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第十七章:英雄の誓いと、開かない扉

東都とうとの地下に潜伏し、丸二日が経過した。

 夕闇が窓の外を赤く染める頃、高級ホテルのスイートルームのソファに深く腰掛けた村上正毅は、珍しく貧乏揺すりをして焦りを隠しきれずにいた。

 あかつきの情報網により、神崎が北端の青津あおつ警察署に拘留されていることは確認できた。あの地方警察特有の泥臭い手続きの壁が、幸運にも神崎の命を繋ぎ止めている。

 しかし、そのタイムリミットもついに尽きようとしていた。明日の昼には、警視庁本庁から大星たいせいの息がかかった移送ヘリが青津に到着し、神崎を東都へ連行することが決まっているのだ。

(……このままでは、神崎が殺される)

 村上は、テーブルに置かれた冷めたコーヒーを一瞥し、重いため息を吐きながら、二日前の「本部」での出来事を回想していた。

 ***

 雪幌からフェリーと陸路を乗り継ぎ、村上が東都の「暁・本部」に到着したのは深夜のことだった。

 本部は、新興ホテルグループが東都の一等地に建てた超高級ホテルの、一般客が決して立ち入ることのできない広大な地下空間に存在していた。このホテルグループ自体が、暁のダミー会社によって運営される巨大なカモフラージュであり、組織の資金源と活動の要を担っている。これを知るのは、暁の中でも極一握りの最高幹部だけだ。

(……なるほど。赤塚が、あのとき神崎とのデータの受け渡しにこの本部ホテルを使わなかった理由が分かったぜ)

 村上は、網膜認証と静脈認証を経て地下深くへ降りる専用エレベーターの中で、独りごちた。

 赤塚は、神崎に万が一にも大星の尾行がついていた場合、この「暁の心臓部」が露呈するリスクを避けるため、あえて危険を承知で外部の別のホテルを会談場所に選んだのだ。

 重厚な防爆扉を抜け、通称『大会議室』と呼ばれる本部司令室へと足を踏み入れる。

 そこは、円卓を囲むように配置された十台の大型モニターの光だけが、唯一の光源となっている薄暗い空間だった。

 会議が始まる前、村上は円卓の脇に置かれている見慣れない通信機器群に目を留めた。それはすべて、鮮やかな『クリムゾンレッド』のカラーリングが施された専用端末だった。

(……『紅天こうてん』の端末か)

 村上は、腑に落ちたように小さく息を吐いた。

 紅天――元官僚の三樹谷みきや社長が一代で築き上げた、瑞穂最大のインターネットショッピングモール企業だ。

 赤塚は、自身の瑞穂セルラーが大星側に乗っ取られた場合の「非常用通信回線」を確保するため、三樹谷に力を貸し、第四の通信キャリアとして紅天の新規参入を裏で強引に後押ししていたのだ。

 村上自身の事前の調査では、紅天は完全に「親大星派」の企業としてリストアップされていた。三樹谷は、大星の目を欺くための完璧な二重スパイ(シンパ)だったのだ。

(……通信インフラのバックアップは万全ってことだな。赤塚の執念には恐れ入る)

