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あの子、と誰かが言いました。

「……っ、逃げろ!」

 背筋を駆け抜けた悪寒に、シリルは妹の体を突き飛ばした。彼女の黒髪が宙を泳いだと同時に、視界を銀色の輝きがかすめる。

「まあ憎らしい、あの女を庇うなんて」

 シャーリーを仕留め損ねた得物を手元に引き戻し、エレインが顔を歪める。

 彼女が持っているのは、ペーパーナイフだった。装飾が施され、切れ味などほとんどない、ありふれたものだ。

 それを手にして、しかし彼女は真剣にシャーリーの死を願っていた。

「エレイン様……!?」

 悲鳴のような声が、人気のない廊下に響き渡る。青ざめた顔のシャーリーが、ペーパーナイフを手に突進してきたエレインと、彼女の進行を阻んだシリルを見つめていた。

「死んでくださいな、シャーリー。今ここで、わたくしの手にかかって」

「え? ……え?」

 混乱しているシャーリーに向かって、エレインが足を踏み出す。

「おい!」

 ペーパーナイフを持つ手を掴み、シリルは彼女を力一杯引き寄せた。振り向いたエレインが、不思議そうにシリルを見つめる。

「どうしましたの? わたくし、今、とても忙しいんですの」

 まっすぐに向けられる眼差しに、戦慄が走った。

 一切の揺らぎも、濁った輝きもない。罪悪感も、迷いも、何もない。

 彼女の瞳は子どものように純粋で、澄んでいた。自分の行為に、何の疑問も抱いていないのだ。

 体中にどっと汗が噴き出す。それなのに手足の先は冷たくなり、体は凍りついたように動かなかった。

「放してくださる?」

 動けないシリルに、エレインは言い聞かせるように言葉を紡ぐ。

「悪い子ですのね」

 妖艶な笑みを浮かべた唇が近づき、シリルの耳元に寄せられた。

「……邪魔をするのでしたら、かわいらしい耳を噛みちぎってしまいますわよ?」

「……っ」

 その言葉に、心底ぞっとする。

 エレインは本気だ。手を放さなければシリルの耳を噛みちぎろうとし、手を放せばシャーリーを殺そうとするのだろう。

 シリルに殺されたいという、彼女にしか分からない思考の末に。

 腹の底で、何か熱いものが渦巻く。

 せり上がってきたそれはシリルの胸を、喉を焼き、言葉を奪った。

(……ふざけるな)

 声に出さずに毒づいて、シリルは手に力を込めた。エレインの眉が潜められ、整った面差しが歪む。

「痛いですわ。放して下さる?」

「嫌だ」

 きっと彼女を睨めつける。

 変な奴だとは思っていた。どこか狂っていることも理解していた。

 けれど、ここまで壊れて(ヽヽヽ)いるとは思わなかった。

「……本当に、噛みちぎってしまいわすわよ?」

 怖いほどに真剣な光を灯す瞳に見据えられる。

「……ふざけるな」

 ようやく言葉になったそれは、低くかすれていた。

「ふざけてなどいませんわ。わたくしはあの女を殺さなくてはいけませんの。だって、あなたは彼女にとても優しい眼差しを向けていましたわ。大切そうにあの女に触れていましたわ。あの女の名を呼んで、笑っていましたわ。あなたはわたくしのものですのに!

