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第十九章:偽りの銃声と、受け継がれた鍵

冷たい机の感触と、消毒液の匂い。

 神崎健人がゆっくりと重い瞼を開けると、そこは殺風景な取調室だった。自分がパイプ椅子の前で、机に突っ伏した状態で眠り込んでいたことに気づく。

「……ここは? 警視庁か? 俺は、生きているのか……?」

 状況が全く飲み込めない。ヘリコプターの中で眉間に銃口を向けられ、確かに鼓膜を劈くような銃声を聞いたはずだった。

 ガチャリとドアが開き、先ほどヘリの中で神崎に銃を向けた「警視庁の制服を着た男」が入ってきた。

 神崎がビクッと身をすくめると、男は呆れたように鼻で笑い、机の上に缶コーヒーを置いた。

「安心しろ。あの銃は空砲だ。ヘリの中に仕掛けられた大星たいせいの盗聴器を誤魔化すための芝居だったんだが……まさか銃声のショックだけで気絶するとは思わなかったぜ」

「空砲……? 芝居……?」

 情けない理由で気を失っていた自分に顔から火が出る思いをしながら、神崎は恐る恐る男を見た。

「あんたは、大星の工作員じゃないのか?」

「俺たちは『あかつき』だ」

 男は短く、しかし力強い一言を放った。

「大鷹閣下が、Xデーを目前に控えたこの最も危険な時期に、我々のような警視庁内に潜伏する信用できる勢力を総動員して、お前の身柄を保護した。閣下は、村上との約束を何より重んじられるお方だからな」

「大鷹……閣下?」

 神崎の頭の中で、長年培ってきた記者としてのデータベースが高速で回転した。閣下と呼ばれるほどの権力者で、大星の工作網に対抗し得る実力組織を動かせる人間。

「まさか……防衛隊大将の、大鷹知次郎か!?」

 男は答えず、ただ微かに口角を上げた。

 神崎は息を呑んだ。反政府組織『暁』のバックに、まさか現役の防衛隊トップが絡んでいるとは。彼らが具体的に何を企てているのか、その全貌までは分からない。だが、国家の命運を分けるこの土壇場で、それほどの巨大な権力者が、一人のしがない記者の命を救うために多大なリスクを背負ってくれたのだ。その事実に、神崎は胸が熱くなるのを感じた。

「ここなら大丈夫だ。しばらくは時間を稼げる。お前は今、別件の『無関係な被疑者』として偽名で拘留されていることになっているからな。ここから先は警視庁内も大星のシンパだらけだが、最悪の場合は力尽くで脱走の手助けもする手はずになっている」

「……ありがとう。助かった」

 神崎は深く頭を下げた。そして、ずっと気がかりだったことを口にする。

李鉄海りてっかいの工作網はどうなっている? それに、村上さんは……無事なのか? あのバカでかいポンコツサーバーは……」

「李鉄海は数日前に突然本国へ引き揚げた。今は別の人間が指揮を執っているが、連中の工作能力は目に見えて落ちている。……それに、村上の奴は見事にミッション・コンプリート(任務完了)して、雪幌から無事に帰還しているよ」

「そうか……!」

 神崎は、全身の力が抜けるほどの安堵感に包まれた。

 拘留期間中は守ってもらえる。村上も無事にデータに辿り着いた。囮になった自分の行動は、決して無駄ではなかったのだ。神崎は、情けないほど涙でぐしゃぐしゃになった顔を両手で覆った。

 ***

 その日の夜。

 村上は漆黒のRZ-7のエンジンを唸らせ、都内の高級住宅街へと車を滑り込ませた。

 神崎の家族が匿われているセーフハウスは、政財界の大物でもなければ入居審査すら通らないような、超高級タワーマンションの一室だった。

 エントランスに立つコンシェルジュの男と目配せをする。彼もまた、暁が配置した村上の部下である。村上はコンシェルジュの操作で厳重なオートロックをすり抜け、最上階に近い一室へと急いだ。

