第八章:血塗られた予言書
タァァンッ! タタタタタタタンッ!!
南波県・阿国軍基地のメインゲート。
偽装工作員による最初の一斉射撃は、ドミノ倒しでフェンスに押し付けられていた最前列の島民たちを、文字通り「肉の壁」に変えた。
数秒の静寂の後、群衆はパニックに陥った。だが、悲鳴を上げて逃げ惑おうとする純粋な島民たちとは対照的に、群衆に紛れ込んでいた大星の工作員たちは、隠し持っていた鉄パイプやバットを振りかざし、開け放たれたゲートから阿国軍基地内へと雪崩れ込んだ。
「阿国兵を殺せ! 我々の血の復讐だ!」
彼らは基地の警備兵に襲いかかり、意図的に「暴徒による基地への武力侵入」という既成事実を作り上げた。
基地司令官は防弾ガラス張りの司令室からその光景を見下ろし、顔面を蒼白にしながら本国のアトラス連邦大統領、ロナルド・G・バークへのホットラインを握りしめていた。
『――ミスター・プレジデント! 暴徒がゲートを突破し、我が軍の兵士に被害が出ています! 直ちに実弾使用による防衛攻撃の許可を!』
通信の向こう側、ホワイトハウスの執務室で報告を受けたバーク大統領は、舌打ちをして葉巻を灰皿に押し付けた。
(……瑞穂の無能な総理め。自国の暴動一つ治められず、我々に引き金を引かせる気か)
ここで阿国軍が先に発砲したとなれば、国際社会での立場が悪くなり、後の大星との取引にも影響が出る。だが、基地が占拠されるわけにはいかない。
「……司令官。よく聞け」
バークは冷酷な計算を瞬時に済ませ、低く言い放った。
「暴徒が武装して基地内に侵入し、我が軍の兵士の命が危険に晒された。だから『自衛のために』やむを得ず実弾を使用した。……そういうことだな?」
『は、はい!』
「許可する。基地を守るため、境界線を越えた者はすべて排除しろ」
通信が切られた。それは、阿国が瑞穂という同盟国を完全に見限った、歴史的な瞬間だった。
直後、基地のスピーカーから耳を劈くようなサイレンが鳴り響き、阿国軍の重機関銃とアサルトライフルが一斉に火を噴いた。
それは戦闘ではなく、一方的な「虐殺」だった。
大星の工作員や新城のシンパたちは、発砲の直前に阿吽の呼吸で射線から身を隠し、コンクリートの陰に伏せていた。その結果、銃弾の雨を真っ向から浴びたのは、逃げ遅れた力なき一般の島民たちだった。
タタタタタタタッ!!
重機関銃の掃射が、アスファルトを砕きながら群衆を薙ぎ払う。
「お母さん、お母さ――」
泣き叫びながら母親の腕を引いていた十歳くらいの少女の頭部が、熟れた果実のように弾け飛んだ。首から上を失った小さな体が、痙攣しながらアスファルトに崩れ落ちる。その娘の死体を抱きしめて狂ったように絶叫した母親も、直後に背中から無数の銃弾を浴び、臓物を撒き散らして肉の塊に変わった。
杖をつき、人の波に押されて転倒していた老人の足に銃弾が命中し、膝下から先が千切れ飛ぶ。激痛にのたうち回る老人の上に、逃げ惑う人々の足が容赦なく踏み下ろされ、骨が砕ける嫌な音が響き続けた。
血の池と化したゲート前には、千切れた手足や、引きずり出された腸が散乱している。むせ返るような血の匂いと硝煙が混ざり合い、南波の夜は正真正銘の地獄絵図と化していた。
だが、絶望はそれだけでは終わらなかった。
湊覇市内に駐屯する瑞穂の自衛組織――『瑞穂防衛隊』の基地からも、武装した装甲車が次々と出動していたのだ。
防衛隊の南波基地司令は、すでに新城の甘言と大星の裏金に完全に取り込まれていた。「暴徒から県民を守るための自衛的行動」という大義名分を掲げ、東都の政府の命令を待たずに独断で部隊を動かしたのだ。
さらに恐ろしいことに、その出動部隊の半数以上は、本物の防衛隊員ではなかった。
彼らもまた、大星の工作員だった。瑞穂防衛隊の制服は、コスト削減のために大部分が『大星の工場』で委託生産されており、大星政府が本物と全く同じ制服や装備を横流しして手に入れることなど、赤子の手をひねるより容易いという、あまりにもお粗末な構造的欠陥があったのだ。
防衛隊の偽装部隊は、デモ現場だけでなく、暴動に無関係な市街地へも展開した。
「暴徒を鎮圧する!」
大星語の訛りを隠しもしない偽装隊員たちは、シャッターを下ろして震えている商店や民家に押し入り、新城に批判的だった島民をリストに従って次々と引きずり出した。
そして、路上で子供の目の前で両親を射殺し、逃げ惑う若者を軍用トラックで轢き殺していった。阿国軍による殺戮と、自国の防衛隊を騙る工作員による無差別テロ。南波という島そのものが、完全に血の海に沈んでいった。
***
東都・総理官邸。
執務室の霧島総理は、テレビに映し出された南波の惨状を見て、腰を抜かしたように椅子に座り込んでいた。
「ど、どうなっている! 阿国のバーク大統領にホットラインを繋げ!!」
「だ、駄目です! 何度かけても、回線を切断されます!」
秘書官が半狂乱で叫ぶ。
「防衛隊の出動命令など出していないぞ!? 防衛大臣は何をやっているんだ!」
「それが……大臣の携帯にも繋がりません! 防衛省の回線もパンクしており、現地の部隊と連絡が取れないとしか……!」
完全に指揮系統が崩壊していた。
なすすべを失った霧島は、震える手で頭を抱え込んだ。(どうする……これでは内閣が吹き飛ぶ……いや、歴史に最悪の汚点を残す総理になってしまう……!)
