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第十二章:銀世界の轍と追憶のジャーナリスト

深夜の東北自動車道。

 東都とうとから北へと向かう闇の中を、マツルギ自動車の『RZ-7 Type-FC』が、甲高いロータリーエンジンの咆哮を上げて疾走していた。

 神崎健人は、助手席で流れるカーラジオの臨時ニュースに耳を傾けながら、深く暗い絶望の底に沈んでいた。

『――南波からの緊急速報です。現在、阿国アトラス軍基地のメインゲート前で、暴徒化したデモ隊に対して阿国軍が実弾を発砲し、多数の死傷者が出ている模様です。さらに、湊覇そうは市街地では瑞穂防衛隊の装甲車が出動したとの未確認情報もあり、現地は極度の混乱状態に陥っています。政府からの公式発表は未だ……』

「……完全に、新城の手に落ちたな」

 神崎が絞り出すように呟いた。

 最大の防波堤であった阿国軍が、暴動(という名の大星の工作)を理由に引き金を引いた。そして、政府の命令を無視して防衛隊が動き出している。あの団長室のデスクの下で盗み聞きした『最終計画』が、今この瞬間も一字一句違わず現実のものとなっているのだ。

 このままでは、瑞穂という国家の崩壊は免れない。

 運転席の村上正毅むらかみ まさきは、ティアドロップ型のサングラスの奥で鋭い視線を真っ直ぐに向けたまま、静かに言った。

「……急がなきゃならねえな。お前の実家、雪幌ゆきほろにある『最後のパズルのピース』。俺たちがずっと追い求めていた、大星と新城を確実に社会的に抹殺できる切り札だ」

 車は漆黒の闇を切り裂き、やがてインターチェンジを降りて地方都市のバイパスへと入った。

 深夜零時を回っているにも関わらず、村上は薄暗い明かりだけが密かに点いている巨大な自動車ディーラーの敷地へとRZ-7を滑り込ませた。

 神崎は、巨大な看板に掲げられた『トヨクニ自動車』のロゴを見て、思わず身構えた。

「おい、ヤバくないのか? トヨクニって言えば、瑞穂最大の……いや、世界最大の自動車メーカーだぞ。こんな真夜中に営業しているわけが――」

「安心しろ。ここは『あかつき』のシンパが仕切っている店だ」

 村上はエンジンを切りながら、平然と答えた。

「もっと言うなら、トヨクニ自動車そのものが、うちの組織の最大のパトロンであり、シンパだ」

「……世界最大の自動車メーカーが、反政府組織のシンパだと?」

 神崎は驚愕で目を見開いた。

「現会長に代替わりしてからのことらしいがな。それだけ、今の『大星資本による瑞穂の静かなる侵略』を脅威に感じている人間が、この国の中枢にも多いってことだ。……大星の工作部、特に李鉄海りてっかいのやり口は、あまりにも強引で、反発を買い過ぎたのさ」

 車を降りると、作業着姿の恰幅の良い工場長が、笑顔で駆け寄ってきた。

「村上さん、お待ちしておりました」

「ああ。悪いなこんな夜更けに。整備と、タイヤ交換を頼む」

 村上が短く指示を出す。ここから先、北の大地へ向かうにはスタッドレスタイヤは必須だ。

「もちろんです。ガソリンも、ドラム缶で裏に用意してあります。満タンにしていってください」

 工場長が手際よくピットへ車を誘導していく。

 通常のディーラーでガソリンの給油などあり得ないが、これは緊急事態を想定した「暁」の補給ルートなのだ。指名手配犯となっている今、街中のガソリンスタンドやパーキングエリアに不用意に立ち寄れば、防犯カメラ(天網)で一発で居場所が割れてしまう。

 しかも、このRZ-7はトヨクニの技術部と暁が共同で改造を施しており、通常の同型車の「倍以上」の燃料を搭載できる特殊な防弾タンクを備えていた。

 ピット作業を待つ間、神崎と村上は、シャッターが下ろされた薄暗いショールームのソファで一時の休息を取っていた。

 コーヒーの紙コップを手にしながら、神崎の頭の中に、ジャーナリスト特有の「細かすぎる疑問」が浮かんでいた。

(……トヨクニ自動車が組織の最大のパトロンなら、なぜ村上さんは、他社メーカーであるマツルギの古いスポーツカーなんかに乗っているんだ?)

