夢と振り上げられた手
「おはよう」
あまり眠れなかったヴィンスは一人起きていたベルに挨拶した。
水平線を眺めながらコンロの前に座っているベルはそのまま「おはよう」と返した。
「二酸化炭素だらけの世界でも火は起こせるんだな」
「そうだ。朝食を作る為に持ってきた酸素を使って燃やしているんだ」
ベルは鍋をコンロの火に掛ける。
鍋の中にはまろやかな黄色いスープが入っている。
コーンスープか何かだろうか。
「少し贅沢な朝食になってしまうが、お前が来たからちょっとでも歓迎しようと思ってな」
「それは有り難い」
「コーンスープで祝うのもなんだが、豆粒1つの朝食よりは増しだろう」
ヴィンスがコールドスリープする以前の世界でも、毎日の食事は豆粒1つとなっていた。
一食分のエネルギーと栄養素を摂る事のできる豆が開発され、今現在も人の食事は全てこの豆によって成り立っている。
「しかしこの味気ない豆が食糧難を防いでいると思うと感慨深いな。これがなかったらもっと人の数は減っていただろうし、酸素玉と一緒に食べ物も取り合いになっていたかもしれない。小さな豆なのに見掛けに寄らない奴だ」
そう言ってベルはその小さな食料を口に放り込む。喉を鳴らしてそれは胃に落ちていった。
「1つ聞きたい事がある」
ヴィンスは言った。
「なんだ?」とベルは答える。
「あんた達は南へ向かっているらしいが南へ行って何をするつもりだ? これからどうするつもりなんだ?」
尋ねるとベルはさも自信があるかのように覇気のある声で答える。
「南にブルーレイクというオアシスがあるという言い伝えがある。俺達はそこを目指しているんだ」
「ブルーレイク? その確証はあるのか?」
「確証はないかもしれないが古くから伝えられている。何でも、ブルーレイクから来た行商人がこの話をしたらしいんだ」
ヴィンスはその話を納得できなかった。
ベルに悪気はないかもしれないが、皆が間違った事を言い伝えてきた可能性もある。
伝説となると重みはあるかもしれないが信じるとなると話は別だ。
「俺は北の町に住んでいたがブルーレイクに父親がいると聞いて、会う為にこのトレーラーに乗り込む事にしたのさ」
「父親とはワープゲート事故の後に会った事は?」
「残念ながらまだ会えないんだ。子供の頃に事故で別れてそれ以来だ。だから早くブルーレイクに行って再会したいんだ」
話を語るベルの表情はとても穏やかだった。
ブルーレイクを信じて止まないベルは心地の良い夢を見ているみたいだった。
しかしヴィンスはそれ以上何も言わない。
あまりにも都合の良い夢のような話を信じようとも思えず、かと言って否定するにも忍びなかった。
ただベルの心情を察している。
この時代の人間達はそのような夢にも縋らなくては心が持たないのかもしれない。
あるいは、世界の物事に根拠となるものが失われすぎて何を信じればいいのかわからなくなっているのかもしれない。
そもそも世界が滅んだ時、二人はまだ幼かったのだから気休めにブルーレイクの話を信じさせられた可能性だってあるのだ。
ヴィンスはそれらのような寛大な捉え方していてたが、あまり釈然とした気持ちにはなれなかった。
ベルがしたいようにすればいいと考えているが間違えを犯している姿を見ていて、あまりいい気分にはなれない。
ただ他人事のように笑みを浮かべて黙るしかなかった。
そのヴィンスへ今度はベルが質問した。
「お前はこれからどうするつもりなんだ?」
この世界でまだ一日も経っていないヴィンスは返答に渋る。
「俺は……まだわからない」
「俺達と一緒に南に来るのは構わないが、如何せん酸素玉の余裕はない。セリカは酸素玉を使わないが二人分だけでも切り詰めているんだ」
自分の酸素玉が残り少なかった事をヴィンスは思い出す。
一つぐらい分けてもらえないかと考えていたが、どうやらそこまで余裕がなく、甘い考えだったらしい。
こんな事になるなら先日の施設で族から酸素玉も奪っておけばよかったとヴィンスは後悔した。
あの時はまだ価値がどれほどのものか分からなかったし、時間もなかったとは言え、大きい失敗である。
「しかし他の物資なら支援できる。食料は余っているし、トレーラーに格納してあるバイクも持っていっていい。昨日族から逃げるのに力になってくれた礼だ」
コンテナで服を着替える時にヴィンスは黒くて大きなバイクを目にしていた。
バイクを使えるとなるとこのトレーラーを離れるとなった時にかなり役に立つはずだ。
まだこの先の目的を決めていないヴィンスだったがベルの言葉はとても有り難いものとなっていた。
「それは有り難い。感謝する」
「いいんだ、俺達も感謝している。さて、そろそろスープも煮えてきた頃だ」
鍋からカップへスープを注ぐとベルはそれをヴィンスへ渡す。
湯気が立ち上るスープを火傷しないように飲むと、味と共に温かさが広がっていく。
喉を鳴らすとスープが胃に落ちていくのがわかるほどに温かく、ヴィンスの体の隅々まで熱が染み渡っていく。
「砂漠の夜は冷えるから温かいだろう」
「そうだな、温まるな」
返答するヴィンスを前にベルははにかんだ表情を見せた。
