刀に左手を、拳銃に右手をかけて構えたまま、少しずつ後退してリヴァイアサンから距離をとる。

 少し離れた場所にアギオが、またそれよりも向こう側にライルさんと自警団の人達が見える。全員私と同じように警戒し、それぞれの武器を構えたままリヴァイアサンを睨んでいる。

 いざとなれば逃げられるし、攻撃を加えることもできる。そんな絶妙な距離を保ったまま、立ち尽くしている。

 たっぷり数分経ってから、最初に動いたのはアギオだった。剣を片手に握ったまま、素早い動きで私の元へ駆け寄ってくる。

「……ディオスさん」

 小声で話しかけてくる。まだ緊張が抜けていない声だ。

「……槍、壊したよね? どうなると思う?」

「まだ分かりません。それよりもディオスさん、お伝えすることがあります」

 私の問いに短く、答えになっていない答えを返してきたアギオ。そして一つ前置きされ、視線だけ向けた私に、アギオは言った。

「槍を壊した直後から、ソンブルさんの姿が見えません。ディオスさん、心当たりはありませんか?」

「――――ソンブルが!?」


        *


 土地のほとんどが瓦礫で埋まってしまった街の中を、一つの影が猛スピードで駆け抜けていた。

 本来なら独りでに動くはずのない影が、一つの生命体として走っていた。未だ混乱状態にある動物達の間を、影が……ソンブルが、ある方向を目指して()(くぐ)って行く。

 槍が破壊されるまではアギオと共にいた。念のためソンブルも門の上で待機していたものの、いなくても問題はなかったほどアギオの手際は見事だった。

 アギオの剣から放たれた光の魔法は、的確にリヴァイアサンの頭の槍を打ち砕いた。ギリギリまでディオスが引きつけていてくれたことも成功の要因の一つだっただろう。

 槍は砕け、リヴァイアサンの動きが止まった。その瞬間、ソンブルは見た。


 砕けた槍から黒い煙が立ち昇り、北の方角へと流れていったのを。


 ただの煙が流れていったのなら、ソンブルも風に流されただけだと判断して気にも留めなかっただろう。数秒後には煙の存在など忘れてしまったに違いない。

 だが、あれが「ただの煙」であるはずがなかった。一瞬でディオスの生気を削ぐほど強力な呪いの槍から立ち上ったものだ。ソンブルはあの煙の行方に今回の事件の原因があると確信していた。

 煙はとうに目視できなくなっていた。しかし魔力に敏感なソンブルにとっては、その魔力を探し出すことなど朝飯前だった。

 人間の足では到底追いつくことはできないほどのスピードで、ソンブルは呪いの魔力を追跡した。

 そして――――見つけた。街の端まで来てしまったが、見失うことなく追いつくことができた。

 早足で街を去ろうとしている男。その脇に抱えられている、金色の装飾が施されている黒い箱の中から、あの黒い槍のものと同じ呪いの力を感じる。

 ――――逃がさない!

 怒りや恨みといった負の感情を込めて、魔力を大地へ注ぎ込んだ。この時点ではさほど怒っているわけではなかったが、攻撃魔法には攻撃的な感情を込めた方が発動を早め、そして威力を高めることができる。

 ソンブルの魔力は大地を伝わり、男の目の前に岩の壁となってせり上がる。男はそこで初めてソンブルの存在に気付き、こちらを振り返った。

 身長はライルとさほど変わらないほど。グレーを中心とした服の上に黒い革のコートを着込んでいる。短く切られている黒い髪の中に、白髪も多く目立っていた。背中には身の丈ほどもある大剣を背負っている。

 年齢は見ただけでは分からなかった。ソンブルが年齢という概念に疎いことも理由の一つだったが、それ以上に、その男が完全に無表情を貫いていることが最も大きな原因だった。

 怒るでも、戸惑うでもなく、感情を表に出していなかった。真っ直ぐソンブルを見据えている黒い瞳にも何の感動も見られない。

「……………」

 言葉を発するでもなく、静かに立ち尽くしている。

 先にしびれを切らして動いたのはソンブルだった。街の中に転がっていた小石や砂を風の魔法で浮かび上がらせ、文字を作って問い詰める。

『貴様は何者だ』

 短い問いかけ。それに対し、男は落ち着いた声で答えた。

「……名はドロモス・デスティチャ。気付いているだろうが、あのリヴァイアサンを操っていた者だ」

 ――――やはり。

『何が目的であのようなことをした』

『その箱の中身をどうするつもりだ』

 続けて問いを投げかける。男は顔だけではなく声にも感情を込めず、淡々と言葉を重ねた。答えにもなっていない答えだった。

「回答は控えさせてもらう。私の目的を知れば、君達は確実に私の邪魔をするだろう」

『つまり 我々の敵ということか』

 詳細まで教えてくれるつもりはないらしい。しかしその回答の仕方から、ソンブル達にとって不利益なことをしようとしていることは間違いない。もっとも、それはリヴァイアサンを操っていたという発言からも明らかであったが。

 敵だと決まれば容赦は必要ない。ソンブルは即座に実体化を解き、影の中へ溶け込んだ。

 この状態になれば敵からの攻撃は受け付けない。唯一、光の魔法だけは例外的に受けてしまうが、このドロモスという男から光属性の魔力は感じられないため、反撃も警戒する必要はない。一方的に叩きのめすことが可能だ。

 もちろん全てが都合よくはいかない。ソンブルが魔法を発動させるのにも条件がある。『敵との間に遮蔽物がないこと』『敵の姿をソンブルが目視できること』という二つだ。しかしリヴァイアサンが暴れ回って建造物を壊してくれたおかげで、現在はソンブルの独壇場とも言える。ドロモスは確実に墓穴を掘った。

 先程と同じく、怒り、恨みを込め、その魔力を炎へと変える。

 ――――弾け飛べ!

