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【第一章】ナダエンデ・ノックス

 紙の地図を両手に持って広げたまま、新しい街に着いた。

 もう夜中のはずなのに、街中は活気に満ちていた。街の入口付近にはレストランだったり雑貨屋さんだったりとお店が多数立ち並び、どこも明かりが点いている上に人で賑わっている。真っ暗な平原を、月と星を頼りに歩いてきた私にはとても眩しく感じた。

 普段の私だったら「楽しそう!」と感じて端からお店を回るくらいのことはするだろう。しかし数日の野宿で疲労困憊になっていたため早く休みたい私は、たまたま雑貨屋さんから出てきた背の高い男の人に声をかけた。

「すみません、宿ってどこにありますか?」

 例え騒がしいとはいえ、夜だ。宿は既に閉まっているか、もう部屋が埋まっているかもしれない。こんな夜中に私みたいな余所者を入れてくれる場所があるとも限らない。

 それでも体を休めたかった私は駄目元で男の人に聞いた。男の人の返答は予想外のものだった。

「宿? この街に宿なんてあるわけないじゃないか!」

「え……?」

 見たところ二十代前半ぐらいの男の人は、まるで当たり前かのようにそう言った。

 冗談でしょ……こんなに発展した街なのに、旅行者を泊めるための宿がないなんて有り得ない……

 今夜も野宿か……と項垂れる私。対して男の人は私の手元の地図を見ると、納得したように手をぽんと叩いた。

「ああ、君は街の外の人なんだね!」

「はい、今着いたんです」

 そう返事をすると男の人は満面の笑みを浮かべ、夜空を仰ぐように両手を大きく広げて高らかな声で言った。


「ようこそ、眠らない街『ナダエンデ・ノックス』へ!」


 眠らない街『ナダエンデ・ノックス』……そうか、この街は前に通りかかった街でいう『ゴールデンタイム』が延々と続いているのか。

 分かりやすく言えば、午後七時ぐらいから時が進まないといったところだろう。

「ああ、だからこんなに活気に溢れてるんですね!」

 周囲を見渡す。先程感じた通りお店の中も活気付いているし、通りにも人が多い。この街に来る途中で太陽が沈んでから五時間は経っているから私は夜中だと思っていたけど、この街は五時間、六時間前からずっと午後七時なのだろう。

「その通り、この街は太陽は昇らないけど、太陽のある国よりみんな元気さ!」

 そう言う男の人は確かに元気。かなりの説得力がある。

 夜、と言えば私は真っ先に恐怖を思い浮かべる。視界が利かない恐怖、いつ誰に襲われるかも分からない恐怖。特に夜中となれば街中は静寂に包まれて、まるで世界に自分一人が取り残されたような気がする、そんな恐怖。

 夜に対してそういった感情を抱いていた私には、夜を楽しむものとしているこの街はとても素敵に感じる……いつもなら。今の私には死活問題だ。

 何日もお風呂に入らず、モンスターを警戒しながら野宿をして、携帯食糧は尽きかけ。そんなフラフラな状態で着いたのに、今夜も公園かどこかで野宿確定か……

「本当に宿ないんですよね……?」

 聞き間違いを期待してもう一度聞いてみたけど、男の人はとてもいい笑顔で「うん!」と即答した。

「ところで君はどこから来たの?」

「……旅を、してるんです。この前に寄った街は階段の街……」

 急斜面に造られ、街中が階段だらけになっている街『ステアー』からこのナダエンデ・ノックスまで徒歩で三泊四日。前の街の人から「ナダエンデ・ノックスに行くのか? 遠いから気張って行けよ!」と激励されてはいたものの、途中モンスターと戦ったのもあって想像以上の疲労感。

 男の人は「遠いところから来たねぇ……!」と感心するように言い、最初のようにまた手をぽんと叩いて、

「それなら、俺の家においでよ!」

 と。

「え、いいんですか!?」

「いいよ、いいよ! 俺どうせ一人暮らしだしね、俺はずっと街に出ているからその間俺の家で休んでいるといいよ!」

 初対面の、得体の知れない旅人にたいしてこの好意。なんていい人なんだろう……!

 感激している私の手を取って、「ほらこっちこっち!」と人懐っこい少年のような笑みを浮かべて引っ張る男の人。かなり強い力で引っ張られながら、私は周りの賑やかな音に負けないくらい大きな声を出した。

「私、ディオスっていいます! ディオス・デ・ラ・ムエルテ!」

「珍しい名前だね! 俺はライル、ライル・ミッターナハト! よろしく!」

 名前だけの自己紹介の後、ライルさんは鼻歌を歌い、時折スキップを交えながら私をライルさん自身の家まで連れていってくれた。


        *


 ライルさんはやっぱりいい人だった。家に着いた途端ぐうっと鳴いた私の腹の虫の声を聞いて、すぐさま手料理を振る舞ってくれた。

 どこの街でも見かけるいたって普通のカルボナーラとサラダだったのだが、これが美味しいのなんの!

 ペロリと平らげてしまうと、それを予測していたかのようにおかわりまで用意してくれた!

 美味しい美味しいと言って食べる私をニコニコしながら見つめているライルさん。人に見られながら食事をするのは落ち着かないけど、それを気にする余裕もないくらい私はお腹が減っている!

 次から次に出てくるご飯を食べ終え、満腹感に満たされる。こんなに美味しいご飯は久しぶりだぁ……!

 ご飯を食べ終えてからはライルさんの質問攻めにあった。正直そろそろ眠りたいのだが、泊めてもらう身でそんな我儘は言えない。

 先程ライルさんはこの街を『眠らない街』と言ったけど、私が訂正しよう。ここは眠らない街じゃなくて『休まない街』だ!

 お互いの名前しか知らないのも何なのでご飯を食べながら改めて簡単な自己紹介をしたのだが、ライルさんの年齢は二十六歳で、街で行われている催し事の運営の仕事をしているらしい。催し事って仕事にするほどしょっちゅう行われるようなものなんだろうか……と思っていたが、街の催事の他、期間限定で公開される演劇や演奏会も『催し事』に入るらしく、わりと忙しいみたいだ。

 初対面では二十代前半ぐらいで私とあまり変わらないくらいだと思っていたのだが、私よりも八つも年上だということに衝撃を受けた。表情と喋り方のおかげでとても若く見える。

 聞かれた内容は主に今までの旅の話だったが、ライルさんはそれを差し置いても私の持っている一振りの刀と二丁の拳銃に興味を示した。

「それ、本物?」

「本物ですよ。抜いてみますか?」

「え、いいの!? 俺、武器持ったことないんだ!」

 銃の方は暴発が怖いので、鞘に収められたままの刀の方をライルさんに差し出した。ライルさんは目をキラキラさせてそれを受け取るが――――ここは私のちょっとした悪戯。

 目を輝かせながら受け取って、ライルさんが刀身を抜いた――――一瞬の間を空けて、

「――――うわぁあああああ!?」

 悲鳴を上げて刀から手を放した。重い音を立てて床に落ちる。

 何が起こったか分からない……そんな呆然とした表情で固まっているライルさん。それを見ていた私といえば……驚かせてやったぞという気持ち半分と、やりすぎたと思う気持ち半分だ。

「な、何これ……」

「この刀、『曰く付き』なんですよ」

「『曰く付き』!?」

 そう、曰く付き――――これはいわゆる『呪い』がかかった刀。本当だったら普通の人間なら触れただけで正気を持っていかれるほど強力らしいのだが、そうならないのは……長い話になるので、またの機会にしておこう。

 とりあえず、曰く付きではあるが触れると「何となく悪寒がする」程度で、特に害はない。私は何ともないが、普通の人は背筋がぞわっとするらしい。

 ライルさんに落とされた刀を拾い上げて鞘に収める私。それを見たライルさんは感心するように言った。

「君はどうともないんだねぇ……」

「慣れてますから」

「事情が事情ですから」なんてことを言うとまた「どんな事情?」なんて質問攻めに遭うと思い、私は誤魔化した――――が、

「え、慣れたってことはそんなに長く使ってるの? いつから? っていうかそんな曰く付きのもの、どこで手に入れたの?」

 ――――勘弁して下さい。


        *


 質問攻めに答えている途中で限界が来て欠伸をすると、やっとライルさんは私が休んでいないことに気が付いた。

「ああ、外の人は『きゅうけい』が必要だったね!」

 休憩って概念もないのか! これじゃ本当に休まない街じゃないか!

