番外編6 カフェバー「ジュテーム」にて
※本編より未来的話。「第三者視点」リク。
お昼の繁忙時間を抜けてやっと一息ついた。
マスターは首を捻りながら私に向かっていつものように「お疲れ様」と声をかけてくれる。
このカフェバーでバイトするようになって二ヶ月経ったけど、このマスターのイケメンぶりはちょっとやそっとで慣れそうにない。
なんでこんなモデルみたいな人がカフェバーをやってるんだろうって、普通に疑問に思っちゃうくらい素敵な人。
当然の如く、マスターが出ている昼間は女性客が大勢やって来る。
でも皆マスターの営業スマイルと口の上手さに手も足も出ないという感じ……中身もイケメンって凄いかも。
それだけじゃなく、お店もとっても素敵で常連のお客さんが毎日沢山。
面接に受かった時は嬉しさ半分、驚き半分だったなあ。
「明ちゃん、お昼何がいい?」
「あ、お任せします」
外に出て準備中の札をドアに下げてきた私に、マスターは頷いて厨房へと入って行った。
とたんにがらんとした店の中でモップをかけながら、このところすっかり習慣になってしまった溜息が出てしまう。
止めようと思っても、そう思うのはいつも出てしまった後だ。
「お嬢さん、恋をしているね?」
「きゃあ!……あ、お疲れ様です」
奥から出て来た先輩に条件反射で頭を下げると、彼女はにっこりと笑いかけてくれた。
この店の「看板娘」はマスターに並んでその名の如く日々常連さんを増やしている。
それもそのはず。
先輩もモデルとかやってますって言われてもちっとも驚かないくらい可愛い。
実際私がこのお店で働き始めてから、初めて彼女に会った時には衝撃を受けた。
これだけ顔立ちがいい人達の中でやっていけるのかなってちょっと不安に思った事もあったけど、二人ともとてもよくしてくれて、最近では私もこの仕事に遣り甲斐を感じている。
実は難関の面接を潜り抜けて採用されたって、友達には羨ましがられるくらいだし。
「ちょっと抜けちゃってごめんね。その代わり後半はバリバリ行くんでどーんと任せなっさい」
大きく頷きながら胸を叩いた先輩に、自然と笑みが零れた。
先輩は可愛いだけじゃなくて気さくで、何より凄く頼もしい。
夕方以降になって時々酔っ払いのおじさんとかが来ても、先輩が笑顔一つで対応してしまう。
マスターの信頼も厚い、まさしく「看板娘」だ。
時々先輩のお兄さん(先輩とは似ていないけどやっぱり凄く素敵な人だった)が心配で迎えに来てしまうのもよくわかる。
私の顔はどうやっても先輩には近付けないだろうけど、こういう気さくさは少しでも近付けたらいいなと密かに憧れている。
けど……やっぱり私は先輩のようにはなれそうもない。
こんなに優しくしてくれる先輩に対して、私は時々凄く失礼な事を考えてしまうからだ。
それもあって、溜息が減る事がない。
「あら、お疲れ?掃除はやっておくから、明ちゃんは休んでなよ。学校の勉強も忙しいでしょ?」
「いえ!来週から休みに入りますし、こういうのは新人の私の仕事ですからっ」
モップをしっかり握りな直して言うと、先輩は明るい表情で笑う。
……本当に素敵な人だなあ。
睫毛長いし、目は大きいし、色白だし、スタイルはいいし…………ああダメダメ、また妬みみたいな事考えちゃう。
「偉いねー。どっかの誰かに爪の垢でも煎じて飲ませてやりなよ」
「だが断る」
「あ、おっ、おはようございます!」
後ろから聞こえてきた低い声に、心臓が痛いくらい飛び跳ねて思わずどもってしまった。
変に思われていないかと恐る恐る振り返る。
でも当然、その人は私なんか見ているはずもなかったんだった……。
「芦屋もさあ、先輩立てるみたいな謙虚さをそろそろ覚えた方が社会勉強になるよ?」
「人選はきちんとしてるつもりだけどなー」
芦屋さん(先輩と呼ぶなと言われてしまっている)はあくびをしながらカウンターの前に腰を下ろした。
私の溜息の原因のもう一つ、……むしろ原因そのものと言ってもいい。
私が恋をしたのは、マスターでも先輩のお兄さんでもなく、この人だ。
時々お店に来てくれる友達にこっそり打ち明けたら、「なんであんな無気力そうなのがいいの?」とか言われちゃったけど、そう見せているだけで実際は凄く仕事の出来る人なんだよね。