 口に出すほどの事でもないと黙っていた神崎に対し、不意に、村上が独り言のように呟いた。

「……死んだ妻との、思い出の車だからさ」

 神崎はギクッと肩を揺らした。

「……気づいていたのか。俺が疑問に思っていたことに」

「顔に書いてあったぜ。さすがは暁星新聞の元エース、第一線で働き続けた記者の観察眼だ」

 村上は紙コップをテーブルに置き、寂しそうに笑った。

 その時。神崎の脳内で、バラバラだった情報のピースが、突然一つの「名前」に結びついた。

『トヨクニほどの企業が脅威に感じる大星の工作』。

『李鉄海という工作員への、村上の異常なまでの憎悪』。

『妻の死』。

 そして、『村上正毅』という、その名前。

「……まさか。あんた、あの記事を書いた『村上』なのか?」

 神崎の声が微かに震えた。

 十数年前。神崎がまだ駆け出しの若手記者だった頃、ある小さな中堅出版社から発売された週刊誌が、瑞穂のメディア界に激震を走らせた。

 南波の政治家と、大星の莫大な工作資金の癒着を、完璧な証拠とともにすっぱ抜いた渾身のルポルタージュ。

「……ああ。そうだ」

 村上は、薄暗いショールームの中で静かに頷いた。

「俺も……当時、あの記事を読んだ」

 神崎は、若き日の熱と怒りを思い出しながら早口で語り始めた。

「社内でも大騒ぎになった。だが、数日後には不自然なほどピタリと報道が止み、ウチの先輩記者たちまでが、なぜかあの記事の『火消し(捏造扱い)』に躍起になっていた。……俺は理由が分からなくて、真実を潰そうとする先輩たちに食って掛かったよ。あれが、俺が大星資本の脅威と、この国のメディアの腐敗に気づいた最初のキッカケだったんだ」

 村上は、驚いたように目を丸くした後、少しだけ嬉しそうに、フッと柔らかく笑った。

「……そうか。俺の書いたあの記事が、若い記者を動かそうとしていたのか。……そいつは、少し救われるな」

 だが、すぐにその笑顔は消え、深く暗い絶望の影が村上の顔を覆った。

「あの工作を主導し、俺の出版社から広告を根こそぎ奪って倒産に追い込んだのが……当時まだ若手だった、李鉄海だ」

 村上は、ギリッと奥歯を噛み締めた。

「俺の記事は社会的に抹殺され、俺自身も命を狙われた。……そして、俺を追いつめるための『警告』として、李の指示を受けた工作員に、妻の車のブレーキを細工された。……俺のせいで、妻は不可解な交通事故で死んだんだ」

 絞り出すような、血を吐くような告白だった。

 あの一件を完璧に処理したことで、李鉄海は大星内部で絶大な権力を手に入れ、瑞穂のメディアは「大星に逆らえば殺される」という恐怖を骨の髄まで植え付けられた。

「俺は絶望して、一人で李の私兵に突っ込んで殺されかけた。そこを赤塚に拾われ、鍛え上げられて……今日まで、李への復讐と、この国を大星から取り戻すためだけに生きてきた」

 神崎は、胸が締め付けられるような思いで村上の話を聞いていた。

 自分もまた、妻子を守るために一度は真実から目を背け、会社の犬に成り下がった。もしあの時、妥協していなければ、自分も佳奈を――。

 そう考えると、無実の罪を着せられながらも、こうして自分と家族の命を助けてくれた赤塚と、暁のメンバー、そして目の前の村上に対する、途方もない感謝と責任感が込み上げてきた。

「……少し、俺の身の上話をしすぎたな」

 村上は重苦しい空気を振り払うように、自嘲気味に話題を変えた。

「俺の読みが正しければ、明日の朝には新城がこの混乱を利用して『南波独立』を宣言する。そして阿国軍は、それを口実に撤退を発表するだろう」

「……ああ。間違いない」

 神崎も、真剣な顔で頷いた。

「俺が昨日、あの団長室でデータを抜いて騒ぎを起こしたせいで、奴らは計画を早めたんだ。阿国は今、極端な自国第一主義(モンロー主義)に陥りつつある。今の腰抜け総理と、損得勘定だけのバーク大統領の組み合わせなら、下手すりゃ南波だけじゃなく、全国の阿国軍を完全撤退させるかもしれない。……そうなれば、この国だけじゃない。極東のバランスが崩れ、世界はあの戦前のような、剥き出しの力の時代(混乱期)に逆戻りする」

