第十章:捏造された凶行と咆哮する相棒
神崎健人は、東都の中心にそびえるホテルのエントランスを出て、大きく息を吐き出した。
ネクタイを緩め、冬の冷たい空気を肺の奥まで吸い込む。
(……これで、俺の役割は終わった。あとはあの赤塚って男たちが、大星の陰謀を世間に暴いてくれるはずだ。佳奈と勇樹の安全も、当面の生活も保証された)
十年ぶりに心から肩の荷が下りたような、ある種の安心感だった。これで、もう嘘の記事を書くマシーンに戻る必要はない。記者としての誇りも、少しは取り戻せた気がする。
神崎は足取りも軽く、駅へ向かう大通りを歩き始めた。
しかし、その足は突然、交差点のスクランブル交差点で鉛のように重くなった。
行き交う人々が足を止め、ビルの壁面に設置された巨大な街頭ビジョンを一斉に見上げている。
『――緊急ニュースです。先ほど、東都市内のホテルで、瑞穂セルラーの赤塚社長と、瑞光印刷の加藤常務が銃撃され、死亡しているのが発見されました』
神崎の心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。
そんな馬鹿な。ほんの三十分前まで、あの部屋で俺と話をしていたじゃないか。
だが、ニュースキャスターの緊迫した声は、さらなる絶望のどん底へと神崎を突き落とした。
『現場から逃走した男の防犯カメラ映像がこちらです。警視庁は、男の身元を暁星新聞社の記者、神崎健人容疑者(40)と特定し、先ほど全国に指名手配しました』
ビジョンに、自分の顔写真がデカデカと映し出された。
続いて流れた映像は、ホテルの廊下の監視カメラのものだった。神崎が血の付いた拳銃を手に持ち、スイートルームから慌てた様子で逃げ出していく姿が、鮮明に(そして完璧な角度で)記録されていた。
「……嘘だろ……」
声が震えた。拳銃など持っていなかった。そもそも、こんな映像は現実ではない。
だが、それは紛れもない大星の工作部極東局長・李鉄海の『完璧な台本』だった。神崎に赤塚を接触させ、データを運ばせた上で、二人とも殺害して神崎にすべての罪を被せる。警視庁内部の大星シンパの幹部たちが即座に手を回し、事前に用意されていたディープフェイク映像が各メディアに秘密裏にリークされていたのだ。
周囲の歩行者たちが、ビジョンと神崎の顔を交互に見比べ、ざわめき始める。
「おい、あれ……あの手配犯じゃないか?」
「人殺し……!」
頭の中が真っ白になった。
理不尽さへの怒りよりも先に、何が現実なのかすら理解できないパニックが神崎の思考を完全にショートさせた。
(逃げろ。捕まれば、間違いなく消される)
動物的な本能だけが体を動かし、神崎は人混みを掻き分けて裏路地へと走り出した。
肺が焼け付くように痛む。普段運動などしていない中年の体は、数分走っただけで悲鳴を上げた。
迷路のような雑居ビルの隙間を抜け、薄暗い路地を這いずるように逃げる。だが、素人の逃走劇など、大星の息がかかった警察網の前では無意味だった。
「おい! そこの男、止まれ!」
路地の出口を塞ぐように、二人の制服警官が拳銃を抜いて立ちはだかった。その目は、通常の警察官のそれではなく、確実に標的を仕留める工作員の冷たさを宿していた。
神崎は後ずさりし、膝から崩れ落ちそうになった。もう、終わりだ。
その時。
ヴゥォォォォンッ!!
ビルの壁を震わせるような、ロータリーエンジン特有の甲高いエキゾーストノート(排気音)が裏路地に響き渡った。
猛スピードで突っ込んできたのは、漆黒のスポーツカー――マツルギ自動車の『RZ-7 Type-FC』だった。一直線で美しいレトロなフォルムの車体は、警官たちを撥ね飛ばす勢いでスピンターンを決め、神崎の目の前で急停車した。
「乗れッ!」
助手席のドアが乱暴に開き、運転席から鋭い声が飛んだ。
普段の神崎なら、素性の知れない人間の車になど絶対に乗らない。だが、すでに極限のパニック状態で冷静さを失っていた神崎は、何かの糸に引かれるように、フラフラと助手席に転がり込んだ。
「伏せてろ、素人」
運転席の男は、長めの髪を無造作に後ろへ流し、レイヴン社製のティアドロップ型サングラスの奥で鋭い眼光を光らせていた。細身のスーツの上からでも分かる、鋼のように絞り込まれた筋肉質の肉体。
男がシフトレバーを叩き込むと、RZ-7は凄まじい加速Gで神崎をシートに押し付け、パトカーのサイレンが鳴り響く大通りへと飛び出した。
「追手が来るぞ。シートベルトを締めろ」
男の言葉と同時に、後方から二台の覆面パトカー(中身は大星の私兵)がサイレンを鳴らしながら猛追してきた。
男は片手でハンドルを操りながら、センターコンソールの隠しスイッチを弾いた。
ガチャン、という機械音とともに、車の前後にあるナンバープレートが自動で回転し、偽造された別のナンバーへと切り替わる。工作員御用達の逃走用ギミックだ。
だが、追手はナンバーなど見ていなかった。覆面パトカーの窓から身を乗り出した男たちが、サブマシンガンで無差別に発砲してきた。
ダダダダンッ!
