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第十四章:青津の囮と実直な県警本部長

雪が舞い散る青津あおつ市街地。

 灰色の空の下、身を切るような海風が吹き抜ける大通りを、神崎健人はコートも着ずにスーツ姿で縮こまりながら歩いていた。

(……くそっ、寒い。死ぬほど寒い)

 歯の根が合わず、ポケットに突っ込んだ両手は感覚がないほど冷え切っていた。

 神崎の作戦はこうだ。人通りの多い大通りや商店街に紛れ込みながら、監視カメラ(天網)に自分の姿を断続的に晒す。もし大星たいせいの工作員に捕捉されても、周囲に一般人が大勢いる白昼の市街地であれば、奴らも派手な立ち回りはできず、村上がフェリーに乗るための時間を少しでも長く稼ぐことができる。

 頭では完璧な計算だった。だが、いざ実行してみると、体は正直に悲鳴を上げていた。四十年間のデスクワークと怠惰な生活で鈍りきった肉体は、雪道の寒さと極度の緊張だけで、すでにバッテリー切れ寸前だった。

 しかも、すれ違う通行人は誰も神崎の顔など見ていなかった。

 無理もない。南波での暴動、阿国アトラス軍の発砲と撤退宣言。国全体がひっくり返るような大事件のニュースで持ちきりの今、東都で起きた「企業トップの殺人事件」の容疑者の顔写真など、一般人の記憶からは完全に吹き飛んでいるのだ。

「……あの、すんません。ちょっとよろしいですかね」

 突然、背後から声をかけられ、神崎はビクッと肩を震わせて振り返った。

 立っていたのは、防寒着に身を包んだ、いかにも人の良さそうな地元の制服警官が二人だった。

「あ、はい……なんでしょうか?」

 神崎は、愛想笑いを浮かべながら不自然に後ずさった。

「いやね、こんな雪降ってんのに、コートも着ねえでスーツのまんま歩いてるもんだから、どうかしたんかと思って。お兄さん、地元の人じゃねえべ?」

 年配の警官が、訛りの強い言葉で心配そうに覗き込んでくる。大星の工作員どころか、ただの親切な職務質問だった。

(……まずい。ここで本物の警察に捕まれば、ただのしょぼい逃亡犯で終わっちまう)

 神崎は、記者時代に培った「言葉を武器にして煙に巻く」ペテン師のようなスイッチを無理やり入れた。

「あ、いやあ、お恥ずかしい。実は私、東都とうとから来たフリーのライターでして。ちょっと取材の合間に、現地の空気を直接肌で感じようと思いましてね! いやぁ、青津の風は身に染みますなぁ、ハハハ!」

 神崎が揉み手をして愛想よく笑うと、若い方の警官が不思議そうな顔をした。

「ライターさん? なら、今は南波のほうさ行かねえとダメなんじゃねえですか? どえらい事になってますべ」

「おっしゃる通り! 実は、その南波の暴動が、この北の港町にどういう経済的影響を与えているのか、という切り口でルポを書いておりまして。物流の最前線である青津こそ、真の現場だと私は睨んでるんですよ!」

 でまかせの嘘を、それらしい専門用語を交えて一気にまくしたてる。

「はえー、なるほどなぁ。東都の人は目の付け所が違うなや」

 年配の警官が感心したように頷いた。

「というわけで、急ぎの締め切りがありまして! 取材にご協力感謝します。お仕事ご苦労様です!」

 神崎が深々と頭を下げて早足で歩き出すと、警官たちも「ああ、風邪ひかねえようにな」と手を振って見送ってくれた。

(……よし、なんとか誤魔化せた)

 神崎がホッと息を吐いた、その直後だった。

「……ん? あれ、ちょっと待て。あの顔……」

 背後で、若い警官が慌ててスマートフォンを取り出し、県警からの手配書データを開いた声が聞こえた。

「先輩! あいつ、今朝手配書が回ってきた、東都の殺人犯だ!!」

「えっ!? ば、ばか、逃がすな!」

「うおぉぉっ!?」

 神崎は情けない悲鳴を上げ、雪で滑りそうになりながら猛ダッシュで逃げ出した。

 カッコよく囮になって大立ち回りをするような覚悟は、どこかに吹き飛んでいた。足がもつれ、息が上がり、心臓が口から飛び出そうになる。

「待てコラー!!」

 後ろから、警官二人がものすごい勢いで追いかけてくる。

(だ、ダメだ、運動不足すぎる……!)

