第九章:仮面の理想と冷たい銃弾
神崎健人は、運命の朝を迎えた。
いつものように、皺の寄った安いスーツに腕を通し、ネクタイを締める。鏡に映る自分の顔はひどく疲労していたが、目の中には確かな熱が宿っていた。
リビングに出ると、妻の佳奈が立ち尽くしていた。いつもなら視線も合わせずに台所から声をかけるだけだったが、今日ばかりは神崎の目を真っ直ぐに見据え、静かに、だが祈るような力強さで言った。
「……いってらっしゃい」
「ああ。行ってくる」
交わした言葉はそれだけだったが、互いの目には「生きて帰る」「必ず待つ」という強い決意が満ちていた。
「パパ、いってらっしゃい!」
まだ事の重大さを何も知らない十歳の息子、勇樹が、無邪気な笑顔で手を振ってきた。
神崎は歩み寄り、息子の目の高さに合わせてしゃがみ込んだ。そして、その小さな頭を優しく撫でながら、真っ直ぐに語りかけた。
「勇樹。いいか、お父さんと一つだけ約束だ。これから先、テレビの中の偉い人や、周りのみんなが『これが正しい』って言っても、それをそのまま信じちゃダメだ。自分の目でよく見て、自分の頭で考えて、自分の心の中で『何が本当のことか』を決めるんだ。分かったか?」
勇樹はきょとんとしていたが、父親の真剣な眼差しに圧されるように、「うん、分かった」と小さく頷いた。
神崎は立ち上がり、もう一度妻と目を合わせてから、玄関のドアを開けた。
***
東都の冷たい朝の空気を吸い込みながら、神崎は指定されたホテルへ向かって歩き出した。
途中、駅前のコンビニに立ち寄り、使い捨てのライターとタバコを一箱買った。妻が勇樹を妊娠した十年前、「なんとなく」という理由でやめて以来のタバコだった。
コンビニ横の喫煙スペースで、セロファンを破り、一本咥えて火をつける。
肺の奥に数年ぶりのニコチンが流れ込み、むせ返りそうになるのを必死に堪えた。
(……笑っちまうな。小説のハードボイルド探偵の真似事かよ)
紫煙を吐き出しながら、神崎は自嘲した。
足が震えている。今日、このままあのホテルに行けば、もう二度とあの家に帰れないかもしれない。いっそのこと、今すぐこのUSBを大星の工作機関に売り飛ばして土下座すれば、自分と家族の命だけは助かるのではないか? そんな小市民的な甘い誘惑が、脳裏を何度もよぎる。
だが、神崎は短くなったタバコを灰皿に強く押し付けた。
「……いや。俺は新聞記者だ」
南波の地下室で血を流していた人々。基地の前で踏み躙られた命。あんな地獄を黙殺して生き延びたところで、息子に顔向けなどできない。自分の見た真実を伝えるのが、俺の仕事だ。
神崎はスーツの襟を正し、覚悟を決めて歩き出した。
***
指定された最高級ホテルのロビー。
そこには、昨夜の黒ずくめのコートとは打って変わって、仕立ての良さが素人目にも分かる高級スーツに身を包んだ男が待っていた。
痩せ型で、度の強そうな円眼鏡をかけたその顔を見た瞬間、神崎の記者としての記憶の引き出しが開いた。
「……昨夜はどうも。加藤と申します」
男が愛想よく手を差し出してきたが、神崎は警戒心を露わにしてその手を取らなかった。
「ええ、よく知っていますよ。瑞光印刷の、加藤常務。……まさか、あなたのような大企業の重役が、あんな真似をしているとは思いませんでしたが」
大星資本の影に怯えるどころか、国内最大の印刷会社のトップが反政府組織の真似事とは。大星との繋がりすら疑いたくなる。
「我が社も数年前まで、大星の資本に食い物にされかけましてね」
加藤は神崎の警戒を解くように、苦笑交じりに語った。「大星のやり方に危機感を覚え、政府に働きかけましたが、逆に我々が不自然な規制の対象になり、新技術を世に出せない状況に追い込まれました。……ですが、神崎さんの持つ情報があれば、この国の歪んだパワーバランスをひっくり返す逆転の可能性があります」
神崎は無言で頷いた。
加藤に案内され、二人は専用エレベーターで最上階のスイートルームへと向かった。加藤ほどの権力者がトップではないとすれば、一体この組織の「リーダー」とはどれほどの怪物なのか。
重厚な扉が開き、スイートルームの奥へ足を踏み入れた神崎は、思わず眉間に皺を寄せた。
革張りのソファに深く腰掛けていた男の顔の半分が、奇妙な『仮面』で覆われていたのだ。中世の貴族がつけるような、目元だけを隠す悪趣味なハーフマスク。
(……なんの冗談だ。仮面舞踏会でも始める気か?)