 ドロモスの足元から爆発音と火の手が上がった。石の地面が砕け、土が舞い散る。常人なら四肢が千切れ飛んでもおかしくはない威力だ。

 しかし――――ドロモスは五体満足のまま黒煙の中に立っていた。服の端は焼け焦げ、顔や腕に土の汚れが付着してはいるが、火傷の一つもなく、無表情を保ったままその場に立っていた。

 一筋縄ではいくまいと分かってはいたが、無傷だというのは想定外だった。火で駄目なら水か、それとも呪いと相反する光の魔法で攻めるべきか――――

 驚き、微かに焦りを覚えるソンブル。そのソンブルの様子に気付いたのか、ドロモスは次の攻撃の前に言葉を挟んだ。

「こんなところで油を売っていていいのか?」

「!?」

 たった一言。そのたった一言が、ソンブルを更に動揺させた。

 ドロモスの言葉から思い出されるのは、リヴァイアサンがいる場所――――ディオス達が集まっている場所だ。

 槍を壊したからといって、リヴァイアサンが大人しくなるとは限らない。元から皆が恐れていたことだったが、まさか悪い予感が的中したか。

 焦りが加速する。しかしドロモスの口から飛び出したのは、ソンブルが予期していたものとは全く別の言葉だった。


「あの女が持っている刀も、君達が壊した槍と同じ呪いがかかっているのだろう? 何の対策もせずに放っておいていいのか?」


「――――ッ!」

 その言葉の恐ろしさに気付いた瞬間、ソンブルは身を翻していた。ドロモスも脅威ではあったが、それよりも仲間の身を案じ、ソンブルは呪いの魔力を追ってきた時よりも速く、ディオスの元を目指した。


 あまりにもディオスが自然体でいるために忘れていたが、ソンブルも最初はディオスの敵だった。理由はディオスが所持していた刀から並々ならぬ呪いの力を感じ取り、それがナダエンデ・ノックスの呪いの原因であるとソンブルが勘違いしたためだ。

 敗北した後、街の住民であるライルから誤解であると説明され、ディオスと和解した。その後もしばらく警戒はしていたが、ディオスがあまりにも馬鹿正直で天然極まりない人物であることが発覚したため、現在はソンブルも当初の警戒など完全に忘れていた。

 しかし――――警戒は解くべきではなかった。


 少なくとも『ディオスの刀』への警戒は解いてはいけなかった。


 ナダエンデ・ノックスの呪いの原因がディオスである、という点は誤りであったが、ディオスの刀に呪いがかかっているという点は当のディオスも認めている事実だった。

 今まで運良く何事もなかったというだけだ。現に槍の方はリヴァイアサンを媒介として猛威を振るった。つまり、ディオスの刀がいつその呪いの力を発揮し始めたとしても不思議ではない。

 そしてあのドロモスの存在と、ドロモスが呟いた言葉。悪寒が膨れ上がる。

 ――――皆、どうか無事で!

 ディオスやライル、アルージエの人々――――戦友達の無事を祈りながら、一つの影がアニマーリアの中を駆け抜けた。


        *


 ソンブルの不在に気付き、私が探しに行こうとした時――――リヴァイアサンの体が動いた。

「!?」

 緊張が走る。全員が武器を構えて大きく一歩後退する。

 しかし緊張に反して、リヴァイアサンの動きは非常に鈍かった。先程まであんなに空中を飛び回っていたのに、今は体が重くて仕方がないと言わんばかり。

 ゆっくり、ゆっくり、頭だけを起こして、憤怒が――――憤怒どころか生気すら消え失せた目で空を見上げ、

「――――オォオオオォォォ……」

 と力なく鳴いて、


 鳴き終わらないうちから、皮膚の表面の黒い鱗がボロボロと剥がれ落ち始めた。


「――――え!? 何何何!? 何事!?」

 さすがの私も驚いて狼狽(うろた)えた。隣に立っていたアギオのローブを掴んで引っ張っても「これは一体……」と、私と同じく戸惑った声しか返ってこない。

 パニックになっている間にも鱗はどんどん剥がれ落ちていく。鱗の鎧の下は皮でも肉でもなくて、新たな黒い鱗だった。その鱗も剥がれ落ちて、更にその下も……と、まるでタマネギの皮を剥き続けているように、際限なく鱗が落ち、大きかった体がみるみるうちに小さくなっていく。

 数分後、とうとう最後の一枚が落ちた。地面には足の踏み場もないくらい鱗が散乱している。

 そして、その巨体の核になっていた部分――――中心部分に、ぽつんと一つ、白いものが落ちているのが見えた。非常に小さかったが、黒い鱗の中にいたからすぐに見つけられた。

