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第一章:かつての王国の名

休日の昼下がり。薄曇りの空から差し込む生ぬるい光が、リビングの埃を白く浮かび上がらせていた。

 神崎健人は、味の薄いインスタントコーヒーが入ったマグカップを握りしめたまま、ソファに深く沈み込んでいた。

 壁掛けの液晶テレビからは、日曜特番のドキュメンタリーが流れている。画面に映し出されているのは、南波の青すぎる海と、それを分断するように横たわる巨大な阿国アトラス軍基地のフェンスだった。

 休日にまで仕事の延長のような映像を見たくはなかったが、リモコンに手を伸ばす気力すら湧かなかった。

 画面は過去の白黒映像に切り替わる。数十年前、凄惨な地上戦の末に瑞穂(本土)から切り離され、阿国の軍政下に置かれた南波。銃剣とブルドーザーによって島民たちのサトウキビ畑が強制的に接収され、巨大な滑走路へと姿を変えていく記録映像。

「自由主義陣営の防衛線」という大義名分の下、彼らは土地と尊厳を奪われた。やがて瑞穂への返還が実現し、瑞穂中が歓喜に沸いた後も、南波の空には阿国の軍用機が飛び交い続けた。瑞穂全体のわずかな面積しかないその島に、在瑞穂阿国軍の過半が集中しているという異常な歪み。

 テレビの画面が現在の那覇市街に切り替わり、数十万の群衆を前にマイクを握る男の姿が映し出された。南波県知事であり、「琉海党」を率いる新城烈だ。

『我々の海を、我らの手に! 阿国軍の占領状態を終わらせ、今こそ誇り高き琉海の魂を取り戻すのだ!』

 芝居がかった、しかし圧倒的な熱量を持つ演説に、群衆が涙を流して歓声を上げる。

 神崎は、カップの底に残った冷たいコーヒーを見つめながら、「琉海りゅうかい」という言葉の響きをぼんやりと脳内で反芻していた。

 琉海。それは単なる政党名ではない。数百年前、この島が瑞穂に併合されるずっと昔に名乗っていた、独立王国の名だ。

 かつてその島は、武器を持たず、大星たいせいをはじめとする大陸との中継貿易で栄えた平和で豊かな海洋国家だった。だが、瑞穂の南端を支配していた好戦的な大名が、圧倒的な武力で海を渡り、王国を蹂躙した。王を服従させ、過酷な税を取り立てながら、大星との貿易の利益だけを貪るために「独立国」としての体裁を保たせるという、二重の屈辱を強いたのだ。

 その歴史的略奪と搾取のトラウマは、近代になり正式に「南波県」として瑞穂に組み込まれた後も、島民の血に癒えない傷として深く刻み込まれている。

 島民たちの抱えるその痛みは「本物」だ。記者として、神崎もそれは痛いほど理解している。

 新城知事は、その本物の痛みとルサンチマンを巧みに利用し、かつての『琉海王国』の栄華という甘い幻想をチラつかせて島民を煽動している。

 だが、その独立運動の足元を支えているのは、大星の工作機関から流れ込んだ莫大な「大星資本」だ。大星は、南波の人々の歴史的悲劇を再利用し、「反戦平和」という極上の罠で島を瑞穂から切り離そうとしている。阿国軍さえ追い出せば、大星は一発の銃弾も使わずに、あの青い海を自分たちの軍港に変えることができる。

 平和と独立を叫ぶ新城知事の背後には、巨大な赤い龍が鎌首をもたげている。琉海という名の誇りは、他国への新たな隷属への入り口に過ぎない。

 だが、神崎が勤める暁星新聞は、その真実を黙殺し、新城を「抑圧された民衆の英雄」として連日称賛し続けている。

「……お父さん」

 ふと、横から声がした。

 いつの間にかリビングに来ていた十歳の息子、勇樹が、テレビの画面と神崎を交互に見つめていた。

「新城知事って、すごいよね。学校の先生も言ってた。琉海王国は、ずっと瑞穂の本土にいじめられてきたから、また自分たちの国を作った方が幸せになれるって」

 無邪気で、一点の曇りもない瞳。

阿国アトラスの軍隊がいるから、戦争の的になるんだよね? 軍隊がなくなれば、南波はずっと平和な島になれるの?」

 神崎の喉の奥で、鉛のような言葉が閊えた。

 ――違う。阿国軍が撤退した翌日には、大星の武装艦隊が南波の港を封鎖する。お前が言っている平和は、国を差し出すためのただの降伏宣言なんだ。

 そう叫びたかった。真実を教え、歴史の裏にある冷酷な罠を教えるのが父親の役目だ。

 だが、口を開きかけた神崎の脳裏に、自分が昨日書き上げたばかりの社説がフラッシュバックした。

『対話による南波の自立を支援し、軍事力に頼らない新たな平和構築を』

 自分が金のために書いた嘘と、寸分違わぬ言葉を、息子は口にしているのだ。

「……そう、だな」

 神崎は、乾いた唇を舐め、顔を逸らした。

「物事は、簡単じゃないんだ。歴史には色んな見方があって……でも、誰も戦争なんかしたくない。だから、話し合いで解決するのが一番いいって、そう考える人たちがいるんだよ」

 ひどく曖昧で、逃げ腰な、卑怯者の模範解答だった。

 勇樹は腑に落ちないような顔をしたが、それ以上は追及してこなかった。

 トントン、トントン。

 静まり返ったリビングに、台所から包丁がまな板を叩く音が響いた。

 神崎が顔を上げると、オープンキッチンに立つ妻の佳奈が、手を止めてこちらを見ていた。

 エプロン姿の彼女の視線は、薄暗い海の底のように冷たかった。かつて、社会の不正に立ち向かう神崎を眩しそうに見つめていたあの頃の光は、微塵も残っていない。

「勇樹」

 佳奈が、抑揚のない静かな声で息子を呼んだ。

「お父さんはね、そういう『平和』の素晴らしい記事を書いて、お給料をもらっているのよ。だから、学校で習った通りのことを信じていればいいの」

 その言葉の裏にある鋭い刺が、神崎の胸を深々と抉った。

 彼女は気づいているのだ。夫が真実から目を背け、会社の犬に成り下がり、子供にすら本音を語れない腑抜けであることを。

「……ごはんだから、手を洗っておいで」

 佳奈は再び視線をまな板に戻し、ネギを切り始めた。トントン、という等間隔の冷たい音が、昨夜の居酒屋で相馬が刃物を研いでいた音と重なり、神崎の神経をやすりのように削っていく。

 テレビの中では、依然として新城知事が「琉海の輝かしい未来」を叫び続けている。

 神崎は冷え切ったコーヒーを胃に流し込み、逃げるようにソファから立ち上がった。休日の生ぬるい空気の中で、自分という人間の輪郭が、少しずつ腐り落ちていくような感覚だけが確かにあった。

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