第十三章:青津の雪原と冷たい計算
灰色の雪雲が垂れ込める早朝の空の下、マツルギ『RZ-7 Type-FC』は、東北自動車道をひたすら北上していた。
助手席の神崎健人は、カーラジオから流れるニュースの音声に耳を傾けながら、深く暗い溜息を吐いた。
『――新城知事の「南波独立」と「阿国軍の即時撤退要求」の演説を受け、南波県内では独立を支持する声が圧倒的多数を占めています。また、瑞穂防衛隊の南波駐屯部隊、および南波県警察も、新城知事への帰順を正式に表明しました……』
『――続いてのニュースです。阿国のバーク大統領は先ほど、在瑞穂阿国軍の「全面撤退」を正式に発表しました。これに対し、瑞穂の霧島総理は緊急記者会見を開き、「極めて遺憾であり、対話による解決を……」』
「……分かりきっていたこととはいえ、現実になると反吐が出るな」
神崎は、無責任の極みである総理の定型文を聞きながら、ダッシュボードのタバコに手を伸ばした。
新城の演説も、防衛隊の造反も、阿国軍の撤退も。あの大星の工作員たちが語っていた『最終計画』の台本通りに、寸分の狂いもなく進んでいる。この国は今、崖に向かってアクセルを全開で踏み込んでいる状態だ。
車は本州の最北端、北州へ渡るための玄関口である青津市街の周辺に差し掛かっていた。
「このまま行けば、今日の夕方のフェリーにギリギリ間に合う」
運転席の村上正毅は、雪道を慎重にさばきながら言った。
「北州に明日到着すれば、そこから陸路で六時間ほどで雪幌に着く。……それで、あんたのポンコツサーバー本体の回収は成功だな」
「ええ。フェリーに乗ってしまえば、あとは寝て待つだけですね。心配なくゆっくり休めますよ」
神崎は、わざとあっけらかんとした、緊張感のない声を作って笑いかけた。
「……ああ、そうだな」
村上は短く同意したが、そのサングラスの奥の目には、明らかな「重さ」と「不安」が張り付いていた。
神崎は、そのわずかな表情の変化を見逃さなかった。
(……やっぱりだ。村上さんも、最大の難関はあのフェリーだと感じている)
ここまで追手が来なかったのは、もちろん『暁』のシンパたちによる陽動や、トヨクニ自動車の隠蔽工作の賜物だろう。だが、神崎に殺人の濡れ衣を着せたあの狡猾な李鉄海が、このまま大人しく見逃すはずがない。
大星の工作員たちは、神崎を確実に生け捕りにして、「バックアップのデータの有無」と「暁との接触」を吐かせた上で、証拠隠滅のために殺す気だ。そのためには、広大な陸地でカーチェイスをするよりも、海の上という「逃げ場のない完全な密室」に追い込むのが、最も確実な狩りの方法なのだ。
***
同時刻。東都・在瑞穂大星大使館。
地下の厳重にロックされた特別執務室で、李鉄海は眉間に深いシワを寄せ、デスクの上の端末を睨みつけていた。
氷のように冷徹な彼にしては珍しく、その指先は苛立ちを隠せないようにデスクをコツコツと叩いている。
(……チッ。どこに消えた)
南波の暴動と独立工作に大量の優秀な人員(私兵)を割いているため、瑞穂本島での捜索網がどうしても手薄になっている。暁のシンパたちの妨害もあり、神崎の足取りは東都を抜けたところで完全にプツリと途絶えていた。
昨夜、瑞穂セルラーの役員会を掌握し、通信網を完全に支配下に置いて、ようやく神崎が「北」へ向かっているという断片的な情報が掴めたところだ。
「……ここまで見事な逃走劇を演じられるのは、あの男しかいませんね」
李は、十数年前に自分が社会的に抹殺した、あの小生意気なジャーナリストの顔を思い浮かべ、薄く、酷薄な笑みを浮かべた。
「あの男も、今回で終わりです。ようやく、十年越しの『やり残した仕事』を片付けることができますよ。……私をここまで出世させてくれた、大恩人ですがね」
皮肉混じりに呟いた李の瞳の奥には、ドス黒い、底なしの野心が渦巻いていた。
李鉄海は、大星の特権階級の生まれではない。泥水をすするような極貧の農村で育ち、這い上がるために人間としての感情をすべて捨て去り、他人を蹴落とし、利用し尽くして、工作部極東局長という現在の地位まで昇り詰めた。
それでも、まだ足りない。
貧しさを憎み、豊かさを享受して平和ボケしている瑞穂という国を心の底から恨んでいた。最高の権力を掴み、この国を大星の属国として完全に支配するまで、彼の飢えが満たされることはない。
そして、その底なしの野心ゆえに、彼はアルコールを一切口にしない。酒で酔い、一瞬でも自分の頭脳に隙を見せれば、大星の内部抗争で一瞬にして蹴落とされることを誰よりも熟知しているからだ。
