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第二章:熱狂の作られ方

南波の県都・湊覇そうは市の中心部にそびえ立つ、大星たいせい資本の最高級外資系ホテル。その最上階にあるプレジデンシャル・スイートの分厚い絨毯の上で、南波県知事・新城烈は、琥珀色のブランデーが入ったグラスを揺らしていた。

「素晴らしい演説でしたよ、新城知事。瑞穂(本土)の腑抜けた政治家どもには到底真似できない、魂を揺さぶる言葉だ」

 革張りのソファの対面で滑らかな瑞穂語を操るのは、仕立ての良さそうなスーツを着た男だった。大星人民党・中央統一工作部の極東局長である李鉄海りてっかい、その右腕として南波での実動部隊を指揮する工作員だ。

「島民のルサンチマンという薪に、少し火を点けてやっただけですよ。彼らは悲劇の主人公になりたがっている」

 新城は薄く笑い、高級葉巻の煙を吐き出した。

「次の段階フェーズの準備は進んでいますか?」

「ええ。近いうちに、阿国アトラス軍基地のゲート前で『不幸な衝突事故』を起こします。我が工作員がデモ隊の最前線に紛れ込み、阿国兵を挑発して発砲を誘発させる。血が流れれば、もはや瑞穂の事なかれ政府にも事態は収拾できなくなる。阿国軍は南波を見捨てて撤退し、権力の空白が生まれる」

 工作員の男は、グラスを掲げて目を細めた。

「その時こそ、あなたが『琉海人民共和国』の独立を宣言する歴史的瞬間です。我が大星は即座にあなたを国家元首として承認し、平和維持を名目に艦隊を派遣してあなたを守る。……初代国家主席。南波の王という、最高の権威をお約束しますよ」

「……王、か。悪くない響きだ」

 新城の瞳の奥に、ねっとりとしたドス黒い欲望が這いずり回った。

 彼の内側には、「虐げられた島民への愛」や「平和へのイデオロギー」などという高尚なものは欠片も存在しない。あるのはただ、誰よりも上に立ち、ひざまずく大衆を見下ろしたいという、肥大化しきった自己顕示欲だけだった。独立など、自分が神に成り上がるためのただの手段ステップに過ぎない。

 密会を終え、新城が階下の琉海党本部・特別会議室へ足を踏み入れると、空気が一変した。

「知事、万歳!」「我らが総裁に敬礼!」

 円卓を囲んでいた党幹部たちが、バネで弾かれたように一斉に起立し、狂信的な熱を帯びた瞳で新城を迎え入れた。新城がゆっくりと右手を挙げると、水を打ったように静まり返る。

 それはかつて歴史の教科書で見た、旧世紀の欧州を狂気に染め上げた『黒翼党こくよくとう』と、その独裁者ヴァルターの姿そのものだった。幹部たちは新城の言葉を神の啓示のように書き留め、彼の絶対的なカリスマの前に自らの思考を完全に放棄している。自分が歴史の偉大な歯車になっているという陶酔感が、彼らの理性を麻痺させていた。

 会議室を出た新城が、視察と称して湊覇のメインストリートへ姿を現すと、またたく間に人だかりができた。

「知事! 新城知事!」「私たちを助けて!」

 群衆の最前列で最も声高に知事を称賛し、周囲の熱狂を扇動している男たちの耳には、透明な通信用イヤホンが光っていた。大星の工作員たちが「サクラ」として群衆の動きをコントロールしているのだ。

 絶妙なタイミングで、地元最大のメディアである「琉海日報」のカメラマンが駆けつけてくる。大星資本から多額の広告費を受け取っている彼らは、最も知事が美しく、力強く見えるアングルから一斉にフラッシュを焚いた。

 新城は、ゆっくりとした動作で黒塗りの公用車のボンネットに登った。

 最初は両手を前で組み、伏し目がちに、静かで重々しい声で語り始める。

「同胞たる南波の民よ。我々はいつまで、あの冷酷なる瑞穂の防波堤として、阿国の軍靴に踏みにじられねばならないのか……」

 新城はゆっくりと顔を上げ、悲痛な表情で群衆を見渡した。

「かつての誇り高き美しき王国は奪われ、我々はただ、本土の人間たちの平和と繁栄の生贄にされた! 瑞穂の惰弱なる為政者どもを見よ! 彼らは自らは決して血を流さず、我々の空と海を他国へ売り渡しているではないか!」

 徐々に声のトーンが上がり、組まれていた手が解かれる。新城の右手が、空間を切り裂くように大きく、そして激しく宙を舞い始めた。計算し尽くされた、群衆の血を沸騰させる身振り手振り。

