プロローグ:鉛のインク
皆の衆、息災か。八咫日本だ。
この国が、見て見ぬふりをしてきたツケを払わされる時が来たようだな。
南波は燃え、同盟国は去り、瑞穂という泥舟は沈みかけている。
「――南波県民の平和的な自己決定権を尊重し、瑞穂政府は阿国軍の撤退を含めた対話のテーブルにつくべきだ。抑圧の歴史を断ち切り、東アジアに新たな協調の時代を……」
エンターキーをターン、と叩く。
深夜の暁星新聞社・オピニオン編集部。無機質なLEDライトに照らされたフロアには、キーボードを叩く乾いた音だけが響いていた。
モニターに整然と並んだ自分の原稿を見つめていると、胃の奥からじわじわと酸っぱいものが込み上げてくる。毎晩のことだ。俺、神崎健人は、キーボードから手を離し、誰にも見られないように深く息を吐き出して吐き気を飲み込んだ。
「神崎、原稿あがったか?」
背後から声をかけてきたのは、編集デスクの野島だった。かつて大星の首都・燕京の特派員を長く務め、大星の政府高官たちと夜な夜な高級酒を酌み交わしてきた男だ。その見返りがこの出世であり、彼が纏う高級スーツの裏地には、大星資本の分厚い札束が透けて見えるようだった。
「はい。チェックをお願いします」
野島は画面をスクロールし、満足げに何度か頷いた。
「うん、いいじゃないか。血が通っている。軍拡に傾く霧島政権への警鐘として、絶好の社説になる。大株主の方々も喜ぶだろう」
「……恐縮です」
「お前も丸くなったな、神崎。十年前の、あの『南波の市民団体の裏金疑惑』とかいう妄想記事を持ってきた時はどうなるかと思ったが……人は成長するもんだ」
野島が俺の肩をポンと叩いて去っていく。
その手が触れた部分から、腐臭が全身に回っていくような錯覚に陥った。
十年前、俺は真実を書こうとして資料室へ飛ばされた。そして今、国を切り売りするような嘘を並べ立て、家族を養うための給料をもらっている。
デスクの引き出しの奥に隠した胃薬を水なしで飲み込み、俺は逃げるように会社を後にした。
***
新橋の路地裏。赤提灯の煤けた灯りだけが、今の俺にとって唯一の救いだった。
暖簾をくぐると、小料理屋『海燕』には客の姿はなかった。カウンターの奥で、店主の相馬哲也が黙々と柳刃包丁を砥石に滑らせている。
「……いらっしゃい。今日も顔色がひどいな、健人」
「生一つ。あとは、一番安い熱燗を頼む」
相馬は黙ってビールと、湯気を立てる徳利をカウンターに置いた。
学生時代からの腐れ縁であり、かつてはライバル紙『帝都新聞』の政治部で特ダネを競い合った男だ。だが、彼もまた俺と同じように、大星の息がかかった政治家の汚職を会社に握り潰された。俺が会社にしがみつき、彼が辞表を叩きつけて板前になったというだけの違いだ。
「……今日も書いたよ。平和と対話の、素晴らしい御託をな」
安酒を喉の奥に流し込みながら、俺は自嘲気味に笑った。
「そうか。お前の会社の株価は、今日も安泰だな」
「野島の野郎、俺が丸くなっただとよ。違う、ただ感覚が麻痺しただけだ。毎日毎日、毒をインクにして垂れ流してる気分だよ」
相馬は相槌を打たず、小鉢の冷奴を俺の前に押し出した。
「辞めればいい。俺みたいにな」
「……ローンが三十年残ってる。佳奈にはパートに出てもらってるし、勇樹はこれから金がかかる」
「立派な父親だ」
相馬の言葉には、棘も嫌味もなかった。だからこそ、痛かった。
「お前がその薄汚れたキーボードで叩き出した『平和』って言葉が、明日、南波の連中の首を絞めるロープになるんだぜ、健人。……まあ、俺たちみたいな敗残兵が何を言っても、瑞穂の沈没は止まらねえか」
相馬は砥石に水をかけ、再び静かに刃を研ぎ始めた。シャッ、シャッという冷たい音が、俺の神経を削るようだった。
俺は二本の徳利を空にし、逃げるように二千円札をカウンターに置いて店を出た。
***
午前一時。
郊外の分譲マンションのドアを静かに開ける。玄関の照明は消え、冷え切った空気が漂っていた。
寝室を覗くと、妻の佳奈は壁の方を向いて丸まっていた。規則正しい寝息が聞こえる。彼女とはもう、一ヶ月以上まともに会話をしていない。俺の目から熱が消え、ただの「会社の歯車」になり果てた日から、彼女の視線は俺を通り越して虚空を見るようになった。
溜息をつき、隣の子供部屋のドアを少しだけ開ける。
ベッドの中で、小学五年生になる息子、勇樹が安らかな顔で眠っていた。
その寝顔を見つめながら、俺はそっと息子の学習机に目を落とした。そこには、綺麗に切り抜かれた『暁星新聞』のスクラップブックが開かれたまま置かれていた。
ページの真ん中に貼られていたのは、数日前に俺が書いたコラムだった。
『南波の未来は、軍隊ではなく対話によって守られるべきだ』
その横の余白に、勇樹の丸っこい鉛筆の字でこう書かれている。
『お父さんの記事。瑞穂は、南波のひとたちを解放してあげるべきだ。軍隊はこわいから、なくなればいい』
ドクン、と心臓が嫌な音を立てた。
俺が魂を殺して紡ぎ出した嘘が、愛する息子の脳を、大星のシナリオ通りに真っ赤に染め上げている。
南波から阿国軍が消えれば、数日後には大星の軍艦が押し寄せる。対話など存在しない。そんな子供でもわかる地政学の真実を、親である俺自身が目隠しをして奪い取っているのだ。
「……ごめんな」
誰に向けたものかわからない謝罪が、暗闇に溶けて消えた。
ワイシャツのネクタイを乱暴に引き剥がし、俺はリビングのソファに倒れ込んだ。
目を閉じると、モニターに並んだ空虚な文字の羅列が、鉛のように重くのしかかってくる。
明日もまた、俺は嘘を書く。国を売り、家族を騙し、自分自身を殺すために。
いつか、この最悪の日常が、本物の地獄に変わるその日まで――。




