倶利伽羅峠の戦い
兄・頼朝が関東での地盤強化に専念し、
弟・金吾秀秋が鎌倉で自堕落な生活を営んでいた頃、
京の都では大飢饉が発生。
その日の生活に苦労する住民と
その住民から身の安全を保障することを条件に
税を徴収している各勢力の身入りが減ることに不満を覚えた諸豪族が
富士川にて。
戦いもせず逃げ出してしまった平家の体たらくに勇気を持ち、
平家に対し、反旗を翻す事態が
平家の本拠たる西国地方で発生。
これを受け平家の総帥。平清盛は
最も反平氏の動きを鮮明化させていた興福寺ほか奈良の宗教勢力の掃討を決意。
見事鎮静化に成功するも東大寺ほか古都奈良の諸寺は炎上。
その結果、清盛は『仏敵』の汚名を着せられることになりました。
頼朝:「なぁ金吾。」
金吾:「兄上。何故にござりましょうか……。」
頼朝:「清盛も平治の際。
我々を亡きモノにしなかったことを後悔しているのであろうな……。
以仁王様同様。諸豪族を『反平家』1つに集めることの出来る
我々のような錦の御旗を残したことを……。」
金吾:「左様にございます。」
頼朝:「富士川の結果。我らと平家が直に境を為している地域が無い上、
我々は未だ流刑の身が解除されておらぬ故。
京へ向け上洛を目指すことは相成らぬが
いづれその機会もやってこよう。
今はのんびり過ごすがよい。」
(金吾が部屋を離れる様子を見て)
頼朝:「……錦の御旗となる……か。」
と独り呟く頼朝でありました。
その後、平家総帥である清盛は病に倒れ、
家の行く末に不安を覚えながらこの世を去ると
俄然。反平家勢力の動きは活発化するのでありました。
この動きを封じ込めるべく新たに平家の当主となりました平宗盛は
飢饉が小康状態となった寿永2年。
北陸一帯へと進出してきた木曽義仲を討つべく平維盛を総大将に10万騎を率い出陣。
越前から越中までの北陸の地で維盛と義仲は一進一退の攻防を演じ、
倶利伽羅峠の戦いを迎えたのでありました。
金吾:「聞いたか。正成。」
稲葉:「義仲が倶梨伽羅峠にて
平家遠征軍の内7万騎が一夜にして壊滅的打撃を被ったそうにござりますな。」
金吾:「……また寝込みを襲われるとは。我々も気をつけねばならぬ……。」
稲葉:「聞くところによりますと
義仲の内1隊があらかじめ平家の退路を塞いだ状態で夜襲を仕掛け、
慌てた平家軍が退こうと試みるも
そこは既に義仲の軍が控えていて進むことが出来ず。
唯一開いていた逃げ口が倶梨伽羅峠の谷底。
追い込まれた平家軍は次々と……。」
金吾:「今後我らも敵地での戦いが続くことになる。
と言うことはつまり
平家側優位の場所でのいくさになる故。
地形の判断に十分な時間と労力を割く必要があるな……。
して戦いののち、平家と義仲はどのようになったのだ。」
稲葉:「平家は残った兵をまとめ京へ撤退。
義仲は、勝った勢いそのままに
京の手前。
天皇の近衛兵たる延暦寺に到着。
それに呼応する形で西から京へ通じる道を遮断するモノ。
遠江より東海道を使って京に迫るモノ現れ、
京に留まることは困難であることを悟った平宗盛は
安徳天皇と3種の神器を保持しながら西国に落ち延びてゆきました。」
金吾:「……私と兄・頼朝の目的は既に達成されてしまった。
と言うことだな……。
この手で父・義朝の無念を晴らすことが出来ず残念ではあるが……。」
義仲上洛により、
驕れる平家を京から追い出すことに成功した源氏勢力でありましたが
これにて一件落着とは相成らぬのでありました。