 村上たちが『暁』の計画で、この瑞穂をどういう国に変えようとしているのか、神崎にはまだ完全には分からなかった。

 だが、今の腐り切った政府のままでは、この国は確実に大星に飲み込まれて滅びる。

「……俺たちが急いでパズルを完成させなきゃ、この国は本当に終わるな」

 村上が、ぽつりと呟いた。

 二人の間に、静かで重い、しかし強い決意を伴った沈黙が流れた。

「村上さん! 終わりましたよ!」

 やがて、笑顔の工場長がショールームへ顔を出した。

 ピットには、真新しいスタッドレスタイヤを履き、ガソリンを満載して準備を整えた漆黒のRZ-7が、まるで出撃を待つ戦闘機のように静かに鎮座していた。

 ***

 工場を出発し、さらに北へ。

 車は深い雪に覆われた東北地方へと入り、深夜の凍てつく空気を切り裂いて走り続けた。

 やがて村上は、街道沿いの寂れた町にある、一軒の古いアパートの雪に埋もれた駐車場へと車を入れた。

「今日はここで休む。暁のセーフハウス(隠れ家)の一つだ」

 築四十年は軽く超えるであろう、外壁の塗装が剥がれ落ちた木造の古びたアパート。

 村上は、神崎の不安げな顔を見て、軽く冗談めかして笑った。

「安心しろ。お前の家族は、もっとマシでセキュリティの硬いところで匿ってあるよ。こんな隙間風だらけのボロ家じゃねえ」

「……そうか。そいつは安心したよ」

 神崎も、少しだけ肩の力を抜いて笑い返した。

 出会ってから、まだ半日しか経っていない。

 だが、お互いの過去と罪を知り、同じ地獄を見据え、似たような喪失を抱えた二人の間には、理屈を超えた奇妙な「友情」のような、確かな絆が生まれつつあった。

 軋む階段を上り、カビ臭い六畳間に通された二人は、交代で短い休息を取ることになった。

 隣の部屋で村上が浅い眠りについた後、神崎は窓の外に降る雪を見つめながら、密かに考えを巡らせていた。

(……このまま、村上さんに守られているだけでいいのか?)

 一番の問題は、雪幌へ行くためには、海を渡って北州ほくしゅうへ入らなければならないという絶対的な地理的条件だった。

 愛車であるRZ-7を本州に置いて、足のつく飛行機に乗るという選択肢はあり得ない。つまり、本州最北の地である青津あおつ港から、フェリーに乗って海を渡るしかないのだ。

 だが、フェリーは逃げ場のない「巨大な密室」だ。いくら暁のシンパが手配してくれても、組織内部には加藤のような大星の二重スパイが潜んでいる可能性がある。確実に刺客が放たれるだろう。

 村上一人であれば、どんな死地でも立ち回れるかもしれない。だが、四十歳を迎えた自分の衰えきった肉体では、確実にお荷物になる。最悪の場合、村上の足を引っ張って死なせるか、一般の乗客にまで被害が及んでしまう。

 神崎は、少しだらしなく肉のついた自分の腹と、疲れ切った腕を見つめ、一つの静かな決心をした。

(青津の周辺で、俺は村上さんと別行動をとる。……俺が囮になって奴らの目を引けば、村上さんへのマークは必ず甘くなる)

 自分が大星の工作員を引きつけている間に、村上に『安心サーバー193』を回収してもらう。それが、最も確実な勝利の算段だった。

 神崎は、スーツの内ポケットから、しわしわになった暁星新聞社の社用封筒を取り出した。

 手帳のページを破り、実家の住所とパスワードを書き殴る。

『村上さん。あとはお願いします』

 その短いメモと、実家の鍵を封筒に入れ、折りたたんで胸ポケットにそっと戻した。

(俺は、記者だ。真実を届けるためなら、なんだってやってやる)

 神崎は、数時間後に訪れるであろう「決別」と、命を懸けた死闘への恐怖を必死に押し殺しながら、冷たい畳の上で静かに目を閉じた。

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