エピローグ:英雄の肖像と、真実の終焉
神崎健人が「英雄」として歴史に名を刻んでから、五年が経過した。
世界は、あの『Xデー』を境に大きくその姿を変えていた。
大星の覇権は、自壊の道を辿っていた。
四年前に開始された蓬莱奪還作戦は、琉海人民共和国の協力により短期決戦で終わるはずだった。しかし、大星の裏庭である北の国境に、突如として羅州軍が展開したのだ。これ以上の大星の勢力拡大を危険視したウラジーミル・プートフ大統領の冷徹な裏切りだった。
大星は国境警備に莫大な戦力を割かれ、さらに瑞穂の大鷹内閣が裏で蓬莱へ強力な武器支援を行ったことで、戦局は泥沼化した。
そして三年前。工作部から国家安全部のトップへと登り詰めていた李鉄海は、ついに曹景龍国家主席の隠し財産の証拠を掴み、彼を排除して自らが主席の座に就く計画を企てていた。
だが、決行の直前。酒を一滴も飲めないはずの李は、「致死量のアルコールを摂取した状態での階段からの転落死」という、あまりにも不自然で不可解な最期を遂げた。
さらに李の死から半年後、今度は曹景龍自身が突然の脳梗塞で帰らぬ人となる。絶対的な独裁者を失った大星は、凄惨な権力闘争の渦に飲み込まれ、蓬莱作戦は頓挫。対外支援も打ち切られ、果てしない内戦と混沌の国家へと成り果てた。
大星の崩壊は、新城烈の『琉海人民共和国』の終焉をも意味していた。
大星の強要で参加させられた蓬莱作戦で国力をすり減らした琉海は、頼みの綱であった羅州からも援助を断られ、完全に孤立した。
やがて、瑞穂の防衛隊による『南波(琉海)奪還作戦』が開始されると、新城の精神は完全に崩壊した。昼間は防空壕の地下作戦室で、酒の臭いを撒き散らしながら、すでに全滅した部隊に攻撃命令を出すなど、狂気に満ちた破綻した作戦を幕僚たちに喚き散らす日々。
そして夜になれば、自らの寝室に何人もの若い女たちを呼び寄せ、現実逃避の酒宴と乱交に明け暮れた。
「……私を、王と呼べ……もっと優しくしろ……」
かつての冷酷な暴力性は消え失せ、新城は幼児のように女たちの柔らかな胸に顔を埋めて甘え、すがりついた。女たちもまた、明日をも知れぬ恐怖を忘れるため、汗ばんだ肌を絡ませ、淫らな喘ぎ声を上げながら狂王の情けない欲望を受け入れた。ワインと香水、そして濃厚な体液の匂いが充満する密室で、新城は泥のような快楽の底に沈んでいった。
瑞穂からの爆撃が激しさを増した、ある昼下がり。
地下作戦室に新城は現れなかった。鍵のかかった執務室から、一発の乾いた銃声が響く。親衛隊が扉を打ち破った時、新城はこめかみを撃ち抜き、自らの血だまりの中で冷たくなっていた。
偽りのカリスマの呆気ない自決により、琉海人民共和国は地図から消滅した。
一方、超大国・阿国は完全な『モンロー主義(孤立主義)』を確立し、世界の警察としての役割を完全に放棄した。その結果、阿国経済は深刻な冷え込みを見せ、世界中で紛争の火種が爆発するトリガーとなってしまった。
そして――瑞穂である。
臨時総理から正式な宰相となった大鷹知次郎は、徹底的な海外勢力の排除と、阿国の後ろ盾なしでも自立できる『強兵政策』を推し進めた。
「国家存亡の危機」を大義名分とし、既存の全政党は解体・統合され、巨大な一つの会派『国民翼賛会』へと吸収された。これに参加しない政治家は、事実上、政治活動から完全に排除されることとなった。
経済面では、紛争国への積極的な武器輸出を解禁。かつて大星の圧力で封印されていたトヨクニや三ツ星重工の「オーバーテクノロジー」を次々と軍需産業に転用し、莫大な利益を生み出した。その象徴として、最新鋭の電磁兵装とステルス機能を備えた超弩級戦艦『瑞穂武尊』が就役し、国民の熱狂的な支持を集めている。
さらに、国内の治安維持と反政府思想の取り締まりのため、新たな巨大組織『国家情報省』が設立された。かつて「暁」として暗躍した者たちはここに吸収され、諜報局のトップ(局長)には、村上正毅が就任した。
村上からの誘いを受け、神崎もまた、国家情報省・諜報局の一員となっていた。
クーデターの直後。神崎は極度の疲労と緊張の糸が切れ、しばらくは廃人のように何もできない日々が続いていた。
そんな彼を癒したのは、妻の佳奈だった。息子が学校に行っている昼下がり、二人はまるで出会った頃の若い恋人同士のように、貪るように互いの体を求め合った。
「……健人っ……ああ、健人……生きてて、よかった……」
佳奈が泣きながらしがみつき、神崎の背中に爪を立てる。神崎もまた、失いかけた妻の肌の温もり、甘い吐息、そして己を包み込む柔らかな熱の奥底に、自らの存在証明を刻み込むように、何度も、何度も激しく腰を打ち付けた。汗と涙が混じり合い、シーツが重くなるほどに愛を確かめ合う、生々しくも美しい、生への渇望の儀式だった。