 ともあれ、「外の人は……」と異文化に対して理解があるのは凄く助かる。私が昔住んでいた街では異文化に対して排他的で、私が旅に出る時も色々と大変だったから。

 その後、ライルさんは数日間お風呂に入っていなかった私にシャワーまで貸してくれた。この街のシャワーは、蛇口を捻れば水が出るという、かなり発展した技術が用いられていた。ナダエンデ・ノックス以外の街では魔法水晶を使って水を出したり、魔法が発達していない地域では水を汲んできて体を拭くだけに留まっていたりする。ちなみに私の出身地は後者だ。

 油っぽくなり始めていた藍色の短い髪を洗い、体中の汗も流し、さっぱりして上がると、眠るためのソファまで貸してくれた。眠らない街なので、眠るためのベッドはどこの家に行っても置いていないらしい。もちろん毛布もないのだが、すっかり野宿に慣れた私は上着一枚被るだけで眠れる程度には感覚が図太くなっている。

 お礼を言って早速ソファに寝転がる……が、

「ライルさん、まだ何か……?」

 寝ようとする私の顔をじーっと覗き込んでくるライルさん。視線が怖い……

「あ、寝てていいよ。俺達、ナダエンデ・ノックスの住民は寝ないからね、外の人が寝ている様子が気になってさ! 見てるだけで邪魔しないから、寝てていいよ!」

 寝られるか!

 と言おうにも私はあくまで宿を貸してもらっている身、しかもこの人には悪意がないからぴしゃりと跳ね除けることもできない。

「…………」

「…………」

 しばらく見つめ合ったままの沈黙……先に根負けしたのは私の方で、諦めて頭から上着を被って顔が見られないようにした。

 息が苦しいけど、睡眠時間確保のためだ。しょうがあるまい。

 だが苦しいと感じたのは一瞬のこと。気力だけで起きていた私の意識は一瞬ですとんと闇の中に落ちていった。


        *


 どれほど時間が経っただろうか。夢も見ないほど深く眠り込んでいた私の意識がゆっくりと浮上した。

 もうちょっと寝たい気分もあったが、それよりも暑い。まだライルさんに観察されてるかな……と思いながら顔を出したけど、さすがにもういなかった。

 もぞもぞとソファから這い出す。電気はつきっぱなしだが家の中に人の気配はない。どうやら出掛けているようだ。

 テーブルの上にメモ書きが一枚。私がご飯を食べている時にはなかったから、おそらくライルさんが書いて置いていったものだろう。

『出掛けてきます。部屋の中は自由に使って下さい。暇だったら遊びに出掛けて大丈夫です。合鍵も置いておきます  ライル』

 さっきまでのテンションの高さを感じさせない、落ち着いた、綺麗な字。

 ……それにしても、今日初めてあった見ず知らずの相手に合鍵を渡してしまって大丈夫か。見る限りお調子者だったけどこれは危機感がなさすぎるだろう。

「……気になる」

 ライルさんが今どこで何をしているのか。そしてライルさん以外の人も果たしてあの調子なのだろうか。

 普通に考えればそうは思えない――――が、ここは私が住んでいた世界とはまるで常識が違う。

 知りたい。私が知らない世界を、私が知らない人達を。

 外に出よう。まだ少し眠いけど、ライルさんの美味しいご飯を食べたから頑張れる。

 行き違いになっても困るので、私もテーブルにメモを置いた。

『しばらく出掛けます。合鍵借ります。後で返します  ディオス』

 特に書くこともなくて、素っ気ない文章。……ついでに言うと、字も汚い。あの頭の中お花畑にしか見えないライルさんに負けたのが、なかなかに悔しかった。


        *


 旅を始めてから二年が経ったけど、私はまだこの世界の一割も見れていないと思う。

 この広大な世界で、人間が住んでいるのは点在している『街』の中だ。街同士は隣接せず、広い草原や荒野、砂漠の中にぽつぽつと存在している。近い街同士で交流を持ったり、私のような旅人が色々な街をうろうろしていたりもするけど、基本的にはその街独自の法律や文化があり、それに関して他の街から干渉することはない。そういう地理や歴史のため、街ごとに全く異なる文化が育まれていった。

 そんな街ごとの文化を見て感じて、そしてその街で暮らす人々と話すのが楽しくて、私は故郷にも戻らず旅をしている。

 これまでに色んな街を見た。階段の街『ステアー』の他にも、ぬいぐるみが喋る街や、建物がゴムで出来ている街にも行った。虹の上に建っている街は絶景で、正直また旅に出るのが寂しくなったくらいだ。

 街だけじゃない。(ひと)()がない海岸では人魚に会えたし、火の精霊と仲良くなった時には水の中でだけ燃え続け、水から出すと消えてしまう不思議な炎を見せてもらった。古い遺跡の中で、彫刻に擬態していた石のモンスターと戦ったこともある。

 今挙げた例はほんの一部。実際はもっと沢山の街を回ったし、もっと沢山の人々やモンスターと出会っている。しかしこれだけ回ってもまだ世界の一割に満たない。私が今持っている地図だって、私が次に寄る予定の動物の街より遠くの街はまだ描かれていない。

 いつか世界の全てを回ること。その後のことはまだ考えていないが、しばらくの間はそれが私の目標だ。


        *


「ライルさん以外の人も果たしてあの調子なのだろうか」。その疑問はわりと早く晴れた。

 刀の整備のため武器屋を探したが街中の地図には載っていなかった。一般人に武器屋の場所を聞くのは気が引けるのだが、やむを得ない。そう思って近くの百貨店に入って店員の女の子に道を聞いたのだが、

「街の外から来た方ですか? 残念ですが、この街に武器屋はありませんよ」

「……そうですか」

 がっくり。観念して観光に切り替えようかなぁ……と思ったところで、じーっと見上げてくる店員さんのキラキラした視線に気付いた。

「あ、あの……何か……?」

 自分で言うのも何だが、私は顔立ちは悪くないと思う。だが今は旅の疲れが抜け切っていないため、そう見惚れられる顔はしていないはずだ。

 戸惑っている私に対して、店員さんは前のめりになって話しかけてくる。

「あの、この後お時間はありますか!?」

「は、はぁ……?」

「私、街の外の人と会うの初めてなんです! 良かったらお話聞かせていただけませんか!?」

 ――――まんまライルさんだこの人!

 数時間前の光景が思い出される。何だこのコピーは。

 私からしたら腰に刀と銃をぶら下げて、目の下に隈を作った女なんて不審者でしかないんだが。というか見ず知らずの旅人にここまで詰め寄れるこの子の方が私からしたら不審者だ。

「今すぐにバイト上がらせてもらうので、この後一緒にお茶でも――――」

「すみません、待ち合わせがあるので!」

 話を遮ってさっさと退散した。わりと可愛い雑貨がたくさんあったからじっくり見たかったんだけど、さすがに気力がもたない!

「また来て下さいねー!」と背中に声がかけられたが、私は引き攣った笑みしか返すことができなかった。


        *


 あの女の子から逃げ切って、気が付いたら街の端まで来ていた。私が入ってきた場所とは反対側の街の出入り口。

 私が前に寄ったのは階段の街。ここから出れば……私の記憶が正しければ、動物の街『アニマーリア』に着くはずだ。途中にまたモンスターの生息域を挟むけど。

 ライルさんの家に武器と財布以外の荷物置いて来てるし、さすがにお別れも言わずにさっさと進むつもりはない。せめてもう一度ライルさんの手料理を味わってからだ。

 そんな身勝手なことを考えながら踵を返し、街に戻る。どこもかしこも人が多くて、すれ違う人の多くが興味深そうに振り返る。

 武器屋もない街で、刀をぶら下げて歩く女。明らかに街の人間じゃない。それにこの街の人からしたら街の外から来た人間は相当珍しいらしい。

 居心地悪い、と若干は思うがライルさんの家に戻る気にはならない。

 面白いんだ、この街。

 広場に行けば噴水の前で大道芸を披露している団体がいた。足の疲れも忘れて見惚れていると、体感時間で一時間は過ぎていた(この街には時間の概念がないようなのであくまで感覚だ)。

 大道芸が終わると道具が片付けられて、今度は大きな楽器がいくつも並んだ。そして並べ終わったかと思うと、すぐに次の団体が演奏会を始めた。これも聞き惚れているといつの間にか一時間過ぎていたので、さすがに終わりがなくなってしまうと思い、演奏が終わってからは即座に退散することにした。


 広場を去ってしばらく歩くと学校があった。赤い煉瓦で出来ている小さな学校。

 この街には学校があるのか……他の街にも無いわけではないけど、どちらかというと学校がある街の方が少ない。少なくとも私の出身地にはなかった。

 ナダエンデ・ノックスの学校はどうなのか知らないけど、他の街では総合的な勉強よりもその土地で生きていくための専門知識しか教えないところもある。一年ほど前に寄った港町では漁業に関する授業しかないって話も聞いた。

 そんなことを考えながら前を通り過ぎると、すぐ後ろを学校から飛び出してきた子供達が駆け抜けていった。子供は嫌いではないが、見つからないうちにさっさと退散することにした。見つかってしまったら、きっとさっきのお店の女の子みたいに話を聞かせてくれとせがまれるに違いないと勝手に判断した。