RZ-7の防弾ガラスに弾痕が白く弾ける。
「くそっ、殺す気かよ!」
神崎が悲鳴を上げて頭を抱え込む中、男はチッと舌打ちをした。
「……うるせえハエ共だ」
男はハンドルから右手を離し、ショルダーホルスターから無骨な拳銃を抜き放った。
それは、キメラ・アームズ社製の異形のリボルバー『ライノケロス 40DS』だった。通常の拳銃とは違い、銃身がシリンダーの最下段にあるため、発砲時の跳ね上がりが極端に少ない。乱戦でも確実にマグナム弾を叩き込める、プロ殺しの名銃だ。
男はサイドミラー越しに後方を確認すると、窓から右腕を突き出し、ノールックで引き金を二連続で引いた。
ドォォン! ドォォン!
轟音とともに放たれたマグナム弾は、追走してくる一台目の覆面パトカーのフロントタイヤを正確に撃ち抜いた。バランスを崩した車体は火花を散らして横転し、後続のもう一台を巻き込んで派手なクラッシュを引き起こす。
瞬きする間もない、神業のような射撃だった。
RZ-7は東都の警察網と大星の包囲網を、圧倒的な機動力とドラテクで完全に振り切ってみせた。
***
一時間後。
東都を抜け、人気のない山道のパーキングエリアに車を停めると、男はサングラスを外し、大きく息を吐いた。その顔には、幾多の死線を潜り抜けてきた無数の傷跡が刻まれている。
「……落ち着いたか、神崎健人」
過呼吸気味になっている神崎に、男が静かに尋ねた。神崎の名前を知っているのは当然だった。
「俺は村上正毅。反大星結社『暁』のメンバーだ」
神崎は、息を呑んだ。
赤塚が束ねていた、あの組織。名前を『暁』というのか。
「……赤塚さんが、殺された。俺が……殺人犯にされてる」
「分かってる。大星の李鉄海のやり口だ。奴らは赤塚を殺してデータを奪い、お前をトカゲの尻尾にしてすべてを闇に葬る気だ」
村上の声には、李鉄海という名に対する、凍てつくような憎悪が滲んでいた。
「まずは、そのスマホの電源を切れ」
村上が冷たく命じる。
「GPSは当然として、マイクもカメラも奴らに筒抜けだ。電源を切って、バッテリーを抜け」
「待ってくれ、俺の回線は瑞穂セルラーだ! 赤塚さんの会社なら、ハッキングは防げるはずじゃ――」
「それは『赤塚が生きていた時』の話だ」
村上は吐き捨てるように言った。
「瑞穂セルラーの会長はゴリゴリの大星派だ。赤塚の異常なまでの経営手腕と政治力で無理やり抑え込んでいただけに過ぎない。明日には赤塚派の役員や幹部連中は全員左遷されて、新しい社長には大星の犬である藤田常務が就くはずだ。……もう、お前のスマホの回線は『敵の監視カメラ』と同じだ」
神崎は唇を噛み、震える手でスマートフォンの電源を落とし、バッテリーを抜いてダッシュボードへ放り投げた。
暗闇の車内で、少しだけ冷静さを取り戻した神崎の脳裏に、一つの強烈な疑問が浮かんでは消えた。
(……なぜ大星は、あのホテルの場所を知っていた? 俺のスマホはハッキングされていなかったはずだ)
神崎は、今朝ホテルのロビーで交わした、瑞光印刷の加藤常務との立ち話を思い返した。
『大星のやり方に危機感を覚え、政府に働きかけましたが、逆に我々が不自然な規制の対象になり……』
その言葉と、赤塚が語った「この国はすでに大星に浸透されている」という現実が、決定的に矛盾していることに気がついた。
「……村上さん。一つ、聞かせてくれ」
神崎は顔を上げ、村上の鋭い眼光を真っ直ぐに見返した。
「瑞光印刷の加藤は……大星の『二重スパイ』じゃないのか?」
「……ほう」
「あいつはロビーで、『大星に危機感を覚えて政府に働きかけたが、規制の対象にされた』と言った。だが、赤塚さんの話では、政府も官僚もすでに大星の息がかかっているはずだ。本当に大星と敵対しているなら、政府に働きかけた時点で不審死でも遂げているはずだ。あいつは……大星と繋がったまま、政府の規制を『言い訳』にして、赤塚さんの組織に潜り込んでいたんじゃないのか」
村上は一瞬目を見開き、そして短く鼻で笑った。
「……さすがは、一流新聞社の元エース記者さんだな。俺が這いずり回ってようやく調べ上げた最新の情報を、たった数分の立ち話から推論しやがった」
村上はハンドルを指先で叩きながら、忌々しそうに顔をしかめた。
