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第七章:ルビコンの銃声

「単刀直入に言おう。あんたが南波から持ち帰ったデータを、俺たちに渡してくれないか」

 黒ずくめの男は、紫煙を細く吐き出しながら、神崎健人に向かって静かにそう告げた。

 神崎の背中に冷たい汗が伝う。だが、長年培った記者のポーカーフェイスで、なんとか表情の筋肉を取り繕った。

「……データ? なんの話だか、見当もつかないな。俺はただのしがない新聞記者だ」

「とぼけなくていい。エコーの裏アカウント『Kハウンド』。あんたがたった今、電脳の海に放り込んで、大星たいせい天網てんもうに一瞬で焼き払われた代物だ」

 神崎の心臓が大きく跳ねた。大星の検閲システムだけでなく、目の前の謎の男たちも、自分の行動を完全に把握している。

 男はハットの奥の隻眼を細め、凄みのある低い声で続けた。

「警戒するのは当然だ。詳しい素性はまだ話せないが、これだけは言っておく。俺たちはあんたの敵じゃない。大星の犬でもない。強いて言うなら、この国を裏から食い潰そうとしている大星を排除するための、反大星の結社グループの末席だ」

 神崎は息を呑んだ。

 反大星のグループ。そんなものがこの瑞穂みずほの国に存在しているのか。当然、その言葉を素直に鵜呑みにすることなどできない。彼らもまた、別の目的で大星の裏金データを強請りのネタに使おうとしているだけのヤクザ者かもしれないのだ。

 だが――今の自分に、事態を打開する力が一ミリも残されていないことだけは、残酷なほどに分かっていた。会社からは見捨てられ、大星の暗殺者の影に怯えながら、家族を守らなければならない。藁にもすがる思いだった。この得体の知れない男たちを「チャンス」と捉える以外に、神崎にはもう選択肢が残されていなかった。

「……データを渡す条件がある」

 神崎は、乾ききった喉から声を絞り出した。

「あんたたちのリーダーに直接会わせろ。そのデータを何に、どう利用するつもりなのか。それを俺の耳で聞いて、納得できたら渡す。……それが飲めないなら、ここで俺を殺してUSBを奪っていくんだな」

 虚勢だった。ポケットの中の震える手は、汗でびっしょりと濡れていた。

 しかし、黒ずくめの男は気分を害するどころか、まるで神崎がそう言うことを最初から分かっていたかのように、ニヤリと不気味な笑みを浮かべた。

「交渉成立だ。あんた、明日から会社は『長期休暇』だろ?」

 男は懐から一枚の二つ折りのメモ紙を取り出し、カウンターの上を滑らせた。

「明日、この指定の場所へ一人で来い。リーダーに会わせてやる。……それまでの間、あんたとお前の家族の命は、俺たちが責任を持って守ってやるよ」

 男はそれだけ言い残すと、残っていた酒を一息に飲み干し、音もなく立ち上がって店を出ていった。

 引き戸が閉まり、静寂が戻った『海燕うみつばめ』の店内で、カウンターの中にいた相馬が重い口を開いた。

「……健人。お前、大丈夫か?」

 その「大丈夫か」には、家族の命、これからの生活、そして国家の陰謀に巻き込まれた親友への労わりなど、数え切れないほどの意味が含まれていた。

 神崎は、テーブルに置かれたメモ紙を見つめながら、力弱く自嘲するように呟いた。

「大丈夫なわけ、ないだろ……」

 そして、残っていた冷酒をあおり、ひきつった笑いを浮かべる。

「俺は、某小説に出てくるような、巨大なS&W M500をぶっ放すタフなハードボイルド探偵でもなんでもない。……東都とうとの新聞社で嘘を書き連ねてきた、ただのくたびれたサラリーマンだぜ。こんなの、荷が重すぎる」