 次に寄った雑貨屋ではどうしても目に付いた香水が欲しくなって、一日分のご飯がなくなるのを覚悟で一つ買わせてもらった。

 香りが良かったという理由もある。店員さんにおすすめされて断り切れなかったという理由もある。……しかし一番の理由は、旅のせいで数日お風呂に入れないなんてこともザラなため、その臭い消しのためだ。自分でも女の子らしいんだからしくないんだか分からない。

 精算も終わって、お店を出ようと出口へと向かう。――――その時、私の目の前で香水が一つ、棚から転げ落ちた。

「!?」

 驚いて思わず硬直してしまう。

 棚から落ちた香水は、既にガラスの破片と透明な液体に変わっていた。香水が落ちた場所から強い薔薇の香りが漂ってくる。

「……もしかして私、ぶつかっちゃった……?」

 近くにいたお姉さんの表情が強張るが、違う。私は確かに見ていた。

 誰も香水に触ってない。それどころか、香水が置いてある棚にすら誰も触れていない。

「お姉さんじゃないですよ」と声を掛けようと思ったけど、それよりも早く男性の店員さんがすっ飛んできた。

「ああ、大丈夫ですよ!」

「でも、弁償……」

「大丈夫です、気にしないで下さい!」

 不安がっているお姉さんに店員さんがニコニコと笑いながら対応している。

 お姉さんがやったわけではない、が、お姉さんも含め周りの人は彼女がぶつかったと思っているだろう。しかし誰もそれを責めはしない。

 どうしてこの街はこんなにいい人なんだろう……と感動しつつ、香水がまるで見えない糸で引かれたように自然に落ちたあの映像を脳内で繰り返して、私は首を捻った。


        *


 何となくモヤモヤした気持ちを抱えながらお店を出る。

 さぁ、次はどこへ行こうか。どこへ行っても楽しいからどこへ行ってもいいんだけど。

 ――――そういえば、ライルさんはどこに行ったんだろう。

 体感時間にして二時間は歩いているが会わない。大きな街だからというのもあるが、ライルさんそんなに遠出してるんだろうか……

 ……あの人ならやりそうだ。

 そういえばライルさん、二十六歳だって言ってたけど、二十六年間ずっとこの街で育ってきたんだろうか? 異文化に対して理解があったし、階段の街と聞いて『遠い所』と分かっている辺り、街から出た経験はあるようだが……

 そう考えていると、徐々にライルさんのことが気になってきた。決して恋したとかそういう意味ではなくて、今何してるのかな、とか。

 もしかしたらまだライルさんは帰ってないかもしれないけど、一旦戻って休ませてもらおうかなぁ。

 ……と、踵を返してから気付いた点が一つ。

「……ここ、どこ?」


        *


 完全に迷子になってしまい、若干涙目になりつつ街を徘徊していた時だ――――一つの屋敷の前に集まっている集団を見つけたのは。

 ざわざわと不安そうな声で騒いでいて、更にその集団の中で「近付かないで! 危ないから下がって!」と呼びかけている人が二、三人ほどみられる。おそらくこの屋敷で何らかの事故だか事件だかが起こって、この集団は野次馬、近寄らないよう呼びかけているのは制服からして警備員さん、といったところか。

「……何かあったんですか?」

 好奇心に負けて野次馬の中の一人に話しかけた。これで私も野次馬の仲間入りだ。

 私が話しかけたおばさんは私の腰元の刀を見て「ああ、噂の旅人さんかい」と言った。もう噂になってるのか……

「何でもね、この家にも幽霊が出たっていうのさ」

「……この家にも? 幽霊?」

 幽霊、と聞くとやはり良い印象は持たない。それにこの屋敷だけではなく、他の家にも幽霊が出たというニュアンスを含んだ言葉だ。

 あいにく私には霊感がないので本物にはまだお目にかかったことはない。しかしどこかに幽霊だけが暮らす街がある、なんて噂も聞いたのでいつかは行ってみたいなぁ……と思っていたのだが、まさかここで幽霊の話を聞くとは。

「悪霊なんですか?」

「さぁねぇ……まぁ良い霊だったとしても、自分の家に知らない人がいたら気味が悪いわよねぇ」

 はぁー、と溜息をつくご婦人。

「自分の家に知らない人がいたら」……とご婦人は言ったが、ライルさんは私を招いて平気だったんだろうか。どうせならここの幽霊もライルさんの家に出てたらこんなに騒がれなかったかもしれないのに。

「それにしても、大きいお屋敷ですね」

 人ごみの間から三階建ての屋敷を覗き見る。ライルさんが暮らしていたアパートの三倍はあるだろうか……馬車が横に三台並んでも走り抜けられそうなほど大きな門は、現在は警備員さん達によって閉じられている。芝生が敷かれた庭は高さ二メートルほどの石の塀で囲まれている。

「ここは領主さんのお屋敷なのよ」

「領主さんの?」

 道理で大きいはずだ。この街で一番偉い人の家なんだから。

 だからこんなに大騒ぎされてるんだね……野次馬さん達もどこか不安げだし、警備員さん達も雰囲気がピリピリしている……

 それにしても集まっている人達も混乱していて、これ以上の情報は得られそうにない。

 折角だから幽霊にもぜひ一度会ってみたかったなぁ……なんて領主さんに聞かれたら怒られそうなことを考えながら踵を返して野次馬から抜けた。

 そういえば道に迷っている最中だった。これからまた歩いてライルさんの家を探し出さなければならない。

 ……そうして、また歩き出そうとした時だった。

「あれ……?」

 ふと視線を向けたその先に、見覚えのある姿が見えた。

 後ろ姿だったから顔は見えなかったけど、あの服装や体格、短く切られた茶色い髪……間違いない。

「――――ライルさん!」

 声を上げたけどライルさんとの距離があったこと、そしてすぐに彼が角を曲がってしまったことで聞こえなかった様子。それでも私は疲れた足を酷使して後を追った。

 追って角を曲がったところにいたのは間違いなくライルさんだった。しかしまだ私には気付いておらず、何か考え込んでいる表情でじっと町長さんのお屋敷を見つめている。

「ライルさん!」

「!」

 声をかけるとライルさんがびくっと反応した。相当驚いた様子だ。

「び、びっくりした……ディオスかぁ……」

 心臓が飛び出るかと思った、と言うライルさん。

 ……怪しい。野次馬を素通りしてわざわざ脇道に入って……人通りが全くない狭い道に立ち、自分の背よりも高い塀の向こうの屋敷を覗いていたライルさん。

 絶対怪しい!

「何してたんですか?」

 私は何も気付いてない、という(てい)を装ってそう尋ねる……が、ライルさんは声をかけてきたのが私だと気付いた点で警戒心を解いたようで、「ちょっとね」と言いながら改めて領主さんのお屋敷を見上げる。

「幽霊の話は聞いた?」

「最近街のあちこちで見かけられてるっていうやつですか? ここが領主さんの家で、今この中に幽霊がいる……っていうことだけ、正門の前にいた人に聞きました」

「うん、俺もそう聞いた」

 ライルさんもどうやらほとんど状況を把握できていないらしい。

 だが――――ほとんど状況が分かってない中で、この人は。


「だったら、俺が幽霊問題解決してやれば、みんな安心できるんじゃない?」

 と――――そう言いながらその場でジャンプして塀の上部にしがみつき、そのまま塀を乗り越え始めた。


「ちょ……何してるんですか!」

 慌てて止めるがライルさんは諦めない。塀の上に登って一息ついてから、私の方を振り向いた。先程ライルさんの家でお喋りしていた時と同じ、好奇心に満ちた表情をしていた。

「何って、これから現場見に行くんだよ」

「そうじゃなくて、幽霊と喧嘩する手段はおろか情報すらない状態でどうやって! それに勝手に入っちゃ駄目でしょ、入るなって言われてたのに! 不法侵入ですよ!」

「えっ?」

 不法侵入、という言葉にぽかんとされてしまった。何かおかしいこと言ったか……?

「領主の家は誰でも出入り自由だよ?」

「ウソッ!?」

「マジ。昔から領主の家は一般に開放されてる。今は幽霊のせいで入っちゃ駄目って言われてるだけだから、その幽霊の問題だけ解決しちゃえば何も問題ないよ」

 そうだったのか。こんな豪邸なかなか入れるものじゃないし、それは是非できる限り隅々まで歩いてみたい……

「……って、そういう問題じゃなくて!」

 ほんの一瞬考え込んだだけなのに、ライルさんの姿は既に塀の向こうに消えていた。

 あの人、自分が聞きたい話以外は全然聞こうとしないなぁ……!

