富士川の戦い
治承4年8月。以仁王の令旨を受け取った源頼朝は流刑先の伊豆で挙兵。
伊豆目代の山木兼隆邸を襲撃。殺害に成功するも続く石橋山の戦いに惨敗。
追手を何とか振り切り、頼朝は安房の国へ。
安房の国のある関東は元々頼朝の祖先。
八幡太郎義家に恩を受けた武将が多々居たことも幸いし、
安房から下総。更には武蔵の国へと順調に兵力と勢力圏の拡大に成功した頼朝は、
抵抗らしい抵抗を受けることも無く、
源氏累代の本拠地である鎌倉の地に根を下ろすのでありました。
その間。「頼朝挙兵」の報が石橋山で頼朝を破った大庭景親より平家に通報され、
それを受けた平清盛は頼朝追討の兵の召集に取り掛かるも
吉日を選ぶ選ばないの内部対立に加え、
西国が大飢饉であったため食糧の調達もママならなかったことも手伝い、
兵は増えども士気は上がらず。
自ずと進軍もゆっくりなモノとなってしまい、
追討軍が駿河の国に入った頃には
頼朝のほかに甲斐と木曽の源氏が挙兵。
頼朝自身も関東で確固たる地盤を得、
20万モノ大軍に膨れ上がる中、
源氏と平氏は富士川を挟んでにらみ合うのでありました。
そんな源氏と平氏が相対します富士川のほとりで
兄・頼朝との再会を心待ちにしていたのが弟である金吾・秀秋(義経)。
今宵はここで野営とすることを部下に伝え、長旅の疲れもあり、
深い眠りに落ちる金吾・秀秋と小早川軍。
翌朝未明。
平家の後背を狙うべく甲斐源氏の部隊が兵を進めて来たのが富士川のほとり。
運悪くそこは
金吾・秀秋が深い眠りに落ちていた場所。
思わぬ人影に驚いた甲斐源氏。
その驚いた甲斐源氏を見て、更に狼狽する金吾・秀秋と小早川軍。
これは敵なの?味方なの?
と交錯する情報に右往左往する両隊に水鳥が呼応。
一斉に飛び立つ水鳥の羽音を敵の襲来と勘違いした対岸の平家軍は大混乱。
平家軍は武具も忘れ逃げまどい、
他人の馬に跨るモノ。
杭に繋いだままの馬に乗り、同心円上を周り続けるモノなど現れ、
隊を維持することは困難と判断した平家方大将の維盛は
隣国遠江に退き立て直しを図るもうまくいかず。
大将・平維盛が京に戻った頃には
当初7万にまで膨れ上がっていた兵力は
わずか10騎にまで激減する大惨敗を喫するのでありました。
こうして金吾・秀秋は鮮烈なデビューを果たすのでありました。