第四章:剥がれ落ちた聖者の皮
神崎健人の「記者としての嗅覚」は、湊覇の裏路地で十年の眠りから完全に目を覚ましていた。
表通りでは新城知事を讃えるシュプレヒコールが鳴り響いているが、路地裏の市場や小さな商店街に身を潜める島民たちの顔には、熱狂とは程遠い、重苦しい疲労の色が張り付いていた。
神崎は暁星新聞という身分を隠し、「東都から来たフリーの旅行ライター」という人畜無害な仮面を被って、警戒する島民たちの懐にするりと入り込んだ。何気ない世間話から始まり、徐々に本音を引き出していく話術は、かつて社会部のエースだった頃に培ったものだ。
「独立? 阿国軍の撤退? ……そんなもん、俺たちの暮らしに一円の得にもなりゃしねえよ」
薄暗い食堂の裏口で、タバコを吹かしながら初老の店主は吐き捨てるように言った。
「ここ数年、大星から来た連中が、一等地のホテルから水源地の山まで全部買い漁っちまった。あいつら、ルールもマナーもあったもんじゃない。我が物顔で街を歩いて、俺たちを見下してやがる。本当に追い出してほしいのは、阿国軍より大星の連中の方さ」
「じゃあ、表通りのあの熱狂は……」
「サクラと、金をもらってる連中と、あとは昔の『琉海王国』の夢物語に騙されてる馬鹿な若者だけさ。俺たち真っ当な商売人は――」
店主の言葉が、不自然にピタリと止まった。
タバコを持つ手が微かに震え、その視線が神崎の背後、路地の入り口に注がれている。
神崎が振り返ると、お揃いの青いポロシャツを着た二人組の男――『琉海党・青年防衛団』が、警棒を腰に下げてゆっくりと路地を巡回してくるところだった。
「……あ、ああ! 新城知事は素晴らしいお方だよ! 琉海の誇りだ! 早く瑞穂(本土)の連中と阿国軍を追い出して、平和な島を作ってもらわなきゃな!」
店主は引きつった作り笑いを浮かべ、わざとらしいほどの大声で叫んだ。
青シャツの男たちは、店主を一瞥すると、無言のまま通り過ぎていった。彼らの姿が完全に見えなくなるまで、店主の顔は恐怖で強張ったままだった。
(……間違いない。あの青年防衛団は、ただのボランティアなんかじゃない。島を支配する「暴力装置」だ)
神崎は、防衛団の正体を探るべく、彼らの本部ビルへと向かった。
***
湊覇の港を見下ろす高台に建つ、要塞のように堅牢なコンクリート造りのビル。それが琉海党・青年防衛団の本部だった。
入り口には屈強な門番が立ち、周囲には無数の監視カメラが睨みを利かせている。難攻不落に見えたが、神崎には最強の「通行証」があった。
『暁星新聞の神崎と申します。我が社は、皆様の平和的な活動を大々的に応援する特集記事を組みたいと考えておりまして』
名刺を出した瞬間、門番たちの警戒は解けた。彼らにとって暁星新聞は、大星資本の息がかかった「身内」であり、最強のプロパガンダ機関なのだ。
応接室に通された神崎は、広報担当の幹部から一時間ほど退屈な美辞麗句を聞かされた。