「……ああ、もう!」

 本当なら表に回って警備員さんに知らせるべきだろう。しかしご飯を御馳走になってシャワーと寝床まで貸してもらった身としては、できればライルさんが犯罪者になってしまう前に止めたい。警備員さんに見つかる前に私が見つけて首根っこ掴んで引きずり戻せば一応、グレーに……ならないが、観念して後を追うことに決めた。

 これで私も見つかって捕まったら、その時は甘んじて罰を受けよう。ライルさんがいなかったら飢え死にしていた身だ、その程度屁でもない。

 どうか、何事もありませんように――――そう祈りながらその場で反動をつけてジャンプして塀の上部に片手を引っかける。そのまま力を入れて自分の体を引き上げ、塀の上に足をつけた。

 正門からだと丁度庭の倉庫の陰になっているようで、向こうからこちらは見えていない。もしかしたらライルさん、このことが分かっていて忍び込むのにこの場所を選んだのだろうか?

 当のライルさんは……塀の上から見回した時、ちょうど屋敷の窓を開けて乗り込んでいくところだった。

 はぁー、と深く溜息。ここから大声で呼び止めようとしたら間違いなく表にまで聞こえてしまうので、私も諦めてライルさんの後を追うために塀から飛び降りた。


        *


「――――ライルさん、もう帰りましょうって!」

 あの後私はライルさんを追って同じ窓から侵入し、すぐに彼を見つけた……が、私の制止にはほとんど耳を貸さず、ずんずんと屋敷の廊下を進んでいく。出会った時みたいな無邪気な笑顔で「大丈夫大丈夫!」と言いながら。

 屋敷の中の人達は全員外に出ているらしく、廊下の明かりは消されていて真っ暗だった。少しだけ外から月の光が差し込んでいて、徐々に目が慣れていったおかげで今は問題なく歩けているが。

「何が大丈夫なんですか、いつもは出入り自由でも今は立ち入り禁止でしょ! それにもし警備員さんに見つからなかったとしても、どうやって幽霊退治するんです!? ライルさん除霊でもできるんですか!?」

 デメリットを並べて捲し立てるがライルさんは呑気な態度を崩さない。「何とかなるよー」の繰り返し。

「もし何かあったら、俺がディオスのこと守ってあげるしさ! ほら、俺だってこう見えて男だし!」

 ああ、もう駄目だこの人……

「……ライルさん」

 そう呼んだ私の声は自分でもびっくりするほど低かった。迫力を込めて呟いた一声に、先程までは振り返りもしなかったライルさんがぎくりと体を硬直させる。が、私は構わず数歩歩み寄ってライルさんの服の襟をつかんだ。

 手加減なしに引っ張ると「ぐえっ!」と潰れた声を出して尻餅をつく。

「帰りますよ!」

「ちょ、ちょっと待って、ディオス、苦しい……」

 恩人にこんな乱暴な真似をするのは申し訳ないが、もし警備員さんに見つかって牢屋にでもぶち込まれたらもっと苦しい目に遭うんだから理解してほしい。そう、これは恩人を救うために必要なことだ。私は悪くない。

 なおも抵抗するライルさんを無視し、そのままずるずると廊下を引きずっていく。

 私の腕力にも勝てないくせに、よくそれで「俺が守ってあげるから」なんて言えたものだ。

 とは言っても「い、息が……」と呻き声を上げ始めたので「自分の足で歩いて帰るなら離してやりますよ」と言おうとした時、


「!?」

「うわあっ!?」


 がたん! と重い物が床に落ちる音。ライルさんが声を出して驚き、私は反射的に音の方向へ体を向け直した。

 音のした方向は、私達が歩いていた廊下の右側の壁……そこに掛けられていたはずの絵画が、壁から外れて床に落ちている。

 驚いて思わず手を離してしまった。解放されたライルさんが涙目になりながら立ち上がる。

「びっくりしたなぁ……」

 私に引きずられたことについては文句一つ言わず、音の正体が絵画だと分かって胸を撫で下ろしているライルさん。……しかし。

「……ディオス?」

 嫌な予感がして、警戒しつつ落ちた絵画に近付いた。

 膝をついて裏返しに落ちている絵画を拾い上げる。どこかの夜景の絵だ。

「ディオス、どうしたの?」

 ライルさんが背後から覗き込んでくる。私は振り返ることなく、ライルさんに告げた。

「……おかしいですよ」

「え?」

「この絵、上の方に埃が積もってます」

 絵画の縁の上部にはぱっと見ただけで分かるほどの埃が積もっていた。大きなお屋敷なのに使用人はいないのだろうか、それとも大きいお屋敷だから手が行き届いていないのだろうか。

 とにかく――――

「埃が積もるほど長い間飾られてた絵が、急に落ちることってあります? それだけ頑丈に設置されてたってことでしょう? ……ほら、これ」

 絵画の他にも床に落ちているものが幾つかあった。そのうちの一つを拾ってライルさんに見せる。

 床に落ちていた四本の釘のうちの一本だ。これも錆びている。長い間飾られていた証拠だ。

 立ち上がって絵画が掛けられていた壁を調べると、釘を打っていた痕があった。適当に打たれたのではないというのは、壁に深く傷を残していることから分かる。

「これ、人の手でもそう簡単に外れませんよ」

「じゃあ、どうして……?」

 ライルさんの表情が不安で曇る。

 もしかして……幽霊の噂は本当で、これは幽霊の仕業なんじゃ……

 ライルさんにつられて私も若干の不安を覚える。私達の目の前で絵画が落ちたということは、私達の隣には見えていないだけで今も幽霊が立っているということになるからだ。

 どうしようか、と考えながら抱えていた絵画を壁に立てかける。

 そしてライルさんに「やっぱり帰りましょう」と再三、呼びかけようとした時――――頭上から一瞬、光が射して。

「危ないッ!」

「!」

 反射的に身を翻し、背後に立っていたライルさんに思いっきり体当たりをする。咄嗟のことでライルさんは声も出ず、


 今まで私達がいたその空間を、天井から落ちてきたシャンデリアが直撃した。


 凄まじい音を立ててガラスが飛び散る。細かいガラス片が床に倒れ込んだ私達の上に降り注いだ。

「な……」

 絶句するライルさん。でもいつまでも呆けてなんていられない。

「怪我は!?」

「あっ……だ、大丈夫! ありがとう!」

 立ち上がって服についたガラス片を振り落とす。幸い、二人とも怪我はないようだった。

「今のは……?」

 ライルさんが呟く。私はそれに答えることなく、無言のまま辺りを見回した。

 壁から外れた絵画と、私達の脳天目掛けて落ちてきたシャンデリア……この二つ以外に変わった様子はない。廊下の様子も、窓の外の様子も妙なところは見当たらない。

 ……だが、そう思ったのもつかの間。今度は突然、落ちてきた物以外のシャンデリアに明かりが灯った。

「これは……」

 戸惑って天井を見上げる。しかし明かりが灯ったのは一瞬のことで、数秒経つとまた消える……と思えば、また光が点く。何度もそれを繰り返す。

「ねぇ、ディオス……噂、本当だったんだね……」

「自分から不法侵入しといて、信じてなかったんですか……」

 今更そんなことを言われても……と呆れた私の表情を、ライルさんは困っているように勘違いしてしまったらしい。眉の端を下げて「巻き込んでごめんね」と素直に謝られ、ちょっと拍子抜けしてしまった。どんな罵倒の言葉をかけてやろうかと考えていたところだったから。

「……もういいですよ。乗りかかった船ですし」

 ああ、これでもう私も共犯だ。大人しくライルさんと一緒に不法侵入の罰を受けよう。

 ただ……人の真上にシャンデリアを落とすなんて悪意に満ちた行動をするような悪者を、このまま野放しにもしておけない。ライルさんや街の人々との会話から察するに、こういった非常事態を解決する能力を持った人はこの街にはいないようだから。

 姿も見えない相手に、私が立ち向かえるかどうかも分からないけど……

「……向こうも、もうやる気満々みたいですしね」

 そう呟いて、視線を廊下の先へ戻した。

 シャンデリアの点滅は治まらない。それに加えて、外は風も吹いていないのに窓ガラスがガタガタと震え始め、廊下に面している部屋の扉が独りでに次々と開き始めた。

 そういった現象が、しばらくの間続いて――――突然、壁に備え付けられていたランプがこちらへ目掛けて飛んできた。

「……このッ!」

 ――――ナメるな!