「……トカゲ?」

 細長い胴体と、同じく細長い尻尾、四本の足。体毛は生えていない。あの形は紛れもなく、一般家庭にも出没するようなトカゲだった。

「あれがリヴァイアサン?」

「おそらく……ディオスさんの読み通り、槍の魔力が原因で暴走していただけなのでは?」

 アギオは同意してくれた。まさか本体があんなに小さなトカゲだったとか、槍の魔力で怪物化していたとは予想もしていなかったが……もしかしたら今の状態でなら、話ができるかもしれない。

 鱗を踏みしめてトカゲへ近付く。アギオに「ディオスさん、まだ危険です!」と止められたが、私にはじっと待っていることなどできなかった。早く真相が知りたかった。

 近付いてみると、ただのトカゲとは何かが違っているように見えた。形や大きさはトカゲと変わらないのだが、体の表面にトカゲのような鱗はなく、カエルのような柔らかい、水分を含んだ皮膚を持っていた。トカゲの水棲版みたいな見た目だが、顔の側面、両側に短く赤い糸のようなものが無数に生えているところを見るとサンショウウオとも少し違うようだ。

 ――――その後時間が空いた時にライルさんが教えてくれたのだが『ウーパールーパー』という種族らしい。一年を通して涼しい気候の地域に住んでいる生き物らしく、ナダエンデ・ノックス周辺には生息していない。ライルさんも本物を見るのは初めてだと言っていた。

「……おーい、大丈夫?」

 呼びかけてみるが反応はない。四肢はだらんと投げ出され、瞼は固く閉じられている。

 人語を喋る動物が住む街・アニマーリア。そのアニマーリアの生き物だからこの子も言葉が通じるはずだ。しかし意識を失っている様子だし、しばらくはどうにも話ができそうにない――――


「――――ダクム!」


 と、その場に幼い男の子の声が響き渡った。

 聞き覚えのある声。その声は、私がこの街に来て初めて出会って助けたあの子犬のものだった。

 少し離れたところから土で汚れた毛玉のような子犬が走ってくる。駆け寄ってきた子犬はトカゲを見て「やっぱりダクムだ!」と声を上げた。

『ダクム』というのがこのトカゲの名前のようだ。子犬とは知り合いだったらしい。

 ふと周りを見回すと、建物の影からぞろぞろと動物達が姿を現していた。その種類は犬や猫、馬、鹿、ワニや色とりどりの鳥達など、とにかく色んな種族の動物が揃っている。

 私達人間を囲むように出てきた動物達。決して敵意を抱いている様子ではなく、私達にどう接したらいいか考えあぐねて遠巻きに見ているようだった。

 その動物達も子犬の叫び声を聞いてリヴァイアサンの正体に気付いたらしい。「まさかダクムだったなんて」「信じられない」という声がちらほら届く。

 敵意や怒りよりも戸惑いの声が多かった。「やっぱりあいつか」という感じではなく、むしろ「まさかあの子がそんなことをするはずがない」といった反応だ。

「……君の友達?」

 子犬に尋ねると、彼は大きく頷いた。

 目に涙を浮かべて、瞳にひどく怯えた色を(たた)えて。

「ねぇ、お姉さん……ダクム、殺されちゃう……?」

「は?」

 可愛らしい子犬から物騒な言葉が飛び出してきて、私は思わず耳を疑った。そんなこと考えてもいなかったから。

 私はリヴァイアサンが大人しくなればそれで解決だと思っていた。大人しくさせた後のことを考えていなかったとも言えるが、とにかくもう害がなくなったのならこれ以上どうこうする気はない。

 子犬が心配しているのは、私よりもアギオやアルージエの人々が攻撃を加えてくるんじゃないか、ということだろう。

 他の面々は先程と変わらず武器を構えたままだ。動物達に囲まれて多少気が散ってはいるものの、警戒はまだ解けていない。子犬が不安がるのも当然だ。

「……大丈夫。絶対、殺させないから」

 そう言って、次いで「ライルさん!」と大声で彼を呼んだ。大きく手を振って手招きする。

「水筒持ってきて下さい!」

「え、水筒?」

 ()(げん)な顔をしていたけど、私に言われるがまま荷物を持って駆け寄ってくるライルさん。トカゲの姿を見て私の考えに気付いたらしく、(すみ)やかに水筒を渡してくれた。

 体の表面にぬめりのある、おそらくは水棲のトカゲ。体が乾いてしまったら、私達がどうこうする前に死んでしまう。

 近くに池でもあればいいのだが、視界には見当たらない。水筒の水の中に入っておけばおそらく大丈夫だろう。狭くて息苦しいかもしれないけどそれはダクムに我慢してもらうしかない。

「もう大丈夫だから、武器を下げて下さい! 大丈夫ですから!」

 アギオとアルージエの人々にも大声で宣言する。みんなしばらく迷った後、自警団の団長さんらしき人が巨大なアックスを下げたのを合図に次々と武器を下ろしてくれる。

 まだ表情に不安は残っていたが――――


 ――――と、その時。私の足元の石や砂が突然風に巻き上げられて宙に浮いた。

『大丈夫だったか?』と文字を描いて。


「ソンブル、戻ってきたの!?」

 顔を上げると、数歩離れた場所に実体化したソンブルが立っていた。

『急にいなくなってすまない』

『リヴァイアサンはどうなった?』

 尋ねられて状況を説明した。リヴァイアサンの鱗が一枚残らず剥がれ落ちて、中から『ダクム』というトカゲが出てきたことを。

 話している間に、地面を埋め尽くしていた鱗が液状に溶けて地面に吸い込まれて消えていった。染みすら残らなかったことから、ソンブルとアギオ曰く「魔力が原因でリヴァイアサンと化していたと考えて間違いないだろう」とのことだ。