 神崎が路地を曲がろうとした瞬間、前方から黒いワンボックスカーが猛スピードで突っ込んできて、雪を跳ね上げながら急ブレーキをかけた。

「ひいっ!」

 神崎は驚いて足を滑らせ、雪道に無様に転がり込んだ。

 車のスライドドアが勢いよく開き、中から黒いダウンジャケットを着た、ただならぬ殺気を放つ男たちが飛び出してきた。李鉄海の放った、大星の猟犬(工作員)たちだ。

「ターゲット確保!」

 工作員の一人が神崎の襟首を掴もうとした瞬間、猛ダッシュで追いかけてきた若い警官が、雪に足を取られて勢い余り、工作員に体当たりする形で突っ込んだ。

「ぐわっ!」

「な、なんだお前らは!? 警察だぞ!」

 年配の警官も警棒を抜き、工作員たちに立ち向かう。

 工作員たちは一瞬、懐の銃に手をかけようとしたが、リーダー格の男が舌打ちをしてそれを制止した。白昼の市街地で、しかも本物の警察官二人を相手にドンパチを始めれば、即座に大ニュースになり、任務は完全に失敗する。

「……チッ。退け!」

 工作員たちは、恨めしそうに神崎を睨みつけると、素早くワンボックスカーに乗り込み、雪煙を上げて逃走していった。

「ぜぇ、ぜぇ……危ねえところだったべ。神崎健人だな! 殺人容疑で逮捕する!」

 息を切らした警官が、雪まみれになってへたり込んでいる神崎の腕に、冷たい手錠をガチャンとはめた。

 神崎は、ただ転んだだけで確保された自分の中年太りの腹を見下ろしながら、自嘲気味に息を吐いた。

 ***

 青津県警本部・取調室。

 パイプ椅子に座らされ、ガタガタと震えている神崎の前に、分厚いファイルを持った初老の男が座った。

「……私が、青津県警本部長の権藤ごんどうだ」

 白髪交じりの角刈りに、くたびれたスーツ。権藤本部長は、いかにも地方公務員の成れの果てといった、実直で面白味のない顔をしていた。

「神崎健人。お前さんが東都で犯したちゅう凶悪事件のことは、すでに警視庁から報告ば受けとる」

 権藤がズーズー弁混じりの淡々とした口調で語り始めたその時、取調室のドアが乱暴に開き、血相を変えた警部が入ってきた。

「本部長! 警視庁から、また矢の催促です! 『被疑者の神崎を、直ちに東都へ移送しろ。ヘリコプターを手配したから、今すぐ引き渡せ』と……!」

 神崎の背筋が凍った。

(……警視庁の大星シンパの幹部連中だ。俺を移送中に「事故」に見せかけて殺す気か)

 だが、権藤本部長は太い眉をピクリとも動かさず、老眼鏡を押し上げながら言った。

「断れ」

「えっ!? し、しかし、相手は警視庁の刑事部長直々の命令で――」

「管轄が違うべ。ここは青津県警だ」

 権藤は、感情の欠片もない声でピシャリと言い放った。

「被疑者をウチの管内で逮捕した以上、まずは我々が初動の取り調べを行い、身柄確保の調書、所持品の目録作成、および逮捕手続きの適法性を確認する義務があるべさ。警察法に基づく『正規の手順』だ。……東都の偉いさんがどれだけ急ごうが、こっちの書類の作成とハンコが終わるまでは、絶対に身柄は引き渡さん」

「は、はい……! 直ちにそのように伝えます!」

 警部が慌てて退室していく。

 神崎は、ポカンと口を開けて権藤の顔を見つめた。

 この本部長は、大星の陰謀にも、東都の政治的圧力にも、全く興味がないのだ。ただひたすらに「地方公務員としてのルールと、書類のハンコ」を最優先する、出世欲ゼロの堅物。

 だが、その「事なかれ主義」の極致のような男の生真面目さが、今、大星の巨大な圧力を完全にブロックし、結果的に神崎の命を繋ぎ止める『最強の盾』となっていたのだ。

「では、神崎。まずは身元確認と、所持品の確認からだ。時間はたっぷりある。嘘偽りなく答えなさい」

「……あ、はい。な、何からでもお話ししますです、本部長さん……」

 神崎は、寒さと安堵でガタガタと震えながら、村上が無事に海を渡ることを祈って深く椅子に座り直した。

 ***

 その頃。

 青津のフェリーターミナルでは、村上がRZ-7ごと巨大なカーフェリーの船腹へと飲み込まれていた。

 周囲に大星の工作員の気配はない。神崎の不格好な囮作戦が功を奏し、大星の監視網は青津市街に完全に釘付けになっていたのだ。

(……すまない、神崎。必ずお前の意志は無駄にしない)

 村上は、薄暗い車両甲板でハンドルを握りしめ、静かに出港のドラの音を聞いた。

 ***

 一方、東都の大星大使館・地下執務室。

 李鉄海は、青津での「工作員と地元警察との鉢合わせ」という無様な報告を受け、眉間を深く揉みほぐしていた。

(……完全に計算外でしたね。単なる足手まといの素人記者が、ここまで計算して動くとは)