 Xデーは目前に迫っている。錦の御旗データなしで、事は起こせない。もしこのポンコツサーバーの中にデータが入っていなかったら……村上の焦燥感は限界に達していた。

 ピンポーン、と控えめなチャイムの音が鳴る。

 インターホンのカメラでコンシェルジュの顔を確認したのだろう、静かに重いドアが開いた。

 顔を出した神崎の妻・佳奈は、コンシェルジュの背後に立つ、ただならぬ殺気を纏った長身の男(村上)を見て、一瞬ビクッと息を呑み、ドアを閉めようと警戒した。

 村上はティアドロップのサングラスを外し、努めて穏やかな声で頭を下げた。

「……夜分に失礼する。驚かせてすまない。俺は、ご主人を北州の青津まで送り届けた者だ」

 部屋のリビングに通された村上に対し、佳奈と、傍らにしがみつく小学生の息子・勇樹の表情は、不安と混乱で強張っていた。

「主人は……健人は無事なんですか!? なにがあったんですか、どうして青津なんかに……」

「おじさん、お父さんは、テレビで言ってるみたいに人殺しなの……?」

 勇樹が、泣き出しそうな顔で見上げてくる。

 村上は短く息を吐いた。このままでは話が進まない。隠し立てせず、すべてを話すしかないと判断した。

「……よく聞いてくれ。ご主人は、殺人犯なんかじゃない。この国を裏から売り飛ばそうとしている巨悪にたった一人で立ち向かい、真実の証拠を掴み取った『本物の記者』だ」

 そこから、村上は努めて淡々と、しかし熱を込めて語り始めた。

 南波の暴動の裏で、神崎が大星と新城知事の『最終計画』の証拠データを入手したこと。

 そのせいで大星の工作員に狙われ、協力者を殺され、殺人事件の濡れ衣を着せられたこと。

 暁という組織と出会い、巨大な監視網『天網』からデータを守るため、唯一安全な雪幌の実家にある『安心サーバー193』を目指して、追手との決死の逃避行を繰り広げたこと。

 そして――足手まといになる己を悟り、村上にすべてを託して、自ら青津の雪の街で「囮」となったこと。

「……ご主人は、お前さんたち家族と、この国を守るために、自分の命を投げ出したんだ」

 村上の説明が終わる頃、佳奈の目からは大粒の涙がボロボロと溢れ落ちていた。

 ある日突然、見知らぬ男たちにこの豪華なマンションに押し込められ、事実上の監禁状態に置かれた。テレビをつければ、愛する夫が凶悪な殺人犯として全国に指名手配されている。まともに眠れる夜など一日もなかった。佳奈と勇樹もまた、孤独で過酷な戦いを強いられていたのだ。

 だが、その涙は絶望のものではなかった。

(……あの人は、戦っていたんだ)

 事なかれ主義に染まり、会社の言いなりになり、家族との時間すら犠牲にしていた夫。もう昔の情熱は消え失せてしまったのだと諦めていた。だが、村上の口から語られた「真実を暴くために囮になった」という彼の姿は、かつて自分が愛した、正義感に目を輝かせていた不器用な新米記者そのものだった。

 夫はまだ生きている。そして真実のために戦っていた。

 佳奈は涙を拭い、勇樹の肩を力強く抱き寄せた。

「……奥さん。時間がない。単刀直入に言う」

 村上は真剣な眼差しで、佳奈を真っ直ぐに見据えた。

「ご主人が命懸けで守ったデータを引き出すためには、この『193』に端末登録されている、あんたのスマートフォンが必要なんだ。ご主人を、そしてこの国を救うための『鍵』として、スマホを貸してほしい」

 村上が深く頭を下げる。

 その瞬間、佳奈の動きがピタリと止まった。

 彼女の顔に、明確な『戸惑い』と、何か重大な秘密を隠しているかのような強い動揺が走った。

「……私の、スマホを……あのサーバー(193)に、繋ぐんですか……?」

 佳奈は自分のスマートフォンを胸に抱き抱えるようにし、村上を値踏みするように見つめた。その眼差しは、ただ事ではない緊張感を孕んでいる。

「……その、夫が持ち込んだ『データ以外』は、絶対に見ませんよね?」

 まるですべてを見透かすような、鋭く、念を押すようなその声のトーンに、百戦錬磨の村上でさえ一瞬たじろいだ。

(……なんだ? この異常な警戒心は。あのサーバーの中に、国家を揺るがす別の機密情報でも入っているというのか?)

 村上は内心の疑問を悟られまいと、人懐っこい笑顔を作って頷いた。

「もちろんだ。データがきちんと一つのフォルダにまとまっていれば、必要な証拠以外のプライベートなものには一切興味はないさ」

 その言葉を聞いた途端、佳奈はなぜかポッと顔を赤らめ、スッと目を逸らした。

「……絶対、ですよ。絶対ですからね」

 彼女はもう一度強く念を押すと、震える手でスマートフォンを村上に手渡した。

(……一体、何をそんなに隠そうとしているんだ?)