 逆にソンブルが何故いなくなったのかも聞いた。槍から放たれた呪いの魔力を追っていったこと、その先でドロモスという謎の男と遭遇したこと――――ドロモスに脅されて慌てて戻ってきたこと。

 悔しいがドロモスの発言はハッタリのようだった。私の刀もリヴァイアサンも何ともない。ドロモスがソンブルから逃げ出すためについた嘘だ。……それを言ったらソンブルが落ち込んでしまいそうだったから、口に出すことはしなかったが。

「……これは、そのドロモスって奴が黒幕だったってことで間違いないよね?」

「結局、あの槍は何だったんだろう?」

 私の確認にソンブルは頷き、ライルさんの疑問には首を横に振った。

『分からない』

『答える気もないようだった』

 話を聞いただけでも怪しい男だ。突如としてリヴァイアサンを暴れさせて、いざ槍を壊されたら魔力だけ回収してさっさと退散。何がしたいのか分からない。

 アギオが壊した槍自体は、何の変哲もないただの槍だった。破片を触っても、もう生気が抜き取られる感覚はない。触るのを嫌がっていたライルさんを拝み倒して彼にも試してもらったが、今回はライルさんも問題なく触れていた。

 やはり原因は槍に封じられていたあの魔力――――私の刀と同類だとしたら、封印されていた魔物だ。それを逃したのはかなり痛い。

「どなたか、怪しい男を見た方はいらっしゃいませんか!? グレーの服の上に黒い革のコートを着た人間です! 黒い箱と大きな剣を持っています!」

 アギオが声を張り上げる。動物達を見回して問いかけるが、皆首を傾げるかかぶりを振るかのどちらかだった。

「それでは、槍について何か知っている方はいらっしゃいませんか!? リヴァイアサンの――――ダクムさんの体には、黒い槍が刺さっていたんです! それが今回の事件の原因なんです!」

「それなら池に住んでる奴が分かるかもしれない!」

 二度目の問いかけに対しては答える声が上がった。

 群れの中から歩み出てきたのは灰色の体毛を持つ一匹の狼だった。見た目は野生の狼と変わりないが、声が枯れているということはおそらく老体なのだろう。

「ダクムが(すみ)()にしていた池がある。そこの連中なら分かるかもな。生きていればの話だが……」

「その池の場所は?」

「ヒトの足ならかなり遠いな。それでも良ければ案内してやる。ついて来い」

 狼はそう言って踵を返した。

 ついて行くことにしたのが、アギオとソンブル、そしてダクムが入っている水筒を持った私だ。ライルさんはアルージエの人達と話したいことがあると言ってその場に残ることになった。


 狼に案内されて歩くこと約三十分。リヴァイアサンによる破壊の渦の中心部分に、その小さな池はあった。

 池は濁っていて水面の下の様子までは分からない。その池の淵に狼が立って「おい、大丈夫か!?」と声をかけると、色々な生物が水の上へ顔を出した。

 赤や緑、青や橙などの色彩豊かな魚達。顔に赤い模様のある黒い体の亀。モグラに(くちばし)を付けたような不思議な生き物。ダクムによく似た生き物もいたが、顔の横に糸のようなものがないところが違った。

「無事だったか、お前等。怪我した奴はいないか?」

「頭打ったー」

「ヒレ破れたー」

「水汚くなったー」

「槍降ってきたからー」

「でも大丈夫ー」

「ちょっとストーップ!」

 今物凄く重要なことをさらっと言われた!

「槍が降ってきた!?」

 槍が池の中へ降ってきて……それがダクムの体に刺さって、リヴァイアサンへ(へん)(ぼう)させた?

 小魚達が言うには、槍が降ってきた直後にリヴァイアサンが現れ、暴れ出した。瓦礫や岩が水の中にも落ちてきたため全員慌てて逃げ惑い……気が付いたらダクムだけがいなくなっていた、ということだ。ダクムがいなくなったタイミングとリヴァイアサンが姿を現したタイミングを考えても、やはり間違いない。

 ――――と、ここで、私が片手に持ったままだった水筒から俄かに振動が伝わってきた。

 ダクムの目が覚めたか、と思って慌てて蓋を開けたら、ビンゴだ。

 中から飛び出してきたダクムが「ぷはーっ!」と大きく息を吸う。

「ダクム、目が覚めた!?」

 子犬が水筒の中を覗き込もうとぴょんぴょんとその場で飛び跳ねる。子犬とダクムがお互い見えるように屈んであげると、ダクムは子犬を見て「よう!」と手を挙げた。

「シヤンじゃねーか! 一体どうし……た……?」

 段々と声から覇気が失われていった。子犬の汚れた姿と、棲家にしていた池の様子がおかしいことに気付いたからだろう。

「……何があったんだ?」

「何も覚えてねぇのか、小僧」

 狼が語る。ダクムが何をして、この街がどうなってしまったのか。

 慰めるでもなく、責めるでもない。淡々とした状況説明だ。最初は(あい)(づち)を打ちながら聞いていたダクムだったが、徐々に口数が減っていった。話の途中で私や子犬が「悪いのはあのドロモスという男であって、ダクムじゃない」と何度かフォローを入れたものの、それだけで立ち直れるほど単純な問題ではない。

