誰があなたを見つけたの?
昨日はとんでもない目に遭った。
シリル・ウォルトンは寝不足のせいで重たい体を引きずり、放課後の校舎を歩いていた。
高等学院の制服に身を包み、本がぎっちりと詰まった鞄を大切そうに抱えている。制服を一部の乱れもなく着こなしているが、目元の隈と首に巻かれた包帯が異質感を醸していた。
「……はぁ」
包帯に触れ、深々と嘆息する。
シリルが父親と共にスチュアート伯爵家を訪れたのは、昨日のことだった。
スチュアート伯爵家は、国内有数の商家であるウォルトン商会と繋がりが深い。領内の港で行われる貿易を商会に任せ、その後援に収まっているからだ。故にシリルの父は定期的にスチュアート伯爵邸を訪れており、跡取りであるシリルは父に連れられて、久方ぶりに顔を出したのだった。
優しげな面差しの伯爵や二人の子息、そして同じ学院に通う生徒でもある令嬢と顔を合わせ、その後庭園を散策していたのだが――
じくり、と嫌な痛みが首に走る。
「おいウォルトン、邪魔だ!」
思わず立ち止まって顔をしかめていると、ばたばたとせわしない足音が近づいてきた。はっとして顔を上げると、わずかに残っていた生徒達が横を駆け抜けていく。彼らは興奮したように囁き合いながら、校門へと向かっているようだった。
(珍しいな)
彼らの姿をぼんやりと見送って、シリルは内心で首を傾げる。目の色を変えて走るなんて、一体どうしたのだろう。
(……何かあったのか?)
少し気になったが、大したことではないだろうと思い直す。
参考書を抱え直し、シリルは図書館へ向かって歩きだした。もうすぐ閉館時間だ。早く本を返却して帰らなければいけない。
人気のない廊下を進み、階段を下りていく。
踊り場に至った時に、それは降ってきた。
「見つけましたわ!」
不意に響いた声に、シリルはぎょっとして目を見開いた。
(……は!?)
ぱっと振り向くと同時に、頭上に影が差す。
次の瞬間、シリルは肋骨が折れそうな衝撃に息を詰まらせた。勢いよく床に叩きつけられ、頭部をしたたかに打つ。
「がっ」
思わず声を上げた瞬間、顔面に何か柔らかいものがぎゅむっと押しつけられた。
「会いたかったですわ!」
階段の上から落ちてきた彼女はシリルの顔を豊かな胸元に押し込み、そのまま潰そうとでもいうように力を込める。弾むような声音から察するに、ひどく上機嫌だ。
「お……おおおおおお前は……!」
じたばたと暴れて脱出を遂げ、シリルは震える指を彼女に突きつけた。
「エレインですわ。エリーでも愛しい人でも蜂蜜さんでも、お好きに呼んでくださいな」
「呼ぶか馬鹿!」
真っ赤な顔で叫ぶと、なめらかな指先でするりと頰をなでられる。
「まあ、語彙が貧相ですのね。昨日も同じようなことをおっしゃっていたような記憶がありますわ」
シリルの指の先で、彼女はにっこりと笑う。
「照れなくてもいいんですのよ?」
「そうじゃない――!」
その言葉に、シリルは学院中に響き渡るような声で叫んだ。
彼女は肩で息をするシリルを不思議そうに見つめていたが、ふと瞳をしばたたかせ、うっとりとした笑みを浮かべる。
「今日もすてきな声ですわね……かすれて聞き取り辛くて、わたくしの好みそのものですわ!」
おもむろに指先を掴まれ、シリルはびくっと肩を跳ね上げた。嫌な予感に、体中から一気に血の気が引いていく。
シリルを「とんでもない目」に遭わせてくれたのは、誰であろう彼女だった。
スチュアート伯爵令嬢、エレイン・スチュアート。
彼女はたいそうな変人――もとい、思考回路が破綻した御仁だったのである。
「まあ、指先もすてきですのね。すらりとして、爪の形も美しくて、歪みがない。こんな所まですてきだなんて、本当に罪な方ですわ」
今も彼女は艶やかなストロベリーブロンドを揺らし、舐めるようにシリルの指を眺めて絶賛している。
ひとしきりシリルの指を愛でた彼女は、おもむろにその手を自分の顔へ近づけた。
「さあその指で、わたくしの目を潰してくださいな」
「は?」
突拍子もない発言に手を振り払うことも忘れ、まじまじとエレインを眺める。
「恋は盲目と言いますでしょう?」