「我々は、新城知事の崇高な志に賛同して集まった、ただの純粋な民間ボランティアです。島民の安全と平和を守るために、自主的にパトロールを行っているだけでして……」
「素晴らしい。瑞穂の若者たちにも見習わせたい精神ですね」
神崎は愛想笑いを浮かべて相槌を打ちながら、隙を窺っていた。
「いやあ、素晴らしいお話でした。……すいません、少しお腹の調子が悪くて。お手洗いをお借りしても?」
広報担当が笑顔で案内してくれたトイレに入り、神崎は個室で五分ほど待機した。
静かにドアを開けると、廊下には誰もいない。今日、防衛団の大半はデモの扇動と市街地の巡回に出払っており、この巨大なビルの中は不自然なほど手薄だった。
神崎は足音を殺し、一般の来客が立ち入らない地下フロアへと続く薄暗い階段を下りていった。
地下二階。
鉄扉の奥から、くぐもった、奇妙な音が漏れ聞こえてきた。
――ボッ、ドスッ。
鈍い破裂音。そして、獣が喉の奥で鳴くような、低いうめき声。
神崎は息を殺し、少しだけ隙間が開いていた鉄扉の向こうを覗き込んだ。
その瞬間、神崎の全身の血が凍りついた。
薄暗いコンクリート打ちっ放しの部屋の中央。そこに置かれたパイプ椅子に、中年の男が全裸で縛り付けられていた。男の顔は赤黒く腫れ上がり、原型を留めていない。鼻と口から絶え間なく血と胃液を垂れ流し、床には生臭い水たまりができている。
その男を囲んでいるのは、青いポロシャツを着た五人の防衛団員だった。彼らの手には、厚手のゴムホースが握られている。殴っても骨が折れず、外側に傷跡が残りにくいが、内臓に致命的なダメージを与える拷問具だ。
「声が小さいぞ! もう一度言え!」
防衛団の一人が、男の腹に全力でゴムホースを振り下ろした。
ゴフッ! と男が血混じりの嘔吐物をぶちまけ、椅子ごと床に倒れ込む。
「……わ、わたしは……瑞穂の手先であり……琉海の、裏切り者、です……」
虫の息で這いつくばる男の頭を、別の団員が軍靴で容赦なく踏みつけた。
「そうだ。お前が書いたあのふざけたビラ(新城批判のビラ)のせいで、琉海の誇りが傷ついた。謝罪しろ。そして誓え。大星なる偉大な同志と、新城知事に絶対の忠誠を誓え!」
「……ち、誓います……大星に、忠誠を……新城様に、命を……」
「声が小さい!!」
再び、無慈悲な乱打が始まる。部屋の隅の暗がりには、丸刈りにされ、虚ろな目で壁を見つめて小刻みに震えている数人の男女の姿があった。彼らもまた、独立運動に異を唱え、ここに拉致されてきた「反対派」の島民たちなのだ。
ここは、思想犯を矯正するという名目の、凄惨なリンチ部屋(屠殺場)だった。
平和。独立。民意。そんな美しい言葉の裏側で、新城は自らの意に沿わない島民を拉致し、豚のように甚ぶり、大星への服従を暴力で叩き込んでいる。
吐き気が込み上げてくるのを必死に堪え、神崎は鉄扉から離れた。
(……これが、俺の会社が「平和の使者」と書き立てている男の正体か……!)
