あなた、と彼女は言いました
時は少し遡る。
「おい、お前。何しているんだ?」
足元からかけられた声に顔を上げ、エレインは瞳を瞬かせた。
覆い茂る葉の間から光がこぼれ、純白のブラウスとスカートに落ちかかっている。穏やかな初秋の日差しと涼やかな風の中で本を繰るのは、エレインにとって、それなりに気に入っている時間だった。
「木の上にいるのですわ」
「……何で」
「何で、と言われましても……」
困惑したような声音にきょとんとする。この声の主は、一体何を言っているのだろう。
「本が読みたいからですわね」
正確には、退屈で一辺倒な教師の話を聞くよりも本が読みたかったから、である。
室内用の靴を履いた足をぷらぷらと揺らして、再び本へと視線を落とす。話はこれで終わりだ。たとえ家族であろうとも、エレインの邪魔をすることは許し難い。知らない相手ならばなおさらだ。
しかし。
(――あら?)
ふとあることに思い当たり、エレインは首を傾げた。
「あなた、どこの誰ですの?」
よくよく考えたら知らない声だし、スチュアート伯爵邸の人間なら、エレインのことを知らないはずがない。普段ならば放っておくところだが、何か予感めいたものが、エレインに口を開かせた。
「そういうお前こそ誰だよ」
「まあ」
純粋な驚きが胸を満たす。
「わたくしのことをご存じないの?」
「つま先しか見えない奴のことなんか知るかよ」
「それもそうですわね」
その言葉に納得し、エレインはぱたんと本を閉じた。たしかに、声だけなら分からなくても仕方がないだろう。
足下に視線を落とせば、枝の間から、黒髪の持ち主がちらりと見える。木の葉に遮られてよく見えないが、エレインの知らない人間であることは間違いない。
視線を感じたのだろうか、ふと彼が顔を上げた。その瞬間、折良く吹いた風に、視界が開ける。
「まあ」
小さく声を上げて、エレインは腰を上げた。するすると器用に枝を伝い、低い枝へと移動する。
幹と枝の付け根のあたりに腰を下ろすと、顔を上げた少年が、あちこちに木の葉をくっつけたエレインを見てぽかんと口を開けた。
「あらあら……」
人形のように固まってしまった少年を見下ろし、エレインは苦笑する。よくあることなので、いまさら困惑することもない。
エレイン・スチュアートは、類希なる美しさを持つ人間だった。
腰まであるストロベリーブロンドの巻き毛。薔薇の花びらのように艶めく唇。大粒の翠玉をはめ込んだような瞳に、しみひとつないなめらかな肌、ほんのりと色づいた頰。女らしいまろみを帯びた体つき。
その全てが寸分の狂いもなく組み合わさり、彼女を美の女神たらしめている。かつてはあどけなさを残していた面差しも十九歳になった今では大人びたものになり、道を行けば誰もが振り返るような、圧倒的な魅力を放っていた。
「見慣れない顔ですわね。どなたですの? わたくしの婚約者?」
エレインの問いに少年がまばたく。長いまつげが光を弾き、まだあどけなさが残る頰に淡く影を落とした。
「は?」
「父が縁談の話ばかり持ってきますのよ。違いますの? では――」
本を膝に置いたまま首を捻る。
堅物教師の子ども。
自分や兄妹の縁談相手、もしくはその親族。
思い当たる候補はいくつかあるが、どれもしっくり来ない。
(本当にどなたなのかしら。……ああ、それにしても――!)
ふるりと体を震わせ、きらきらと輝く瞳で彼を見つめる。
本当に綺麗な少年だ。年はエレインよりもいくつか下――妹のフィリスと同じくらいに見えるから、十代の半ばだろう。まっすぐな黒髪や、怪訝そうにこちらをうかがう瑠璃の瞳がひどく好ましかった。
エレインの方へ体を向け、まっすぐに見つめてくるところや、ややかすれた声もすばらしい。
要するに、エレインの好みドンピシャである。
(まあ……)
こんなにかじりつきたくなる相手に出会ったのは初めてだ。
あの宝石みたいな瞳をえぐり取ってしまいたい。喉に噛みついて、引き裂いてしまいたい。成長途中の体をずたずたに傷つけて、エレインの存在を骨の髄まで刻み込んでやりたい。
いや、むしろ――
「ねえ、名前も知らないあなた」
エレインは身を乗り出し、少年の顔を覗き込んだ。
「うわ」
急に間近に迫った顔にたじろいだのか、それともエレインの膝からすべり落ちた本を避けるためか、少年が声を上げて後ずさる。
エレインははっとした。
(……逃げられてしまいますわ!)
