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誰がその血を求めたの?

「……眠い」

 気を抜くと閉じてしまいそうな瞼をこすって、シリルはひとりごちた。目の前に広げたものを眺め、一人目を据わらせる。

 シリルの前に広げられているのは、歴史の研究誌だった。大まかな流れを習う学院の授業とは違い、ひとつひとつをこと細かに考察したものである。情報量が多いので、一冊一冊が辞書のような分厚さを持っていた。

 手元にあるのは、二十冊構成のうち、最初の五冊である。

(あいつの頭の中はどうなっているんだ……!?)

 研究誌を押し付けてきたエレインの満面の笑顔を思い出し、シリルは顔をしかめた。



『あなたが早く賢い人間になるように、わたくしがみっちりしっかり教え込んで差し上げますわ!』

 あの後、宣言したエレインはにっこりと笑い、シリルを本棚の奥へと引っ張っていった。

 そうして本を物色した彼女が手にしたのが、この研究誌だったのだ。

『手始めはこれですわね』

 彼女の唇から紡がれた言葉に、シリルは拍子抜けすると共に心底安堵した。周囲に人気がないことに気づいてからずっと撲殺の危機を感じていたことは内緒である。

 ほっとしているシリルに構わず、エレインは片っ端から研究誌を取り出していく。

『まずは知識を増やすところからにしましょうか。……三日もあれば十分ですわね』

『……は?』

 抜き出した本が十冊を超えたあたりで呟かれた言葉に、シリルは彼女を見つめた。

『本を読んで、覚えて、理解するだけですもの。三日もあれば簡単でしょう? ですから、三日後にテストをしましょう。初めから完璧に、というのはあなたには酷でしょうから、八割ほど覚えていただければまあ、合格ということにしますわね』

 さりげなくけなされている気がしたが、問題はそこではない。

『おい、これは研究誌だろ!』

 持ちきれないからと床に積み上げられた本を指差し、シリルは声を上げた。

 彼女が手にした研究誌は、学者向けに書かれたものである。高等学院生の知識では、読み解くだけで膨大な時間を必要とすることは目に見えていた。寝る間を惜しんで読んでも、三日では到底読み切れない。

『あら』

 シリルの主張に、エレインが首を傾げる。

『あなた、本当にお馬鹿さんですのね……!』

 彼女は翠玉の瞳に憐れむような光を宿し、もの悲しげにシリルを見つめた。

『あなたは優秀と聞いていましたけれど、噂はあてになりませんのね。ただのお馬鹿さんだったなんて』

 その言葉に顔を引きつらせる。何が悲しくて彼女に憐れみのまなざしを向けられなければならないのだ。

『お前な!』

『あら、何を怒っているのかしら。……馬鹿と言われたことかしら? 事実でしょう』

『俺はそこまで馬鹿じゃない!』

 叩き付けるように放った言葉に彼女が笑みを浮かべたのは、その直後だ。

『まあ』

 薔薇色の唇が弧を描く。

 しまったと思った時にはもう、遅かった。

『ではお馬鹿さんではないあなたなら、この本を読んで理解することはできますわよね?』

『…………』

 ここで否定すれば、自分が馬鹿だと認めたことになる。

 かくしてシリルはエレインの思惑通り、「宿題」を押し付けられたのだった。



(……だめだ、さっぱり分からない)

 必死に文字の羅列を追うが、脳が理解することを拒絶している。そもそも知らない単語やら事件やらが頻繁に出てくるので、話の筋がさっぱり見えない。まるであのトンデモ令嬢そのものだ。

 それでも諦めるのは癪で、シリルは眠たい目をこすりつつ机に向かう。シリルは負けん気が強いのだ。一方的に馬鹿扱いされるのは気に食わないのである。

 初秋とはいえ、夜は冷える。少しだけ開けておいた窓から忍び込む冷気が、火照った頭をひやりとなでた。傍らのランプからうっすらと伝わる熱に気づき、ほっと息をつく。

 ふと空気の流れが変わったことに気づき、シリルは顔を上げた。

「シリル」

 透き通った声音が、甘えるように名を呼ぶ。

 首を巡らせたシリルは廊下へと通じる扉の前に佇む人影に気づき、目をしばたたいた。

「シャーリー」

 起きてたのか、という呟きに、彼女はこくりと頷く。

「眠れなかったから、お菓子でも貰おうかと思って」

「……あのな」

 勝手知ったると言わんばかりに――実際にそうなのだが――寝室に潜り込んだかと思うと大量の菓子を抱えて戻ってくる彼女を見て、シリルは嘆息した。

「いいじゃない、お兄ちゃん」

 菓子と共に自分が贈った人形を抱えて戻ってきた彼女は、うっすらと笑う。腰までの黒髪がふわりと揺れ、細い肩にまとわりついていた。

「今日はご飯も食べられたし、お医者様ももう少し良くなったら学院に行けるとおっしゃっていたもの」

 ネグリジェとガウンを揺らして近寄ってきたシャーリーは、シリルと同じ瑠璃(ラプスラズリ)の瞳で手元を覗き込んでくる。すぐ横についた手は驚くほど細く、日の光を知らないかのように青白かった。

 それも当然だ。

 シャーリー・ウォルトン。双子の妹は生まれつき病弱で、臥せっていることが多い。

「これ、宿題……?」

 しばし文字を目で追った彼女は、困惑したように首を傾げた。

「学院の授業って、こんなに難しかったかしら」

「いや、これは学院の授業じゃなくて、あいつが――」

「あいつ?」

 きょとんとするシャーリーを見上げ、シリルはああ、と呟く。そういえば、彼女にはエレインのことを話していない。

「スチュアート伯爵は分かるだろ?」

「うん」

「そこの令嬢に押し付けられたんだ」

 その言葉に、シャーリーは瞳をまたたかせた。

「令嬢って、……フィリスさん?」

「いや、フィリス様じゃなくて、その姉」

「お姉様、ということは……」

 かすかに眉をひそめた彼女は、恐る恐るといった体で口を開く。

「エレイン・スチュアート?」

(……なんだ?)

 珊瑚色の唇から紡がれた声音に、シリルは内心で首を傾げた。

「知ってるのか?」

「有名じゃない」

 硬い声で答え、シャーリーは研究誌を机の隅に追いやる。

 忌避するような態度に、シリルは眉をひそめた。

「スチュアート家の……血まみれ令嬢(丶丶丶丶丶丶)でしょう」

 血まみれ令嬢。

 いつになく刺々しい言葉を吐く妹の表情は、ランプの明かりのせいか、ひどく歪んで見えた。


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