 あなたはわたくしだけを見て、名を呼んで、触れて、微笑めば良いのですわ。そしてわたくしを殺すの。他の女に関わっている暇なんてありませんのよ」

 ねえ、と彼女は甘やかな声音を唇からこぼした。

「放して下さいな。あなたを惑わずその女を、すぐに消して差し上げますから」

「い・や・だ!」

 さらに手に力を込めつつ、シャーリーに逃げろと視線で訴える。呆然としていたシャーリーが我に返ったように後退り、こくりと頷いてからシリル達に背を向けた。

「待ちなさい!」

 シャーリーが逃げ出した事に気づいたエレインが、力ずくでシリルの手を振り解く。

 ぱっと駆け出したエレインを追い、シリルは床を蹴った。

 彼女よりも早く駆け寄り、恐怖に瞳を見開く妹の腕を掴んで引き寄せる。

 代わりのように躍り出たシリルへと向かって、

「――死になさい!」

 勢いよくペーパーナイフが振り下ろされた。

 布地が裂ける音。鋭く尖った切っ先が肌に触れ、食い込む感覚。

 鈍い衝撃と共に、腕がかっと熱を持った。溢れ出したものが袖を赤くそめ、ぐっしょりと濡らしていく。

「シリル!」

 シャーリーの悲鳴が聞こえる。

「――え?」

 エレインが呆然と瞳を開いた。

 彼女は自分の腕に視線を落とし、握りしめたペーパーナイフを視界に入れ、切っ先が埋め込まれた腕を眺め――最後に、その腕の持ち主であるシリルの顔を見た。

 無事な方の手で突き飛ばせば、エレインはよろめいて後退り、すとんとその場に崩れ落ちる。

 彼女は目の前のものが理解できないとでもいうかのように首を傾げた。

「……どう、して」

 薔薇色の唇から、言葉がこぼれる。

「どうして、あの女を、庇うんですの?」

 ぽたり、と赤い滴が床に落ちる。

「どうして、だって?」

 駆け寄ってくるシャーリーを背後に庇いつつ、シリルはエレインを見下ろした。

「分からないのかよ」

 シャーリーはシリルの家族だ。大切な人だ。守ろうとするのは当たり前だ。

 ペーパーナイフを突き立てられた腕が、じくじくとした痛みを訴える。いまさらのように足元がふらつき、額に脂汗が滲んだ。

「……エレイン」

 彼女の名を呼ぶ。

 怒りのせいか、目の前が真っ白に染まりそうだった。

 慣れとは恐ろしい。心のどこかで、エレインをまともな人間だと思っていた。彼女の異常性に慣れてしまっていた。

 慣れてはいけなかったのに。

「嫌いだ」

 きっと彼女を睨みつける。

 頬からすうと血の気が引く様が、やけに目についた。

「エレイン。お前なんか嫌いだ、大嫌いだ」

 頭の芯がぐらりと揺さぶられ、意識が遠のきそうになる。

 意地だけでその場に留まり、シリルは口を開いた。

「目障りだ。一生……もう、一生、俺の前に姿を現すな」

 その瞬間だった。

 パン、と空気が爆ぜる音がし、目の前でストロベリーブロンドと赤が舞い散った。ぐわんぐわんと耳鳴りがし、脳が揺さぶられるような感覚に吐き気を覚える。

 翠玉(エメラルド)の瞳が驚いたように見開かれた。

「――――」

 エレインが唇を動かしたが、聞き取る事ができない。

 状況が理解できずに固まるシリルの前で、エレインはぐっしょりと血に染まる己の腕を見下ろして瞳を細めた。その後に唇を開いたのは、あらまあ、とでも呟いたのだろう。聞こえずとも、そのくらいは分かる。

 エレイン、と彼女の名を呼んだ気がする。彼女が顔を綻ばせたから、きっとそれは耳に届いた。

「――れは」

 幾分かましになった耳鳴りに紛れて、彼女の声が聞こえた。

「とんだ伏兵でしたわね――」

 翠玉が伏せられ、身体が傾いだ。ふわりと広がったストロベリーブロンドが青ざめた肌を彩り、純白の服を染めた赤が、血溜まりとなって広がっていく。

 ゴトン、と重たいものが落ちる音に、シリルはのろのろと振り向いた。

 背後に投げ出された鉄の塊は、紛れもなく拳銃だ。

 その傍らで震える脚から視線を上げていき、血の気のない顔をさらに青ざめさせた少女を視界に入れる。

「シャー……リー……?」

「違……」

 涙を浮かべた彼女は後ずさり、拳銃に足を取られて転んだ。ひっと息を飲む音が廊下を震わせる。

 シリルが意識を保つ事ができたのは、そこまでだった。

 視界が暗転する。

 意識が途切れる直前に、エリー姉様、と悲鳴が聞こえたような気がした。

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