***
青津市外れの、雪に覆われた静かな林道。
村上はRZ-7を木立の陰に停め、エンジンを切った。
「……少し、ここで休息をとる。ここなら天網の監視モニターもない。ここから先、青津のフェリーターミナルがある市街地に入れば、危険度は跳ね上がるからな」
村上はシートを倒し、サングラスを外して目を閉じた。
百戦錬磨の工作員とはいえ、彼も生身の人間だ。東都からの長時間の緊張と運転で、疲労は限界に達していた。ほんの数分、浅い眠りに落ちてしまったのだ。
神崎は、村上の寝息が規則正しくなったのを確認すると、音を立てないようにゆっくりと助手席のドアを開けた。
凍てつくような青津の冷気が、容赦なく体を叩きつける。
神崎はスーツの内ポケットから、昨夜アパートで書き記した『暁星新聞の封筒』を取り出し、村上のダッシュボードの上にそっと置いた。
(……すまない、村上さん。俺が一緒にフェリーに乗れば、必ずあんたの足を引っ張る。……あんたには、生きてこの国を救ってもらわなきゃならないんだ)
四十歳の、衰えきった自分の肉体を見下ろす。
自分がこのまま青津市街で派手に動いて囮になれば、大星の監視網は必ず自分に釘付けになる。その隙に、村上がフェリーに乗って雪幌へ向かい、ネットワークから完全に切り離されたあのサーバー『本体』を回収すればいい。
神崎は、雪に足を取られながらも、振り返ることなく青津の市街地へと向かって走り出した。
***
数分後。
村上はハッと目を開け、助手席が無人であることに気づいた。
「……神崎?」
周囲を見渡すが、すでに雪原に続く足跡は白く薄れかけている。
ダッシュボードの上に置かれた、しわくちゃの封筒。
中には神崎の実家の鍵と、殴り書きされたメモが入っていた。
『村上さん。あとはお願いします』
「……バカ野郎ッ!!」
村上はハンドルを強く殴りつけた。
先ほどの何気ないフェリーでの会話。神崎は、村上の不安を正確に読み取り、フェリーが最も危険な密室の罠であることを確信していたのだ。そして、足手まといになる自分が囮になることを、たった一人で決断した。
村上はキーを回し、RZ-7のエンジンを咆哮させた。
(今から追えば、まだそう遠くには行っていないはずだ!)
だが、アクセルを踏み込もうとした右足が、ピタリと止まった。
村上の脳裏で、冷徹な『工作員としての理性』が激しく警鐘を鳴らしていた。
自分の最大の任務は、雪幌のサーバー本体を回収し、「パズルのピース」を組織へ持ち帰ることだ。神崎個人を救うことに、組織としてのメリットはない。ここで神崎を探してタイムスケジュールを遅らせれば、暁が目論む『国家変革のためのXデー』の計画そのものが水泡に帰すことになる。
ハンドルを握りしめたまま、村上は葛藤した。
かつて、ペンで真実を伝えようとして絶望した自分。
今、愛する家族と国を守るために、自らの命を囮として投げ出した神崎。
「……決死の覚悟を決めた男の背中を、俺は止めていいのか?」
村上は、サングラスをかけ直し、深く息を吐いた。
「俺たち『暁』も、同じだろ……。あいつの思いを受け止めるしか、今はねえ」
村上は苦渋の決断を下し、ギアをバックに入れて、青津のフェリーターミナルへと向かう別ルートへと車を走らせた。
***
それから一時間後。
東都の大星大使館・地下執務室で、李鉄海は部下からの緊急報告を受けていた。
「局長! 青津市内の監視カメラ(天網)が、ターゲットの神崎を捕捉しました!」
「青津市内に? ……しかも、一人で歩いているだと?」
李は怪訝な顔でモニターの映像を見た。
雪の降る市街地を、スーツ姿の神崎が一人で、まるで「自分を見つけてくれ」と言わんばかりに無防備に歩いている。
「どういうことだ。あのムラカミはいないのか?」
李の冷徹な思考回路が、急速に計算を弾き出す。
罠か? 陽動か?
「……まあいい。ターゲットは神崎だ。あいつを捕らえてデータを吐かせる方が、今の少ない工作員の人数では確実だ。あの厄介なムラカミが絡んでいない方が、はるかに効率がいい」
李は、神崎の不器用な囮作戦を「好機」と捉えた。
「フェリーターミナルで待機させていた工作員(猟犬)たちを、すべて青津市内へ移動させろ。神崎を生け捕りにしろ」
李は、水筒から注いだ常温のミネラルウォーターで喉を潤しながら、北の雪原で繰り広げられる「狩り」の結果を待つことにした。