 内心悪態をついた後、唸りを上げて私の蹴りが飛んだ。飛んできたランプに真っ向からぶつかり、ランプの方が粉々に蹴り砕かれて破片が飛び散る。

「ディ……ディオス、大丈夫!?」

「何ともありません! それよりもライルさん、自分の身は自分で守って下さいね!」

 厚い革で出来たブーツを履いているので足へのダメージはほとんどない。

 この非常事態が、街の中を歩き回ったせいで蓄積していた疲れを忘れさせた。少なくとも飛んでくる物による物理攻撃で傷を負うようなヘマをするつもりはない――――だが、それはライルさんの存在を抜きにして考えた場合。

 反撃は期待していないけど、逃げるか避けるかは自分でやってほしい。

 それにしても……よりによってとんでもないところに憑いてくれたものだ。

 廊下には博物館にでも飾られてそうな物品がずらり。先程の絵画に始まり、頭上のシャンデリア、壁には絵画や陶器のお皿……そして剣を携えた鎧まで。どれも直撃したら大怪我は免れない。

 外に逃げるか――――いや、もし敵の力が野外にまで届くのなら、外で野次馬をしている人々にまで被害が及びかねない。

 ならば――――

「ライルさん、そこの部屋の中に!」

「わ、分かった!」

 勘だった。複数ある部屋のうち、どの部屋が安全なのか分からない。それでも賭けに出るしかなかった。

 一番近い部屋にライルさんが飛び込み、私はまた飛んできた皿を蹴り返してからライルさんの後を追った。

「閉めて!」

 叫び、ライルさんと共にタイミングを合わせて勢いよくドアを閉める。また敵の能力でドアが部屋の内側に向かって開きそうになり、反射的にドアに拳を叩きつけてそれを押し返した。

 鈍い音が部屋の中に反響し――――しかし、再三強い衝撃と共にドアに強い力がかかる。

「お、俺も手伝う!」

 半ば戸惑った声と共にライルさんの加勢が入った。二人ならドアを抑えるのも余裕だ。一人とは随分違う。

 向こう側から何度も何度も、蹴り飛ばすような衝撃。ドアに肩をつけて全体重をかけて抑えているが、いつまでもつか――――相手が飽きるのが先か、私達のスタミナが切れるのが先か。

「――――出てこい、卑怯者!」

 全くそんなつもりはなかったのだが……焦りからか。無意識のうちに私の口から相手を挑発する言葉が飛び出していた。

 相手の姿も確認していないうちからこれはマズい。そう思ったのだが、激情が勝手に口を動かしていた。

「何が幽霊だ、何が心霊現象だ! 確かに私は幽霊なんて見えないし魔学もからっきしだけど、心霊現象と魔法の違いぐらいは見れば分かるんだ!」

「――――え!?」

 隣でライルさんの驚いた声がした。それに応えるついでに、私は更に声を張り上げる。

「実体のない幽霊が、壁に打ち付けられてる釘を外せるか! シャンデリアなんて質量のあるもん落とせるか! 沢山の人怯えさせて自分は姿隠したままの臆病者! 弱虫!」

 そう、叫んだ時――――ドアにかかる衝撃が、やんだ。

「……止まった?」

 ライルさんがドアから離れる。

 二人分の体重をかけてやっと抑えられていたドアだが、二人とも体を離してもうんともすんとも言わなくなった。それどころか、先程まで物が飛び交っていて騒がしかった部屋の外もしんと静まり返っている。

 ……何が起こった? 挑発されて逆に冷静になったのか、正体がバレて焦っているのか……

「――――な、何!?」

 突然、ライルさんが悲鳴を上げた。敵に襲われたのか、そう思ってライルさんの方を振り向くが、私達の他に誰もいない。ライルさんにも怪我一つない。

「い、今、足元で何か動いたような……ゴキブリかな……?」

 足元を警戒する私達。ゴキブリ程度を相手にしている場合ではないのだが、もしかしたら何らかの敵の魔法かもしれない。

 そして、その警戒は無駄ではなかった。

「ッ!」

 嫌な予感がして反射的にその場から飛び退くのと同時、私の頭があった位置に一本のナイフが突き刺さった。

「……相変わらず正体が見えないけど、一体どこに隠れているのやら?」

 部屋の外の騒がしさは治まった。代わりに部屋の中の殺気が増した。

 先程は焦りのあまり、ろくに確認もせず目の前にあった部屋の中に飛び込んでしまったのだが……どうやら厨房であった様子。部屋の中の棚や引き出しが独りでに開いて、魔法で操られた包丁やナイフが宙に浮かび上がる。

 切っ先を私に向けて。

「ディオス……」

「大丈夫です、狙いは私です」

 明らかな敵意を向けられて怯えるライルさんを安心させようと私は言った。事実、刃物は全て私を狙っている。隣に立っているライルさんではなく。

 大小様々な刃物がざっと二十本ほど。……刀一本で何とかなるだろうか。

「……そうじゃなくて!」

 狙いは私、と聞いたライルさんが声を荒げた。

 分かってる。ライルさんは自分が狙われたから怯えたんじゃない、「自分達」が狙われたから怯えていたんだ。

 けど、ライルさんにも分かってほしい。私達二人が狙われるよりも、ライルさん一人に狙いが集中するよりも、私一人が狙われていた方が対処が楽だということを。

「大丈夫です、任せて下さい」

 自信満々に言って、腰の鞘から刀を抜いた。

 普通の刀とは違う、真っ黒な刀身が点滅する照明の下に姿を現した。

 相手の手数が多いから無傷は無理かもしれないけど、多少の怪我は慣れている。むしろ怪我をすることよりも、その怪我の治療費を払えるかどうかが私の中では問題だ。

 下手に動くこともできず立っているライルさんを横目に、両手でしっかりと刀の柄を握って、体の正面に構える。深呼吸して気持ちを落ち着かせ、まばたきもせず目の前に並ぶ刃物を見据える。

 数秒間の沈黙――――その後に動いたのはあちら側。無数の刃物の中から比較的細くて小さなナイフが三本、私目掛けて飛んできた。

 速い――――しかし刀を右から左へ一閃すると同時に、ナイフが三本とも弾かれて厨房の床に叩きつけられた。

 動体視力が追いつかなくても、向かってくる方向が分かっていればその空間を斬ればいいだけの話だ。そうすれば後は自動的に私の相棒の刀が私を守ってくれる。

 次は正面斜め上から一本、右斜め前から一本。正面からきた果物ナイフを(はん)()で避け、右からきた包丁は先程と同じように刀で叩き落とした。

「すっげぇ……」

 横で呆然と突っ立っていたライルさんが驚嘆の声を上げる。

 褒められるのは嬉しい。しかしこの非常事態なのだから、今は黙っておいてほしいというのが本音。

 そして、次は――――残りの十五本、同時!

「伏せて!」

 ライルさんに向かって叫び、私は刀から手を離し……腰のベルトに備えつけられていた二丁の拳銃を両手で抜いて、乱射!

 手放した刀が床に落ちる音と、連続する銃声が重なった。激しい破裂音と共に発射された銃弾が、向かってきた刃物を次々と打ち落としていく。

 しかしそれでも全てを防ぐには至らない。銃弾の届かなかった一本のナイフが私の顔目掛けて飛んできて、ギリギリのタイミングでそれを庇った右腕に激痛が走った。

 明らかに刺された痛み。幸い骨までは達していないようだが、まだ相手の姿が見えていない状態でこの大怪我はまずい!

 敵の猛撃が止んだ一瞬を見計らって左手の拳銃をベルトに戻し、腕に刺さっていたナイフを引き抜いた。傷口に火が点いたように熱くなり、みるみるうちに服が血で赤黒く染まっていく。

 利き腕じゃないぶんまだマシだったけど、出血がひどい。

 後から考えれば、この時点で撤退しても全く構わなかったと思う。しかし自分の腕に自信を持っていた私のプライドがそれを許さなかっただけ。

 ここまで来ても姿を見せない臆病者に背を向けて逃げたら、私の方が臆病者みたいじゃないか!

