人として生きる権利『アカ中学校はアニソン三昧』
鴉野は今でも『ケグリ(蛙)』などの韓国語の歌が歌える。仕込まれたからだが。
さすがにボッチだったので手話で授業中に雑談しまくってた級友の真似はしていないしできない。当時の鴉野は成績は悪いがある意味まじめだったのである。
亡き父が『鴉野の英語の成績がまったく伸びない』と心配する母にあっさりこう述べたことがある。
『どんどん難しくなっているはずなのに成績が落ちていないということは授業についていくための努力はしている』
父の慧眼に母は『やはり子育てには男性の視点も重要なのだ』と思い知らされたらしいが、そんなことより鴉野という人間は別段外人さんだろうが日本人だろうがあまり関係がない。ボッチなので垣根があって当たり前なのだ。適当に放言して聞こえた声は声ではなく音声として反応しているだけなので英語だろうが日本語だろうが問題ない。ゆえに語学はダメだが会話は普通にこなす。ちゃんと受け答えしているように見えても鴉野の会話は会話ではなくて『反応』なのだ。本質的に他人をまったく理解できない。壁のようなものが心にあるからである。というか人間の心が薄い。
『この世のすべては敵でしかない』
放言した鴉野に父が『じゃ俺も敵なのか』と悲しそうに呟いたことを鴉野は覚えている。
そんな人間の心に疎い輩でもアニメの歌程度は歌える。アイドルの歌も歌える。というか鴉野が『知らない歌でも後出しで合唱する特技がある』のは以前も述べたとおりだ。
アカは歌うのが得意だ。音楽教科書の君が代のところにはわら半紙を張っていたが。反して鴉野は半端ものなので悲しいことに音痴であった。
アカは意外とアニメに寛容である。
というかアイドルの歌も歌えるのはこの学校、あまりにもアレな教育をやっていたせいか荒みまくっていてはやりのアイドルの歌やアニメの歌でもやらなければ生徒たちが音楽の授業に参加しないからである。実際就任して間もない若い音楽教師(女性)は速攻退職していたはずだ。
例によって楽譜が読めず、音楽の筆記試験に『わかるか』『知るかぼけ』と小学生時代に書きなぐった鴉野は当時の音楽の先生の心に致命的な攻撃を加えてしまい、母の知り合いの音楽教師に預けられたので中学時代は一応楽譜が読めた。とはいえ他の級友のように耳コピでアニメの曲を縦笛で吹く器用さはない。
それでも下手な歌で思いっきり歌っても『音楽は楽しむこと』とあの環境で言い放っていたおじいさん先生の言葉を今でも覚えている。
あんな環境でも、音楽は我々とともにあったのである。
「『あなたに感じますか 手のひらのぬくもりが』か」
鼻くそをほじった手でキーボードを汚さないよう人差し指を外して文字を打つ。
やさしさも狂気も間違いなくあった。
『人の悔し涙が生き続ける苦しみが』
さらば青春。