「我々は、彼らの盾ではない! もはや、あの腐敗した瑞穂にすがる時代は終わったのだ! 哀しみを怒りに変えよ! 我々の中にある、偉大なる先人たちの血を呼び覚ますのだ!」

 新城は天を仰ぎ、言葉を区切って一瞬の劇的な沈黙ポーズを作った。何百人もの群衆が、息を呑んで次の言葉を待つ。

「立て、南波の民よ! 偽りの平和という鎖を引きちぎり、真の自由を勝ち取るために!」

 そして、新城は右の拳を固く握りしめ、自らの胸の前で力強く振り下ろした。

「琉海の誇りを、我らの手に!」

 うぉぉぉぉぉぉっ!! と、地鳴りのような歓声が湊覇の街を揺らした。仕込みの熱狂が、本物の狂騒へと変わった瞬間だった。

 ***

 日曜の夜。

 東都とうとの郊外、神崎健人の自宅マンションのリビングでは、その狂騒の様子がテレビの全国ニュースで大々的に報じられていた。

『――本日午後、南波県の新城知事が街頭で急遽演説を行いました。熱気に包まれた現場の様子をご覧ください』

 画面の中で、新城が拳を振り下ろしている。

 ソファで缶ビールを飲んでいた神崎は、その茶番劇を冷め切った目で見つめていた。

(……滑稽なもんだ。画面の右端で泣き叫んでる女、先月の反戦デモで先頭に立ってた大星系の活動家じゃないか。あの間合いの取り方も、独裁者の演説の露骨なコピーだ)

 記者としての冷徹な観察眼が、映像に仕込まれた無数の嘘を自動的に暴き出していく。だが、その真実を記事にする権利は、もう自分にはない。

「すごい! 新城知事、かっこいい!」

 突然、テレビの前に陣取っていた十歳の息子、勇樹が立ち上がった。

 彼は画面の中の新城とまったく同じように、一瞬の沈黙を作ってから、小さな右の拳を胸の前で力強く握りしめた。

「琉海の誇りを、我らの手に! だよね、お父さん!」

 興奮で頬を紅潮させ、見事なまでに演説のモノマネをして見せる息子。純粋な瞳が、同意を求めて神崎を真っ直ぐに見つめてくる。

 神崎の胸の奥で、ギリッと嫌な音がした。

 嘘に染め上げられ、他国の操り人形の真似事をして喜んでいる愛する息子。

「……ああ。そうだな。すごく……力強い演説だ」

 口から出たのは、またしても卑怯で、空虚な親の相槌だった。

「勇樹、お父さんの新聞社も、新城知事を応援してるんだよね? 僕、学校でみんなに自慢してるんだ!」

「……うん。お父さんの会社も、南波の平和を一番に考えてるからな」

 神崎はビールの残りを胃に流し込み、逃げるように視線をテレビへ戻した。喉の奥が焼け付くように痛い。

 そのやり取りを、オープンキッチンのカウンター越しに、妻の佳奈が静かに見つめていた。

 スポンジでグラスを洗う彼女の手の動きは、機械のように単調だ。夫の背中を見つめる彼女の瞳には、怒りすらない。ただ、氷のように冷たく、底知れぬ失望が沈殿していた。

(……昔は、違ったのに)

 佳奈は心の中で、誰に言うでもなく呟いた。

 十五年前。小さな居酒屋で向かい合って座っていた、若き日の神崎健人。

『俺は、この国の嘘を暴くために記者になった。誰も言えない真実をすくい上げて、社会の目を覚まさせる。それが、俺のペンの役目だ』

 熱に浮かされたように語る彼の目は、真っ直ぐで、燃えるような光を宿していた。佳奈は、その不器用なほどの正義感と熱量に惹かれ、彼と共に生きることを決めたのだ。

 だが、今の夫はどうだ。

 自分が騙されていることにも気づかず、狂った政治家のモノマネをしてはしゃぐ息子に対し、真実を教えることも、叱ることすらできない。ただ薄ら笑いを浮かべて、自分が書いた嘘の記事の後ろに隠れて震えているだけの、哀れな中年の抜け殻。

(あなたはいつから、そんなに小さくなってしまったの……)

 佳奈は蛇口の水を止め、濡れた手をタオルで拭いた。

 テレビの中では、熱狂する群衆と、神のように振る舞う新城知事の姿が映し出されている。

 その偽りの熱狂と、リビングに漂う重く冷たい静寂。

 神崎家の崩壊は、瑞穂という国家の崩壊と同じように、音もなく、しかし確実に進行していた。

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