 不意に、十台のモニターが一斉に起動した。

 各画面には幹部たちのコードネームと番号だけが表示されたが、正面の巨大なメインモニターにだけは、一人の男の顔が鮮明に映し出されていた。

 軍服を身に纏った、恰幅の良い坊主頭の初老の男。その瞳には、海よりも深い威厳と、揺るぎない覚悟が宿っている。

 彼こそが、大星をはじめとする外資に侵食される祖国を憂い、反大星結社『暁』を創設した真の黒幕――防衛隊大将、大鷹知次郎おおたか ともじろうであった。

「大鷹閣下、そして幹部の皆様。お時間をいただき感謝します」

 村上はモニターに向かって深く一礼し、分厚い毛布に包まれた『安心サーバー193(イクミ)』を卓上に置いた。

「神崎が集めたデータの入ったサーバーは、すでに手元にあります」

 その報告に、暗闇の向こう側で複数の幹部たちが安堵の息を吐く気配がした。これでXデーの成功に必要な鍵は、すべて揃ったのだ。

『……本当に、ご苦労であったな、村上君』

 大鷹は、軍人としての威厳の中に、どこまでも深い慈愛と労わりを込めた声で語りかけた。

『君、そして今回巻き込んでしまった神崎君には、感謝の言葉しか出てこない。Xデーが成功した暁には、君たちは瑞穂を救った真の英雄だ』

「……神崎の正義こそが、英雄的行為です」

 村上は、微かに目を伏せて答えた。

「私は、妻の復讐のための行動をしているに過ぎません。英雄と呼ばれる器ではない」

『……そうか。Xデーは三日後とする。それまでは皆、くれぐれも軽率な行動は避けるように』

 大鷹が丁寧ながらも絶対的な口調で命じると、幹部たちのモニターが次々とブラックアウトしていった。

 村上が一礼して立ち去ろうとした、その時だった。

『――村上君。神崎君のことが、心配だろう』

 メインモニターに残った大鷹が、静かに声をかけた。

『この大鷹知次郎、天地天命にかけて、必ず彼の救出をしてみせる。……だから、今は安心して待っていてくれ』

 その言葉には、百戦錬磨の大将としての、有無を言わせぬ力強さがあった。村上は深く頭を下げ、司令室を後にした。

 ***

 だが、事態はその数時間後に急転した。

 ホテル地下の高度データ解析室。

 対ハッキング班の精鋭たちが、神崎のスマートフォンに「瑞穂セルラーの基地局から位置を完全に秘匿する特殊なフィルター兼モニター装置」を接続し、満を持して『安心サーバー193』へのアクセスを開始した時のことだ。

「……ミッション・コンプリートだ。あとは任せるぜ」

 村上が安堵の表情でタバコを取り出そうとした瞬間、キーボードを叩いていた班長が、血相を変えて立ち上がった。

「だ、駄目です! アクセスできません!!」

「……馬鹿な、どういうことだ!?」

 村上が思わず声を荒らげる。

「それが……このサーバー(193)、何らかのエラーかバグを起こしていて、このスマートフォンを『正規のアクセス端末』として認識しないんです! つまり……この携帯からは、絶対にサーバーを開けません!」

 解析室はパニックに陥った。

 班長が何度試しても、画面には冷酷な『アクセス拒否』の文字が表示されるだけだ。

 暁の優秀なハッカーたちが総出でパスワードの強制突破を試み、若い班員たちが埃を被った古いネットのアーカイブからマニュアルを探し出す。

 だが、この『安心サーバー193』という骨董品は、外部からのハッキングを物理的に拒絶する異常なアナログ仕様であり、若手はもちろん、ベテランの班長ですら実物を触ったことがない代物だった。

 結局、丸一日を費やしても、分厚い鉄扉のようなセキュリティに傷一つ付けることはできず、ただ無為に時間が過ぎ去っていった。

 ***

 村上が開かないサーバーに苛立ちを募らせていたその頃。

 海を隔てた大星の首都、『覇京はきょう』の国際空港に、一機のプライベートジェットが降り立った。

 タラップを降りたのは、真新しい『琉海人民共和国』の国家主席となった、新城烈である。

(……酷い空気だ。目障りで、汚らしい)

 新城は、覇京の空を覆う淀んだスモッグを見上げ、心の中でこの巨大都市を激しく軽蔑していた。

 迎えのリムジンに乗り込むと、数人の大星側の主席秘書たちが恭しく挨拶をしてきた。だが、彼らの目にはどこか、田舎の成金を見るような露骨な侮蔑の色が混じっている。

 車は大星国家主席、曹景龍そう けいりゅうの待つ迎賓館へと向かって走り出した。車窓から見えるのは、無計画に乱立する巨大なビル群と、その足元に広がる深い貧困の影。

(砂上の城だな。これに比べれば、私が作り上げる琉海は完璧な理想郷となる。私を支持する国民だけが、豊かな自然と富を享受する、真の王国だ)

 新城は、自らのカリスマ性と才能を全く疑っていなかった。

 だが、迎賓館に到着し、重厚な扉を開けられた瞬間、新城の「王としての驕り」は木っ端微塵に粉砕されることになる。

 そこは、一国の元首を歓迎するような対等な場ではなかった。玉座のような高い位置に座る曹景龍を見下ろすように配置された、まるで「皇帝が属国の家臣に臣下の礼を取らせる」ための、冷酷な謁見の間だったのだ。

「……大儀であった」

 曹景龍から発せられたのは、労いでも歓迎でもなく、ただの一言だった。

 その顔は、完全に「有能なチェスのポーン」を見下ろす目であり、声の響きには「我が大星の属国として、今後も身を粉にして尽くすがいい」という絶対的な命令しか含まれていなかった。

 新城の端正な顔が、屈辱でわずかに歪む。

(……この私が、瑞穂を出し抜いたこの私が、犬扱いだと!?)

