鴉野さん。レビュー書いてください。『ちょっとプロット出してみな。半ピラ用紙一枚でいいから』
「鴉野さん。レビュー書いてください」
「ちょっとプロット出してみな。半ピラ用紙一枚でいいから」
口元をひくつかせる彼と苦笑いをする鴉野。
「い、いや、秘密ですよ秘密」
「なら書くわけないじゃないか。完結するかどうかもわからん話に付き合う読者さんがかわいそうだし」
「い、いや、いつも世話になっているかわいい仮想人格のためにアクセスアップに協力してくださいよっ?!」
これもまたひどいタイトルなのだがまれによくあるから困る。どっちだ。
鴉野のように勢いではじめてそのまま十万字突破。そのまま完結までに至る人間は実は珍しいらしい。
鴉野自身でもエタッている作品が何作かあるし。たまに更新するけど。
普通の人はプロットを書く。あらすじでいいから書く。
そうしないと自分でもストーリーの細かいところや設定を覚えていないという事態が生じる。
また、長期休養して設定などを完璧に忘れて再開できなくなるのもプロット不在が主な原因である。
もう超簡単なあらすじでいいからプロットを作り、あるいは短編に一回まとめてから長編に挑んでほしい。
毎日短編が書ける人間は長編を毎日更新して書く人間より大変だ。
長編は人気取り回を入れることができるが短編は一発勝負だからである。
これは書籍化作家さんでも変わらず、前に受けたシリーズを書いたり、売れていない作品でも印税がほしいからもっと刷れと出版社に強要したりするそうだ。
そんなに儲けたいなら新作をちゃんと売れるように書け。『芸術』なんかいらねえんだとは百田尚樹氏の『夢を売る男』で鴉野が受けたメッセージである。作者の意図と違うこともあるので注意。
勢いで書いていた作品はちょっと躓いたら大いにコケる。
酷評だったり、仕事などの環境の変化だったり、結婚したとか子供が生まれたとかもある。最後おめでとうございます。
そういうわけで鴉野は『完結までのあらすじ、できているのですか。見せていただけないでしょうか』とレビュー依頼をされたら一応聞くことにしている。
読者さんだって応援していた話が急にエタったらいい気がしないだろう。
世の中には『何度も書き直しと称して一部削除とアップロード繰り返しでアクセス数稼ぐ』『完結設定を毎日つけてアクセス数稼ぐ』『アクセス数が伸びなければ削除もしくは放置する』という方も一応いらっしゃる。
鴉野は話を作るのが好きだが、目立つのが好きな人もいるので目的次第と言える。しかし、その目立つためだけのことで利用されたってうれしくはない。
「ええ~。いいじゃないですか」
うっさい。
読者さんたちだって応援していた作品が更新されなくなったらがっかりだよ?!
「いや、できません。プロットなんてあるわけないじゃないですか」「じゃ、書かない。そもそも読まない」
このほうがまだましである。
「仕方ないから出します」
早いな?!
なになに。エルフ王の歴史。なんか香ばしいな。人間族の王の○○時代がほうほう。
「数十万年の歴史があるので語りつくせないので書けなかったのです! わかったでしょう?!」
で。転生チートハーレムなのね。うーん。
なろうの転生勇者って正直その世界の歴史を重視するタイプではない。むしろ破壊者である。作中では改革者と呼ばれているが実態はそう呼ぶにはあまりにもつらいものがある。
彼らは歴史的経緯でその世界の人間がそういった行動や技術を使っていることを重視しない。歴史があればあるほど反発も生まれよう。不要な設定としか言いようがない。あらすじみる限りその歴史が主人公に絡むと思えないし。
ファンタジーに現実世界の人間が登場する話は今では古典化したナルニア王国などが有名だが、どちらかというとある種のギャグなのだ。せっかく異世界を作ったのに現実世界の人間が水をかけてどうするのだろうというジャンルである。今となっては誰も思わないが。
鴉野はほうじ茶の生み出す暖かい息を吐き出す。
「長くても10話以内に完結できる。というか短編で書ける」
「え?! すごい歴史があるお話なんですよ。一〇万字超えると思います」
鴉野はこう書いた。
『かつて活躍した英傑、王族を讃える碑が苔むし、砕けて旅の老人の座椅子となり、人々に謡われることなくなって幾年経ったであろうか……(以下略)。エルフの歌が人々の生活から消え去り、彼らが守り神として讃えられていたという。その事実を覚えているのは深き森の奥の廃村の跡とも言えぬ堤だった枯れた小川だけだ……』
鴉野がその気になったら『夢を追う者』の長い話を『星を追う者』のように短編にすることが可能だ。語り手であるチーアさんの個性としてそのままにしているが。
累計作は全体を短編で書けない。
削れるものは全部削ってあの文量だからだ。
それでもギャグ回はないわけではない。人気取りな回もある。
しかしマイナー作はそうじゃない。たいてい削れるところが残っている。
余計な受け狙いはいらない。そもそもギャグ回でキャラ崩壊して面白いということはそれまでに積み重ねたキャラがあるからだ。なんどもやるものではないし、やったらせっかくの積み重ねが台無しになる。
一度きりの登場の無名の脇役が受け狙いしても誰得である。ましてや物語序盤だ。それならさっさと主人公の活躍を出したほうがマシだ。
鴉野が現実世界にして一〇分足らずの時間で数一〇万年分の自作の冒頭あらすじに従った短編を作って持ってきた事実を見て彼は言った。
「確かに、一〇話程度で終わりますね」
証明方法がまだ開発されていない時代に書かれた経済学の古典ならさておき、娯楽小説に読者が楽しむのと関係ない余計な描写や設定はいらない。
読者は『面白かった』『続きどんなお話なんだろう』と楽しむ結果がほしいだけである。
それは読者としての鴉野も同じ意見だったりするのだ。
とりあえず半ピラ一枚でいいからプロットは書くべきだ。不要と思ったら削れるし、足りないところは足すことができる。文章が長いのがよいことではない。とにかく削り、短編でいいから完結させるほうがよっぽど上等だと思う。
しかしいくらプロットが重要でも、鴉野のように半ピラ一枚に『ちょっと愛宕に一本歯下駄履いて登ってくる』としか書かない人間もいる。
これは別件で騒動を巻き起こす。