彼の脳裏にあるのは、国民の命でも国家の存亡でもなく、己の保身と地位のことだけだった。
そこへ、血相を変えた与党第二党・明和党の山城隆党首が、ドアを蹴破るようにして執務室へ飛び込んできた。
「総理! 一体どうなっているんですか! 南波で阿国軍と防衛隊が県民を撃ち殺しているという映像が、世界中に流れていますぞ!」
「わ、わからん! 私には何もわからんのだ!!」
国のトップが子供のように泣き喚く官邸。ここもまた、別の意味での地獄絵図だった。
***
新橋の裏路地。小料理屋『海燕』。
神崎健人が、カウンターに置いた一万円札を相馬に押し付け、そろそろ帰ると告げたその時だった。
ギュイィィィン!! ギュイィィィン!!
神崎のスマートフォンから、鼓膜を破るような緊急アラートが鳴り響いた。
嫌な予感を覚えながら画面を見る。『南波県にて、阿国軍とデモ隊が武力衝突。多数の死傷者。瑞穂防衛隊も治安出動。県内全域に避難勧告』。
神崎はゆっくりと顔を上げ、カウンター越しの相馬と目を合わせた。
(……ついに、始まった)
神崎の胸ポケットに収められた、あのUSBメモリー。団長室で工作員たちが語っていた『最終計画』の全貌。自分が命懸けで持ち帰ったあのデータこそが、今まさに南波で起きている悲劇と、これから瑞穂を呑み込む破滅の「予言書」となってしまったのだ。
圧倒的な絶望が足元から這い上がってくる。数千の命が、今この瞬間も理不尽に散っているのだ。
だが、神崎の瞳から、先ほどの怯えた中年の色は消え去っていた。
明日、あの黒ずくめの男の「結社」のリーダーと会う。あの男たちを利用してでも、この予言書を本物の「反撃の剣」に変えなければならない。神崎の顔つきは、かつて真実を追い求めていた、若き日の鋭い「記者」の顔に切り替わっていた。
「……行くよ、哲也」
神崎が短く告げると、相馬は深く頷き、力強く言った。
「ああ。……また店来いよ。生きてな」
***
午前二時。
神崎が自宅マンションのドアを静かに開けると、緊急アラートの音で目を覚ましていたのか、リビングの明かりがついていた。
ソファには妻の佳奈が座っており、その隣で息子の勇樹が目をこすっている。
二人の無事な姿を見た瞬間、神崎の張り詰めていた糸が少しだけ緩み、深い安堵の吐息が漏れた。
「……お帰り」
佳奈はいつものように素っ気なく言ったが、神崎の顔を見た瞬間、その言葉の尾が微かに震えた。
夫の顔つきが、いつもと違う。会社の犬に成り下がっていた死人のような目ではなく、何かに命を懸けて立ち向かおうとしている、あの十年前の『本物の目』をしていた。そして、今日彼が日帰りで南波へ取材に行っていたことと、テレビで流れている恐ろしいニュースの速報。佳奈の直感が、すべてを悟った。
「パパ……お帰り……」
勇樹が寝ぼけ眼で呟き、フラフラと歩いてきて神崎の足に抱きついた後、そのまま自室のベッドへ戻ってバタリと倒れ込むように眠りについた。
神崎は息子の背中を見送った後、佳奈の前に立ち、真っ直ぐに彼女の目を見据えた。
「佳奈。これから何があっても、絶対に俺を信じてくれ」
それは、夫として、父親としての静かで力強い宣誓だった。
「俺は……お前たちを、絶対に守るから」
その言葉を聞いた瞬間、佳奈の目から大粒の涙が溢れ出した。
彼女は立ち上がり、十年間の冷え切った溝を埋めるように、神崎の胸に強く抱きついた。神崎もまた、その細い背中を力強く抱き返す。
「……本当のあなたが、やっと返ってきたんだね」
佳奈の震える声が、神崎の胸に染み込んでいく。
嘘に塗れた世界が崩壊し、狂った歯車が国を血に染める夜。二人は、何年ぶりか分からないほどの確かな温もりと絆を確かめ合いながら、静かに、そして深く寄り添って夜を過ごしたのだった。