 腹の底から煮えたぎるような怒りが湧き上がった。だが、今回の渡航の最大の目的は、琉海と大星による軍事・和平条約を結ぶことだ。ここで怒り狂い、大星の不興を買えば、せっかく手に入れた自分の王国(琉海)が一瞬で吹き飛ぶことは、容易に想像がつく。

「……はっ。今後も、大星の繁栄のために尽くしていく所存でございます」

 新城は、奥歯が砕けるほど噛み締めながら、独裁者の前で深く、深く頭を垂れた。

 その夜。

 覇京の最高級ホテルのペントハウス。

 新城は、広大なキングサイズのベッドの上で、獣のように荒い息を吐いていた。

「あぁっ……し、主席様っ……!」

 彼の下で泣き叫ぶように身を捩っているのは、曹景龍から「歓迎の品」として与えられた、大星の高級娼婦たちだった。

 新城の目は血走り、その動きには一切の愛情も快楽もなく、ただ純粋な「暴力」と「支配欲」だけが満ちていた。

 白く柔らかな女たちの肌を乱暴に掴み、赤い痕が残るほど激しく打ち据えるように腰を打ち付ける。女が苦痛と快楽の入り混じった悲鳴を上げるたび、新城は昼間の謁見の間に漂っていた、あの圧倒的な屈辱感を思い出し、さらに深く、容赦なく肉の奥へと自身を突き立てた。

「……っ、ふざけるな……あの豚どもが……!」

 汗に塗れた女の髪をわし掴みにし、獣のように吠えながら絶頂を迎える。

 シーツは乱れ、女たちは力なく咽び泣いていたが、新城の心の中の乾きは全く満たされなかった。

(見ていろ、曹景龍。いつか必ず、その首を私のもとにひざまずかせてやる……!)

 狂王の心の中で、暗くドロドロとした復讐の炎が、エロティックな狂気とともに赤黒く燃え上がっていた。

 ***

 そして、同じ夜の東都。

 暁の本部ホテルの一室では、村上もまた、全く質の違う「熱」に浮かされていた。

 村上は無言のまま立ち上がると、黒いシャツを脱ぎ捨て、鍛え上げられた上半身を剥き出しにした。少しでも気を紛らわせるためだ。

 無駄な脂肪など一切ない、彫刻のように削り出された肉体。厚い胸板から引き締まった腹筋へと至る滑らかな稜線には、無数の弾痕や刃物による深い傷跡が、彼の歩んできた修羅の道を物語るように刻まれている。

 村上は床に両手をつき、ゆっくりと、己の筋肉の繊維一本一本を確かめるように、深い腕立て伏せを始めた。

 呼気とともに、隆起した広背筋が獣の呼吸のようにうねり、上腕二頭筋に太い血管が浮かび上がる。

 一つ、また一つと回数を重ねるごとに、村上の体温は急激に上昇し、褐色の肌にじんわりと汗が滲み出していった。首筋から胸の谷間へ、そして引き締まった腹筋の溝を這うように、汗の滴りが艶やかに滑り落ちていく。

 それは新城の暴力的な性欲とは全く対極にある、極限まで研ぎ澄まされた「禁欲的な雄の肉体」だけが放つ、むせ返るような色気を帯びていた。

「……ふっ……、はぁっ……」

 荒くなる熱い吐息が、静かな部屋に淫靡なリズムを刻む。

 筋肉の軋む痛みが、脳裏に焼き付いた記憶のフラッシュバックを引きずり出していく。

 ――血の海の中で冷たくなっていた、最愛の妻の白い肌。

 ――雪の青津で、一人振り返ることもなく囮として大通りへ消えていった神崎の、震える背中。

 ――そして、すべてを冷徹な目で見下ろす、李鉄海の氷のような無表情。

「……李ぃっ……!」

 限界を迎え、ちぎれそうになる大胸筋の痛みを快楽に変えるように、村上はさらに深く身体を沈み込ませた。

 汗に濡れて滑りを帯びた背中の筋肉が、月明かりを浴びて妖しく光る。

 妻への愛、友への罪悪感、そして敵への殺意。そのすべてを煮えたぎる血流に乗せ、村上は己の肉体を苛め抜くことでしか、行き場のない激情を抑え込むことができなかった。

 明日の昼、神崎は東都へ移送される。

 開かないポンコツサーバーの横で、復讐鬼の流す熱い汗だけが、無情に床へと落ちていった。

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