「――――みんな、すまねぇことをした」

 池の中、池の周辺に集まっている動物達に向かって、ダクムは深く頭を下げた。

「謝って済むとは思ってねぇ。俺にできる(つぐな)いなら何でもする。罰なら何でも受ける。それでも今は、謝ることしかできねぇ……本当に、すまなかった」

「……………」

 かける言葉も見つからず、場に重い沈黙が下りる。最初に口を開いたのは狼だった。

「まさか謝るだけで済ませるつもりはねぇだろう。何をすべきか、お前は自分で分かってるな?」

 かなり口調の強い、厳しい言い方。思わず「そこまで言わなくても」と口に出そうになったが、アギオに無言で制されて言葉を飲み込んだ。

 個人的には、街を壊して回ったことは不問にしてあげたい。しかし肝心のダクム自身がそれを認めはしないだろう。ダクムのことを思うのなら、ここは黙っているべきだ。

 そして、ダクムが口を開く。


「俺は――――この街から、出て行くよ」


 そう宣言した瞬間、周囲にどよめきが湧き起こった。

「本気で言っているのか」「そこまでしなくても」「もっと良いやり方があるはず」。とにかく一同揃って「信じられない」という言い方をしている。

「……別に、街を出ても言うほど危険なことはないよ? 何なら本当に安全な場所まで私達が連れて行くし」

「ディオスさん、そうではありません。問題は別の所にあります」

 ヴァイナーにいた頃の私と同じように、外の世界への(へん)(けん)があるのではないかと思ってそう口に出した。しかしアギオからそれを否定される。

「アニマーリアの動物達は――――アニマーリアを出ると、喋ることのできない、普通の動物に戻ってしまうのですよ」

「――――嘘!?」

「本当です。人の言葉が話せませんし、人が話す言葉を理解することもできません。……僕達が食糧にしている野生動物と同じようになってしまうのです」

 後半は動物達に配慮したのか、声が小さくなった。もっとも動揺している彼等には、気を遣わなくても聞こえることはなさそうだった。

 そういった理由なら彼等がここまで動揺するのにも納得した。二度と言葉を交わすことができなくなるなんて極刑に近い。

「やだ、絶対やだ! ダクムと会えなくなるなんてやだ!」

「我儘言うな、坊主。お前等も騒ぐんじゃねぇ、こいつがやらかしたことを考えたらそれが妥当だ。何もやりすぎじゃねぇ」

 駄々を捏ねる子犬――――シヤンを狼が諭す。

 年の功のある狼がそう言っているし、ダクム自身がそれで納得している。私達余()()(もの)だけでなく、アニマーリアの住民達も、この件に関しては安易に口出しはできない。

 ――――そんな、重い空気が満ちているこの場所に。


「何を甘ったれたことをぬかしてやがる!」


 と、ひどく乱暴な声が響き渡った。

 全員が声の方向へ顔を向ける。現れたのは、数頭のメスライオンを引き連れた、体の大きなオスライオンだった。

「これだけの被害を出しておいて、追放だけで済むと思ってんのか!? 死刑に決まってるだろうが! そんな危険な奴を生かしておけるか!」

「な……何!? いきなり出てきて何言ってんの!?」

 思わずライオンに言い返した。急に現れて、今までのやりとりも何も知らないくせに一方的に物騒なことを言い出したことに、かっと頭に血が上った。

 睨んだら睨み返された。数々のモンスターと戦って勝ってきた私からすれば全く怖くも何ともなかったけど、集まっていた動物達の何匹かは怯えてその場から逃げ出していった。

「余所者が口を挟むなよ、そうでなきゃテメェから噛み殺すぞ!」

「やってみなよ、やれるもんならね!」

 ライオンが牙を()き、私は刀に手をかける。

 話し合いの余地はない。力ずくで叩きのめさなければ。

「……おい、オメー等」

 睨み合う私達を余所に、狼が周囲の動物達に声をかけた。私はライオンから目を離すわけにはいかず、耳だけ傾けて次の言葉を待つ。

「こいつの言う通り、ダクムを殺すべきだって奴はどれだけいる?」

 賛同者がどのくらいいるのか、聞いているだけでは分からなかった。続いての「じゃあ、殺すべきじゃねぇって思う奴は?」という問いかけも同じく。

 ……しかし、次の狼の言葉で結果が分かった。

「見な。ここの連中全員、ダクムのことは見逃してやれってよ」

 ――――良かった。

 安心して(つか)から手を離しそうになった――――が、ライオンが再び吠えたことで、私はまた()(あい)の体勢をとることになった。

「テメェ等の意見なんざ知らねぇッ! 俺はアニマーリアのボスだ! この街にいる限り、この街のことを決めるのは全部俺様なんだよ! 逆らう奴は全員食い殺すッ! まずはダクムからだ! 邪魔する奴がいたらまずそいつから殺す!」

 駄々っ子のようにわけの分からないことを喚き散らすライオン。一瞬何を言いたいのか理解できなかったが、要するに「僕の言うこと聞いてくれなきゃヤダヤダ」という、只の我儘だ。

 そんな幼稚な言い分が通るわけがない。さすがのダクムもライオンに対しては反論した。

「俺を殺すのが街の意思なら、俺はそれをそのまま受け入れるぜ。だがな、ボス以外の全員が、俺を殺すなって……俺を殺さないでくれって、言ってくれてるんだ、ありがたいことにな。その意思を無視しようってのは、街のボスとして尊敬できるもんじゃねーぞ」

 冷静になって言い返す。しかしそれが?ボス?と呼ばれているライオンの神経を逆撫でしたのか、より熱く、尚も悪あがきのように叫ぶ。

「うるせえッ! テメェを殺すのは決定事項だ! 誰にも異論は唱えさせねぇ! これは、俺が決めたことだ!」

 そしてとうとう、ライオンはダクムに手を下そうとした。一瞬姿勢を低くしたかと思うと、次の瞬間には跳躍していた。

 ――――間に合うか!?

