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グラナダ断章

作者: 三坂淳一

『 グラナダ断章 』


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 Aún hay sol en las bardas.

 太陽はまだ土塀の上にある。

(「才智溢れる郷士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」 後篇 第三章 キホーテの言葉)



 バスは速度を落として静かに、グラナダのバス・ターミナルに着いた。

 さすがに、疲れた。

 何と言っても、九時間半という長い、バスの旅だった。

 前日の深夜、夜の十一時、バレンシアを発ち、今朝八時半に漸く着いたのであった。

 長距離バスならば、寝ている間に着くだろう、という当初の考えはつくづく甘かったことを思い知らされた。

 日本とは根本的に違うのだ。

 長距離を走るデラックス・バスとは言え、頻繁に途中のバス停に停まり、運転手も何回か替わり、挙句(あげく)の果ては、乗っているバスまで替わり、荷物の入れ替えも行わせられた。

 とてもじゃないが、ゆっくり眠れたものでは無かった。

 十五分間ほどのトイレ休憩が数回あり、乗客はその都度、バスから下り、トイレを済ませたり、バス停の売店を覗いたりした。

 深夜のバス停はほぼ無人であったが、時々停まるバスの乗客を目当てに、売店は終夜開かれているようであった。

 コカ・コーラを飲みながら、ボカディージョと呼ばれるバゲット・サンドウィッチをつまむ乗客も結構見かけた。

 周囲の闇の中で、ぽつりと建っている売店の灯りだけが煌々(こうこう)と明るく、その周囲の闇の中を、ゆらゆらと動く人影はまるで影絵の芝居を見ているようで、どこか懐かしい風景のように思われた。

 グラナダのバス・ターミナルに着き、バスから下りた私の眼に、朝の太陽が無神経に飛び込んできた。

 (まばゆ)い光の洗礼を浴びた私は少し苛立たしさを感じた。

 明るすぎるのだ。

 バレンシアもそうだったが、アンダルシアの太陽は(まぶ)しすぎる。

 異国に居るというしっとりとした情緒なんて微塵(みじん)も無い。

 明るすぎる太陽は全ての情緒を干からびさせ、ぶち壊す。

 苛立たしく、そのように思いながら、私はのろのろとキャリーバッグを引きずり歩き、カフェテリアに入った。


 スペインは有数のオリーブ・オイルの産地国として知られているが、同時に、トマトの国でもあるかも知れない。

 トマトは実にいろいろな料理に使われる。

 ガスパーチョと呼ばれるトマト風味の冷スープも有名だが、パンにも載せられ、或いは、塗られて食べられる。

 朝食のパンとして一般に食べられているのは、クロワッサンと、いわゆるフランスパンの二種類であるが、このフランスパンの食べ方で、『パン・コン・トマテ』という食べ方がある。

 薄めに切ったフランスパンを焼いて、その上に磨りおろしたニンニク或いはオリーブ・オイルを塗り、塩を少しまぶした上に、完熟トマトのスライスを載せたり、或いは、トマトをすりつぶすように塗って食べる食べ方であり、パン・コン・トマテ(トマト入りパン)と呼ばれる。

 搾りたての新鮮なオレンジ・ジュースで朝の乾いた喉をまず(うるお)した上で、ミルクをたっぷりと入れた熱々のカフェ・コン・レチェ(カフェ・オ・レのこと)をゆっくりと飲みながら、このパン・コン・トマテをがぶりと食べる。

 カリカリに焼き上げたフランスパンと、しっとりと柔らかいトマトのほの酸っぱい風味がオリーブ・オイルと調和して絶品の食感と味を(かも)し出す。

 私は、スペインを踏んだ初めての地、バルセロナのサン・ジュセップ市場で食べてから、以降、このパン・コン・トマテに病みつきになった。

 このグラナダのバス・ターミナルのレストランでも朝食として、これを注文して食べた。

 期待以上に、美味しかった。

 朝食を簡単に済ませた私は、タクシーに乗り、ホテルに向った。


 広い舗装道路から、くねくねとした狭い街路に入り、坂道を上り、やがて、タクシーは丘の上のアルハンブラ宮殿に隣接した小さな民家風の建物の前で停車した。

 私が日本で予約したホテルはアルハンブラ宮殿の敷地内にある『アメリカ』という名のホテルであった。

 スペインという国では、アメリカという言葉の持つ響きは独特である。

 冒険と富、という二つの心地よい響きを持っている。

 コロンブスといういかがわしいイタリア人に資金を援助し、インドという新大陸に向け、航海させたのは、スペインを統治したカトリック両王イサベラとフェルナンドであったし、そのコロンブスが偶然発見した大陸に兵士を侵攻させ、征服し、巨額の金銀を収奪させ、太陽の沈まぬ国とまで豪語されるに至った植民地支配で豊かな国家となったのは、まさにスペインそのものであった。

 当時、無名の若者が出世する道は三つあった、と云われている。

 王侯貴族に仕えるか、僧職に就くか、海を渡ってアメリカという新大陸に行くか、という三つの選択肢が呈示されていたのである。

 海を渡り新大陸への道を選択したエルナン・コルテスはメキシコに渡り、アステカ帝国を征服し、フランシスコ・ピサロはペルーに渡り、インカ帝国を征服した。

 スペインは新大陸発見という功績で自国に無尽蔵の富をもたらしたコロンブスを国家の恩人として感謝した。

 『アメリカは何度も発見された』。

 コロンブスだけが最初に発見したんじゃないよ、ということを皮肉っぽく、このように書いた本を昔読んだことがある。

 実際、征服したスペイン人がマヤに侵攻した際、そのマヤ部落の近くの丘に、古ぼけた十字架の墓があるのを見つけてびっくり仰天したという話も伝わっているところであり、その墓に埋葬されているのは白人であり、部落に伝わっている伝承では、コロンブスの新大陸発見の何世紀も前にその男が来て、いろいろな技術を部落の人々に教えて、死に、部落の恩人としてその人を葬るに十字架の墓を造ったということを部落の長老から聞いて、更に驚いた、という話も結構有名である。

 それはともかく、スペインに多大な富をもたらすこととなったコロンブスの新大陸発見の業績は高く評価され、いろいろな都市にコロンブスの記念碑が建立されている。

 コロンブスの棺を、当時スペインを支配統治していた四人の王様が担いでいる、という象徴的な像もセビージャ(セビリア)のカテドラル(カトリック寺院)の中には造られているくらいだ。