彼女は熱に浮かされたような眼差しでシリルを見つめた。
「ですからわたくし、あなたに潰していただきたいのですわ。何なら、くりぬいて飾って下さっても構いませんのよ? あなたを永遠に見つめていられますもの」
滔々と訴える内容は、シリルの理解を超えている。この発想は一体何なのか。
「むしろあなたの瞳を抉ってしまおうかしら。わたくしはあなたしか見ていませんけれど、あなたは他の女の姿を見て、言葉を交わしているのでしょう? くりぬいた瞳は小瓶にでも入れて持ち歩くことにしますわね。宝石のようで、きっととても綺麗ですわ。
ああでもやはり、その前にわたくしの目をくりぬいて――」
「ちょ、ちょっと待て!」
頬を染めてまくし立てる彼女の手を強引に振り払い、シリルはずりずりと後退った。
本当にとんでもない。どこをどうしたら目玉をくりぬきたくなるのだろう。
「どういたしましたの?」
かわいらしく小首を傾げる彼女に、シリルは声を荒げた。
「な、何でここにいるんだよ!?」
まずはそこだ。
「見学ですわ。あなたがいるのならわたくしも通おうかと思って」
「お前たしか十九だろ! とっくに卒業した年齢だろ!」
「年齢など関係ありませんわ。入学の条件である学力は満たしていますし。
……あなたは怒鳴り声まですてきですのね。喉を潰してしまいたい。その声を他の方にも聞かせているなんて許し難いですわ」
本気とも冗談ともつかぬのが恐ろしい。多分本気だ。翠玉の瞳が獣のような光を放って喉元を凝視している。
「お前頭おかしいだろ!」
「あら」
その言葉に、彼女は心外だとでもいうように眉をひそめた。
「何を言っていますの? わたくしほどまともな人間はいませんわよ」
「どこがだ!」
「分かりませんの?」
「分かるか!」
むしろ分かりたくない。分かった時には彼女と同類になってしまうではないか。
「だいたい、なんで俺がこの学院にいるって分かったんだよ!」
「調べたからに決まっていますでしょう」
うふふ、と愛らしく笑ってはいるが、唇から出てくる内容はなかなかどうして笑えなかった。
「昨日、あなたがご自分の邸に帰るまでを物陰から見守っていたんですの。家が分かってしまえばこちらのものですし」
それは一般的につきまといと言われる行為である。
「他にも、色々と調べさせていただきましたわ。
あなたの名前はシリル・ウォルトン。年は十五。ウォルトン商会の跡取り息子で、この高等学院に在学中。愚妹の級友ということですわね。
家族構成は両親と双子の妹、犬。好きな食べ物はプディング、嫌いな食べ物はニンジン。他にも苦い食べ物がお嫌いとか。ベッドの横には妹から贈られた人形がいて、下には夜にこっそり食べる用のお菓子を隠している。それから――」
「ちょ、ちょっと待て!」
(どうしてそんなことまで知っているんだ――!?)
心の中で悲鳴を上げる。ちなみに全て事実だ。
「わたくし、神は信じていませんけれど、運命は信じていますの」
恥じらうように長い睫毛を伏せ、エレインは潤んだ瞳を向けてくる。
「あなたを一目見た瞬間、心臓が引きちぎられるかと思いましたわ。その時に分かりましたの、これは運命だと。ということで、わたくしを殺して下さいな。いいえ、まずその綺麗な指でこの目を抉り取って下さいね、あなたに贈りますから」
いらない。
じりじりと詰め寄ってくるエレインの姿に冷や汗を掻きつつ、ぶんぶんと首を横に振る。
背に冷たい壁が触れた。いつの間にか廊下の端にまで辿り着いてしまったらしい。ぶるりと体を震わせると、エレインがはっとしたように表情を曇らせる。
「まあ……顔色が優れないようですけれど、大丈夫ですの?」
主に彼女のせいで大丈夫じゃない。
ぼそりと呟いたが、エレインは聞いていないようだった。
「病気ですの?」
心配そうに顔を覗き込んだ彼女はシリルの額へと手を伸ばし、弾かれたように手を引っ込める。
「恋は病とも言いますものね」
彼女はしたり顔で呟き、ひとつ頷いた。
「それならば仕方がありませんわ。あなたの病はわたくしに恋をしてくださった証ということですもの。