 ダクムとライオンの間に割り込む。刀を振り抜き、その勢いのまま、ライオンの顔面目掛けて刃を振るう!

 ……しかし実際には、ライオンの牙も爪も、私の刃も互いに届くことはなかった。突如として動物達の悲鳴が爆発し、更に辺り一帯が暗く(かげ)ったことで、私と対峙するライオンの動きが止まったからだ。

 何事か、と上空を見上げて――――信じられない光景が目に飛び込んできて、思わず硬直して立ち尽くした。

 太陽の光を遮って私達に影を落とす、巨大な生物。


「――――リヴァイアサン!?」


 つい先程まで戦っていたはずのリヴァイアサンが、再びこの場に姿を現した。

 素早く納刀し、二丁拳銃を抜く。その過程で周囲を見回したが、ダクムの姿が消えていた。つまりあのリヴァイアサンは他の誰でもない、ダクムだ。

「何で……!?」

 呪いの槍は間違いなく壊した。今のリヴァイアサンのどこにも、あの槍や私の刀のような、呪いのかかった武器や魔法具は見当たらない。にも関わらずダクムは再びリヴァイアサンへと姿を変えられてしまった。

 まさか、あのドロモスとかいう男の仕業か――――と思って周囲にも警戒を広げたその時、

「そんなにビビらなくても、もう暴れたりしねーよ」

 と、上空から声が降ってきた。

 ダクムの声だ。本来の声より少し低いが間違いない。

 喋っている。リヴァイアサンが――――ダクムが、意思を持って話している。

「ば、馬鹿な……」

「ダクム……ダクムなの……?」

 ライオンもシヤンも声を震わせる。

 一瞬のうちにリヴァイアサンへと姿を変えたダクム。そのダクムが体をよじらせて、視線だけをシヤンと狼へと向けた。

 もう先程のような破壊衝動に駆られている凶悪な目ではなくなっていた。物静かな黒い瞳だ。

「黙ってて悪かったな、シヤン、爺さん。けどこれで分かったろ? 俺はこの街には合わない……俺は、この街にはいるべきじゃない」

 重い口調。ダクムの影で暗くなっているこの場所に、更に重く暗い沈黙が下りる。

 数分の沈黙の後、最初に口を開いたのはアギオだった。

「つまり……間違っていたら申し訳ないのですが……今の姿がダクムさん本来の姿。あの槍はダクムさんを本来の姿に戻して操っていただけであり、槍自体に対象を怪物化させる能力はなかった、ということですか?」

「大体そんな感じだな。槍のことはよく分からねぇけど」

 ダクムはアギオへ向かって頷き、続いてライオンへ向かって「なぁ、ボス」と呼びかけた。

「こんなデカブツにお前は勝てるか? 無理だよな? このまま大人しく引き下がってくれりゃあ、俺も大人しくこの街を出て行く。だがお前がまだ喧嘩売ってくるってんなら、俺もそれを買わなきゃならねぇ。どっちが利口かは分かるよな?」

「………」

 凄むダクム。その迫力のある姿に、誰も何も言えない。唯一ライオンだけは例外だったが……

「嘘だ……ボスは俺だ……でも……嘘だろ……」

 ……とこのように、口の中でぶつぶつと何かを呟いているだけ。先程あんなに威張り散らしていたのに、もうすっかり(おのの)いて情けない姿を(さら)していた。周りの動物達は既に全員落ち着いてライオンのことを冷たい目で見ているというのに、取り乱しているライオンはそれにも気が付いていない。

 ずっとそんな調子。硬直したまま怯えて、でもプライドが高すぎるせいで逃げ出すこともできない――――そんな状態が何分も続いて、とうとうダクムの方がキレた。

「グズグズ言ってんじゃねぇ! 食い殺されてーのかテメェはァ!?」

 大気を揺るがすほどの威力がある(どう)(かつ)。ダクムに対して友好的な動物達すら恐怖したが、最もそれを恐れたのはライオンだった。

 あんなに偉そうにしていたライオンが、恐怖のあまり硬直し……ダクムに一喝された途端、尻尾を巻いて逃げ出した。それも「ひぃいいいっ!」と涙交じりの悲鳴を上げながら。

 最初に現れた時から小物臭いとは思っていたけど、予想通りだった。その情けない姿を見たメスライオン達が「どうやらあたし達、男を見る目がなかったみたいね……」と呟くくらいに。