砂ばかりの場所で飲むスープはかつて知るスープの味と比べて一層深みを増した味わいをしていた。
ベルに南へ行く理由を聞いたヴィンスはレベッカの理由も聞いておきたいと思うようになっていた。
日没から時間が経って日が回った頃の話である。
紫外線を避けるために洞窟で眠ったヴィンス達は、トレーラーでの旅を再開して砂漠の先を行っていた。
運転しているレベッカはどうやら気分が良いようで、口元を緩ませた和やかな表情でハンドルを握っている。
「レベッカはどうして南へ向かうんだ?」
気になっていたとは言え、ヴィンスの質問は唐突なもので脈絡など全くないものだった。
前方を向いたままレベッカは答える。
「南ってブルーレイクの事?」
「そうだ。レベッカにも南へ向かう理由があるのだろう?」
「そうね……そうじゃなきゃこんな旅をしていないわね」
レベッカは憂いを帯びた目で遠くを見ている。
ベルの時と同じように、誰かを思い出しているかのような目だった。
「私に妹がいたの」とレベッカは話し始める。
「ワープゲート事故が起きる終焉の日、妹は南へ旅行していた。ブルーレイクがあると言われている場所からとても近いところよ。砂漠の真ん中にオアシスみたいに湖があって、そこで沢山の人が住んでいる」
レベッカが片手間でローブから紙の切れ端を取り出す。
手渡されたヴィンスが見ると、かなりボロボロだったがそれはブルーレイクの写真である事がわかった。
「その写真は事故以前のものだけど、この場所で妹が待っているらしいの。だから私は南へ向かっているのよ」
「なるほどな。でも、ブルーレイクが存在する証拠や根拠というものはあるのか?」
「ブルーレイクがあるという言い伝えは昔からあるのよ? それにその写真があるように、確かに昔は湖があってリゾート地になっていた。昔の証拠と今の言い伝えがあればその存在は確かじゃない」
ヴィンスはそのブルーレイクの写真を眺めつつも、今もその場所が存在しているとは納得できなかった。
写真は残っていても今を写したものではなく、言い伝えでしか今の存在を証明できない。
それならブルーレイクが今も残っているとは考えられなかった。
ヴィンスは写真を返しながら呑気にも笑みを浮かべていた。
他人事であるかのようにレベッカとベルの気持ちを受け止めて、彼は容赦のない言葉を言い放った。
「それじゃあブルーレイクが存在しているとは思えないな」
二人に対して言ってはいけない事をヴィンスは軽々しく口にしてしまった。
レベッカが動揺するだけでなく、隣に座っていたベルまで彼に目を向けている。
「言い伝えがあるからと言ってそれが確かだとは言えない。口だけの証拠は一番信用できないものだっていうのはわかるはずだろう? 言い伝えだって口で伝えられてきたものだ」
「確かにそうだけど、私達が子供の頃からある伝説で――」
「子供の頃は確かにまだ正しいものと誤ったものを判断し辛い。だから別に恥じる事はないんだ。子供をあやす為に吐かれた嘘は誰だって一度は信じてしまうんだから」
動揺するレベッカは更にまくし立てられると黙り込んでしまった。
ハンドルを握る手も弱々しく、ちゃんと前を見ているのかさえ定かではない。
ベルが代わりに尋ねる。
「それじゃあ俺の父親はどうなるって言うんだ? 俺達は会うべき人がいるからブルーレイクに向かっている。それがないという事はどうなるんだ?」
「この世界に夢みたいな希望があるとは思えない。俺よりもずっとこの世紀末を生きてきた二人ならわかっているはずだろう? だからベルの父親もレベッカの妹も事故で生き残れなかったと考えておくべきだ。そうしたら後々打ちひしがれる事もなくて楽なはず――」
ヴィンスの言葉はトレーラーの急ブレーキで止められた。
彼の言葉に堪え切れなくなったレベッカがブレーキを踏み込んでトレーラーを停めたのである。
それから彼女が立ち上がってヴィンスの目の前までずかずかと歩いていくと、右手を振り上げて彼の頬を思いっ切り叩いた。
頬を叩かれた音はヴィンスの中で何度か反響し、世界が大きく揺れる。
殴られるかもしれないと何となく予想はしていたものの、レベッカに殴られた痛みはストレートに伝わってきた。
「それ以上しゃべらないで。次に私の妹が死んでるなんて戯言を吐いたら今度は殴るだけじゃ済まないわよ」
殴った上に脅し文句まで吐いたレベッカだったが、その目はとても弱々しくあり、涙がいっぱいにまで溜まっていた。
眉を頑なに吊り上げていても悲しみの涙は止まらないようだったのである。
その涙を見られないようにする為か、レベッカは言いたい事を全て口にするとすぐに背中を向けて運転席に戻った。
再びアクセルを踏んでトレーラーは動き出したが、車内は険悪な雰囲気のままだった。
殴られたヴィンスは頬の痛みを感じつつも、まるでこういった痛みに慣れているかのように口を緩める。
言われた通り口をつぐんで黙っていたが、あくまでもヴィンスは飄々とした表情を浮かべている。
レベッカを泣かせ、ベルの夢も壊してしまったのだが、それでもヴィンスは自分を曲げなかった。
彼は幻のような儚い夢ではなく現実にある事実を述べていた。