 ホテルに着いたが、チェックインは十二時ということで、私は荷物だけ預かってもらうこととして、周囲を散歩して時間を潰すこととした。


 グラナダにとって、アルハンブラ宮殿は宝だ。

 大事に、大事に守らなければならない。

 そのためか、アルハンブラ宮殿の中、或いは、周囲には多数の警官、警備員が常時配置されている。

 一様に生真面目で無愛想な顔をしているが、こちらから挨拶をすると、人懐っこい笑顔になり、気持のいい挨拶も返ってくる。

 観光地にお決まりの土産物屋も一杯建ち並んでいる。

 絵葉書、絵皿、装飾タイル、キーホルダー、イスラム風のナイフなどが所狭しと並べられ、売られている。

 しかし、感心するのは売り子の無関心さだ。

 入ってくるお客に対して、品物を勧めたり、愛想笑いをしないということだ。

 売らんかな、という営業精神が少しも感じられない。

 これは、あまり買う気の無い観光客にとっては、ありがたい態度だ。

 観光客としては、気軽に入っていけるし、気軽に見て、気軽に店を出ていける。

 お客に媚びない。

 これが、スペイン人の心意気かも知れない、と私は思った。

 プライドの高い国民気質がそこかしこに窺われる。

 私はぶらぶらと、坂を下りて、アルハンブラ宮殿の入場券販売の売り場の方に向った。

 売り場には、坂道を十分ほどかけて下りなければならない。

 私と同じような観光客がかなり歩いていたが、小鳥の囀りの他は余計な喧騒も無く、朝の森の小道は気持ち良く歩くことができた。

 やがて、坂道を下りきり、入場券売り場に続く舗装道路に出た。

 そこの道端で私は奇妙な光景を見た。


 それは奇妙な光景だった。

 靴磨きの中年の男に絡まれ、日本人と思われる東洋系の夫婦が困ったような顔をして立ち往生しているのだ。

 思い当ることがあった。

 スペインに来る前にインターネットで調べていたら、いろんな手法で観光客から金をぼったくるケースが事例として紹介されており、この靴磨きのケースも読んだことがあると思ったのだ。

 観光客に親しく話しかけ、観光客がのってきたところで、ほとんど無理やり靴を磨き、労働の代償としてかなり高い料金を請求するというケースだったように記憶している。

 この夫婦もその被害に遭っているのかも知れないと思った。

 見ていると、執拗な請求に根負けしたのか、ご主人のほうがなにがしかの金を払い、その靴磨きが更に金を請求しているようだった。

 さすがに、そのご主人のほうも怒ったようで、手を振ってその要求を無視し、追いすがる靴磨きを振り払うかのように急ぎ足で奥さんの手を取って立ち去っていった。

 何らかの労働(?)をして、それを口実に法外な請求をするというケースは他にもある。

 例えば、善良な地元民を装い、道を親切に案内するようにして、目的地に着いたところで、お金を請求する、或いは、自動販売機で使い方を知らずに困っている観光客に近づき、使い方を教えてお金を請求する、頼まれもしないのに、荷物を運んでお金を請求するといったやり方だ。


 入場券売り場には行列ができていた。

 よく見ると、行列は当日券販売の売り場の方で出来ており、入場券を予約している入場者の方の売り場には行列はできていなかった。

 私は明日の午後の部と、明後日の午前の部を日本で予約をしており、この光景を見て、安心した。

 売り場の前の土産物販売の売店に入った。

 一般的なお土産の他、アルハンブラ宮殿、グラナダに関する案内書とか書籍も沢山売られていた。

 そこで、私はスペイン語版の『アルハンブラ物語』を買った。

 スペインに来る前に、私はこの『アルハンブラ物語』の邦訳版を読んできた。

 文庫本で前篇、後篇に分かれ、厚め二冊という構成であったが、とても面白かった。

 アルハンブラ宮殿に関する逸話、グラナダを支配したモーロ人に関する逸話、著者がアルハンブラ宮殿に滞在していた当時の人々に関する逸話などが愛情を込めて沢山書かれており、ノスタルジックな情緒に包まれた傑作だった。


 『アルハンブラ物語』を書いたワシントン・アービングは比類ないロマンチストだった。

 米国の外交官であったが、荒廃していたアルハンブラ宮殿の中の一室に逗留する機会を得て、数か月ほど暮らした彼は、米国に帰って、その暮らしの中で見聞したことがらを一冊の本に纏め、発行した。

 その本が、『アルハンブラ物語』であり、この本がきっかけとなって、荒廃して浮浪者の住みかともなり、半ば廃墟と化していたこの宮殿は多くの篤志家の寄付によって、整備され、往時の華麗な姿を取り戻すこととなった。

 若い頃に恋人を亡くし、生涯を独身で終えたアービングはこのグラナダの恩人となった。

 私も生涯、独身で終わるのだろう、と思い、少し切ない気分になった。


 携帯電話がメール到着を知らせた。

 日本から届いた、知人からのメールだった。

 見て、がっかりした。

 会社を定年退職していたが、私は再就職するつもりで、知人を通して、再就職の口を探して貰っていたのであるが、どうも良い就職口はまだ無さそうだ、という連絡メールだったのだ。

 落胆するな、また、いろいろと当たってみるから、とそのメールの文面は終わっていた。

 吉報を待つしかしょうがないな、と思いながら携帯電話をポケットにしまった。

 六十歳を過ぎてからの就職は厳しい、と改めて思った。


 十二時になるのを待って、私はホテルに戻り、チェックインした。

 英語では無く、スペイン語を話す東洋人を見て、ホテルのレセプションに居た若い娘は好奇の目を注ぐと共に、嬉しそうな顔をした。

 スペイン人は英語が下手だ。

 無敵艦隊を撃破したのが英国であり、心の中でその国の言葉を憎んでいるのかも知れない。

 この国に来てから、英語が話せるか、ということはよく訊かれるが、その癖、訊いてきた本人含め、流暢な英語を話すスペイン人にはほとんどお目にかかったことが無い。

 英語はスペイン人にとって、あまり話したくない、覚えたくない外国語なのかも知れない。

 その娘から部屋の鍵を受け取り、階段を上って、丁度上り口にある部屋に入った。

 部屋の中は綺麗に整頓されていたが、少し暑かったので、エアコンをかけようと思った。

 壁にエアコンは設置されていたが、肝心のリモコンが見当たらない。

 階段を下りて、レセプションに行ったら、年配のおばさんが居た。

 エアコンのリモコンが無い、と言ったら、リモコンは無い、という返事が返ってきた。

 なぜ、無いのか、と訊いたら、諭すような口調で説教された。

 ここ、グラナダは、昼間は暑いが、朝・晩はとても涼しくなる、寒いと言っていいほど、気温が下がる、従って、エアコンは必要無いのよ、それに、昼間はほとんど部屋には居ないでしょう、と。