……と、言うことは」
一気に表情を緩めた彼女は、獲物に飛びかかる直前の獣のように距離を詰めてくる。
「殺して下さるのね!」
次の瞬間、細い腕が絡みついてきた。
「うわぁあああああ!?」
悲鳴が放課後の廊下に響き渡る。
勢いよく抱きつかれ、シリルは背後の壁に頭を打ち付けた。鈍い音と共に、目の前が一瞬暗くなる。しかし彼女は全く気にせず、シリルに体を押しつけて華やいだ声を上げた。
「どこからやって下さるの? 喉を裂くところから? それとも肌をズタズタに? 耳をもぎ取って下さっても良いのよ、あなたに殺されるなら本望ですわ」
その前に殺されるような気がしてたまらない。
「さああなたのかわいらしい口で、綺麗な指で、その腕で、殺して下さいな!」
シリルの頬に自分の頬を押しつけて、彼女は楽しそうに囁いた。甘い花の香りが鼻をかすめたかと思うと、吐息が耳朶にかかる。
「ああ、耳まですてき……綺麗な形で小さくて、まるで貝殻みたいですわ。引きちぎってしまいたい……」
シリルは眉をひそめる。
脳裏をかすめた嫌な予感に慌てて体を離すのと、彼女の歯ががちりと鳴るのはほぼ同時だった。
「まあ、何しますの!? せっかくあなたの耳を噛みちぎって差し上げようと思いましたのに!」
「噛みちぎられてたまるか!」
なおも顔を寄せてこようとするエレインを渾身の力で押し返す。年下と言えど少年の力には敵わなかったのか、彼女は小さく声を上げて尻餅をついた。その隙に身体を起こし、シリルはエレインから距離を取る。
「まあ、毛を逆立てた小動物のようでとても愛らしいですわよ」
床に座り込んだ彼女は、気分を害した風もなく微笑んだ。
「うるさい!」
シリルを見上げ、彼女はついと首を傾げる。
「大きな声を出しているのはあなたの方ではなくて?」
誰のせいだと思っているのだ!
叫びだしたくなるのを全力で堪え、シリルは拳を握りしめた。
彼女の言葉をまともに聞いていてはだめだ。シリルがすべきなのは、この危機を逃れる方法を模索することだ。
じわりと足を引き、逃走の用意を整える。
階段の方で足音が響いたのは、その時だった。
「エリー姉様!」
「エリー!」
天啓のごとく降ってきた声に、はっと顔を上げる。
「まあ、愚妹とどこかで見た顔と……それから後はどなたですの?」
エレインの妹――フィリスが教師達を引きつれて駆け寄ってくるのを、シリルはぽかんとして眺めた。
「シリル無事!? 姉様に殺されてない!?」
すさまじい剣幕に気圧されるように頷くと、彼女はほっと息をつき、きょとんと自分達を見上げているエレインへと顔を向ける。
「……姉様」
困惑した表情を浮かべて、彼女は唇を開いた。
「学院には許可なく敷地内に入れないのよ?」
「まあ、そうですの?」
エレインが瞳を瞬かせる。
「門で書類に記入して、許可証をもらわなければならないの」
「まあ、面倒ですのね」
「安全のためですもの」
「それで門番に止められたのですのね。仕方がなかったのですわ、彼を見つけてしまったのですもの」
「彼? ……シリルですか?」
「ええ、わたくし、彼に殺されることに決めましたの」
教師達にぎょっとしたような視線を向けられ、シリルは慌てて首を横に振った。自分は巻き込まれたのだ、無関係だと視線で訴える。
「とにかく」
シリルとエレインを交互にみやり、フィリスがため息をついた。
「シリルが原因みたいですので、まずはお二人に話を聞かせていただきましょうか――職員室で」
いいですよね、と彼女は教師達を見上げる。
「……そうですね」
ろくに説明をしていなかったのか、彼らは話の流れがよく分かっていないようだった。しばらく顔を見合わせた後に、年配の教師がフィリスの視線に耐えかねたように頷く。
「まあ、職員室に行くのは初めてですわ!」
状況を分かっていないらしいエレインが弾んだ声を上げた。
「……最悪だ」
教師達の視線を背に受けつつ、シリルはよろよろと立ち上がる。
「……いいか、噛むな、押し倒すな、引っこ抜くなよ」
そして念入りに注意をしてから、座り込んだままの彼女へとおっかなびっくり手を差し伸べたのだった。