「ったく、埒が明かないんだから……」

 右手の拳銃もベルトに戻すのと同時に、床に落ちていた刃物が再び宙に浮かび上がり、私に切っ先を向けてくる。

 先程と丸っきり同じ状況。まったく、全部へし折らないと終わらないっていうのか――――

「ディオス伏せて!」

「!」

 そこでライルさんの叫び声が響いた。驚き、構えを崩さないまま視線だけを声の方向へ向けると、そこには室内に設置されていた消火器を床に投げ捨てるライルさんの姿が。

「ライルさん……!?」

「早く!」

 私を急かして、ライルさんは消火器の傍に膝を付く。……その手には、一本のナイフが。

 そこでライルさんの目的を悟った私は急いで刀を拾い上げ、膝を折って棚の陰に身を隠した。

 次の瞬間、大きな破裂音と共に真っ白い煙が視界を覆った。見えはしなかったが、ライルさんがナイフで消火器に傷を付けて破裂させた様子。

 危ないことするなぁ……! と思いながらも視界が悪くて身動きが取れない――――そんな状態でいきなり左腕を掴まれて、驚きで悲鳴を上げそうになった。

 驚いて顔を向けた先には、いつの間にか近寄ってきていたライルさんが。

 文句を言ってやろうと口を開きかけたが、ライルさんは人差し指を立てて自分の唇に押し当てた。「静かに」という合図だ。

 掴まれた腕を強く引かれて、ライルさんの背後にあった机の下に押し込まれた。狭い空間にライルさんも一緒に身を潜り込ませてきて窮屈だ。

 机の下に身を隠したのとほぼ同時に煙が晴れ始める。

「……………」

 沈黙。私もライルさんも一切口を開くことなく、呼吸すらも最低限にして気配を忍ばせる。


 ……その状態で、数分経っただろうか。

 机の下に隠れていた私達の前を、二本の人の足が通りかかった。

「……!」

 人……と言えるのかどうかは、分からなかった。足音もなく現れたそれは、絵の具で塗ったような真っ黒な足をしていた。

 黒い服とか黒い肌とか、そういう次元のものじゃない。真っ暗闇を切り取って擬人化したような、人の形をした黒い色そのものだった。

 これは果たして人間なのか……おそらく敵の正体であろう、初めて見る生き物に絶句していると、一緒に隠れていたライルさんに肩を指先でつつかれた。

 薄暗い中、ライルさんのブラウンの瞳と目が合う。とても真剣な表情で敵の方を指差した。

 その表情とジェスチャーが意図することを理解して、私は頷く。

 今しかない。奴を捕まえるなら、姿を現している今しかない。

 机の前で部屋の中を見回していた敵が、机の下を覗き込もうと屈み込む――――その瞬間ライルさんが動き、私もライルさんに合わせて敵に向かって全力の体当たりを叩き込んだ。

「っ!」

 呻き声もなく三人もんどりうって倒れる。不意を突かれた敵が慌てて立ち上がろうとするが、私の方がそれよりも早く足払いして再び転倒させ、うつぶせに床に叩きつけた。そのまま手首を掴んで捻り、刀を敵の首筋に突き付ける。

「動くなッ!」

「……………」

 脅しが効いたのか、敵は動きを止めて沈黙した。

 状況が落ち着き、改めて捕まえた獲物の姿を確認する。体の形は私達人間と同じで、四本の手足と胴体と頭。但し体中、先程見た足と同じく真っ黒な闇色。のっぺらぼうで、髪の毛も生えていない。身長は私よりも頭一つ分小さかった。

 明らかに普通の人間とは思えない。見た目もそうだけど……何よりも感触。掴んでいる手首からは体温を感じられない。かといって冷たいわけでもない。

 掴んでいる感触がしないのだ。まるでパントマイムでもしているかのように私の手には空気を掴んでいる感触しかなく、でも視覚では敵の手を掴んでいるのが見えている。そんな変な感覚だ。

「聞きたいことは色々あるけど、質問に答える気はある?」

 手首を掴んでいる手に微かに力を込めると、敵は一瞬びくりと体を震わせた。

 やっぱり臆病者だ、こいつ。

「……君さ」

 と、そこでライルさんから声がかかった。敵は顔をライルさんの方へ向ける。まだ体の震えは止まっていない。

「……君、『オンブラ』の人だよね? どうしてこの街に来たの?」

「……オンブラ?」

 聞いたことのない名前。ライルさんの台詞から考えるに、どこかの街の名前だろうか?

 ライルさんに尋ねられた敵は一瞬、体の震えを止まらせる……そして。

「!?」

 突然、横合いから衝撃を受けて私の体が吹き飛んだ。まるで闘牛に突進されたかのような強さだった。

「ディオス!?」と焦るライルさんの声が聞こえたが、視界が反転していてどこから聞こえてきたのかも分からなかった。気が付いた時には背中から窓ガラスに突っ込み、そのまま窓を破って庭にまで吹き飛ばされていた。

 額から頬にかけて生暖かい液体の感触がした。どうやらガラスで額を切ってしまったらしい。同時に衝撃で口の中も切れたらしく、血の味が広がっていく。

 整えられた芝生の上に、刺された腕から、切れた額から流れ出た血が滴った。蒼々とした美しい芝生だったのに、血が落ちたその部分が赤黒く染まってしまった。

 痛みと共に平衡感覚が戻ってくる。そして不意打ちのせいで刀を取り落としてしまっていたことに気付いた。

 額の血を拭い、その場に跳ね起きて刀を探す。幸い私と共に外まで吹き飛ばされていたようで、目の前にあった……が、その傍には敵の姿もある。私を追って出てきたらしい。

「ディオス……!」

「来ないで!」

 壊れた窓から顔を出したライルさんに叫んで、私は敵と向き合った。

 必死な私達を挑発するように、敵はあえてゆっくりとした動作で刀を拾い上げようとする――――しかし、私の刀の方が強い。

「っ!?」

 その柄を握った瞬間、即座に身を震わせて手を離した。そして、

「くらえッ!」

 その一瞬の隙に間合いを詰めた私の拳が、敵の顔面にめり込んでいた。

 先程敵を捕らえた時と同じく、手応えはない。しかし感触はなくても確かに攻撃の手は相手に届いたようで、今度は敵の体が数メートル飛んで芝生の上に転がった。

 その隙を見逃すわけにはいかない。すぐに刀を拾い上げて構え、斬りかかる!

 ――――だが足を踏み出した時にはもう、敵は上体を起こして右手をこちらへ向けて突き出して、

「ッ!」

 同時に前方から強い衝撃に襲われて、私の前進は阻まれていた。今度は咄嗟に踏ん張って耐えることができたけど、これは……

「――――何度も同じ手が通用すると思うな!」

 怒鳴り、再び、刀を振り上げて斬りかかる!

 何度も同じ手を使っているのはこちらも同じだ。しかし例え同じ手だとしても、私はこいつに勝ってみせる!

 再びこちらへ右手を向けてくる敵。それに伴う強い衝撃――――しかし、今度は覚悟の上。

「――――うぉおおおおおおおおおおおッ!」

 咆哮――――そして、突破!

「!」

 一度目は吹き飛ばされた。二度目は踏ん張って耐えた。

 三度目は、超えてみせる!

 力ずくで衝撃波に耐えきった。そのまま風の壁を突き破り、振り上げていた刀を思いっきり振り下ろした。

「――――!」

 相手からすれば思いがけない展開だったのだろう。避けきれず、防御した右腕に傷が付いた。手応えはなかったし血も流れていないが、黒い折り紙に鋏で切り込みを入れたように敵の右腕に切傷が残る。

 やはり肉を切る感触はしなかったが、目に見える傷が出来るということは物理攻撃が通じる証拠!

 刻まれた傷に怯んだ隙に、足払いし、地面に叩きつける。但し今度は仰向けに、そして敵の腹の上に腰を落として完全に動きを封じた。

「もう、風の魔法は効かないよ?」

 そう宣告して再び敵の首元に切っ先を突き付けた。このまま刃を引けば、人間の首なら簡単に切れる。こいつはどうだか知らないけど。

「降参しなさい」

「……!」

 見下ろして冷たく告げる。表情は分からないけど、空気で悔しがっているのが伝わってきた。

 しばらくの静寂――――そしてとうとう、敵が頷いた。降伏を認める合図だった。

「攻撃してきたら容赦なく反撃するよ。いいね?」

「……………」

 再び頷いた。それを確認し、私は刃を収め、敵の上から体を退かせて立ち上がった。

「ディオス、大丈夫!?」

 決着を見届けたライルさんが厨房の窓枠を飛び越えて走り寄ってくる。

 ……ああ、そうだ。熱くなりすぎて忘れてたけど、何回も攻撃くらったから私も傷だらけだったんだ。

「大丈夫です、慣れてますから」

「いや、凄い出血だよ!? 慣れてるように見えないって!」

 そりゃあ出血することに慣れたからって出血量が減るわけじゃないけど……説明は難しいけど「慣れ」てしまっているので、何ともないのだ。本当に。

「……さて」

 横で一人で騒いでいるライルさんを無視し、敵に向き直る。しばらく目を離していたけど、逃げる素振りは見せなかった。降伏の意思は本当らしい。

「色々と聞かせてもらいましょうか。あんたが一体何者なのか、目的が何なのか……幽霊騒ぎ起こして、私達に攻撃してきてまで、何をしたかったのか」

 問いかける。すると、奴の魔法だろうか、足元の芝生の間から緑色の蔓が何本も這い出してきた。

 ――――木の魔法まで!?