だが、その平穏は長くは続かなかった。
現在、神崎は国家の『英雄』として、各地を回り、大鷹内閣の強兵政策と国家革命の正当性を説く講演活動を熱心に行っている。これもまた、諜報局の重要なプロパガンダ任務の一つだった。
村上の指示で始めたジム通いにより、かつての中年太りの面影は消え去り、神崎の肉体は精悍な戦士のように引き締まっていた。生き生きとした瞳で「瑞穂の正義」を語るその姿に、民衆は惜しみない拍手と歓声を送る。
ある夜、神崎はお忍びで、相馬の営む小料理屋『海燕』を訪れた。
「いやあ、今の瑞穂は最高だよ、相馬。大鷹閣下の指導のもと、俺たちは本当の正義の国を創り上げているんだ」
神崎は、自信に満ち溢れた声で、出された日本酒を煽った。そこに、微塵の疑いもない。
相馬はカウンター越しに、かつての親友を静かな、ひどく冷たい目で見つめていた。
「……お前、変わったな」
「ははは、分かるか? 毎日ジムに通って、肉体改造をしたからな! 今は毎日、この国の正義のために働けていることに、心から満足しているよ」
神崎は相馬の言葉の真意に全く気づかず、無邪気に笑った。
「……ただ、一つだけ分からないことがあるんだ。佳奈の奴が、なぜか『勇樹が二十歳になったら、離婚してほしい』って言い出してな。俺は家族のために、こんなに立派に働いているのに……女心ってのは、本当に分からないよな」
相馬は、何も答えなかった。ただ黙って、グラスを磨き続けていた。
一方、諜報局長の椅子に座る村上正毅もまた、変わってしまっていた。
復讐の対象であった李鉄海が不可解な死を遂げ、憎むべき大星も崩壊した。生きる目標を完全に失った復讐鬼の目には、かつてRZ-7を駆っていた頃の、あの研ぎ澄まされた狼のような光はもう無い。ただ、虚無感だけを漂わせながら、冷酷な官僚として書類にハンコを押すだけの日々を送っていた。
夜更け。神崎は、東都の超高層タワーマンションの最上階にある自宅へと帰宅した。
広々としたリビングに入ると、百インチの巨大な壁掛けモニターで、国民広告機構のCMが流れていた。超人気のイケメン俳優が笑顔で語りかけている。
『十五歳以上の健康な瑞穂国民は、防衛予備隊へ! 君の力が、正義の国を創る!』
(……うむ。やはり、あの俳優を起用して正解だったな。我ながら、諜報局の素晴らしい仕事だ)
神崎は、自分が承認したそのCMを見上げ、心からの満足感を覚えていた。
「父さん、おかえり」
高校生になった勇樹が、自分の部屋から顔を出した。
「ただいま。どうした、勇樹」
「……父さんに、相談があるんだけど。俺、十五歳になったから、防衛予備隊に登録したいんだ。でも、母さんがすごく反対してて……」
神崎は、嬉しそうに微笑み、息子の肩を力強く叩いた。
「そうか! よく決心したな。母さんには、俺からよく言っておくよ。防衛予備隊に登録することは、この国を守るための素晴らしいことなんだからな」
「本当に?」
「ああ。母さんが反対しても、気にするな。大鷹閣下がいつもおっしゃっているだろう? 『自己決定の意志を大切にしろ』ってな。この国では、自分の意志で物事を決められる。他の大国と違って、強制的なことは一つもない。お前がやりたいように行動することが、一番大切なんだ」
神崎は、心底からの善意と正義感を込めて、息子にそう語りかけた。
「そうだ。今度、大鷹閣下との会食があるから、そこでお前の決心のことを伝えておこう。閣下も、きっとお喜びになるぞ!」
その会話を、薄暗い寝室のドアの隙間から聞いていた佳奈は、こみ上げてくる激しい吐き気を必死に手で押さえていた。
リビングで高笑いをしている夫は、もう彼女が愛した「不器用だが優しい健人」ではなかった。完全に、別の生き物になってしまったのだ。
かつて新聞社にいた頃、神崎は「自分は会社の言いなり(操り人形)になっている」という自覚と、かすかな罪悪感を持っていた。だからこそ、最後には真実のために立ち上がることができた。
しかし、今はどうだろう。
彼は、この異論を許さない巨大な軍事国家が、本当に「正しく、美しい正義の国」であると、一片の疑いもなく狂信しているのだ。大鷹の言葉をオウムのように繰り返し、自らが巨大な洗脳装置の一部になっていることすら、微塵も気づいていない。
(……英雄なんて、創られた偶像に過ぎない。真実なんて、どこにもなかった……)
佳奈の目から、音もなく絶望の涙がこぼれ落ちた。
狂ってしまった夫に対して、もう彼女がかけられる言葉は、何一つ残されていなかった。
薄暗い部屋の中で、佳奈はただ一人、声を出さずに泣きながら、冷たいベッドへと崩れ落ちた。
リビングからは、作られた英雄の、空虚で明るい笑い声が、いつまでも響き続けていた。
【了】




