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「くぅー、しみるぜー」


 ぷしゅっと開けた缶ビール。通り抜ける苦味は喉から全身に勢いよく爽快感を散布する。つい先程まで仕事でくたびれた心と身体が嘘のように生気を帯びていく。この一杯の為に生きている、とまではいかなくとも、この一杯によって人生が救われている事は確かだ。

 

 PCから流れるお気に入りの激しいロックBGMもビールの旨みに負けていない。耳から心を昂ぶらせる音楽という魔法に、俺は心底感謝している。

 音楽がない世の中なんて、死んでるも同然だ。人生の中に音楽は常に溶け込んでいる。それに無意識、無関心な人間も、音楽を取り上げられた瞬間気付くだろう。日々の生活の中で、音楽というものがどれだけ世の中を豊かにしているか。

 本当ならもっと爆音で部屋の中に音を埋め尽くしたい所だが、一人暮らしのマンションの一室において、その欲求をストレートに満たす事は憚られる。全てを壊さんばかりの激音好きであっても、望んでいるのは平和だ。無用なトラブルなどもってのほかだ。だから俺は許される音量で、許される平穏の中で心を満たす。そんなささやかなものでいいのだ。


 ――でもなあ……。


 ささやかなのはいい。一人で好き勝手にくつろぐのは自由で心地がいい。それで満足に感じる時もある。だがふいに満たされたと思っていた心に小さな穴が空いていたりする。

 そしてその穴の原因がひどくシンプルである事をその度に思い出す。


 ――やっぱ、寂しいよなあ。


 何事にも表と裏があるのがこの世の常。表裏一体。幸せの裏には不幸がある。一人暮らしの気楽さの裏には寂しさがあるのだ。一人でいる限り、この感覚はどうしても付き纏う。


「はあーあ」


 駄目だ。ため息なんぞ吐いてたら幸せが逃げるぞ。ぴしゃりと頬を叩き、立ち上がる。風呂にでも入ってすっきりするのがいい。それがいい。

 服を脱ぎながら風呂場に向かう。そろそろ湧いた湯も良い頃合いだろう。素っ裸の状態で、風呂場への扉を開く。


 そう。俺はただこの時、風呂に入ろうとしただけなのだ。この後起きる事など微塵も予想していなかった。俺にそういった感覚はないし、経験もない。

 ここに住み始めて二年。未だそういった体験もなければ、そう言う場所でもない事は契約の際に確認済みだ。だからこの直後に起こる事は、全くもってあまりにも不意打ちだった。

 

 俺は扉を開く。いつも通りのスピードで。

 狭い浴室。普通であれば真正面にぶら下がったシャワーホースと鏡が目の前に来て、その右横に湯の貯まった浴槽がある。

 しかし、今日、今俺の目の前に映る景色はまるで違っていた。

 扉を開いた目の前に、そいつが立っていたからだ。


 一瞬、それが何か分からなかった。目の前に小さなブラックホールでも現れたのかと思った。漆黒が目の前にある。俺の浴槽に何故亜空間がと訳の分からない回転を始める俺の脳みそ。しかし徐々に脳が落ち着き始める。

 落ち着くと目の前の黒い物体だけに当たっていた焦点がだんだんと広がっていく。視線を下に下げていくと、白と肌色が目に入った。二の腕と足が真ん中の白から生えている。

 違う。白は服だ。ワンピースだ。そしてここでようやく全ての情報が繋がった。

 目の前のもわっと広がった黒が、長く垂れ下がった頭髪である事を。


「あ、あ、あ、あ」


 やばい。何がかは分からないが、とにかくやばい。心臓がせかすように胸を叩く。

 動け。逃げろ。

 何故動いて、逃げなければならないのか。

 それは、目の前に見ず知らずのわけの分からない女がいるからだ。

 しかし、身体はびくりとも動かない。震える事は出来るのに、床に着いた足は接着されたかのように張り付いてしまっている。

 

 やがて、女の両腕がぐーっと上がり始める。突きだされた両腕が地面と垂直の位置で止まる。女の指先が俺の顔に当たりそうになる。

 あっと思った瞬間に、俺の身体はへろへろと腰から砕けその場にへたりこんでしまう。しかし視線は女から外れない。外せない。

 女の頭がぐらぐらと奇妙に揺れる。まるで壊れた人形のようにぎこぎこ、がたがたと揺れ動く。髪は振り乱れるも女の顔はまるで見えない。


 ――こいつ、何なんだ……。


 何も出来ず、ただその場で怯える事しか出来ない。

 女の伸びた腕が折りたたまれ、自分の顔の方に向かっていく。両手が自分の長い髪を掴んだ。そしてそのまま、両腕が横に開かれた。


 ――え?


 ここに来て、混乱が戻ってきた。

 女の顔が露わになった。長い髪の間から女の顔が露わになった。

 恐怖が引いたわけではない。相変わらず腰は抜けたままだ。だが、完全に恐怖は和らいでいた。


「うへっ」


 女の口が少し動いた。これは、こいつの声か。妙な感覚が加速していく。

 

 ――なんだその可愛い声は。

 

 そう思っていた所に、駄目押しの一撃が放たれた。


「あ、あ、ああ、うわーーーーー!」


 大きく開かれた彼女の口から、幼さの残る声が僕に勢いよく飛んで来た。


「ちょちょちょちょちょちょ!」


 目の前の彼女は慌てふためいて自分の顔を手で覆った。


「……あ、あ、す、すみません! こんな、あっ、も、うわ、うわー!」


 その場でくるくる回ったり、地団駄を踏んだり、急にせわしなく動き回る姿に、俺の恐怖はすっかり吹き飛んでいた。

 何だこいつは。もう訳が分からない。分からないがともかく――。


 一瞬見えた彼女の顔は、およそ幽霊と呼ぶには程遠い普通で、可愛い、女の子の顔だった。


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