 苛立ちを隠すように、李はデスクに置かれた常温のミネラルウォーターを一気に飲み干した。

 問題は神崎ではない。神崎と別れ、すでに海を渡ってしまった村上だ。フェリーが到着するまでに、東都から自国の増援を送るには時間が足りなすぎる。

 李は深く息を吐き、極秘回線の電話機を手に取った。

 大星の絶対的権力者――国家最高主席である、曹景龍そう けいりゅうへの直通回線だ。

『――どちら様でしょうか。現在、曹主席は重要な会議中で――』

 電話口に出たのは、主席の第一秘書だった。上流階級出身の、気取った大星語を話す男だ。

「工作部極東局長の李です。緊急の事態です。直ちに主席に繋いでください」

『李局長? ……困りますね。いくら南波の工作が順調だからといって、事前の取り次ぎなしに主席の時間を奪う権限が、農村上がりのあなたにあるとお思いで?』

 秘書の露骨な侮蔑の言葉に、李の瞳の奥でドス黒い怒りの炎が燃え上がった。

 どれだけ実務で天才的な実績を上げようと、血筋や階級で人間を判断する特権階級の豚共。

(……いつか、貴様らもすべて私の足元にひざまずかせてやる)

 李が怒りを完璧な無表情の奥に抑え込み、冷徹に言い返そうとしたその時だった。

『――電話を寄越せ。無能な血統書付きの豚は下がっていろ』

 電話口の奥から、重厚で威圧的な声が響き、秘書が「ひっ」と短い悲鳴を上げて受話器を渡す音が聞こえた。

『……李か。南波の件、見事な采配だった。極東の重要な要衝を我々の手に落としたお前の働きには、大いに期待しているぞ』

 曹景龍の声は、李に対してどこか温かみすら帯びていた。

 曹景龍もまた、李と同じく極貧の農村から泥水をすすって這い上がり、血反吐を吐くような実務と冷酷な粛清の嵐で、かつての集団指導体制を完全に破壊して『絶対的な独裁体制』を築き上げた怪物である。

 彼もまた、自分に媚びへつらうだけの無能な上流階級を忌み嫌い、己の実力だけで結果を出す男を好んだ。――もちろんそれは、「どんな実力者であろうと、自分を脅かす存在にはなり得ない」という、独裁者としての絶対的な自信の裏返しでもある。

 李は、自分と同じ地獄を歩んできたこの国家主席に対し、一定の評価と共感を抱いていた。だが、心からの尊敬ではない。彼にとって、曹景龍は『越えるべき最後の壁』であり、いずれ自分が座るべき椅子の現在の持ち主に過ぎないからだ。

「勿体なきお言葉、感謝いたします。……しかし主席、申し訳ありません。南波を完全に掌握するための仕上げにおいて、北州ほくしゅうにてどうしても即座に動かせる戦力が必要となりました。……どうか、羅州らしゅうの大統領に、ターゲットの排除を直接ご依頼願えませんか。私ごときの権限では、羅州の軍部を動かすことは不可能です」

 李は、あくまで「従順な実務家」としての立場を崩さず、主席の威光にすがる形で懇願した。

『……ふむ。羅州のウラジーミル・プートフ大統領か。あのウォッカ臭い連中を使うのか』

 曹景龍は、喉の奥で低く笑った。

『連中もしたたかだ、タダでは動かんぞ。何を対価にするつもりだ』

「……南波が完全に我々の手中に落ちれば、極東のバランスは崩壊します。来るべき時には、北の厄介な雪国(北州)の利権の一部をくれてやる、とそのように匂わせていただければと」

『……未だ狩ってもいない獣の皮を売り渡すか。悪くない。私が直接、プートフに話をつけよう』

「感謝いたします、主席」

 李との通話を切った曹景龍は、東都よりも遥かに北、極寒の軍事国家・羅州の中枢『クレムロフ』へと直通するホットラインのボタンを押した。

『……ダー。私だ、曹主席。こんな夜更けに何の用だ』

 回線の向こうから、野太く、そして油断のならないプートフ大統領の声が響く。

「夜分に失礼するよ、プートフ大統領。……実は、北州の雪原で、あなたの国の優秀な『猟犬』たちに、ささやかな狩りをお願いしたくてね。もちろん、極東の新たな利権という、極上のウォッカを添えてだが」

 曹景龍の唇に、残忍で絶対的な権力者の笑みが浮かぶ。

 超大国同士の首脳による、血なまぐさい生贄の取引が、暗号化された回線の中で静かに成立した。

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