第十六章:琉海の王と、空虚な監視網
東都、在瑞穂大星大使館・地下執務室。
工作部極東局長の李鉄海は、送られてきた短い暗号レポートを読み、不快げに眉間を深く揉みほぐしていた。
(……やはり、あのウォッカ臭い連中では駄目でしたか)
羅州の暗殺部隊が、北州での作戦に失敗した。その報告が届いたのは、村上がターゲットである『安心サーバー193』に接触してから、すでに六時間が経過した後のことだった。
羅州からの報告には「ターゲットの車両を見失った」としか書かれていない。あの村上のことだ、確実に目的のデータは回収したと見て間違いないだろう。
(……チッ。部隊を出し惜しみした羅州の怠慢か、それとも村上の化け物じみた生存能力か)
李は、常温の水を一口だけ飲み、思考を切り替えた。
北州から東都へデータを持ち帰るには、必ず本州北端の青津を通るルートになる。李は、青津市内で囮の神崎を見張らせている工作員(猟犬)たちをすべて集結させ、村上との決着の戦場を青津に設定しようと決意した。
その時、極秘回線の直通電話が鳴った。
大星の絶対的権力者、曹景龍国家主席からだ。
「……李です。主席、北州での件ですが――」
『李。直ちにすべての作戦の指揮を副官に引き継ぎ、本国へ帰還しろ』
「……は?」
李は、己の耳を疑った。
「お待ちください、主席。瑞穂の切り札であるデータの回収が、まだ終わっておりません! 今、東都を離れるわけには――」
『すでに勝負は決したのだよ、李』
曹景龍の声は、珍しく上機嫌に響いていた。
『南波の新城には、明日の朝一番で「独立宣言」を行わせるよう指示を出した。それと同時に、我が大星と羅州、そして数カ国の同盟国は、新たな国家の建国を正式に承認する』
「……しかし、データが暴露されれば、その正当性が――」
『無駄な心配だ。先ほど、阿国のバーク大統領と直接話をつけてきた。南波からの阿国軍の「完全撤退費用」の半分を我が国が負担する代わりに、本日中に阿国艦隊の撤収と、我が大星艦隊の南波入港を認めさせる交渉が成立した』
「……!」
李は絶句した。
つまり、データがどうなろうと、武力と既成事実ですべてを塗り潰す腹積もりなのだ。
『瑞穂など、阿国の後ろ盾がなければただの案山子に過ぎん。お前が行ってきた完璧な事前工作により、データの有無に関わらず、南波は独立する。……お前の功績は大きすぎるものだ。南波を落とした今、次のターゲットは蓬莱だ。蓬莱攻略を短期間で終わらせた後、孤立した瑞穂を新たな南波と羅州に挟み撃ちにして攻め落とさせればよい』
「……っ」
『いいな、李。明日の夜には本国の土を踏め。お前の新たな地位を用意して待っている』
一方的に通信が切れた。
李は受話器を置いたまま、冷たい汗を流していた。
(……罠か?)
大星の権力闘争において、「功績を称えて本国へ呼び戻す」という名目は、そのまま「粛清(処刑)」の合図であることも多い。出世しすぎた農村出身の自分を、上流階級の豚どもが排除しようと主席を唆した可能性もある。
李は内心の激しい焦りを押し殺しながら、青津への工作員集結の指示をキャンセルした。
「……残りの瑞穂での残務は、お前たちに任せます。ただし、あのムラカミだけは継続してマークし、隙あらば確実に捕らえなさい」
副官にそう言い残し、李は翌日の本国行きの特別機の手配を急がせた。
***
大星からの「計画の前倒し」の指示を受けた南波県知事、新城烈は、知事室の執務椅子に深く腰掛け、歓喜に打ち震えていた。
内心では、大星に顎で使われることへの抵抗感もあった。だが、それ以上に「自分が本当の王になれる」という欲望が、彼の理性を完全に焼き尽くしていたのだ。
「……明日だ。明日の朝一番で、独立宣言と新国家の設立宣言を行う!」
新城は、血走った目で側近たちに怒鳴りつけた。
「我々の勝利だ! 瑞穂の豚どもから、ついに我々の誇りを取り戻すのだ! 今晩中に、歴史に残る最高の演説の準備を整えろ!」
狂った悲劇の英雄は、ついに王への最後の階段に足を踏み入れた。
***
翌朝、午前八時。
南波県の県庁舎前広場には、青いポロシャツを着た青年防衛団と、新城を熱狂的に支持する数万人の県民が押し寄せていた。
その熱気は、テレビとインターネットの生中継を通じ、瑞穂全土、そして世界中へと配信されていた。
バルコニーに姿を現した新城烈は、純白のスーツに身を包み、まるで神の使いのような神々しい微笑みを浮かべてマイクを握った。
「――愛する、我が同胞たちよ!」
新城のよく響くバリトンボイスが、広場を圧した。
「長い、長すぎる冬が終わった! 何百年もの間、我々は瑞穂という冷酷な支配者に搾取され、見下され、そして不要になれば阿国という大国の軍靴で踏みにじられるだけの『盾』として扱われてきた! だが、見よ! 我々を長年苦しめてきた阿国軍の艦隊は、今朝、この美しい海からついに姿を消したのだ!」