怒りで奥歯が砕けそうだった。新城烈という男は、聖者でも革命家でもない。大星の庇護の下で、己の嗜虐心と権力欲を満たしているだけの、醜悪な怪物だ。
神崎のジャーナリストとしての本能が、激しく警鐘を鳴らしていた。
この事実だけでは弱い。彼らを完全に破滅させる「決定的な物的証拠」がいる。
神崎は踵を返し、今度は一気に最上階の幹部フロアへと向かった。巡回の人員が不足している今なら、中枢に忍び込めるはずだ。
最上階の奥、「団長室」とプレートが掲げられた重厚なマホガニーの扉。
鍵はかかっていなかった。神崎が滑り込むと、そこは高級ホテルの一室のような豪奢な執務室だった。部屋の主は不在で、デスクの上には大画面のパソコンがスリープ状態のまま放置されていた。
マウスを動かす。パスワード入力画面が出たが、モニターの隅に貼られた付箋に、大星語のピンインで安易な文字列が書かれていた。大星の工作員が設定したものを、そのまま使っているのだろう。
ロックを解除し、神崎は目を見開いた。
画面には、大星のダミーファンドから琉海党へ流れる莫大な「裏金の送金記録」のデータが開かれたままになっていた。
さらにフォルダを漁ると、『新城知事・直筆メモ(スキャン画像)』というファイルが見つかった。そこには、背筋が凍るような指示が殴り書きされていた。
『反対派の商店街は深夜に放火して潰せ』『阿国軍との衝突では、必ず老人と女を最前線に立たせろ。死人が出た方が瑞穂政府へのダメージになる』
そして、極めつけは『新城様・御言葉』と名付けられた動画ファイルだった。
再生すると、この執務室の革張りの椅子にふんぞり返る新城の姿が映し出された。
『――いいか、お前たち。私は知事などというちっぽけな器ではない。この南波を統べる初代の王となる男だ』
新城の足元には、先ほど広報で神崎に応対した幹部たちが、額を床に擦り付けて土下座をしている。
『私に逆らうゴミ共は、地下で徹底的に教育しろ。阿国軍が消えた後、大星の軍艦が港に入れば、我々は無敵だ。それまでは、平和を愛する哀れな被害者の皮を被り続けろ』
狂気。紛れもない、純度百パーセントの悪意。
テレビで演じていたあの感動的な演説の裏で、彼は自分を王と呼び、大衆を嘲笑っていたのだ。
神崎は震える手でスマートフォンをパソコンに繋ぎ、これらのデータを一気にコピーし始めた。
転送ゲージがじわじわと伸びていく。
(……これを記事にすれば、新城も、大星の工作も、すべて木端微塵にできる。俺の会社が握り潰そうとしても、ネットの海に放り込んでやる……!)
80%……90%……99%……。
ピロン、という小さな音と共に、データの転送が完了した。
スマートフォンを抜き取り、立ち上がろうとした、その瞬間。
――ガチャリ。
背後の重厚な扉のドアノブが回る音がした。
神崎の心臓が、肋骨を突き破らんばかりに跳ね上がった。逃げ場はない。
神崎は咄嗟に身を屈め、巨大なマホガニーのデスクの下の暗がりに滑り込んだ。
扉が開き、二人の男が執務室に入ってくる足音が響いた。
一人は、磨き上げられた革靴。もう一人は、重量感のある軍用ブーツ。
神崎は自分の口を両手で固く塞ぎ、呼吸すらも止めた。全身の毛穴から冷たい汗が噴き出し、デスクの木目に染み込んでいく。見つかれば、あの地下室のパイプ椅子に縛り付けられるのは自分だ。
「……瑞穂の馬鹿なメディアどもは、綺麗に踊ってくれていますよ」
革靴の男――おそらく大星の工作員――が、冷酷な声で言った。
「ああ。特に暁星新聞の動きは素晴らしい。これで、阿国軍が撤退する下地は完全に整った」
軍用ブーツの男――防衛団の幹部――が低く笑う。
だが、その直後に工作員が口にした「言葉」に、神崎は己の耳を疑った。
「それで、例の『最終計画』の準備は?」
「滞りなく。明日の夜、決行しますよ。……新城知事には、最高の舞台を用意してあげないとね」
続く工作員の言葉の内容。
それをデスクの下で聞いた神崎の瞳孔が、恐怖と絶望で極限まで見開かれた。
それは、大星が仕掛けようとしている、余りにも残酷で、余りにも血生臭い「仕上げ」のシナリオだった。新城すらも想定していないであろう、国家を転覆させるための真の地獄。
(嘘だろ……そんなことをすれば、南波の人間が何千人も……!)
叫び出しそうになる喉を、神崎は必死に掻き毟るようにして抑え込んだ。
男たちの革靴のつま先が、神崎の隠れるデスクのすぐ目の前まで歩み寄ってくる。
神崎健人は、巨大な陰謀の深淵で、ただただ息を殺し、迫り来る破滅の足音に震え続けていた。