「その通りだ。加藤は裏切っていた。俺はその情報を掴んで、赤塚を守るためにあのホテルへ向かったんだが……間に合わなかった。お前をギリギリで拾えたのは、瑞穂セルラー内部の『暁』の生き残りたちが、決死の覚悟で最後にお前の位置情報を送ってくれたからだ。……だが、もうその手は使えない」
赤塚の死。加藤の裏切り。そして、大星の完璧な包囲網。
神崎は両手で顔を覆い、深い絶望の溜息を吐いた。
「……佳奈と、勇樹は。俺の家族はどうなる」
今、自分が一番恐れているのは、自分の命よりも家族の安否だった。
「安心しろ。組織の中でも一番信用できる連中を使って、すでに安全な場所へ避難させてある」
村上のその言葉に、神崎はようやく肩の力を抜き、シートに深く沈み込んだ。
車内に重い沈黙が流れる。
すべてを失った。赤塚という強力な後ろ盾も、南波から持ち帰った「反撃の剣」であるUSBデータも、李鉄海の手によって完全に奪い去られてしまった。残ったのは「殺人犯」という汚名だけだ。
だが、村上はダッシュボードからくたびれたタバコを取り出して火を点けると、サイドミラー越しに神崎をジッと見つめ、静かに、だが確信に満ちた声でこう尋ねた。
「……なあ、神崎。あんた、まだ『ジョーカー』を持ってるんじゃないか?」
「え……?」
「大星の連中は、赤塚を殺してUSBを奪えばすべてが終わると思っている。だが、お前ほどの記者が、あの南波の地獄から持ち帰った『本物の特ダネ』のデータを、たった一つしか用意していないなんて間抜けな真似をするとは思えない」
村上の眼光が、真っ暗な山道でギラリと光った。
「……昔は、俺もお前と同じだった。しがないフリーのジャーナリストさ。ペンで世界が変えられるって、本気で信じていた馬鹿な若造だ」
村上は紫煙を吐き出し、神崎の胸ぐらを掴むような切実な声で言った。
「もし、お前がまだ『武器』を持っているなら……俺と一緒に来い。李鉄海を、大星を、この国から完全に叩き出すために」
神崎は、村上の覚悟に満ちた目を見返し、静かに頷いた。
「……ある。もう一つのバックアップが」
「どこに隠した? コインロッカーか? 貸金庫か?」
「いや、オンライン上だ」
神崎の答えに、村上は怪訝な顔で眉をひそめた。
「馬鹿を言え。大星の『天網』のハッキング能力を舐めるな。クラウドや一般的なサーバーなら、奴らは数分でパスワードを破ってアクセスし、データを焼き払っちまうぞ。お前のエコーの裏アカウントと同じようにな」
「クラウドじゃない。……『安心サーバー193(イクミ)』だ」
神崎がその名を口にした瞬間、村上はポカンと口を開け、数秒後に「ハッ」と乾いた笑い声を漏らした。
「マジか……。あの、十年以上前に国内の三流メーカーが発売して、使い勝手が悪すぎて半年で消えた伝説のポンコツサーバーか?」
「ポンコツじゃない。あのサーバーの異常な仕様を知っているか?」
神崎は真剣な顔で説明を始めた。
「あの『安心サーバー193』は、初期設定の段階で、物理的に有線接続した『特定の端末(MACアドレス)』を最大三台までしか登録できない。そして、それ以外の端末からのオンラインアクセス要求は、パスワードの有無に関わらず、システム側で『すべて弾く』という、異常なほど閉鎖的なハードウェア設計になっているんだ」
神崎は言葉を継いだ。
「現代のクラウドみたいに、どこからでもアクセスできる利便性を完全に捨てた代わりに、物理的な偽装をしない限り、外部からのハッキングをハードウェアレベルで完全にシャットアウトできる。……俺はあの東都空港で、自分のスマホから、実家に置きっぱなしになっていたその『193』にデータを退避させたんだ」
「なるほどな……」
村上は感心したように顎を撫でた。
「大星の超高度なサイバー攻撃も、アナログすぎる物理的な壁(ハードウェアの仕様)の前では無力ってわけだ。で、そのポンコツサーバーを置いているお前の実家は、どこにある?」
神崎は、助手席の窓ガラスに視線を向け、はるか北の空を見据えながら答えた。
「……北の果て。雪幌だ」
雪と氷に閉ざされた、神崎の生まれ故郷。
村上は短く「分かった」とだけ言うと、RZ-7のシフトレバーを荒々しく叩き込んだ。
「行くぞ、雪幌へ。大星の犬どもより先に、そのポンコツを回収する」
ロータリーエンジンの咆哮が再び夜の山道に響き渡り、二人の男を乗せた漆黒のスポーツカーは、長く険しい逃避行へと走り出した。