ワァァァァッ!! と、地鳴りのような歓声が上がる。
「瑞穂の圧政は、今日、この瞬間をもって終わる! 私はここに、新たな独立国家『琉海人民共和国』の設立を、世界に向けて宣言する!!」
新城は両手を天高く掲げた。
「そして、我々の真の独立と平和を援助し、共に歩んでくれると表明してくれた、偉大なる同胞である大星国に、心からの感謝を捧げる! 万が一、瑞穂の野蛮な政府が我々を侵略しようとした場合に備え、数時間後、大星の平和維持艦隊が我が国の港に入ることが決定した!」
群衆が、新しい同盟国の名に熱狂の声を上げる。彼らは大星がもたらす本当の地獄を、まだ誰も知らない。
「我が国の防衛隊は、本日をもって『琉海人民軍』として生まれ変わる! そして、この独立のために血と汗を流してくれた青年防衛団の諸君は、『琉海党親衛隊』として、新たな人民警察と共に我が国の輝かしい治安を維持するであろう!」
新城の目は、完全に狂気に陶酔していた。
「思い出せ、同胞たちよ! 我々には、かつてこの美しい海を支配した『琉海王国』という誇り高き歴史があるのだ! 瑞穂の事なかれ主義と腐敗した政治に、我々の未来をこれ以上預ける必要はない! 我々は自らの手で、この地に永遠の栄光と、誰にも脅かされない圧倒的な独立の輝かしい未来を築き上げるのだ! 琉海人民共和国、万歳!!」
広場は、狂乱と熱狂のるつぼと化した。
こうして、偽りのカリスマによって、瑞穂という国家は致命的な分断の刃を突き立てられたのだった。
***
その頃。
村上正毅は、雪幌からフェリーで海を渡り返し、再び本州のハイウェイを東都へと向かって爆走していた。
助手席には、厳重に毛布でくるまれた『安心サーバー193(イクミ)』が鎮座している。
カーラジオからは、新城の狂気に満ちた演説の音声と、それを「歴史的瞬間だ」と賛美する、大星に飼い慣らされたコメンテーターたちの声が絶え間なく流れていた。
(……新城。お前の安い芝居も、ここまでだ)
村上は、サングラスの奥で鋭く目を細めた。
神崎が命懸けで残してくれたこのサーバーのデータさえあれば、新城と大星の癒着、そして暴動が自作自演であったことを完全に証明できる。大星の野望を止めることができるのだ。
それにしても。
村上は、バックミラーをチラリと確認しながら、かすかな違和感を覚えていた。
(……どうも、様子がおかしい。李の指揮とは思えないほど、追手のマークが生温い)
本州に入ってから、何度か大星の工作員の車両を見かけたが、検問の位置やマークの仕方が、あまりにも素直で分かりやすすぎた。
李鉄海という男は、常に戦略的に「見せかけの隙」を作り、獲物がそこへ逃げ込んだところを逃げ場のない檻に囲い込んで、確実に息の根を止めるやり方を好む。村上は最初、これも李の仕掛けた罠だと警戒していた。
だが、今の工作員たちの動きには、その「追い込む」という悪辣な意志が全く感じられない。まるで司令塔を失い、戦略もなく、ただ決まった座標で漫然と待機しているだけの「駒」のようだった。
(……もしかして李の野郎、すでに瑞穂にはいないのか?)
ラジオのニュースが、「阿国軍の第一艦隊が南波の基地から完全に撤収を開始した」と報じた頃。漆黒のRZ-7は、大星の監視網をいとも容易くすり抜け、ついに首都圏の入り口へと差し掛かっていた。
***
同じ頃。本州最北の地、青津県警本部。
冷え切った留置所の面会室で、神崎健人は真っ青な顔をして、分厚いアクリル板の向こう側に座る権藤本部長を見つめていた。
「……すべての調書の作成が終わったべ。お前さんの身柄は、あと三日で東都の警視庁へ移送される」
権藤は、いつもと変わらぬ感情の読めない実直な顔で、事務的にそう告げた。
「そ、そんな……! 頼みます本部長、もう少し、あと数日だけでいいんです! 調書の書き直しとか、余罪の追求とか、なんでもいいから拘留を延ばして――」
「馬鹿なこと言うなや」
権藤は、ピシャリと神崎の言葉を遮った。
「すでに規則に則り、すべての手続きは完璧に完了しとる。これ以上、適法な理由もなく被疑者の移送を引き延ばすことは、警察法および刑事訴訟法上、断じて許されんのだわ。……私の職務は、ここまでだべ」
「あ……」
神崎は、頭を抱えて机に突っ伏した。
権藤の「究極のお役所仕事」が盾になってくれていた時間は終わった。三日後、東都へ移送されれば、自分は大星の手の者が潜む警視庁の闇の中で、確実に「不審死」を遂げることになるだろう。
(……俺の命も、ここまでか)
村上が無事にサーバーを回収できたのかどうかも分からないまま、神崎はただ、冷たい絶望の底で、自分の最期の日が来るのを待つことしかできなかった。