 おばさんと言い争う気力は無く、私はすごすごと階段を上り、自分の部屋に戻った。

 暑いので、窓を開けた。

 窓の下に、パティオと呼ばれる中庭が見えた。

 中庭にはテーブルが所狭しと置かれ、どうも、このホテルはレストランにもなっているようだった。

 付近には、パラドール(国営ホテル)のレストランしか無く、豪華なパラドール・レストランに入らなければ、ここのレストランに入るしか無い。

 十二時を少し過ぎた程度なのに、お客がどんどんレストランになだれ込んで来ていた。

 インターネット情報に依れば、このホテルは三月から十一月までしか営業されておらず、十二月から二月までの冬季はクローズされているという話だった。

 営業しているその期間は、ホテルの宿泊はほぼ連日満員、レストランもほぼ連日満員になるという情報もあった。

 いい商売をしている、と思った。

 部屋の中を見渡してみた。

 部屋の調度品は半ば骨董品的な趣があって良かった。

 趣味の良い上品な造りとなっていた。

 しかし、テレビは無かった。

 テレビが無く、エアコンも無い。

 テレビ、エアコンなどは全て標準装備化されているホテルに馴染んでいる日本人の眼から見たら、物足らない仕様の部屋だった。

 サービス精神が無さすぎると思い、少し、腹を立てたら、腹が減ってきた。

 街へ行って、昼飯を食べようと思った。

 ホテルを出て、坂道を下って、バス停に行った。

 名物となっている『アルハンブラ・バス』に乗って、街に下りた。

 七回乗車できる『ボーノ』と呼ばれるカード切符を運転手から買った。

 カード自体のデポジット料金二ユーロが加算され、七ユーロ払った。


 アルハンブラ宮殿からの坂道の終わりは少し広い、街の公園となっている。

 そこのカフェテリアの屋外のテーブルに座って、ビールを飲みながら、ボカディージョを食べて昼飯とした。

 『トルティージャ』と呼ばれるジャガイモ入りオムレツを挟んだボカディージョはなかなか美味しかった。

 トルティージャはメキシコでは『タコス』の皮のことであるが、ここ、スペインではジャガイモ入りのオムレツを指す。

 食べ終わって、勘定をしようと思った。

 前方を歩いていたカマレロ(ウエイター)と眼が合った。

 便利な仕草がある。

 右手を少し上げて、鉛筆を持って何か書くような仕草をすればいいのだ。

 この仕草はおそらく万国共通で、お勘定、お願いね、という意味の仕草である。

 カマレロが頷き、五分ほど経ったところで、勘定書きを持ってきた。

 六ユーロと少しだったので、チップ込みで、七ユーロをテーブルに置いて、店を出た。

 グラナダにはアルハンブラ宮殿の他、見どころとしては、カテドラルと王室礼拝堂といった名所がある。

 その二つは隣接している。

 地図を見て、カテドラルの方角に歩いていった。

 カテドラルと王室礼拝堂を見物した。

 スペインのカテドラルはどこも豪華絢爛といった装飾が施され、豪壮な建物で観る者を圧倒する。

 グラナダもその例外では無く、私は圧倒されて見物し、外に出た。

 ふと見たら、電気屋があった。

 バルセロナとかバレンシアの街の中心にはなぜか電気屋が見当たらなかった。

 ひょっとすると、湯沸かしポットが見つかるかも知れない。

 私はいそいそと、その街角の電気屋に入っていった。

 レジのところに居た若い男がジロリとこちらを見た。

 どうせ無いだろうと、期待もせずに、湯沸かし器はあるか、と訊ねてみた。

 ある、という答えが返ってきた。

 しめた、とばかり、心の中で万歳をした。

 その若い男は、あるに決まっているじゃないか、当然だろう、という顔をしていた。

 そして、奥から数種類取り出してきた。

 小さめのものを買った。

 これで、念願の緑茶、味噌汁が飲める。

 湯沸かし器はホテルには完備しているだろうと思い、日本から緑茶、味噌汁、それに、各種のカップヌードルなどを日本から持ってきていたのだが、バルセロナ、バレンシア、そして、ここ、グラナダのホテルには湯沸かし器などの気の利いたものが置いておらず、実は、焦っていたのだ。

 湯沸かし器を手に入れた私は、近くの雑貨屋で一・五リットル入りのミネラルウォーターを二本ほど買って、ホテルに戻ることとした。

 少し、浮き浮きとしていた。


 しかし、歩きながら、後悔した。

 バスに乗れば、良かったのに、とつくづく思った。

 アルハンブラ宮殿へ続く登りの坂道はやっとこ登れるといったくらいの急勾配の坂道で、おまけにその日はとても暑かったのだ。

 これでは、その内、頭の血管が切れてしまいそうだなあ、と思いながら歩いた。

 途中で、坂道が切れ、踊り場となっているところがあった。

 そこに、ワシントン・アービングの銅像が立っていた。

 何と言っても、アルハンブラ宮殿にとっては、ひいては、観光地グラナダにとっては、一冊の著書によって、廃墟と化していたアルハンブラ宮殿の存在、芸術的価値を全世界に訴えてくれた彼の功績はとても大きい。

 彼の著書によって、アルハンブラ宮殿を知った多くの善意の人々の寄付により、宮殿は崩壊を免れ、現代に(よみがえ)ったのだ。

 文学の力は大きい、と私は銅像を見上げながら思った。

 人生は短く、芸術は長し、ということか。


 へとへとになって、ホテルに戻った。

 レストランに料理を運んでいた若い女に、ルームナンバーを告げた。

 微笑みながら、顎をしゃくった。

 取れ、と言う。

 レストラン業務で忙しく、立ち働いており、宿泊客の面倒は見切れないといった雰囲気だった。

 苦笑しながら、娘の視線の方向を見ると、レセプションの鍵置場の棚の上に私の部屋の鍵が載せてあった。

 勝手に取ってもいいのか、と思いながら、少し背伸びをして鍵を取った。

 部屋に入って、(くつろ)いだ。

 テレビも無ければ、エアコンも利用できない部屋であったが、実は、気に入っていた。

 部屋は少しクラシックな趣で統一され、感じが良かったのだ。

 部屋は十畳程度の寝室と四畳ほどの浴室、そして、浴室の前は細長い廊下となっていた。

 寝室の壁は白い漆喰の塗り壁、ゴツゴツとした感じの石壁、焦げ茶色の無垢材を使った板壁と三方の壁が異なっており、茶色のタイル床と調和して、シックな印象を与えていた。

 飾りフレームが付いた少し幅広のベッドが二つ、白カーテンに隠された洋服箪笥、小さいががっしりとした造りの木製の椅子と机、座り心地の良さそうなロココ調の椅子が二つ、そして、浴室前の廊下には白布に覆われたソファーという調度であった。

 浴室前の廊下の突き当たりは観音開きの窓となっており、開くとレストランの中庭が見下ろせた。

 浴室の中には大きな浴槽と便器、ビデがあり、洗面所には黄銅製の年季が入っていそうな蛇口が取り付けられていた。

 便器はシンプルな白の便器で、シャワートイレとかヒーター付きの便座でも無かったが、温水が出るビデがあるので、シャワートイレの代用とはなった。

 浴室の腰板ならぬ、腰壁は全て菱形のタイルが貼られており、白を基調として、水色・青色・緑色・茶色の菱形タイルが少しモーロ風の雰囲気を醸し出していた。

 部屋の照明はヨーロッパのホテルでは一般的にそうであるように、全て間接照明であり、決して明るくは無く、文字を書いたり、読んだりするには少し暗かったが、特に不便は感じなかった。