 マンションを後にした村上は、受け取ったスマートフォンの重みを感じながら、拭いきれない謎と疑念を抱いていた。

 地下駐車場でRZ-7のエンジンに火を入れながら、村上はハンドルを強く握りしめる。

「まあいい。これで、扉は開く」

 ヴォォォォォンッ!!

 深夜の静寂を切り裂くエキゾーストノートと共に、漆黒のスポーツカーが東都の闇の中へと飛び出していく。神崎の命を救うための、そして瑞穂という国家の運命を左右する「最後の鍵」を乗せて、村上は暁の地下本部へとアクセルをベタ踏みにした。

 ***

 東都の闇を引き裂き、漆黒のRZ-7が暁の地下本部ホテルの搬入口へと滑り込んだ。

 時刻はすでに深夜をとうに回っている。明日の昼には神崎が本庁へ移送されることを考えれば、タイムリミットは文字通り首の皮一枚のところまで迫っていた。

 車を乗り捨てた村上は、専用エレベーターに飛び乗った。

 地下深くのデータ解析室へと降下していく密室の中で、村上はティアドロップのサングラスを外し、微かに舌打ちをした。

 焦っている。どんな修羅場でも決して乱れることのない彼の心拍数が、今は明らかに上がっていた。階数表示のランプが一つ下がるたび、永遠にも似たもどかしさを感じる。村上はスマートな立ち姿を崩さぬまま、コートのポケットに突っ込んだ右手で、カチ、カチと無意識に愛銃の撃鉄を弾きそうになる衝動を必死に抑え込んでいた。

 チンッ、と無機質な音が鳴り、地下フロアの扉が開く。

 村上は長い脚で廊下を蹴り、高度データ解析室の防爆扉を乱暴に開け放った。

「村上さん!」

 疲労の極致で顔を土気色にしていた班長や班員たちが、弾かれたように立ち上がる。

「どうでしたか!? スマホは……」

 村上は、荒い息を一度だけ深く吐き出し、いつもの不敵な笑みを口元に浮かべた。

「ああ。手に入れたさ」

 懐から佳奈のスマートフォンを取り出して見せると、解析室に「おおっ!」という歓喜のどよめきが弾けた。

「……だが、喜ぶのはまだ早いぞ。これで本当に193(イクミ)の扉が開くのか、そして神崎のデータが本当に中に入っているのか、まだ分からない」

 村上の冷静な声に、班員たちはゴクリと息を呑み、再び張り詰めた緊張感を取り戻した。

 班長が震える手で、佳奈のスマートフォンにハッキング防止の特殊フィルターを噛ませ、慎重にポンコツサーバー193のポートへと接続する。

「……アクセス、スタートします」

 班長がエンターキーを叩いた。

 室内の空気が、凍りついたように止まる。

 巨大なメインモニターの中央で、緑色のプログレスバーがゆっくりと、じりじりと伸びていく。

 キーボードに手を置いたまま、瞬きすら忘れて画面を凝視する班長。祈るように両手を組む若い班員たち。そして、腕を組み、サングラスの奥で鋭い光を放ちながら、微動だにせず結果を待つ村上。

 ほんの十数秒の出来事が、まるで何時間もの苦行のように感じられた。皆の心臓の鼓動だけが、静かな室内に異常なほど大きく響き渡る。

 ――ピィンッ。

 やがて、メインモニターの画面が一度暗転し、古いアーケードゲームのような緑色のデジタルフォントで、眩しく点滅する文字が浮かび上がった。

『 ACCESS SUCCESS 』

「……開いたっ! サーバーの認証、突破しました!!」

 班長の絶叫に、室内の全員が崩れ落ちるように安堵の息を吐いた。

 村上もまた、肩の力を抜き、ようやく微かな安堵の笑みをこぼした。

「よし、よくやった。すぐに神崎の告発データを大型モニターに映し出せ」

「了解です! ……えっ?」

 キーボードを操作していた班長が、妙な声を上げた。

「どうした?」

「あの……このサーバー、中身のシステムもとんでもないポンコツ仕様でして……。『フォルダ分け』という概念がありません。さらに日付表示のメタデータも壊れていて、神崎さんがファイル名も一切変更せずにデフォルト名のまま放り込んでいるせいで、どれが告発データなのか全く検索できないんです」