 風の魔法だけじゃなかったのか。警戒して再び居合の姿勢をとるが、攻撃はなかった。敵の背の高さまで伸びた蔓は曲がりくねって互いに絡み合い、空中に一つの文を作り上げた。

『私の名はソンブル』

「……ソンブル?」

『彼が言った通り 影の街 オンブラの者だ』

 どうやら口がないから話すことができないらしく、こうして文字を作って会話をするようだ。

 しかし、耳もないのに私の声は聞こえるのか……不思議だ。挙動を見る限り、目もないのにまるで見えているかのような立ち振る舞いだったし。

『私の目的は この街にかけられた呪いを解くこと』

「呪い……」

『それを解く手段を探して 街の中をずっと彷徨っていた』

『オンブラの住人を見慣れていない 街の人々には』

『私の姿が 幽霊に見えたらしい』

 ……確かに間違われても仕方ない。私が想像していた幽霊の姿とは全く違ったけど、触れているのに触れている気がしない、あの独特の感覚は……

「『オンブラ』は影の街で、住んでいる人達は全員、体が影で出来ているんだよ。俺も学校で少し聞いただけで、実際にそこの人に会うのは初めてだけど」

 ライルさんが解説してくれた。

 体が影で……となると確かに触れても感触がないことにも納得はいくし、その外観を「まるで闇を擬人化したようだ」と思った私も間違ってはいなかったようだ。

「で、その呪いってどういうこと? 私達を攻撃してきた理由は?」

 ようやっと本題に入る。私達に危害を加えてきた、その目的まで分からないと、敵の――――ソンブルの正体が分かったとは言えない。

 そうして再びツルが動く――――


「――――お前達、そこで何をしている!?」


「!」

 迫力のある男の人の声。同時に強い光で照らされて、眩しさに耐えながら視線をそちらへ向ける。

 この屋敷の前に立っていた男の人と同じ、青い制服――――ということは。

「ど、どうして……」

「そりゃああれだけ大騒ぎしてたら、警備員の一人や二人駆けつけるだろうね……」

 突然の外野の出現で戸惑っている私に対し、すっかり冷静になっていたライルさんは大人しく両手を上げて投降した。


        *


 結局肝心なことを聞けないまま警備員さんに連行され……私だけ別室で応急処置をしてもらった後、領主さんがいる部屋に案内された。

「失礼しまーす……」

 警備員さんに促され、一声かけて扉を開いた。

 正面に座っている、ふくよかな体と立派な口髭を持っている男性が領主さんだろう。そしてその両脇のソファのそれぞれにライルさんとソンブルが腰かけている。

 領主さんに促されて、私はライルさんの隣に座った。

「……さて」

 領主さんが口を開く。怒られるのを覚悟の上で来たけど意外と優しい……というか、呆れたような口調をしていた。

「ライルに関しては……またか、って感じなんだが……」

 ……また?

「確かに私の屋敷は、普段は一般開放している……が、君って奴は子供の頃から立ち入り禁止の部屋に限ってやたらと入りたがって……」

 そして大きな溜め息を挟む。

「警備から君のことを捕まえたって聞いた時も、私は驚かなかったよ。同伴者がいたことは予想外だったけどね」

「……すみません」

 チラッと視線を向けられ、私は深々と頭を下げた。領主さんはすぐに「いや、いいんだ」と、頭を上げるように言ってくれたけど。

「最初に言っておくと、君達に刑事罰を与えるつもりはない。だから屋敷の中で何があったのかだけ、教えてくれないか?」

 そう促されて、私はライルさんに視線で助けを求めた。

 大暴れしたのは私とソンブルだけど、二人とも頭に血が上っていたので上手く説明できるか分からない。加えて私はバカだし、ソンブルは文字を出すにも魔力を使うから、ライルさんが適任だと思ったのだ。

 ……しかし、私はそんなに目つきが悪かっただろうか。私の視線を受けたライルさんはダラダラと汗を流しながら説明を始めた(後から「下手なこと言ったら殺されると思った」って言われた)。

 まずライルさんが勝手に屋敷に入った話をしたところで領主さんに叱られていた。それを追いかけた私もライルさんほどではないが厳しめに注意され……ソンブルがシャンデリアを落とした、という話をした時には、怒りを通り越してがっくりと項垂れていた。ソンブルが飛ばしてきたランプや皿を私が蹴り返して砕いたと言った時には表情がなくなっていて、正直これが一番怖かった。

 ライルさんもさすがにマズいと思ったのか、顔から血の気が引いていたし。

 警備員さんに捕まった場面でライルさんの話は終わった。

「……ディオスさん、だったね。何か付け足すことは?」

「ありません。全部事実で、間違いはありません」

 実際そうだった。ライルさんの説明は適切で、やっぱり任せて良かったと思った。

 後は……ソンブルの目的が、まだ全部分かってない。

「なくなった魔力も、少しは回復したかな?」

 領主さんに視線を向けられ、ソンブルは頷いた。ソンブルの目の前には紙とペンが置かれていて、ペンの方が宙に浮いて紙の上で踊り始めた。

『私がこの街に来たのはこの街の呪いを解くためだ。私が貴方達を攻撃したのは、貴方が持っている刀の所為』

「……私の刀?」

『その刀から凄まじい魔力を感じた。だからその刀、もしくはその刀を持っている貴方が、この街の呪いの関係者だと思った』

 先程も示した通り。ソンブルは『呪い』という言葉を何度も使う。

 その肝心の、呪いの効果について知りたいんだけど……と言おうとしたら、既にソンブルは筆を走らせていた。

『その呪いは この街の時間を止める

 この街では 永遠に朝が来ない

 この街の人々は 永遠に眠れない』

「……えっ!? それって呪いだったの!?」

 全然気付かなかった……街の人達、ライルさんを含めて全くそんなこと感じさせなかったから。

 ……あれ、でもライルさんもさっき呪いのこと初めて聞いたみたいなリアクションをしていたような……?

 ……と思っていたら。

「あー、そういえばそんな噂が立った時もあったねー」

 ……え? 『噂』?

「ライルさん、知ってたんですか!? それに噂ってどういうことですか!?」

 知ってたんなら言ってよ! という気持ちで思わず声が大きくなった。突然の大声に驚きながらもライルさんは教えてくれる。

「俺が就職したばっかりの頃だったかなぁ、この街の時間が止まってるのは呪いの力だ、みたいなことを言い出す宗教団体がいたんだ。まぁ大昔の文献見てもこの街ができた時から時間は止まってるって分かったし、一応魔学に詳しい人を別の街から呼んで調べてもらったけど、特に異常は……って、ソンブルどうしたの?」

 ソンブルを見るとがっかりと肩を落としていた。さっきの領主さんなんて目じゃないくらい。表情は読めないけど、纏っている空気がどんよりしている。

 項垂れたまま、ソンブルはペンを走らせた。

『すまないことをした』

 と、震える字を刻む。

『同じオンブラの者から聞いた噂を鵜呑みにしてしまった。おそらく私のことをからかったのだろう。簡単に騙されて、迷惑をかけて申し訳ない』

 一度頭を上げて、そして再び深々と頭を下げた。

「……………」

 なんというか……気の毒で、もうすっかり怒る気も失せてしまった。

 それにかける言葉も見つからない。同じ街の住民に騙されて、ナダエンデ・ノックスから馬車をフル活用して三か月かかるほど遠い街からやってきた。その時間も労力も無駄にされてしまったわけで、何と言って慰めればいいのか……

「……もういいよ」

 気まずさから沈黙してしまった私達に、領主さんから声がかかった。

 優しい口調だった。

「方法を間違ってしまったことは確かだが、三人ともこの街のために何かをしようとしてくれてたわけだしね。さっきも言ったけど、刑事罰を与えるつもりはないよ」

「……ありがとうございます。それと、本当にすみませんでした」

 深々と領主さんに頭を下げる。ライルさんも私と同じくお礼と謝罪と共に頭を下げ、ソンブルも言葉はないがそれに倣う。

 それにしても、あれだけ屋敷の中の物を壊したのに……罰が何もないなんて……

 ナダエンデ・ノックスに来てからずーっと感じていたことだけど、この街の人達、どうしてこんなにいい人ばっかりなんだろう……!


「だからこれからしばらくの間、君達三人、屋敷の仕事の手伝いね」


「……へっ?」

 突然の宣告に変な声が出た。

 え、だって……えっ?

「刑事罰は与えるつもりはないけど、私刑はまた別だよ?」

 ……ああ、やばい。

 この人、めちゃくちゃ怒ってる……


       *


 その後、私達三人は壊した物の片付けをさせられて。

 その日は一旦帰してもらったけど、次の日から屋敷の使用人さん達のお手伝いをすることになった。


「ライルさん、私もう限界です!」

 二日目にして私は音を上げた。

 一日目も! 二日目も! 一日中! ずーっと! お皿洗い!

 立ちっぱなしで腕だけ動かせなんてもう無理! 私はもっと体を使う仕事がしたいのに、怪我を理由に皿洗いしかさせてもらえない! 拷問でしかない!

 二日目の仕事を終えてライルさんの家に戻り、先に帰ってきていたライルさんに不平不満をぶちまける。

 自分がやらかしたことに対する罰とはいえ、これはつらすぎる……!