 ベッドに寝転がってぼんやりしていたら、その内、眠り込んでしまった。

 バレンシアからの九時間半のバスの旅で、相当疲れていたのだろう。


 翌朝、早く起きて、アルハンブラ宮殿の入場券売り場に行った。

 昨日同様、当日券売り場では長い行列ができていた。

 予約済みの人には、担当者受付による有人販売の他、自動販売機という便利な入場券販売システムもある。

 私はそこに行き、係の女性にクレジット・カードを渡した。

 簡単な操作で、入場券を入手することができた。

 インターネットで予約する場合は一ユーロを予約料として取られるが、現地で暑い最中、長い行列を作って購入するよりとても楽である。


 今日の午後の入場券と明日の午前の入場券を入手した私は、朝食を摂るため、ホテルに戻った。

 昨夜は夕食も食べずにそのまま眠ってしまったので、空腹感を覚えていた。

 ホテルの食堂に腰を下ろした私に、カマレロ(給仕)が注文を取りに来た。

 コンチネンタル朝食を頼んだ。

 飲み物を訊かれたので、カフェ・コン・レチェと答えた。

 ムイ・ビエン(結構、結構)と大袈裟に頷き、カマレロが去っていった。

 やがて、先程の給仕とは違った、かなり年配の男が重そうなポットを二つ持ってきた。

 コーヒーが入ったポットと、ミルクが入ったポットだった。

 その後、クロワッサンとフランスパン、洋梨、オレンジジュース、ヨーグルトと言った定番の朝食メニューが運ばれてきた。

 果物ナイフもセットされていたので、洋梨も剥いて食べた。

 熟しているとは言えず、かなり固かったが、結構甘く美味しかった。

 クロワッサンは日本で見かけるクロワッサンの二、三倍はある巨大なクロワッサンであったが、温かくてこれも美味しかった。

 完食して、私は満足感を覚えた。

 スペイン料理は日本人の舌に合うというか、美味しいものが多い。

 ただ、パエージャはグラナダに来るまで、バルセロナとバレンシアで何回か食べたが、かなり塩辛い味で、それほど美味しいものとは思えなかった。

 でも、期待外れであったのはパエージャだけで、その他の料理はどれも私には美味しいと思えた。

 ホテルでの朝食の後、アルハンブラ・バスに乗って、街へ下りた。


 スペインで感心するのは、建築物に対する執念と情熱の強さだ。

 日本人の発想と根本的に異なっている。

 とにかく、完成までの年数が極めて長い。

 バルセロナのサグラダ・ファミーリア教会は百年経っても、まだ完成していない。

 完成までには、あと百年はかかるだろう、ということを聞いたことがある。

 しかし、驚くには値しない。

 完成までに四百年ほどかかったカテドラルもあるのだ。

 このグラナダのカテドラルだって、二百年ほどかかっており、旅行案内書によれば、塔の部分は未完成のままだと云う。

 カテドラルを観た後、隣接している王室礼拝堂を見物した。

 ここに、カトリック両王として名高いイサベル女王とフェルナンド二世王の遺骸が葬られている。

 また、隣には、両王の娘であるフアナと夫のフェリペ、二人の遺骸も葬られている。

 フェリペは大層ハンサムな王様であったらしく、別名、フェリペ美男王とも呼ばれている。

 フアナはフェリペを心底愛していた。

 そして、フェリペの浮名を耳にする度に、半狂乱になって嫉妬したと言われている。

 挙句の果ては、フェリペが若くして亡くなった時、フアナは精神異常をきたし、とうとう気が狂ってしまった。

 その後、フアナは狂女フアナ、狂える女王として亡くなるまで幽閉されたと伝えられている。

 半端な期間では無く、数十年という長い期間、狂王として幽閉されたと言うのだ。

 本当のことであろうか?

 死ぬまでは王であり、生きている限り、狂った女として扱われたという権力争いの犠牲になったという説もあるが。

 王室礼拝堂を出た私の眼に、奇異な光景が飛び込んできた。

 若い男女が首をうなだれていた。

 その前には、声高々にまくしたてている中年の女が居た。

 どうも、アロマ売りの女に因縁を付けられているらしかった。

 アロマは如何、と勧められ、うっかり買うととんでもない事態になる。

 その事態とはこうだ。

 アロマは如何、とてもいい香りがするよ、という呼びかけの言葉に乗り、買うと、法外な金を請求されるのだ。

 五十ユーロほど、請求されるのだ。

 冗談じゃない、たかがアロマじゃないか、とてもそんな金は払えない、と断ると、売り子は態度を変え、居丈高になり、払えと喚き散らすのだ。

 恐れをなした観光客は十ユーロか、二十ユーロほど払って、退散することとなる。

 うっかり応じては駄目なのだ。

 無視するか、ノー・グラシアス(ノー・サンキュー)と言いながら遠ざかるのが賢明である。

 カテドラル近くの土産物屋で、アルハンブラ宮殿の案内書とアルハンブラ物語の英語版を買った。


 ぶらぶらと歩いていたら、通りに面した建物の壁に掲示板がかかっていた。

 日本語で、『日本人情報センター』と書いてあった。

 狭い階段を上がり、ドアをノックした。

 四十歳ほどの眼鏡をかけた男が姿を現した。

 スペインに住んで二十数年というOさんであった。

 グラナダの治安のこと、フラメンコ・ショーのことなど、訊いてみた。

 猫が気になった。

 黒猫だった。

 しなやかな動きで私の目の前を動きまわっているのだ。

 無表情に忙しく喋るOさんに私は何故か猫を感じた。

 猫は犬と違って、飼い主にも媚びることは無い。

 Oさんも毅然としており、どこか、猫を感じさせたのだろう。

 ギターの勉強に来て、そのままスペインのグラナダという古都に居付いてしまった彼の生計はどのようなものだろうか。

 余計なお世話に決まっているが、私は少し気になった。

 日本人からはお金は受け取らないようであるが、きっと店からは紹介料として某かのバックマージンは受け取っているのかも知れない。

 例えば、『ロス・タラントス』というフラメンコ・ショーの予約を代行して、某かのお礼をそのショーを開催する店から受け取るとか。

 私も、彼にロス・タラントスのフラメンコを予約して貰った。

 送迎付きのミニ・ツアーでアルバイシンの丘からアルハンブラ宮殿の夜景見学も付いているツアーだった。

 迎えのバスが来る集合場所を私に説明した彼は、念のため、自分も行きますから、と言って、私を安心させてくれた。

 そして、もう一人、参加する予定です、と私に告げた。


 日本人情報センターを出て、通りを少し歩いた。

 パン屋があった。

 ウインドウに各種のパンが飾られており、美味しそうに見えた。

 入ってみることとした。

 先客が居た。

 年寄りで、あれこれ迷っている様子で、買うパンを決められない様子でもあった。

 割り込みは嫌われる。

 私は辛抱強く待った。

 先客が勘定を済ませて去り、私はシーチキンとチーズ入りのボカディージョを買った。

 アルハンブラ・バスの停留所からバスに乗って、ホテルに戻った。


 ホテルで少し休憩してから、アルハンブラ宮殿に向った。

 目の前をひらひらと綿毛が舞っていた。

 ふと見ると、足下の道が綿毛でうっすらと覆われていた。

 綿雪のようだ、と思った。

 近くに居た警備員に訊いてみた。

 アラモの綿毛だと云う。

 アラモは日本ではポプラのことである。

 米国の歴史上、有名なアラモの砦は何のことは無い、ポプラ砦のことなのだ。

 きっと、その砦には、砦の中、或いは、周辺にポプラの樹が一杯植えられていたに違いない。

 アラモの砦では、西部開拓史上、名高いジム・ボーイ大佐とか、デビー・クロケットといった英雄たちが圧倒的多数のメキシコ軍の攻撃によって、玉砕した。

 しかし、この玉砕という悲劇は米国民を団結させた。

 強固に団結した国民は力を発揮する。

 この後、米国は米墨戦争に圧勝していったのである。

 米国民のスローガンは、アラモを忘れるな、という言葉であった。

 これは、日本軍の奇襲に遇って、潰滅的損害を出した真珠湾の時も、真珠湾を忘れるな、というスローガンで戦争参戦に消極的であった米国民を団結させた状況と酷似している。

 しかし、米墨戦争はメキシコの少年たちにも幾多の悲劇をもたらした。

 現在、首都メキシコシティのチャプルテペックという公園に、英雄少年たちを記念した像が建立されている。

 米墨戦争で、ここのチャプルテペック城が米軍によって攻撃された際、本来は参加しなくとも何ら批難されることの無い、士官学校の生徒たちが祖国の危急存亡の秋を迎え、座視するわけにいかず、銃を取って闘い、勇敢に全滅した少年たちを讃える記念碑である。