新人として入った私にあれこれ言ってくれる事はなかったけど、さりげなくフォローを入れてくれたりとか気遣ってくれたりとか、そういうのがわかってしまってから一気に恋に落ちてしまった。
気まずくなるかもしれない、でも意を決して告白しようかと思った事もある。
でもその決心は、今みたいな光景を目の当たりにして、無残にも崩れてしまった。
「あー眠ぃ」
「昼間もお勉強ご苦労様ですねえ?」
「うるせ」
「あー小型犬がどこかできゃんきゃん吠えてるわー」
「あーもーうるせーって!」
……こんな仲良しな二人にどうやって割って入れるって言うんだろう。
普段は口数の少ない芦屋さんも、先輩相手にはすぐに反応するし。
はあ、また溜息が出そう。
「あれ、また来てたのか芦屋。熱心だねえ」
先輩と同様ににこにこしながらトレイを手にしたマスターが言うと、芦屋さんはむっとした表情で頬杖をつく。
モップをかけながらこっそりそんな表情を盗み見てしまうのは、このところ私のもう一つの習慣だ。
この二人相手となると、芦屋さんはこういう表情も見せてくれるから。
私じゃないのが寂しいところだけど……これ以上の贅沢は望めない。
きっと、芦屋さんは先輩の事が好きなんだと思う。
憎まれ口みたいなのをきいてても、それこそ女の人相手にそもそも芦屋さんがあんまり口を開く事もないし。
それにバーテンダー志望の芦屋さんがこうして昼間もマスターの所へ来て教えを乞うのも先輩から聞いた事だ。
私はこうして遠巻きに芦屋さんの事を垣間見るだけ。
積極的に自分をアピールする事も出来ない、そんなところも先輩とは違う自分に勝手に落ち込んでしまう。
「あ、明ちゃん、食事出来たから片付けておいで」
「はい、ありがとうございます」
マスターに言われるままモップを片付けて、カウンターに再び目を戻してから、思わず足を止めてしまった。
な、なんで芦屋さんの隣に皿が置いてあるんだろう……そこに座れって事?
ああでもあんまり広くないカウンターだし、端に座るのも変かもしれないけど、でもいきなり隣はハードルが高過ぎって言うか……っ。
「早く食えば」
気だるそうに視線だけを寄越してそう言った芦屋さんの言葉に、足がギクシャクしないようにと自分を叱咤しながら恐る恐るカウンターに近づく。
いつも美味しいマスターのまかないだけど、今日は味がわからないかもしれない。
なんとか目の前の料理に集中しようとしても、隣の存在が気になって仕方ない。
「あんまり明ちゃんをビビらせるなって」
「誰が……」
笑いを堪えたマスターの声に芦屋さんは低くそう言って、私にすっかり背を向けてしまった。
……そうじゃないのに、そんな事も言えない自分が本当に嫌になる。
「虐めちゃダメだよー」
そんな先輩の明るい笑い声に、また暗い気持ちが蘇ってしまう。
私も芦屋さんにそういう冗談の一つでも言えたらいいのに。
でもきっと私じゃダメだ、芦屋さんは先輩やマスターだからそういう風に言われても怒ったりしないんだから。
前にお客さんが芦屋さんの連絡先を冗談っぽく言いながら知りたがった時なんて、これでもかと嫌そうにして一言も口を利かなかった。
嫌われるより、こうしてただの従業員の一人として空気扱いされた方がマシかなって思ってしまったりもする。
先輩に対して酷い気持ちを抱えてる時点で、諦めてなんていないくせに。
先輩が言った「彼氏はいないよ」って言葉に縋り付いて、自分じゃ何もしないのにいい事だけ期待して、現実に打ちのめされて……馬鹿みたい。
「めーいちゃん」
ふと近くから聞こえた声に思わず俯いていた顔を上げると、いつの間にか芦屋さんの席に座って私を眺めていたらしい先輩と目が合った。
見渡せばいつの間にか芦屋さんとマスターの姿はなくなっている。
「溜息の連発だねえ」
「す、すみません。疲れている訳じゃないんですけど……」
「いやいや、お姉さんには全てもりっとずりっとお見通しだ!」
「は、はあ……ええ!?」
「OH、ナーイスリアクショーン。つかバレてないとか思ってる辺りがかわゆすのう」
にこにことしている先輩の言葉を噛み砕き、理解すると同時に全身が熱くなって思わずカウンターに顔を突っ伏した。
バレバレ!?う、嘘だもん!さっきだってマスターは芦屋さんに私の事ビビらせるなって言ってたし、私の気持ちがバレてるならそんな事言わないでしょ!?