「初めまして。私が、この組織を束ねるリーダーです」
仮面の男は、よく響くバリトンボイスで紳士的に挨拶をした。
「……あからさまに怪しいですね。人に会うのに、その仮面はなんなんです?」
神崎が不機嫌に言い放つと、男は「失礼しました」と軽く笑い、あっさりとその仮面を外した。
現れた素顔を見て、神崎の心臓が大きく跳ねた。
(……馬鹿な。嘘だろ)
瑞穂最大の通信キャリアである株式会社『瑞穂セルラー』の若きカリスマ社長、赤塚。神崎自身のスマートフォンも、まさにそのキャリアの回線を使っている。
「赤塚と申します。万が一を考え、我々の組織では素顔を見せないルールになっておりまして」
「……なら、なぜそんなにあっさりと仮面を外したんです?」
「あなたに、信頼していただきたかったからです」
赤塚は静かに、だが力強く答えた。端的で理知的な、評判通りの男だ。だが、神崎の頭の中に一つのピースがカチリと嵌まった。
「……なるほど。昨夜、大星の天網から私の端末本体へのハッキングを防いでくれたのは、あなたの会社の通信網のおかげですか」
「ご名答です。あらかじめ現地に人員を配置し、神崎さんを監視・保護させていただきました。税関で工作員の武器を足止めしたのも我々です」
「じゃあ、なぜ私のスマホに直接侵入して、データを抜き取らなかったんですか? あなたたちならできたはずだ」
「それは……大星のサイバー攻撃を防ぐのに全力を注ぐ必要があり、そこまでの余裕がなかったという事情があります。それほどまでに、奴らの能力は異常なのです」
赤塚は表情を引き締め、本題に入った。
赤塚が語る組織のビジョンは壮大だった。大星の侵略はすでに瑞穂の中枢まで浸透しており、現在の政党や官僚機構では絶対に防げないこと。阿国の庇護を失った今こそ、瑞穂は両国から完全に切り離された「真の独立」を果たすべきだということ。そして、神崎の持ち帰った『新城と大星の癒着データ』こそが、国民の目を覚まし、国家変革の狼煙を上げるための「錦の御旗」になるのだと。
あまりにも美しく、澄み切った理想論。
神崎は、新城のあの狂騒的な演説を思い出し、強い違和感を覚えた。
「……美しい話ですが、信じられませんね。あなたたちほどの力を持つ組織なら、当然バックに強力な外国のパトロンがいるんでしょう?」
「いません。我々は真の独立を目指しているのですから」
赤塚は薄く笑い、言葉を続けた。
「……あえて言いましょう。もちろん、これは純粋な正義ではありません。本当の意味での瑞穂独立を果たすことで『莫大な利益』を得る人間たちの集まりです。私も、変革の暁には国のトップに立つ気はありません。自分の利益のために動いているという意味では、新城と大差ないかもしれない。……ですが、今の腐り切った瑞穂よりは、必ずマシな国を作れると信じています」
その言葉には、不思議な説得力があった。
「分かりました」
神崎は深く息を吐き、内ポケットからUSBメモリーを取り出した。
「私も、私の正義と『利益』のために動きます。データを渡す条件は二つ。一つ、私と家族、そして親族に今後一切の被害が及ばないように、あなたたちの力で完璧にガードすること。二つ、当面の生活と、もし私が死んだ場合に家族が一生食っていけるだけの『金銭的な援助』を約束すること」
下世話な要求だとは分かっていた。だが、妻子を守るためには絶対に必要な現実だった。
「……もちろんです。お約束しましょう」
赤塚は即答し、神崎からUSBメモリーを受け取った。
取引は終わった。
神崎は一礼し、足早にスイートルームを後にした。背中にまとわりつくような重厚な扉が閉まった瞬間、神崎は大きく息を吐き出し、ネクタイを少しだけ緩めた。
***
神崎が去った後のスイートルーム。
赤塚は手の中のUSBメモリーを見つめながら、傍らに立つ加藤に向かって言った。
「……これで、お膳立ては整ったな」
加藤は、先ほどまでの怯えた重役の顔を捨て、口角を吊り上げてニヤリと気味の悪い笑みを浮かべた。
その時、スイートルームの奥の寝室に通じる隠し扉が、音もなく開いた。
現れたのは、大星人民党・極東局長の李鉄海だった。
赤塚は慌てることなく、机の上の仮面を再び顔に当てながら、芝居がかった声で言った。
「ここまでの大物が直々にお越しになるとは。光栄なことだよ、李局長」
だが、李は何も答えず、ただ氷のように冷たい目で二人を見据えていた。
赤塚が違和感に気づくより早く、背後に立っていた加藤が、懐からサプレッサー(消音器)付きの大型拳銃を抜き出し、迷うことなく赤塚の背中に銃口を押し当てた。
「なっ――」
赤塚は事態を察した。加藤は、反大星の結社などではなく、最初から大星側に飼い慣らされた『二重スパイ』だったのだ。神崎を強引に襲わず、赤塚のもとへ泳がせてUSBを運ばせたのも、すべて大星の筋書き通り。
(……私も、甘い男だな)
赤塚が自嘲の笑みを漏らした瞬間。
プスッ、プスッ!!
くぐもった発砲音が室内に響き、赤塚の胸に二つの風穴が開いた。彼は血を吐きながら、高級な絨毯の上に崩れ落ちた。
「局長。これでデータは無事回収できました。神崎の始末も、私が――」
加藤が銃を下ろし、李に向かって卑屈な笑みを浮かべた、次の瞬間だった。
パシュッ!!
もう一つの乾いた音が響き、加藤の眉間に真っ赤な大穴が開いた。
加藤は驚愕の表情を浮かべたまま、声を発することもなく、赤塚の死体の上に折り重なるように倒れ込んだ。
銃口から薄い煙を上げている拳銃を握っていたのは、他でもない李鉄海だった。
「……お役目ご苦労様です、加藤さん」
李は、虫けらを払うような無機質な声で死体に向かって呟いた。
「ですが、あなたの会社も、あなた自身も、我が大星にとってもう用済みですので」
李は赤塚の血だまりに落ちていたUSBメモリーを拾い上げ、ハンカチで丁寧に血を拭き取った。
そして、部屋の隅に控えていた部下の工作員たちにアゴで後始末を指示すると、大星の勝利を確信した冷酷な足取りで、死臭漂うスイートルームを去っていった。