 日本人としては、白虎隊或いは二本松少年隊を想起させるメキシコの英雄少年たちである。

 最年少の生徒は十二歳であった、と記憶している。


 アルハンブラ宮殿は大きく分けて、ナスリ朝宮殿、アルカサバ、ヘネラリフェ離宮の三つに区分される。

 この中で、一番人気のナスリ朝宮殿だけが、混雑を回避するために、入場者が時間毎に制限されている。

 ナスリ朝宮殿への私の入場は午後五時からであった。

 午後二時に入った私は、とりあえず、ヘネラリフェ離宮とアルカサバを見物することとした。


 ヘネラリフェ離宮へ続く道は塀のように刈り込まれた樹木の並木道となっている。

 立ち止り、樹木の葉を観察した。

 ヒバのような葉の形をしていた。

 ヒバは檜葉と書き、ヒノキの葉という意味もあるが、一般的にはアスナロの別称である。

 明日は檜になろう、という意味でアスナロ(翌檜)と名付けられたと云われるこの木は何だか悲しい木である。

 檜になろう、と思っても、到底檜のような立派な木にはなれやしない。

 なれなくっても、いいのに。

 檜は辞書に依れば日本糸杉とあり、一方、糸杉を辞書で調べると、西洋檜とある。

 面白いものだ。

 ヘネラリフェ離宮の通路の並木となっているこの緑の塀の樹木はイトスギかも知れない。

 英語ではサイプレス、西語ではスィプレスと呼ばれるこの木は多くが墓場に植えられることから、スペイン語では、悲しみ・憂鬱という一般名詞としても使われる。

 有名なゴッホの絵に、イトスギの絵がある。

 天に向って、炎のように燃え立つような、あのイトスギの絵である。

 ゴッホが好んで描いたのは、ヒマワリとイトスギである。

 一般的な感覚で言えば、ヒマワリは生の象徴、イトスギは死の象徴であるが、ゴッホは本来静謐であるべき死を、天に向って燃え上がるように描いた。

 ゴッホにとっては、生も死も、同じように情熱的なものでなければならなかったのか。


 素敵な季節に来た、と思った。

 薔薇が真っ盛りの季節だったのだ。

 日本に居る時は、別に薔薇の花を見てもそう感動するほうでは無かったのだが、アルハンブラ宮殿の薔薇となると、話は別だ。

 ヘルラリフェ離宮のよく手入れされた広大な庭に、薔薇の花は殊の外良く調和し、似合っていた。

 富士には月見草が良く似合う、と言ったのは太宰であるが、このアルハンブラ宮殿には何と言っても、薔薇が良く似合う。

 赤い薔薇にも、いろいろな赤がある。

 スペイン語ではロッホ、或いは、ロッハだが、日本語では、赤、紅、朱、緋といろいろな言葉で表現されている。

 さまざまな赤い薔薇、さまざまな白い薔薇、ピンクの薔薇、紅白の斑模様の薔薇の中に、黄色の薔薇もあった。

 紅い薔薇、白い薔薇も良いけれど、黄色の薔薇もなかなか良いものだ、と思った。

 何と言っても、アンダルシアの太陽の輝きを持っているのだ。


 離宮を歩いた。

 歩きながら、ここの特色は水であると私は思った。

 至るところに水があり、流れているのだ。

 水のテーマ・パークかと思い、私は思わずニヤリとした。

 それくらい、水が多く目立つ。

 アフリカの砂漠から来た民族とされるモーロ人にとって、水は貴重品であり、水をふんだんに使う庭園をつくるというのが贅沢な夢であったのかも知れない。

 アルハンブラ宮殿から遠くを眺めると、白い雪を頂いた山々が見える。

 シエラ・ネバダ山脈である。

 シエラ・ネバダというのは、雪に覆われた山脈、という意味だ。

 雪解け水はラグーンと呼ばれる湖沼を山の中腹に造る。

 そのラグーンから水路で延々と水を運んで、この宮殿の水とした。

 池の水、噴水の水、階段の脇を流れる水、水浴の水と、全ての水がシエラ・ネバダの雪解け水であった。

 水を自由に手に入れることによって、モーロ人は己が権力の偉大さ、或いは、征服者としての達成感をつくづくと感じたに違いない。


 ヘネラリフェ離宮の建物の中を歩いた。

 日本人の美意識には無い美しさがここにはある、と思った。

 目を奪われたのは、壁一面を埋め尽くしている細密な漆喰細工であり、幾何学的な模様を織り成しているタイルの見事さであった。

 特に、天井まで続く壁面一杯に施された細密な漆喰細工には人を幻惑させ、陶然とさせる魔力があるようだ。

 暫く、私は口を開けたまま、見入ってしまった。

 さぞかし、みっともない顔をしていたことだろう。

 ふと、周囲を見たら、皆私と同じように口を半ば開いたまま、見入っていた。

 人は皆同じだ、と思い、ニヤリとした。

 蔓草文様、何とも言えない摩訶不思議な文様が私を完璧なまでに酔わせた。

 ふと、メキシコのパレンケ遺跡の碑銘の神殿で見た墓石のレリーフが脳裏に浮かんだ。

 マヤのレリーフも見事なまでに、濃密な細工が施されている。

 まるで、彫刻が施されない隙間は罪悪であるかのように、隙間という隙間は全て稠密な彫刻が施されているのだ。

 このような発想は日本には無い。

 日本には、何も無い隙間をわざと残すことにより、無限の広がりというものを感じさせるという文化があり、隙間を埋め尽くすという発想は無いのだ。

 美意識は異なるが、美しいものは何と言っても、美しい。

 理屈は必要ないのだ。


 ヘネラリフェ離宮を出て、アルカサバと呼ばれる城塞に登った。

 城の頂上に立って、遠方の山々を見ると、白い頂が連なっている山々が見える。

 万年雪を戴くシエラ・ネバダである。

 アルハンブラ宮殿の水源であり、大いなる水甕であった山脈だ。

 あんなにも遠くの山から、この宮殿まで水を引いてきたのか。

 私は信じられない思いで、白い頂を持つ山々を眺めた。

 水を求めるのに、狂気にも似た情熱を注いだ砂漠の民の執念の凄まじさを感じた。

 眼下には、グラナダの街並みが広がっている。

 街の色調は統一されている。

 このような街は日本には無い。

 屋根の色、壁の色が見事なまで統一されているのだ。

 薄茶の屋根と白い壁。

 窓は四角でぽっかりと黒い口を開けている。

 ところどころに、糸杉だろうか、緑の槍のように空に向って鋭く伸びている。

 古都、グラナダは本当に美しい街だ。


 決められた入場時刻となり、私はナスリ朝宮殿に向った。

 アルハンブラ宮殿の中心は何と言っても、ここ、ナスル朝宮殿であり、華である。

 ヘネラリフェ離宮で味わった感動は更に増大した。

 私は、片隅に置かれた椅子に座って、暫く、びっしりと漆喰細工に覆われた壁を茫然と眺めていた。

 いくら眺めていても、全く飽きない。

 その内、泣きたくなった。

 陶然とした心持ちになり、思わず、泣きたくなったのだ。

 このような美があっていいものか、とさえ私は思った。

 このような美の空間に、あのアービングは何ヶ月も暮らしたと云う。

 私は、アービングに嫉妬した。

 アルハンブラ物語という格調高い小説を発表したアービングを心の底から尊敬しながら、私はこのような美を半ば独占した彼に嫉妬していたのだ。

 彼は何と言う贅沢で芳醇な時を過ごしていたのだろうか!

