夏の神様は、名前を置いていく。
どうも、はじめまして。
初めて小説を書きます。
誤字脱字も変な展開も温かい目で見守ってくれると幸いです。
どうぞ。
──不思議な夢を見ていた気がする。
まぶたの裏に、まだ何か残っている感じがして、目を開けきらないまま、天井の方へ視線を向けた。焦点は合っていなかった。
ずっと、ずっと長い夢。
楽しかった、と思う。明るくて、妙に安心できて。さっきまで確かにそこにあったはずなのに、掴もうとすると、指の隙間から抜けていく。
誰かがいた。
それだけは分かる。けれど、顔も、声も、名前も出てこない。輪郭だけが残っていて、中身だけ抜け落ちているみたいだった。
喉の奥に、引っかかるような感覚がある。思い出せそうで、思い出せない。無理に引き上げようとすると、逆に遠ざかる。
布団の中で一度だけ寝返りを打つ。
シーツがやけに温かい。
それでも、残っているものはある。消えていない。消えきっていない。むしろ、形を変えて残っている気さえする。
誰だったんだろう。
考えたところで分かるはずもないのに、そこで思考が止まらない。止めようとしても、勝手に続いてしまう。
忘れていいものじゃない気がする。
根拠はない。ただ、そう思う。
夢なんて、そのままにしておけばいい。いつもならそうしている。
けれど、これは――
このまま何もせずにいると、あとで思い出す気がした。思い出せないまま、何かを失くしたことだけを思い出すような、そんな後悔が残る気がした。
ゆっくりと息を吐く。
それでも、結局、何一つ思い出せないままだった。
八月、午前中の晴天とは打って変わって、太陽がちょうど真上に来る頃には、太陽は雲の隙間から絶えることなく存在を主張していた。けれど、その光はもう、僕らのいる場所には届いていない。
まもなくして、一つ、また一つと、頭上から涼雨が落ちてくる。たちまちそれは勢いを増し、通り雨と呼ぶには乱暴すぎる雨へと変わった。
間一髪で橋の下の河川敷へと逃げ込めたが、この調子ではしばらく止みそうにない。かと言って、ただ待っていても、下手をすれば川が増水しかねなかった。
とは言うものの、今はどうしようもない。ほんの数分で止むことを祈りながら、地面に腰を下ろす。
やけに静かだ。嵐の前の静けさ、というやつだろうか。
雨は留まることを知らず、音だけが少し、厚みを増した。橋の下では、世界が狭くなったように感じられた。
ポケットから携帯電話を取り出すと、それは無情にも使いようにならない代物だった。圏外、という表示だけが、画面に残っていた。
時刻は、短針が右に傾き始める頃。手に持っていたプラスチック袋が、じわじわと手に食い込んでくる。仕方なく少し足を動かし、橋の支柱沿いへ寄ると、荷物を地面に置いて、改めて座り込んだ。
幸運なことに、午後の予定はない。いや、予定があれば、この雨の中でも無理に走り出して、時間を有効に使った気になれたのかもしれない。
そう考えても、僕の足と尻は、砂利でまみれた地面に触れたままだった。
「……あ、アイス買ったんだっけ」
ふと思い出す。右手側に置いた袋をガサゴソと漁ると、下の方に埋もれたカップのアイスが見つかった。手に取って軽く押してみると、硬すぎず、柔らかすぎない。雨が降る前の日差しが、ちょうどいい仕事をしていた。
偶然もらった木のスプーンが役に立つ。いつもなら受け取らず、今日みたいな日でも食べずに、溶けたまま家の冷凍庫に放り込んでいただろう。この雨がなければ、きっとそうしていた。
早速、木のスプーンでアイスを口に運ぶ。舌の上でほどけるそれは、間違いなく、これまでの人生でいちばんうまいアイスだった。
そのとき、違和感を覚える。
視界の端に、白いものが映った。
さっきまでは、なかったはずのものだ。
一瞬、違和感の方向へ視線が流れたが、すぐに逸らした。
一瞬だったが、白い違和感の正体は人だった。僕と同じ、雨宿りのつもりだろう。
食べ進めた。久方ぶりのアイスだったからか、少し溶けていたからか。理由は分からないまま、食べる手は止まらなかった。
──手が止まった。代わりに視線が動いた。
先程まで、手の中にあるアイスに向けられていた視線は、左の少し先にいる白い人にへと向けられた。
その人も、座っていた。体育座りで、身を小さくするように。視線は川を向いていて、無言を貫いていた。
数秒、雨音だけが世界に残った。それでも、白いその人は動かなかった。
「雨、すごいですね」
自然と口が動いていた。その人は僕の言葉を聞くやいなや、こっちを向いて、細やかな微笑みを浮かべた。
「そーだねー、こりゃ続くなぁー」
間延びした声が橋の下に響いた。視線は上を向いて、見えるはずもない空を見ているみたいだった。
再び沈黙が訪れる。手に持っているアイスを口に含む。先程までより格段に溶けたアイス。半流体なこれを完全に溶け切る前にと口に放り込む。
ふと、その人の視線の先を見てみた。案の定、空なども見えるはずがなく、気のせいかも知れないが、黒い影があるような気もする。
「雨の日にアイスなんて、いい趣味してるね」
今度はあっちから話しかけてくる。相変わらず、視線は上を向いたままで、少し口元に微笑みを含めながら。
「雨じゃなきゃ食べてないですよ」
「⋯⋯夏、好き?」
唐突な問いに、一瞬だけ言葉に詰まる。アイスの余韻が口に残ったまま、視線を落として考えた。
答えは、すぐに出た。
「嫌い、です」
「私もだ」
「暑くないですか?」
「分かるよー?」
その人は目を閉じて、首を縦に振った。大げさに、でも、どこか本気で。