「まぁまぁ、ソンブルに比べたら、ね?」

 そう言って宥めてくるライルさんからは疲れというものが全く感じられない。さすが休まない街の住人。

 いや、疲れてるどころか、ちょっと笑ってる?

「ソンブルがどうかしたんですか?」

 ソンブルも私と同じく、屋敷の手伝いをしている間はライルさんの家に厄介になることになったのだが……

 今は人型をとらず、ソファの影と同化している。体が影でできているから部屋の中の影にこうして溶け込めるらしいのだが……

『放っておいてくれ』

 と、影を動かして作った文字でつっぱねられた。

 なんか、落ち込んでる……?

 不思議がっていると、ライルさんがニヤニヤしながら教えてくれた。

「今日ね、屋敷のメイド達にメイド服着せられてたんだよ!」

「め……メイド服ぅ!?」

「なんか気に入られちゃったみたいでね! ああ、ちゃんと写真撮ったから後で現像してディオスにもぉうわぁぁぁ!?」

 言い終わらないうちにライルさんが手に取ったカメラが爆発した。

 爆発というか、破裂というか。ライルさんが怪我をしない程度の火を噴いて、粉々になった。

 今のも、ソンブルの魔法?

『それ以上言ったらただでは済まさない』

「……ごめんなさい……」

 文字から怒気が伝わってくる。筆跡はいつもと変わらないのに。

 ライルさんってば、色んな人から怒られてるなぁ……


        *


 結局約一週間、私は屋敷に併設されているレストランの皿洗いと、時々掃除。ライルさんとソンブルはずっと屋敷中の掃除。

 一週間経って、領主さんからやっと手伝い終了の許しが出た。

「私、明日の朝には出発しますね」

 そして仕事が終わった後、領主さんの家からライルさんの家に帰る途中で私はライルさんにそう告げた。

 時が進まないこの街で「朝」っていう表現はややこしいけど、この街の中では目が覚めた直後の時間を私は「朝」と呼ぶことにしていた。そんな「朝」を七回経験したので、おそらく屋敷の手伝いを始めてから今日で一週間だ。

「え、急だね!?」

「だってそんなに長くライルさんの家に厄介になれないですもん、それに手持ちのお金もすっからかんだから街にいてもすることなくなっちゃいましたし」

 タダで見られる所は見尽くしてしまった。それに何より、私は旅がしたくてしょうがないのだ。

「でも、怪我してるし……せめて治ってからにしたら?」

「もう治りましたよ」

「嘘ぉ!?」

 驚くライルさんに、私は服の袖をまくってみせる。ソンブルに刺された腕は傷跡は残っているものの完全に傷口は塞がっているし、前髪を掻きあげてみせた額には腕と違って傷跡も残っていない。

 無駄に暴れまわったりしないで、ちゃんとご飯食べて寝たらこのくらいの治癒力は付く。

「……そっかー。ソンブルは?」

 ライルさんが自分の足元に視線を落として尋ねる。人型でいるにも魔力を消耗するソンブルは、実体化が必要ない限りは私かライルさんの影に同化していることがほとんどだった。

『オンブラに戻る』

 ライルさんの影が動いて文字を作る。

『そしてもしも ディオスが良ければ』

『途中まで 一緒に行きたい』

『もっと話がしたい』

「うん、いいよ。じゃあ一緒に行こうか?」

 一週間同じ屋根の下で過ごした仲だけど、それでも全てを話せているわけではない。それに誰かと一緒に旅をするのも久しぶりなため、素直に嬉しい。

「ソンブルも明日の朝出発でいいの?」

 聞くとソンブルは頷いた。

 時刻は体感時間で既に夕方。ライルさんの家に戻って荷造りして寝たらすぐに出発時間になるだろう。

「……すみません、何も恩返しができなくて」

 ライルさんは私から宿泊費も食費も、一銭たりとも受け取ろうとはしなかった。おかげで明日以降のための携帯食糧を買えたのは嬉しかったが、申し訳なさすぎる。

 ライルさんは「大丈夫だよー」と呑気に言っているが。

「俺も、ディオスとソンブルと話ができて楽しかったからね。それだけで俺の財産さ!」

 そう言ってもらえるとありがたい。

 トラブルメーカーなのに何故か憎めない。それはきっとこの人が人間としてとてもいい人だからなんだろうなぁ。


        *


 その日の晩は外食でピザをいただき(ライルさんの奢り!)、家に戻ると私は気を失うように眠りについてしまった。

 そして目が覚め、旅立ちの朝。朝食にライルさん特製のフレンチトーストをお腹いっぱい食べ、最後にもう一度シャワーを浴び、準備万端!

 ライルさんに誠心誠意御お礼を述べてソンブルと共に旅立つ。


 ――――はずだったのだが。


「よし、じゃあ行こっか!」

 といつも通り元気なライルさんの背には、中身がパンパンに詰まった大きなリュックサックが。

 登山にでも行くのか、この人……

「ライルさん、その荷物は?」

「着替え三日分と、食糧一週間分、あと薬とか! 旅行には行ったことあるけど旅は初めてだからできるだけ準備していこうと思って!」

 ……は?

「ついてくるんですか!?」

「え、駄目!?」

 駄目とか駄目じゃないとか、そういう問題じゃなく!

 旅をナメすぎてる! そんな「ちょっと行ってみようかな」ぐらいの感覚で決行していいものじゃない!

 確かに旅は楽しい。でも楽しいだけじゃない、危険だって沢山あるのに!

 ちなみにこの際カミングアウトしてしまうが、私は馬鹿だ。しかし馬鹿といっても、勉強が出来ないタイプの馬鹿だ。知恵という意味ではさほど馬鹿ではないと思う。

 そして私と違ってライルさんは頭が良い。この一週間で分かったけど、博識で、学生時代は上から数えた方が早いくらい成績が良かったらしい。

 でも、この人――――頭が良いのに、私とは別の意味で馬鹿だ!

「……駄目かぁ……」

「はい、駄目ですよ」

 しょんぼりするライルさん。

 そう、どうしても駄目だ。


 こんな甘い考えのまま旅に同伴させるわけにはいかない。


「荷物が多すぎて旅に向いてません。着替えは一日分、食糧は三日分あれば充分です。途中で薬草を摘めば薬も用意する必要はありません。それよりもナイフの一本でもあった方が役立ちます」

「……えっ?」

「だから荷物減らして下さい。それで、私が今言ったもの以外でどうしても必要だと思うものがあったら言って下さい。本当に必要かどうかは私が考えますけど」

「……いいの!?」

 ライルさんの暗くなっていた表情が、まるで花開いたように明るくなる。直視するのが眩しいくらいに。

 私が頷くのを見て、ライルさんは「やったー!」と飛び上がって万歳した。そして背負っていたリュックを床に勢いよく下ろし、持っていくものの選別を始める。

『いいのか?』

 今回は私の影と同化していたソンブルがそう尋ねてきた。

「うん。やっぱり旅の道連れは多い方が楽しいじゃん? ソンブルと二人きりが不満なわけじゃないけどさ、物の見方とか考え方も広がるから面白いよ」

 私は過去、ほんの短い期間だけある人と一緒に旅をしたことがある。わけあって途中で別れてしまったのだが、その時を思い出すと一人旅は少し寂しく感じる。

 その点、ライルさんとソンブルといると退屈しなさそうだ。

 ライルさんがいなければ、きっとソンブルと出会うこともなかった。またこれから、ライルさんやソンブルと一緒にいるおかげで出会える人もきっといるに違いない。

 荷造りをやり直しているライルさんは鼻歌混じりで本当に嬉しそう。どの服を持っていこうか、と悩んでいたから「いざとなったら捨てても大丈夫な服の方がいいですよ」とアドバイスした。


        *


「よし、今度こそ行こう!」

 随分と荷物を減らし、ナダエンデ・ノックスの出口に立った私達。ひときわ元気なのはやはりライルさんだ。

「ここから出て真っ直ぐ進めばアニマーリアだね! 初めて行くから楽しみだ!」

 まるで遠足に行くみたいな雰囲気で盛り上がっているライルさん。危機感がなさすぎるとは思うけど、私も新しい街に着く度にライルさんと同じようなテンションになっているため、あまり人のことは言えたものではない。

「……ライルさん」

 街から出る前に、もう一つだけライルさんに伝えておきたいことがあった。

「何?」と言って私に視線を向けてくるライルさん。背の高い彼を見上げて、私は言った。

「確かに旅は大変です。でも、大変でもいいって思えるくらい、楽しいこともたくさんあります」

「……うん」

「大変なことがあっても、きっと何とかなります」

「うん」

「三人で思いっきり楽しんでやりましょう!」

「うん!」

 元気な返事。

 その返事を受けて、私は紙の地図を広げた。


 目指すは、ここより北の街。

 動物の街『アニマーリア』だ!

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