 その神崎の哀れで切実な愚痴に、相馬は何も言えず、ただ苦笑いをしてやるしかなかった。

 ***

 同じ頃。南波なんぱ県都・湊覇そうは市。

 琉海党本部の豪華な知事執務室では、新城烈が窓の外に広がる夜の海を見下ろしていた。

 振り返った彼の顔には、数時間前、地下室で二人の部下を撲殺したあの残忍な狂鬼の面影は微塵もない。テレビ越しに大衆を魅了する、高潔で慈愛に満ちた「カリスマ」の仮面が完璧に張り付いていた。

「知事。現状の報告を」

 部屋に入ってきた側近が、一礼してタブレットを読み上げる。

「あと十分で、基地ゲート前の先行デモ隊が、阿国アトラス軍の警備部隊と完全に接触(衝突)する距離に入ります。その後は、大星の支援を受けた例の『最終計画』通りに事が進みます」

「……分かった。失敗は許されんよ」

 新城は表情を一切変えず、静かで威厳のある声でそう答えた。

「はっ。我ら琉海の輝かしい夜明けのために」

 側近が恭しく頭を下げ、執務室から退出していく。重厚な扉が完全に閉まり、一人きりになったのを確認した瞬間――。

 新城の顔の筋肉が歪に引き攣り、高潔な仮面がボロボロと剥がれ落ちた。

「フフッ……アハハハハハッ!!」

 抑えきれない歓喜と狂気が、喉の奥から這い出してくる。

「燃えろ。血を流せ。馬鹿な瑞穂政府も、大星の豚どもも、すべて私が成り上がるための踏み台だ。……すべては、この私のものになる!」

 ***

 南波県・阿国軍基地メインゲート前。

 すでにデモ隊の数は数万人規模に膨れ上がり、基地を囲むフェンスの周囲は異様な熱気と怒号に包まれていた。

 プラカードを掲げ、「琉海の誇りを!」「阿国軍は出ていけ!」と叫んでいる先頭集団は、純粋に新城の言葉を信じ、平和を願って集まった一般の島民たちだ。女も、老人も、学生もいる。

 だが、その後方に陣取る群衆の動きは違った。

 屈強な男たちが、トランシーバー付きのイヤホンに手を当てている。

『――これより、我らはルビコン川を渡る。失敗は許されない』

 大星語の暗号通信が、工作員たちの耳に一斉に届いた。

 そして、まったく同じ通信音声を受信している者たちが、もう一組いた。

 フェンスの内側。デモ隊と向かい合い、アサルトライフルを構えて警戒に当たっている「阿国軍兵士」たちのうちの、数名である。

 彼らは阿国人ではない。大星の特殊工作員だ。

 これこそが、数時間前に神崎が潜入した団長室で男たちが話していた「税関で引っかかりそうになった積荷」の正体である。大星が密輸した、阿国軍とまったく同じ軍服と、標準装備の銃器。それに身を包んだ工作員たちが、基地の混乱に乗じてフェンスの内側に紛れ込んでいたのだ。

「押せ! もっと前へ出ろ!!」

 後方にいた大星の工作員サクラたちが、一斉に声を張り上げ、前方にいる一般島民たちを力任せに押し始めた。

「きゃあっ!」「やめて、押さないで!」

「前が詰まってる! 押すな!!」

 悲鳴や制止の声は、巨大なシュプレヒコールの波にかき消されていく。後ろからの圧倒的な圧力に耐えきれず、先頭にいた純粋な島民たちがドミノ倒しのようにフェンスへと押し付けられ、ついに阿国軍の警備ラインと物理的に激突した。

 怒号。悲鳴。フェンスの軋む音。

 極限状態に達した群衆のパニックの中で。

 タァァンッ!! タタタタタタタンッ!!!

 フェンスの内側から、阿国軍の標準装備であるアサルトライフルの乾いた銃声が、南波の夜空を引き裂いた。

 最前列で押し潰されていた島民の胸から、真っ赤な血飛沫が舞い上がる。

 引き金を引いたのは、阿国の軍服を着た、大星の工作員だった。

 決して後戻りできない破滅の計画ショーが、ついにその幕を開けた。

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