それは困る。ようやく見つけたのだから、絶対に逃がすわけにはいかない。
「待ちなさい!」
鋭く叫ぶなり、エレインは木から飛び降りた。
「え!? ……うわっ!?」
驚いたように目を瞠る少年を巻き込み、芝生に転がる。
エレインは彼の細い体をまたいでその上に座り込み、改めて少年を観察した。
(どうしましょう……)
間近で見れば見るほどかわいらしい。体つきまでエレインの好みなのだから罪深い。思わず触れた頰の感触もこれから成長していくであろう華奢な体の輪郭も、何もかもがすてきだ。
飽きもせずに彼の体に掌を這わせていると、少年の顔が次第に赤らんでいく。
「お……お前……」
きっと睨み付けてくる瑠璃の瞳はほんの少しだけ潤んでいて、羞恥に駆られた表情はとんでもない破壊力を有していた。
(まあ……!)
心の中で嬉しい悲鳴を上げ、うっとりと少年を見つめる。
彼は一体どこの誰なのだろう。名前は何というのだろう。
ああけれど、それよりも何よりも、聞かなければいけないことがあった。
「い、いいからどけよ……!」
「嫌ですわ」
歌うように答え、彼の首に指を巻き付ける。
(捕まえましたわ)
力を込めた下で脈打つ命の証は、ある衝動を呼び覚ました。
「ねえ、名も知らぬあなた」
その衝動に逆らわず、エレインは彼に顔を寄せる。
そして。
「わたくしを殺して下さる? ――それとも、わたくしに、殺されて下さる?」
がぶり、と。
少年の首筋に、迷うことなく噛みついた。
そして今に至る。
エレインの歯が少年の白くなめらかな肌に当たり、食い込み、そして皮を破る。舌や唇が触れた肌は熱くて、わずかに汗ばんでいた。
ぶつりという感触と共に広がる鉄臭い味。
彼の命そのもの。
「ぎゃああああああああ!!」
つんざくような悲鳴が少年の唇から迸った。骨張った手がエレインの肩に食い込み、力一杯引きはがそうとする。
あまりにも強く抵抗されたので、エレインは仕方なく唇を離し、体を起こした。少年は先ほどまでとは打って変わって、真っ青になっている。小刻みに震える様子は、可憐の一言に尽きた。
「まあ、かわいらしい」
すなおな感想を漏らして、エレインはうっとりと目を細める。ぺろりと自分の唇を舐めると、少年はびくっと大げさなほどに体を震わせた。
「お、おおおおおおお前――!」
「ですから、エレインですわ。エリーと呼んで下さいと言いましたでしょう?」
「そうじゃない!」
少年はエレインから手を離し、齧りつかれた首筋を押さえる。彼の指先を濡らすのは、エレインの唾液と、彼自身の血液だった。
む、とエレインは眉を潜める。
「……さすがに噛み裂くのは難しそうですわね」
思った以上に浅手だ。出血も少ないし、力を込めたのに噛み裂くどころか噛みちぎることもできなかった。気に入らないことに、彼の体は意外と丈夫だ。
気に入らないと言えば、彼の服装もである。落ち着いた色合いの服を着ていたら、血が目立たないではないか。そんなのは美しくない。
彼には白い服を着てもらおう。純白の服に広がる赤いしみや裂けた服から覗く肌は、これ以上ないほどに美しいはずだ。
(あら、でもそんな彼の姿を、わたくし以外にさらすのは癪ですわね……)
いっそ閉じこめておこうか。
いやいや、今すぐこの首を刈り取って、剥製にでもして飾っておこうか。
しかしそれでは彼に殺してもらえなくなってしまう。
勝手に妄想を膨らませていると、少年がじたばたと暴れだした。
「な、ななななな何するんだお前は!」
「あら、言いませんでしたかしら?」
その言葉に、エレインはきょとんとして首を傾げる。
「わたくし、あなたに殺されたいのですわ。 ――あなたに恋をすると決めたのですもの!」
だって彼は、声も髪も瞳も肌も、反応も何もかもが、エレインの好みそのものだったのだから。
エレイン・スチュアート伯爵令嬢にはある野望がある。
「息が出ないように、声が出ないように喉を焼いて、裂いて。誰も触れたいと思わぬほどに体を傷つけて、バラバラにして、はらわたを引きずり出して。最期には心臓にぐさりと牙を突き立てて殺してくださる。
――わたくし、そんな相手と殺し殺される恋がしたいんですの」
彼女の野望は少々――いや盛大に、常軌を逸していた。