「……なんだと?」

 班長がメインモニターに表示させたのは、『IMG_0001』から延々と続く、数千個もの名無しの画像や動画ファイルの羅列だった。

「どうしますか、村上さん。ファイル名で絞り込めない以上、一つずつ端から手作業で開いて、中身を確認していくしか……」

 村上の脳裏に、先ほどマンションで佳奈が見せた「異常なまでの警戒心と、赤らめた顔」がフラッシュバックした。

(……佳奈さん、約束を破ることになって、本当にすまない)

 村上は心の中で深く詫びながら、苦渋の決断を下した。

「……構わん。一番上のファイルから、全部大型モニターに表示させろ。手分けして目視で証拠を探す」

「了解。展開します!」

 カチッ。

 班長がマウスクリックをした瞬間、大型モニターに映し出されたのは――大星の機密データでも、国家転覆の陰謀の証拠でもなかった。

「……っ!?」

「ぶふっ!?」

 解析室にいた十数名の男たちが、一斉に目を見開き、あるいは飲んでいたコーヒーをモニターに吹き出した。

 そこに大写しになったのは、若き日の神崎と、可愛い系の妻・佳奈の、ホテルの一室での「あられもない姿」を収めたプライベート写真だったのだ。しかも、モザイクなどの処理は一切存在しない、完全な無修正である。

「お、おいっ、次を開け! 次!」

 班長が慌てて次のファイルをクリックする。

 しかし、次も、その次も、動画ファイルを開いても、モニターに映し出されるのは、結婚前、そして結婚直後の神崎夫婦の、若気の至り全開の「濃厚すぎるベッドでの営み」の記録ばかりだった。

(……佳奈さんが命懸けで隠したかった『超極秘データ』って、これのことかよ……!)

 村上は、額に手を当てて天を仰いだ。

 国家の危機、暗殺者との死闘、悲壮な囮作戦。そのすべてを懸けて守り抜いたポンコツサーバーの最も分厚い装甲の奥に眠っていたのは、ただの中年サラリーマンの、誰にも見せられない恥ずかしい『にゃんにゃん写真』の山だったのだ。

(神崎……お前って奴は、本当に最低だな)

 村上は、一瞬だけ心の底から神崎を軽蔑した。だが次の瞬間、ハードボイルドな復讐鬼の口から、堪えきれない笑い声が吹き出した。

「くっ……ふはははっ! ははははははっ!!」

 村上が腹を抱えて笑うのを見て、凍りついていた班員たちも、何とも言えない苦笑いを浮かべた。

「……よし、笑い事じゃないぞ。これも国を救うための試練だ。引き続き、ファイルの確認を続行しろ!」

 村上がいつもの鋭い顔に戻って指示を飛ばす。

「は、はいっ!」

 だが、そこから先は地獄だった。

 高度なセキュリティに守られた薄暗い解析室の大型モニターに、途切れることなく神崎夫婦の赤裸々なエロティシズムが映し出され続ける。部屋の空気は完全にピンク色に染まり、班員たちは皆、目を覆いたくなるような気まずさと、妙な興奮と、他人の秘め事を見続けることへの罪悪感に苛まれながら、必死にキーボードを叩き続けた。

 そんな生き地獄のような無言の作業が、二十分以上も続いた時のことだ。

「……あ、ありました!!」

 一人の若い班員が、弾かれたように叫んだ。

 ピンク色の画像の海の中に、不自然に紛れ込んでいた数枚のテキストファイルと、PDFデータ。

 それは間違いなく、大星と新城の癒着を示す裏帳簿のデータと、南波での暴動を仕組んだ『最終計画フォルス・フラッグ』の全貌を記した告発原稿だった。

「やった……! ついに、すべてのデータが揃ったぞ!」

 班長が涙ぐみながら叫び、徹夜明けの班員たちが歓声を上げる。

 神崎がすべてを失ってまで手に入れ、村上が血みどろになって北の大地から持ち帰った『真実』が、ついに暁の手中に収まったのだ。

 村上は、モニターに映る告発原稿を眩しそうに見つめながら、静かに命じた。

「……よくやった。データを急いで大鷹閣下のもとへ送れ」

 時計の針は、午前六時を回っていた。

 東都の空が白み始めている。

(神崎……。お前が命がけで守った『神崎ノート』、ついに手に入れたぞ)

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