 そんな一同の姿を見た狼も、呆れた風に溜息をついた。

「まったく、領主ともあろうモンが情けねぇな……」

「やっぱりあのライオンがこの街の領主だったんだ?」

 銃を仕舞いながら言葉を返す私。

『ボス』と呼ばれていたことや、あの横暴な態度から予想はついていた。もちろん、領主だからといってあの態度が許されるというわけではないが。

 そうやりとりしている間に、ダクムの体の表面の鱗が先程と同じようにボロボロと剥がれ落ち始めた。初めてそれを見た動物達は狼狽えていたが、二度目の私達は落ち着いてその光景を眺めていられる。

 リヴァイアサンの中心部分から姿を見せたダクムはそのまま重力に従って池の中へチャポンと落ちた。操られていた時とは違って意識を失うことはなく、すぐに水面から顔を覗かせる。

「ビビらせて悪かったな、みんな。それから……俺がリヴァイアサンだってことを、黙ってたことも」

 謝罪するダクム。そして今度は私達の方を振り返った。

「姉ちゃん達も、迷惑かけて悪かったな。それからこんな身でこんなこと頼むのも何なんだが……俺を『それ』に入れて、適当な所まで連れて行ってくれないか?」

 それ、と言って指差したのは、先程までダクムが入っていた水筒だ。

「リヴァイアサンの姿なら空は飛べるが、デカすぎて不便も多くてな……かといってこっちの姿じゃ、今度はすぐに干からびて死んじまう。だから適当な川か海でいいから、連れて行ってほしい。

「それは別にいいけど……」

 ダクムを連れて行くのは全く構わない。が、私の返答が煮え切らなかったのは、それとは別の理由だった。

「……話の流れからして、これってアニマーリアから永久追放するってこと?」

 その質問に頷いたのは狼だった。質問されてから頷くまでに妙な間が空いたのは、狼にとってもそれが本意ではないからか。

「そうだ。まぁ、被害を考えたらそいつが妥当だろうな。むしろ死刑にならないだけマシだ」

「……でも、ずっと、っていうのは嫌だよ……せめて一年とか、二年とか……」

「お前なぁ……殺されないだけマシなんだから、それ以上都合のいい話はねぇだろ」

 シヤンが駄々を捏ねて狼に叱られている。ダクムは狼に同意し、その他の動物達も揃ってシヤンを説得している。

 そんなシヤンが不憫で……どうにかできないかと思考を巡らせる。

 命だけ救ってその後のことは知らない、なんて、本当に『助けた』とは言えない。助けるなら徹底的に助けたい。それが私の理想の『ヒーロー』の姿だから。

 ああでもないこうでもない、と一人、頭の中で問答を繰り返す。そのために黙り込んだ私を不思議に思ったのか、アギオが「ディオスさん」と答えをかけてきた。

「どうかされましたか?」

「うん……ちょっといいかな? ソンブルも」

 ふと閃いた案があって、アギオとソンブルに小声で内容を伝えた。我ながら名案だと思ったし、二人も「なるほど……」『いい考えだ』と賛成してくれる。

『それなら アギオが提案するべきだ』

「え、僕ですか!?」

「確かに、最終的にリヴァイアサンを止めたのはアギオだったし、それがいいかもね」

 驚くアギオだが、私はソンブルに同意した。

 一連の出来事は私やソンブル、ライルさんや武器の街の人々の協力があったからこそ解決した。それでも最終的に槍を壊して街を救ったヒーローはアギオだ。

 私とソンブルに促され、アギオが「あの!」と動物達の口論に割り込む。

「提案があるんです。ダクムさんのアニマーリア追放の件、ドロモスという男を捕らえるまで、という条件を付けてはいかがでしょうか?」

「……ああ、ダクムを操って暴れさせたって奴か。確かそいつは自分が黒幕だって自白してるんだよな?」

「はい。ダクムさんは今回の事件の責任を取って街を永久的に出ると仰っていましたよね? それなら、全ての元凶であるドロモスを捕らえ、罪を償わせるのをダクムさんの(しょく)(ざい)の証としてもいいのではないでしょうか」

 アギオが提案する、私の名案。

 ダクムは望んで暴れたわけではない。全てはドロモスが悪い。そのドロモスにはまんまと逃げられ、操られていただけのダクムだけがこんな悲しい目に遭うなんて認められてはいけない。

 しばらく動物達が考え込んだ。そして狼が「それもそうだな」と最初に口を開く。

「名案だ。それなら責任の取り方としても充分だろう。やれるな、ダクム?」

「……ああ。絶対に捕まえる。飲み込んででも連れてきてやるよ」

 有無を言わせない狼だったが、ダクムは力強く頷いた。そのくらいダクムはこのアニマーリアが大好きで、ここに戻ってきたいと強く願っているのだろう。

「ソンブル、ドロモスが逃げてたのはどの方向?」

 尋ねると、ソンブルは影で矢印を作ってある方向を示した。

「……アルージエの方向ですね」

 アギオが呟く。

 アルージエはアニマーリアから東の方角にある街。今回の事件がなければこのまま北上する予定だったが、ルートを変更して東を目指すとしよう。

「そうと決まれば、善は急げだね。できるだけ早く追いかけよう」

 本当はもっとアニマーリアをゆっくり見て回りたかったけど、そんな余裕は私達にもアニマーリアにもない。

「ダクム、何時間後なら旅立てる?」

「一時間あれば大丈夫だ。その間に別れは済ませられる」

「分かった。じゃあ一時間後、私達も準備ができたら迎えに来るよ」

 短く言葉を交わし、私はアギオとソンブルを促してその場を足早に離れた。

 タイムリミットは一時間。私達はそれ以上長くなっても構わないのだが、遅くなればなるほど、ドロモスを追うのが難しくなる。それはダクムが認めまい。

 それなら友達と話す時間を少しでも長くしてやりたいと思い、急ぐようにライルさん達の所へ戻ろうとしたのだが――――ダクムに自己紹介すらしなかったのはあまりにも焦り過ぎたか、と気付いたのはしばらく時間が経ってからだった。