空になったカップを見下ろす。少し残ったアイスも、完璧な流体になり、指先が、もう冷たくなっていた。
見下ろしたカップを、袋に戻す。それだけのことで、この時間が終わった気がした。
気づけば、立ち上がっていた。
「どうしたー?」
「溶けました」
「ありゃー」
立った僕を、その人は一瞬だけ見上げた。
「次は溶ける前に食べるんだぞー、指冷たくなるし」
「気をつけます」
会話が途切れると、雨音だけが、元の場所に戻ってきた。その人はまた上を見て、何かを確かめるように微笑んだ。
「雨弱まって来たよ」
「そう、ですか」
外を見ると、雨は弱まって、音も数段落ち着いた。カップを袋に入れて手にする。相変わらず食い込む袋を持って、二歩進んだところで、声をかけられた。
「私ね、カエデ。君は?」
振り返ると、白い髪のその人、カエデさんが顔を傾けてこちらを見ていた。
「⋯⋯秋です」
「秋くんね、風邪引かないようにね」
目を閉じて笑うその人に軽く頭を下げて、僕はその場を去った。
カーテンの隙間から差し込んだ光が、僕のまぶたの裏に届いた。夏休みに入っても、その中身は案外すっからかんで、平凡な日々を数日過ごしていた。
午前中は、だいたい溶けている。
蝉の声がうるさいとか、エアコンが効かないとか、そういう理由で時間が進まないわけじゃない。ただ、何も起きないだけだ
箸を持って、口に運んで、噛んで飲み込む。その繰り返しをしているうちに、皿の中身だけが先に空になった。
コントローラーを握って、ボタンを押す。指は覚えているのに、頭は何も覚えていない。
課題のページを一枚めくって、ため息をつき、元に戻す。進んだのは、時間だけだった。
眠くなる。目を閉じたつもりが、次に開けたときには、もう夕方だった。夢を見た気もするけれど、どんな内容だったかは思い出せない。
机の上に転がる複数のジュース缶を拾い上げて、それをビン缶の袋にまとめた。
喉に乾きを感じた。足は自然と、冷蔵庫に向かっていた。
冷蔵庫を開けた。そこには、何も冷やされていなかった。
夕方、太陽の出番も休息を迎え、差し込んで来る光も、暖かい色に落ち着いた。
仕方なくその足を玄関へと向かわせる。途中で、まとめられた小銭をポケットに突っ込み、鍵を持ったか一瞬だけ不安になる。でも戻るのも面倒で、そのまま玄関を出た。
日が傾いても、空気はまだ熱を含んでいて、歩くだけで体力が削られる。シャツが背中に張りついて、不快感だけがはっきりしていた。
自分のアパートの唯一誇れるところは、道路に出てすぐのところに、自販機がある事ぐらいだ。
小銭を探してポケットに手を入れたとき、先に視界に入った。反射的に目を逸らしてから、もう一度、確認する。
見覚えのある白があった。ピッという電子音の後に、ガタン、という音が聞こえる。
「……あ」
喉が勝手に動いて、短い音だけが漏れた。呼ぶつもりも、声をかけるつもりもなかったはずなのに。声に出してから、誰に向けたものか分からなくなる。
その白は、ほんの少しだけ遅れて振り返った。音を聞いてから、というより、気配を確かめるみたいに。
目が合うまでに、一拍あった。
「……あれ」
短く、独り言みたいに。
「……カエデ、さん」
喉を鳴らすようにして名前を呼ぶ。声は思ったよりも小さく、夕方の熱を含んだ空気にすぐ溶けた。
白いその人は、すぐには反応しなかった。自販機に寄りかかったまま、視線をどこか遠くに置いている。
数拍遅れて、ようやく気づいたように、ゆっくりと振り返った。動きは鈍いのに、不思議と無駄がない。
「あー……」
一度、考え込むように間を挟む。視線が一瞬だけ泳いで、それから目が細められた。
「覚えてたんだ」
自分の名前が呼ばれたことを、今ようやく受け取ったような声だった。
「……はい」
短く答える。それ以上の言葉を探そうとして、やめた。
「えらいえらい」
軽く笑いながら言われる。
褒められているはずなのに、どこか現実感がない。
胸の奥に、小さな引っかかりだけが残った。
「……偶然です」
視線を外したまま、そう付け足す。
「偶然、多いねぇ」
カエデはそう言って、また自販機の方を向いた。機械の低い駆動音が、二人の間を埋める。
少しだけ、間が空いた。
このまま何も言わずに終わる気がして、それがなぜか嫌だった。
「……久しぶり、です」
口にしてから、数日しか経っていないことを思い出す。
「んー……」
カエデは返事をせず、首を傾けた。夕焼けに近づいた空を、眺めるように見上げる。
「そうだねぇ」
しばらくしてから、こちらに視線を戻す。
「三日ぶり、くらい?」
「そのくらい、です」
自分でも、なぜ日数を正確に覚えていたのか分からない。
「意外と空いてないね」
どこか他人事のような口調だった。
「そうですね」
それ以上、言葉は続かなかった。
けれど、さっきよりも、空気は少しだけ緩んでいた。
「じゃ、またね」
それだけ言って、踵を返す。本当に、それだけで終わらせるつもりらしかった。行き先を示すものは何もなく、歩き出す速度も、散歩の続きみたいに気楽だ。
なにかを言い出すつもりもなかった。話しかけることだって、理由だって。
カエデは振り返らない。一定の速さで歩いていく背中が、少しずつ小さくなっていく。 夕方の光が、その輪郭を曖昧にしていく。
「また、どこかでね」
そう言いたげに、カエデは歩きながら片手をひらりと振った。
以上です。
好評だったり気分が乗ったら続きも書きます。
また会えるといいですね。




