第六章:見えざる手と黒い影
東都空港の到着ロビーに足を踏み入れた神崎健人を迎えたのは、コンコースの頭上に設置された大型モニターから流れる、緊迫した顔のアナウンサーの声だった。
『――続いてのニュースです。阿国に本社を置く世界最大のSNS「エコー」のサーバーが、昨夜未明からアジア圏を中心に大規模なシステムダウンを引き起こしました。専門家は、何者かによる高度なサイバー攻撃の可能性を指摘しており――』
神崎の足が、床に縫い付けられたようにピタリと止まった。
嫌な汗が背筋を伝い落ちる。神崎は震える手でスーツのポケットからスマートフォンを引き抜き、すぐさまエコーのアプリを立ち上げた。
画面には『アカウントが存在しません』という無機質なエラーメッセージが表示されているだけだった。何度リロードしても結果は同じだ。
「……嘘だろ」
乾いた声が漏れた。裏アカウント「Kハウンド」そのものが、電脳空間から完全に消去されていた。神崎が命懸けで添付した拷問の告発文も、裏金のデータも、新城の動画も、何一つ拡散されることなく、最初の数秒で闇に葬り去られたのだ。
大星のネットワーク監視システム「天網」の能力を、完全に舐めていた。阿国の巨大企業のサーバー群を瞬時にハッキングし、特定の情報だけをアカウントごとピンポイントで焼き払う。そんなSF映画のような所業を、彼らは息をするようにやってのける。
(……待てよ。サーバーを焼けるなら、この端末そのものも)
神崎の背筋を、氷のような悪寒が突き抜けた。もしこのスマホ自体がハッキングされていれば、自分の居場所も、行動も、すべて大星の工作機関に筒抜けになっているかもしれない。
神崎は慌ててローカルフォルダを開き、青年防衛団の本部から抜き出した動画ファイルや裏金データのオリジナルを選択した。指先を震わせながら「完全消去」のアイコンをタップする。画面から新城の忌まわしい顔が消え去ったのを見届けると、神崎はようやく短く息を吐いた。
データが完全に失われたわけではない。
神崎はスーツの内ポケットにそっと手を差し入れた。指先が、冷たくて硬いプラスチックの感触――暗号化処理を施したUSBメモリー――に触れる。さらにその奥には、機内でプリントアウトしておいた「真実の告発記事」の束が、四つ折りになって分厚く収まっていた。
ネットワークの海からは消されたが、物理的な「弾丸」はまだこの手の中にある。
だが、そのわずかな安堵を打ち砕くように、スマートフォンの画面が着信履歴の異常な数を示していることに気がついた。発信元はすべて、暁星新聞の会社用回線からだ。
神崎はロビーの隅の柱の陰に隠れ、息を殺して折り返しの電話をかけた。
数回のコールの後、編集デスクの野島が出た。
『……神崎か。お前、今どこにいる?』
野島の声は、いつもの傲慢さが消え失せ、ひどく狼狽し、怯えているようだった。
「たった今、東都空港に着きました。原稿なら機内から送ったはずですが」
『原稿の話じゃない! お前……南波で、一体何をやらかしたんだ!?』
怒鳴り声ではなく、悲鳴に近い声だった。
『今朝一番で、社長室から直々に俺のところに連絡があった。お前を今日から無期限の謹慎処分にするとな。会社には絶対に来るな。しばらく家で大人しくしてろ、いいな!』
一方的に電話が切られた。
ツー、ツー、という電子音が、神崎の脳髄を直接殴りつけてくるようだった。
動画とデータをエコーに投稿した瞬間に、大星のハッカーは発信元の端末情報まで完全に特定し、暁星新聞の上層部へ「警告」を入れたのだ。自分は今、新城と大星の工作機関に「完全にマーク」されている。
ガクガクと、膝が笑い始めた。
怖い。恐ろしい。
数時間前まで胸の奥で燃え上がっていた「記者としての正義感」や「反骨心」など、あの地下室でゴムホースを振り下ろしていた暴力と、見えざる巨大な国家権力の前では、チリ芥のように吹き飛んでしまった。
もし、明日の朝、妻の佳奈や息子の勇樹が、あの地下のパイプ椅子に縛り付けられていたら?
極限の恐怖が、神崎の理性を真っ白に塗り潰していく。そのまま家に帰ることなど、到底できなかった。
***
気がつけば、神崎は新橋の裏路地にある小料理屋『海燕』の暖簾をくぐっていた。
まだ開店前の仕込みの時間帯だ。店主の相馬哲也は、カウンターで大根の桂剥きをしていたが、入ってきた神崎の顔を見るなり、ピタリと包丁を止めた。
「……おい、健人。お前、顔色が死人みたいだぞ。何があった」
相馬の鋭い問いかけに、神崎は糸が切れた操り人形のようにカウンターの椅子に崩れ落ちた。
「哲也……酒をくれ。強いやつだ」
出された冷酒を水のように飲み干し、神崎は震える声で、南波で見てきた地獄のすべてを吐き出した。
青年防衛団の本部に潜入したこと。
地下室で行われていた凄惨な拷問。
パソコンから抜き出した、大星の工作資金と新城の狂気に満ちた動画。
そして、デスクの下で息を殺して聞いた、明日決行されるという血生臭い『最終計画』と、東都に戻ってきてからのSNSの消去、自端末データの破棄、そして会社からの謹慎命令。
相馬は黙って話を聞いていた。神崎がすべてを語り終え、両手で顔を覆って震え出すと、相馬は深く、重い溜息を吐いた。
「……まずいな。控えめに言って、最悪だ」
相馬は手拭いで手を拭き、カウンター越しに神崎を見据えた。
「お前が踏み抜いたのは、ただの政治家の汚職じゃない。国家の境界線を引き直そうとしている、大星の軍事作戦そのものだ。奴らはお前を社会的に抹殺するどころか、物理的に消しにくるぞ。……最終計画とやらが何なのかはわからねえが、南波で何千人死のうが、もう俺たちに止められるレベルの話じゃねえ」
相馬の言葉は残酷なまでに現実的で、神崎の恐怖をさらに煽った。
「俺は……どうすればいい。佳奈と勇樹にまで手が出されたら……」
神崎が頭を抱え込んだ、その時だった。
カラン、と入り口の引き戸の鈴が鳴った。
「悪いな、まだ準備中――」
断ろうとした相馬の言葉が、途切れる。
店に入ってきたのは、季節外れの黒ずくめのロングコートを着た男だった。目深に被ったハットのせいで、顔の半分は影に覆われてよく見えない。しかし、その立ち姿からは、ただのサラリーマンではない、研ぎ澄まされた刃物のような異様な空気が漂っていた。
男は相馬の言葉を無視して、一直線にカウンターへ向かって歩いてきた。
そして、神崎のすぐ隣の丸椅子に、音もなく腰を下ろす。
神崎はビクッと肩を震わせ、大星の刺客かと身構えて内ポケットのUSBを守るように身を縮めた。
だが、男は懐からタバコを取り出して火をつけると、ハットの影から鋭い隻眼を光らせ、神崎に向かって低く、静かな声で言った。
「あんたに、話がある」