        *


 ライルさん達の所へ戻ってから、簡単に事の(てん)(まつ)を説明した。

 ダクムが私達と一緒に街を出てドロモスを探すことになったこと。ドロモスを捕まえたらダクムが許されること。ついでにダクムが只のウーパールーパーではなくて、リヴァイアサンの方が本来の姿だったこと。一時間後にはダクムを迎えに行って街を出ること。

 そして、ここから池までは片道約三十分。往復で一時間だから、すぐに戻らなくてはいけない。

「それなら俺も一緒に行くよ。歩きながら話したいこともあるし」

 座って休んでいたライルさんが立ち上がる。それと入れ替わりで、今度はアギオが残ることになった。

 槍を壊すため一瞬で魔力を大量に使い切ってしまい、体力的にかなりつらいことになっているらしい。加えて往復一時間歩いたせいで、もう限界なんだそうだ。

 自警団の人達とアギオを残して、私とソンブル、そしてライルさんの三人はダクムを迎えに行くために歩き出す。


 道中聞いたのは、自警団の人達が私達をアルージエまで連れて行ってくれる、という話だった。

 ライルさんの中でもアルージエ行きは決定していたらしい。しかしその目的は、ドロモスを追うのとはまた別のところにあった。

「今回、俺、何にも役に立てなかったしさ。せめて武器の一つでも持ってれば違うんじゃないかと思って」

 理由を語るライルさん。その面持ちは非常に落ち込んでいる様子に見えた。

 私からすれば、ライルさんはライルさんしかできないことをやってくれたと思う。アッティモでアルージエの人に助けを求めるのはライルさんしかできなかった。

 まず私は説明というのが苦手だ。ソンブルは喋れないからアッティモは使えない。アギオはアルージエにもナダエンデ・ノックスにも知り合いがいなくてアッティモは使えなかった。

 それでもあの激しい追いかけっこで()()の外にされていたのが相当堪(こた)えたらしい。

「ナダエンデ・ノックスでも、アニマーリアに来る途中も……俺、ずっとディオスに助けられてばかりだった。

 だから俺、強くなりたい。ディオスより強く、っていうのは難しいのは分かってるけど、今回みたいな時に手助けできるくらいにはなりたいんだ」

「……期待してますよ」

 武器を得ただけで強くなれるとは限らないとか、目標が低すぎないかとか……幾つか言ってやろうと思ったが、ライルさんの目を見て、やめた。

 とても真剣な顔をしていた。ライルさんと出会ってから約十日、こんな表情は片手で数えられる程度にしか見ていない。そのほんの数回の中でも特に決意に満ちた目をしていた。

 ――――この人はきっと、強くなる。

 それが一体いつになるのかは分からない。でもきっと――――いや、絶対に強くなる。

 そう感じた。


        *


 再び池を訪れると、目を真っ赤に()れさせているシヤンがいた。先程まで泣いていて、やっと落ち着いたらしい。

「……お姉さん」

 私に気付いたシヤンが話しかけてきた。まだ泣くのを(こら)えている最中なのか、声にまで涙が滲んでいる。

「悪い人、捕まえられるよね? ダクムは、絶対戻ってくるよね?」

「……大丈夫。悪い人は絶対成敗されるって決まってるんだから」

 シヤンの頭を撫でる。まるで毛玉のようにふわふわしている子犬だが、砂が入り込んでしまっているのか、少しざらざらした感触がした。

「だから、安心してお風呂にでも入っておいで。折角の可愛い毛並が台無しだよ」

「かっ……可愛くないよ! 僕、男の子なんだから!」

「それくらい元気なら大丈夫だね」

 ムキになって言い返してくるシヤン。大丈夫だろう、とは言ったけど、ダクムがいなくなったらまた泣き出しそうだ。その時は狼あたりが泣き止ませてくれることを祈ろう。

「――――ダクムの方は、準備できた?」

 シヤンから視線を外してダクムを見る。ダクムは大きく頷いた。

「ああ、大丈夫だ。よろしく頼むぜ」

「うん。……ああ、そういえば」

 一つ思い出したことがあって、私は池の畔に――――ダクムの前に腰を下ろした。

 きょとんとしているダクムの目の前に、私は右手を差し出す。

「自己紹介してなかったね。私はディオス・デ・ラ・ムエルテ。よろしく」

 名前ぐらいはお互いに別の誰かから聞いて知っていた。しかしこれから同じ時間を過ごす仲間として、ちゃんと名乗っておきたかった。

 対するダクムは少しだけ迷った様子。改めて自己紹介をするのが照れ臭かったみたいだ。

 数秒の間を置いて、ダクムも池から身を乗り出して右手を出す。

「……ダクムだ。人間じゃないから、ファミリーネームはない。……その、何だ。短い付き合いになることを祈ってるぜ」

 ダクムの手が私の指先を握った。

 リヴァイアサンの姿の時とは全く違う。柔らかくて小さくてひんやりと冷たい手だった。

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