誘惑の罪
「これで失礼いたします」
立ち上がろうとしたとき、隣に座っていた夫人の指がシャツを引いた。
「もう行ってしまうの、何故もっと長くここに居てくれないの?」
夫人の美しい顔が曇っても、良い返事はせずに優しく彼女の手を引き剥がした。
真夏の暑い午後、パナマ帽を被った男はさっきまでいた屋敷を振り返る。
熱い情事などほんのひと時で終わってしまう。ポケットに手を突っ込むと歩き出した。
新緑が美しく海が近いせいか潮の香りがする。舗装されていない小道に入り森の中を歩いていく。
潮時かな、と夫人の顔を思い出す。美しい彼女は夫との間に子供が出来ずに悩んでいた。
どこの馬の骨と知らぬ男と知りつつ、それでも情事を楽しんでいたろうか。男など簡単に逃げてしまえるのに。彼女の夫は優しい男で間男の自分にすら親切に接してくれた、あれを愚かというのか、他に言葉が見つからない。
夫人を思っていたかなど微塵もない。顔を上げて遠くをみやると女学生たちが楽しそうに歩いてくる。女などいくらでもいるのに、そう思いかけて唇をかむ。
どこか愚かな自分がいるようだ。人の思いを弄んだ罰かとも思う。
この道を抜けて大通りにでれば車は捕まるだろうか、雑念を払うように首を振り帽子を引き下げる。
大通りで走ってきた車を捕まえてシートにもたれこんだ。
こんな不毛なことはもうやめにしないと。
二日たっても夫人からの連絡はない。
もうきっと忘れられただろう。
部屋の片隅にある電話を眺めては思い出すのだから、どうやら未練があるのは自分らしい。乾いた笑いを吐き出して居間に戻った。使用人のいない家には役に立たない猫が伸びている。猫を拾いあげて日当たりの良い縁側に出ると、玄関口で人の声がした。
「ごめんください、先生いらっしゃいますか」
その声に立ち上がり玄関へと向かうと、見知った顔の女性がそこにいた。
「すいません、お休みでしたか?」
「いや」と彼女を招き入れて居間へと戻る。
彼女は僕の生徒でまだ十八の子供だ。生徒といっても簡単な外国語を教えるのみだったが。
肩の下で切りそろえられた綺麗な髪に、清潔そうなブラウスとスカート。靴はへたれてはいるが手入れされている。行儀もよく礼儀も正しい。
「手ほどきを受けるのなら、もっと良い先生がいるだろう」と言ってはみたが、微笑んでごまかされた。
「君のような若い女性がこうして手習いに来ることは、ご両親は悪く言わないかい?」と教科書にしていた本を閉じる。彼女は鉛筆を走らせながら笑う。
「もう前にも言ったじゃないですか、先生のことは悪く言わせません。それに先生はいくら私が誘惑したところで、指一本触れないじゃありませんか」
彼は天を仰ぐとため息をついた。「そうだね」と笑うと彼女もくすくすと笑う。
いくら飢えを感じたとはいえ、年の離れた少女に手をだすほど馬鹿じゃない。それでも女へと成長していく彼女を見ていると、どこか胸の奥がざわめくものがある。それを見透かしているのか、彼女は少女のままで女の顔をしてみせる。女という生き物は怖いものだ。
ひと月経って、生徒の少女が「大通りで祭りがありますよ」と教えてくれた。
時間もあるしと外へ出ると、いつもは人の少ない通りに見知らぬ顔が多くある。楽しげな様子で歩く姿も多く、道の端で屋台がぽつぽつと見え始めた。
雑踏の中に入り、ふと誰かに名前を呼ばれた気がして辺りを見回した。行き交う人の中に夫人の姿がある。どこか切なそうな、嬉しそうな顔をして、あの日のように美しくそこにいた。
自然と距離が縮まり、互いに軽い挨拶を交わすと夫人が微笑む。
「こんなところで、偶然って素敵ね。主人と遊びに来たのだけれど、はぐれてしまって」
「そうですか……」
彼は周りを見渡して彼女の夫の姿を探したが、どうにも人が多く見つかる様子はない。
「これでは大変ですね」
そう苦笑すると夫人も頷いた。
「ええ、さっきから探しているのに、あの人を置いて帰ってしまおうかしら……」
夫人が周りを見渡すためにくるりと体を動かしたとき、彼女の手が彼の手にそっと触れた。
わざとだ。こんな誰かに見られるかもしれない場所で。
彼の動揺を横目に、彼女は少し意地悪そうな顔で小指だけ絡ませると小さな声で、「あなたは私を弄んだと思っていたのよね、きっと」そう言って離れた。彼の胸の中でどくどくと音が走ってゆく。
彼が何か声にしようとしたとき、彼女はお目当てを見つけて行ってしまった。
はっと息を吐き、彼はうつむいた。
なんて女だ。今この胸を熱くしたのはあの人だとすれば、弄ばれたのは僕のほうか。
どこか情けなくなって足早に家路につく。楽しげな顔とすれ違うたびに夫人の顔がちらついて、そのたびに振り払った。
夏も終わりかけた頃に電話が鳴り響いた。彼は読んでいた本をやめて、立ち上がると受話器を取る。懐かしい声が耳に響いて、「お久しぶりですね、奥様」と苦笑した。
あの日心乱された人の笑い声が優しく聞こえる。
「何か御用でしたか」
彼は壁にもたれると相手の声を待った。
「いいえ、たいしたことではないのよ。もうきっと、これで最後の連絡になるわ」
彼は目を閉じると「そう」と頷いた。
「でもね、あなたにだけは知らせておかないといけないと思ったのよ。私、子供ができたのよ。夫も喜んでくれているわ。じゃあね、愛しい人。あなたとの時間は本当に楽しかったわ、さようなら」
カチャンと電話が切れて彼は何も言えず受話器を置いた。
僕の子供か……たぶん。
夫人からすれば役目の終わった男など金をかける必要もないか、なんだか胸の中で苛立ちを感じて電話の傍に置いてあったメモ帖を叩き落した。散らかしたままに畳の上へと寝転がる。
髪を片手でかき乱すと大きく息を吐いた。
いずれ子供が産まれて自分が父親だと夫人は言うだろうか。
いや、夫人も、あの夫婦はそんなこと言わないだろうな。くだらない、と両手足を伸ばした。
初めから目的は決まっていたのだから。
彼は深く目を閉じて、今日やってくる生徒の少女を思い浮かべる。
ああ、そうか、僕は誘惑されていたんだった。
「ごめんください」と耳に心地よい声が聞こえて、彼は立ち上がる。
玄関にいた少女に微笑を浮かべ部屋へ招き入れた。