 

 小柄な太った案内人が私の脇を通りかかった。

 グラナダの名前の由来が知りたかった。

 それで、その案内人を呼び止め、この地方には、グラナダ(柘榴)が多かったのか、訊いてみた。

 違う、と言う。

 本来、この街はガルラナタと呼ばれていた。

 そのガルラナタがいつの間にか、訛って、グラナダという発音に転化したのだ、と言った。

 ガルラナタというのはどのような意味、と私はさらに訊いた。

 知らない、と彼は肩を竦めた。

 古来からあった言葉か、モーロの言葉だろう、と彼は少し恥ずかしそうな表情を浮かべながら付け加えた。

 案内人にお礼を述べて、さらに歩いた。

 表札がかかっている部屋の前に出た。

 ワシントン・アービングが滞在した部屋だそうだ。

 ドアは施錠されており、中には入れなかった。

 この部屋を根城にして、アービングは宮殿内を自由に散策して回ったのか。

 私は幸福な時間を過ごしたアービングにまた嫉妬し始めた。


 昔、外国に行ったら、一つだけその国の言葉を覚えておいたほうがいい、と言われた言葉がある。

 トイレはどこか?、と尋ねる言葉だった。

 アルハンブラ宮殿を見物した後、バスに乗って、街に下りた。

 フラメンコ・ショー見物ツアーの待ち合わせ場所に行ってみた。

 待ち合わせのホテルはすぐ見つかった。

 少し、小腹が空いたので、早めの夕食を摂ることとした。

 ホテルの脇のレストランに入った。

 イタリア料理を出すレストランでメニューを見たら、スパゲッティとかピザの名前が並んでいた。

 無難なところで、マルゲリータ・ピザを頼んだ。

 ビールを飲んでいたら、急にトイレに行きたくなった。

 だが、トイレらしいドアはどこにも見当たらなかった。

 そこで、カウンターの内側で、グラスを磨いていた男に、トイレの場所を訊いてみた。

 ドンデ・エスタ・バーニョ?

 その男は無愛想な顔で、少し離れたところの地下を指した。

 トイレはそうか、地下にあるのか、と私は了解した。

 なるほど、少し離れたところに地下へ続く階段があった。

 そう言えば、何かの本にヨーロッパのトイレは目立つところには無く、一般的には地下にあることが多い、という記事を読んだことがあるのを思い出した。

 ドアにアセオス(トイレ)と書いてあった。


 夕食を済ませ、待ち合わせ場所に時間より少し早く着き、所在無げに立っていたら、一人の東洋人の顔をした若者が近づいて来た。

 その若者は日本語を話した。

 Oさんが言っていた日本人参加者であった。

 この若者と暫く話した。

 京都生まれのこの若者は、会社に入って十年目のリフレッシュ休暇でスペインに来たと言っていた。

 バルセロナでサッカーの試合を観て、ここでアルハンブラ宮殿を見物した後、トレド、マドリッドに行くつもりだとも話していた。

 話しながら、私は自然と彼と自分とを比較していた。

 私の会社には十年目のリフレッシュ休暇などは無く、十年、二十年は記念品を貰っただけで、三十年目にして漸く、一週間程度の休暇と旅行クーポン券を貰うことが出来た。

 その三十年目の特典を利用して、私はメキシコを旅行したのであった。

 目当てはカリブ海であったが、チチェンイッツァとかウシュマルといったマヤの遺跡も見物してきた。

 随分と若い頃、日墨交換留学生としてメキシコで一年ほど暮らした私にとって、それらのマヤの遺跡はほとんど三十年振りといって良いくらいだった。

 その当時、カンクーンというところはカリブ海を臨む小さな漁村で、今のような国際リゾート地になるのはずっと後のことであった。

 この若者の年齢の頃は、私は地方の工場に勤務していた。

 確か、製造課の課長補佐になったか、ならないか、といった頃だったろう。

 二十四時間フル稼働の職場で、私は寮で暮らしていたが、真夜中の呼び出しなんぞは日常茶飯事で、寮で酒を飲むことも控えていたほどだった。

 時には、うっかり酒を飲んでしまい、立派な飲酒運転で工場に駆け付けたこともあった。

 でも、右肩上がりの経済の下、日本の会社は全て元気であった。

 今は、就職留年する大学生も多いとか、本当に元気の無い国になってしまった。

 若者とあれこれと歓談しているところに、どこからからか、Oさんが現われた。

 今夜は、アルバイシンの丘からアルハンブラ宮殿の夜景を観ますが、アルバイシン周辺はガイドでも付いていない限り、危ないところで近づかないほうがいいです、と私たちに話した。

 昼でも、夜でも一人では歩かないほうが良い、とOさんは真顔で言っていた。

 突然、背後から首を絞められ、持物を奪われる、ということだった。


 その内、迎えのマイクロバスが来て、私とその若者は乗り込んだ。

 バスはほぼ満員という盛況であった。

 日本人、フランス人、米国人と外国人がほとんどであった。

 アルバイシンの丘で下りて、路地を巡り、サン・ニコラス展望台まで全員で歩き、そこから彼方に見えるアルハンブラ宮殿の夜景を眺めた。

 街を挟んで向こうの丘に、ライトアップされたアルハンブラ宮殿が見えていた。

 オレンジ色の灯りは何故か郷愁を誘う。

 漆黒の闇に浮かぶアルハンブラ宮殿は幻想的で、歴史の深みを感じさせた。

 明日もアルハンブラ宮殿を訪れることとしている私は、大袈裟な言い方ではあるが、何か生きる希望めいた情熱を与えられたような気もしていた。


 フラメンコ・ショーはロス・タラントスという名前の洞窟ハウスで行われた。

 店は原色のけばけばしい色のネオンサインで毒々しく飾られている。

 タラントスという名前を初めて見た時、何だか不気味な感じがした。

 タランチュラという毒蜘蛛を連想したからだった。

 ロス・タラントスという言葉の意味は、フラメンコを踊る人たち、という意味らしい。

 そこで、ワインを飲みながら、フラメンコを観た。

 フラメンコを踊るダンサーには順番があるらしい。

 年齢の順で踊るのかも知れない。

 このロス・タラントスでも、若い娘、ちょっと年増、かなり年増の女の順で踊られた。

 この順で、フラメンコ自体の踊る技術も高くなっているのかも知れない。

 しかし、若い娘には若さという華がある。

 踊る体の線もしなやかで崩れてはいない。

 とは言いながらも、外国人の場合、花の命は短い。

 若くはない年齢になったら、後は、技巧を磨き、現役で居なければならない。


 フラメンコにはいろいろと思い出がある。

 かなり、甘酸っぱい思い出だ。

 中学か高校の頃、地元の市民会館に来たフラメンコ劇団を観たことがある。

 それが、フラメンコという踊りを観た最初であった。

 粋に踊るマホ(いい男)とマハ(いい女)たち、日本人には到底真似のすることのできない色気を感じた。

 その色気には多少は官能的で猥褻な匂いもあったかも知れない。

 一遍に、フラメンコが好きになった。

 メキシコに行った時も、アカプルコの劇場で観た。

 観客の中に日本人の姿が多かったのかも知れない。

 前座で唄ったマリアッチ劇団が、日本人に捧げるとか言って、ウナ・セラ・ディ・トキオという懐かしい歌を朗々とした声で唄ってくれた。

 その時、日本を離れて半年ほど経っていた私は望郷の念に駆られて、ほとんど涙目になった。

 そんなこんなを思いながら、私はフラメンコを間近で観た。

 ホテルに戻って来た時は、既に午前様になっていた。

 タクシーから降りて、空を見上げた。

 空はよく晴れ渡り、月と無数の星が綺麗に見えていた。

 涼しい風に吹かれながら、自分のこれからの人生のことを思った。

 自分で言うのも何だが、愛しいものと思うことが出来た。


 日本ではそれほど感じなかったが、外国に来ると、おひとり様は随分と肩身が狭くなる。

 特に、食事の時だ。

 日本人と違って、外国人の場合は夫婦で旅行するのが当たり前となっている。

 そこで、食事のテーブルに座るのも夫婦で座ることとなり、私のようなお一人さまは何とも格好がつかないのである。

 ホテルでの朝食だって、そうだ。

 お一人さまである私は、まるで人目を避けるかのように片隅の目立たないテーブルに席を占めることとなる。

 別に、悪いことはしていないが、真ん中のテーブルに席を堂々と腰を下ろすのは気が引ける。

 運悪く、片隅のテーブルが全部満員で、中央のテーブルしか空いていない時なんかは、悲劇である。

 連れを待つような仕草をしつつ、そそくさと食事を済ませ、そそくさと席を立つ始末となってしまうのだ。

 何を食べたか、も忘れてしまうほど、味気無い食事となってしまう。

 ひとり者は随分と気軽なものだが、同時に、好奇心溢れる視線にも晒されることとなる。

 旅は道連れを持つに限る、ということか。


 午前は昨日に引き続き、アルハンブラ宮殿の見物に出かけた。

 やはり、美しいものは美しい。

 昨日は、気付かなかったところも二度目となると、結構注意深く見えるようになるもので、細かいところの装飾、文様まで観察することが出来た。

 しかし、それにしても、季節なのか、やたら燕が空中を飛びまわっていた。

 宮殿の軒下、或いは欄干に巣でも作っているのかも知れない。

 空を見上げると、必ず、燕が忙しく飛びまわっている様子が目に入った。

 もしかすると、あのアービングもこのような燕の情景を見ていたのかも知れない。

 そう思うと、何だか面白くなった。

 燕のことを書いていたかどうか、日本に戻ったらもう一度、アルハンブラ物語を読み返してみようと思った。

 燕はスペイン語では、ゴロンドリーナと言う。

 メキシコには、ゴロンドリーナス(燕たち)という誰でも知っている名曲がある。

 日本で言えば、蛍の光。

 別れの際、唄われる曲だ。

 燕よ、お前はどこに行こうとするのか、そんなに急いで、羽根を休ませもしないで、・・・、と切なく続く唄だ。

 私も、一年ほど暮らしたメキシコを離れる際、空港でこの唄を思わず口ずさんだ。

 唄いながら、なぜか涙が零れ、止まらなかったという記憶がある。

 その時、私は二十代の若者だった。


 スペインでは中庭をパティオと呼び、パティオの良し悪しで家の値打ちさえ決まるという話をどこかで聞いたことがある。

 アルハンブラ宮殿にも勿論、パティオは多い。

 パティオには噴水、池、水路があり、必ず水が流れている。

 中庭の端にベンチが置かれてあり、私はベンチに腰を下ろし、水の音を聴いていた。

 纏綿たるアラブの情緒に浸っている時、無粋な音が聞こえた。

 どうも、私のポケットからの音のようだった。

 周囲の白い眼を気にしつつ、急いで携帯電話を取り出し、発信元を確認した。

 再就職を斡旋してくれている知人からのメールであった。

 一件、心あたりが出来たので、日本に戻ってきたら、面接試験を受けてくれというメールだった。

 友達というのはありがたいものだ、きっと、一生懸命探してくれたに違いない、と思い、私はその知人の顔を思い浮かべ、感謝した。

 さて、日本に帰ってから、やることが出来た、小さな食品会社の製造部長という話であり、生産管理とか品質管理には自信もあるので、結構いけるかも知れない、と思った。

 元気が段々湧きあがってくるような感じもしてきた。


 昼食は、Oさんが勧めてくれたレストラン、「ボアブディル」で食べた。

 このレストランで初めて、カラコル(かたつむり)を食べてみた。

 フランス料理で名高いエスカルゴとは違うかたつむりで、なりは小さいが、味は良かった。

 一人前を頼んだが、半人前で十分だよ、とカマレロ(給仕)に言われた。

 なるほど、半人前でも結構な量であり、シーフード・パエージャも注文した私は十分満腹になった。

 Oさんから勧められた、とカマレロに話したら、彼はニコッとしたが、別に勘定はまけてくれなかった。


 店の名前のボアブディルは有名な名前だ。

 グラナダは陥落し、モーロ人の王様はカトリック両王に降伏した。

 アルハンブラ宮殿を峠の上から眺め、その王様は涙を流した、と云われている。

 しかし、世の中には、おっかないおっかさんもいるものだ。

 めそめそと泣いている息子をこう怒鳴り飛ばしたというのだ。

 お前は男のように戦わずに、女のように泣いている、と。

 叱られたボアブディルという名の最後の王様が母に何と言ったのかは記録に無い。

 ボアブディルという王様は極めて小柄であったと云われており、仇名を付けるのが大好きな当時の人は、ボアブディルをエル・レイ・チコ(ちびの王様)と呼んだそうだ。

 ちなみに、グラナダを陥落させ、レコンキスタ(国土回復)を完成させたイサベル女王は、イサベル・ラ・カトリカ(カトリック女王・イサベル)と敬愛されて呼ばれている。


 スペインにはエル・コルテ・イングレスという大きなデパート・チェーンがある。

 グラナダにもあり、話の種とばかり、エル・コルテ・イングレスデパートの地下食料品売り場を覗いてみた。

 知らない食材が一杯あった。

 土産の足しになるかと思い、缶詰の類を結構買ってみた。

 イカ墨で煮込んだイカ、ガリシア風で調理されたタコ、ムール貝の缶詰、蜂蜜、ハーブティーなどを買った。

 レジに並んで、お金を払った。

 籠から買ったものをベルトコンベアの上に並べ、仕切り板を置く。

 コンベアが動き、レジの女が品物のバーコードを読ませる。

 精算を済ますと、自分でレジ袋を取り、品物を詰める、といったやりかただった。

 缶詰は結構重量がかさむ。

 金額はたいしたことは無かったが、結構買ったような気持ちにさせられる重さであった。


 バス停で下りた。

 すると、向こうから見覚えのある顔が笑いながら近づいて来た。

 リフレッシュ休暇でここに来ている若者であった。

 アルハンブラ宮殿を見物してきたので、これから、ホテルに帰って荷造りをして、夜のマドリッド行きのバスに乗ります、と言う。

 マドリッドまで十二時間のバスの旅です、と笑って言う彼と私は握手をして別れた。

 大学ではラグビーをやっていましたという彼の手はがっしりとしていた。

 一瞬、私は彼の若さを妬ましく思った。

 私はエル・コルテ・イングレスで買ったものを片手でぶら下げて、歩いた。

 先程、別れた若者のことを思った。

 あの若者にとって、旅先で知り合った私という存在はどういう存在なのか、と考えながら歩いた。

 勿論、特別な存在では無く、海外旅行でたまたま知り合った熟年のおじさんといった存在でしか無いだろうが。

 人生というのは、人と知り合う旅なのかも知れない、と思った。

 多くは行きずりであろうが、中には生涯の伴侶、知己となる人も居るだろう。

 あの若者の記憶の片隅にでも、私という存在が良い思い出として残れば、それはそれで幸いなことなのだろう、と思った。

 こんなことを思ったことは今までに無かったことに私は気付いた。

 しかし、それは悪いことでは無かった。


 あと、何年生きるのだろうか、と思った。

 父が死に、母が死に、妹が死に、気が付くと私は一人ぽっちになっていた。

 妻もいなければ、勿論、子供もいない。

 遠い親戚はいるけれど、この頃は音信不通となっている。

 自ら、それほど望んだわけではないけれど、どうにもこうにも、一人ぽっちになってしまった。

 私はパラドールのカフェテリアの片隅のテーブルに肘を付いて、徐々に暮れていく彼方のヘネラリフェ離宮を眺めていた。

 離宮に灯りが燈された。

 黄味がかった灯りは郷愁を誘う。

 このスペイン旅行が終わったら、私なりの再就職活動が始まる。

 郷愁とか、感傷に浸っている暇なんか、無いのだが、異国の旅は人を感傷的にさせてしまうものらしい。

 それにしても、実につまらない人生を送ってきたものだと思った。

 そのように思うこと自体、辛いことではあったが、こうしてひとりぼっちである自分を思う時、どうしようもなく、痛切に思わざるを得なかった。


 目が覚め、中庭に面している扉を開けたら、小鳥の囀りが耳に飛び込んできた。

 チュッ、チュッと綺麗な声で賑やかに囀っている。

 未だ、夜明け前だ。

 夜明け前に囀る小鳥で有名な鳥はナイチンゲールだ。

 きっと、ナイチンゲールに違いない。

 私はそう思うことにした。

 その美しい鳴き声を聴いている内に、何だか体にエネルギーが満ちてくるのを感じた。

 昨夜は自分の今後の人生を思って、随分と憂鬱に感じたものだが、今は少し違う。

 夜、考えのはろくでもないことなのかも知れない。

 在るべき希望が委縮してしまう。

 じっくりと考えるのは、朝がいい。

 朝は希望に満ちている。

 あの毛沢東も言ったではないか。

 青年は朝八時の太陽である、と。


 アルハンブラの思い出、というギターの名曲がある。

 甘く、感傷的な旋律を持つこの曲を私は中学の頃、ラジオで聞いた。

 今、その曲がひそやかに流れている。

 私は、ホテルの食堂でクロワッサンを指でちぎりながら、耳を傾けた。

 中学とか高校の頃の思い出が甘酸っぱく甦ってきた。

 しかし、過去の思い出は過去の思い出に過ぎない、思い出はつくるものだろう、今回の旅行で一杯思い出をつくり、思い出アルバムを更に充実させることとしよう、と私は思った。

 さて、食事が済んだら、ホテルをチェックアウトしよう。

 今日は、バスに乗ってマラガに行き、そこから電車に乗って、トレモリーノスに行く。

 トレモリーノスはコスタ・デル・ソル(太陽海岸)に臨む街だ。

 この三日間のグラナダ滞在は私にとって意味深いものとなった。

 人生ふた山だ、未だ終わっちゃいない。

 チェックアウトすることとした。


 「これから、どこに行くの?」

 クレジット・カードの手続きをしながら、若い女が私に言った。

 「バスでマラガに行き、そこから電車に乗って、トレモリーノスに行く」

 私の答えに大きく頷きながら、コスタ・デル・ソル、暑いけれど、いいところよ、とその娘は軽く呟いた。

 別れ際、レセプションに居たその若い女が私に言った。

 「ブエン・ビアッヘ(良い旅を)」

 人生は旅に似ている。

 誰かが言った言葉が脳裏に甦った。

 娘のその言葉は言わばエールのように聞こえ、私のこれからの人生を励ましているようにも思われた。

 私は、呼んで貰ったタクシーに乗り込んで、バス・ターミナルに向った。


 バス・ターミナルの風景はどこも似たり寄ったりだ。

 時間待ちのバスが何台か駐車しており、停車スペースと乗客が乗り込むスペースが区分されており、天井は呆れるほど高く、装飾は一切無い。

 白と薄緑に塗り分けられたバスが五、六台、所在無げに停まっていた。

 私は少し早く着いたので、荷物を片手にぶらぶらとターミナルの中を歩いた。

 広い待合室の正面に巨大な電光表示板があった。

 西語、英語、仏語の順で、『出発』と表示されており、目的地毎に、乗車乗り場、乗車時間がそれぞれ表示されていた。

 床はダークグレイでかなり厚めに塗装されており、雨などで濡れると滑りそうなくらい、つるつるだった。

 コカ・コーラのベンダーが何箇所かに設置されており、ミネラルウォーターのペットボトルも販売されていた。

 日陰に居ても汗ばむくらいの陽気だったので、私はターミナルの中にあるカフェテリアに入って、時間待ちをすることにした。

 搾りたてのオレンジジュースは乾いた喉を優しく潤す。

 美味かった。

 美味しいものを飲んだり、食べると、人は少し幸せな気分になる。

 搾りたてのオレンジジュースを飲みながら、私は思った。

 人生はそれほど悪くない。

 このジュースのように、味わい深いものがあるに違いない。

 そう思いながら、私は思わず一人笑いをしてしまった。

 正面のテーブルに座っていた客が怪訝そうな顔をした。

 私は急いで、笑いを隠し、厳粛そうな顔を装った。


 バスでグラナダを発ち、マラガに向った。

 バスは風景を未練無く振り切って走っていく。


 乾いた白っぽい大地。

 一面に広がるオリーブ畑。

 草を食みながら、のんびりと歩く羊の群れ。

 道端のごつごつとした岩肌。

 通り過ぎる白い壁の家々。

 薄い茶と濃い茶が入り混じった瓦の屋根。

 屋根の上には、透き通るような青い空。

 雲ひとつ無い空。

 背の低い灌木が申し訳無さそうに地面にしがみついている。

 これが、アンダルシア。

 バスの窓から過ぎ去っていく風景を見ながら、私の心は静かに満たされていった。

 死ぬまで、とにかく、人生だ。

 一度限りの人生だもの、楽しまなくてはならないさ。

 私はそう思った。


 ふと、ドン・キホーテの言葉を思い出した。

 『太陽はまだ土塀の上にある』という言葉であった。

 夕暮れ近くにはなっておらず、まだ、昼間じゃないか、という意味で使われていた。

 還暦を迎え、会社を定年退職はしたが、人生を退職したわけじゃないんだ。

 人生ふた山、これから第二の人生が始まる。

 今までの人生を引きずる必要は全く無いのだ。

 身寄りも無く、おひとり様でお前は死んでいくのだ、って。

 それはその通りだ。

 でも、それがどうした。

 現実ではあるが、ただの現実じゃないか。

 現実よ、思いあがるのもいい加減にしろ、お前はただの現実に過ぎないじゃないか。

 六十歳からの人生を十分に生きればいいのだ。

 そして、敢え無く、死を迎えたとしても、このように思えばいい。

 『裸で生まれたおいらは、今も裸。失ったものも、得たものも無いのさ』

 愛すべき男、サンチョ・パンサの言葉だ。

 人生、って、それほど悪くない。

 私は前を向いて生きていこう。

 ただ一度かぎりの人生だもの。




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