もう隠す事も出来ずに動揺で震えてしまうと、先輩の手が宥めるように背中を擦ってくれる。
優しい手だな……先輩は本当に優しい人だと思う。
先輩だって芦屋さんの事は悪く思ってないはずで、だからこそ私みたいなのがうろうろしてたら嫌になっちゃうかもなのに。
いつも先輩も私の事を気遣ってくれる。
そんな人に対して私は素直に尊敬も出来てない……。
「え、わ、ちょ、おま!泣くなよう……ああいいや、好きなだけお泣き。さあこのEカップの胸で好きなだけお泣きよ」
ぎゅっと抱き締められて、演技がかったその言葉に少し笑いが零れてしまう。
うん、そうだ、でも芦屋さんが先輩を好きになる気持ちはよくわかる。
常連さん達だって、先輩がお店に出ていないとちょっとがっかりした顔をしてしまうくらいだもんね。
こんな私だけど、やっぱり先輩がいなかったら、ちょっと不安になってしまうくらい。
「すみません……」
「いいんだって。恋をすると誰しも情緒不安定になるもんだよ。私だって鬼の霍乱とか呼ばれたもんさ」
ちょ、ちょっと想像がつかないかも。
「先輩は今、恋してるんですか?」
「してますよ、してますとも。年中無休24時間絶賛フル営業中ですよ!」
やっぱり先輩は凄いなあ。
言葉にすれば同じ恋をしているって事なのに、先輩は私と違ってキラキラしてる。
「悩みがあるならいつでも言ってよ。解決は出来ないけど愚痴ぐらい聞けるし、多少はその道でも先輩ですから」
「あ、ありがとうございます」
きっと先輩には相談出来ないだろうけど、そんな風に言ってくれたのが嬉しくて、私はまた少し泣いてしまった。
めそめそするのは小学生で治ったと思ったのに、進歩がないなあ。
すんと鼻を鳴らして流れた涙を拭こうとした時、当然頭が締め付けられるように痛んでぐいっと首が後ろに回された。
「ぃっ」
「何泣いてんだよ」
「芦屋、女子に乱暴しない!」
その言葉と共に先輩の手が飛んで来て、私の頭を掴んでいたらしい芦屋さんの手が払われる。
「お前も何新人泣かしてんの」
「私が泣かせた事になんのか!?そりゃ過去に女泣かせと呼ばれた事もあるけどね!?」
「お前相手じゃ男も泣くだろ」
「おうおうおう!上等だ、喧嘩なら買ってやる表出ろやクソガキャ」
頭の上で飛び交うそんなやりとりを、私はぼんやりと聞いていた。
芦屋さんの言葉が頭の中でぐるぐる回っている。
新人……そりゃあバイトしてまだ二ヶ月なんだから、先輩達に比べたら全くの新人だ。
でも、なんだか、私の二ヶ月を芦屋さんに否定されてしまった気がした。
そしてまた落ち込みそうになる思考をぐっと堪えて、膝の上の手を握り締める。
こんな事だからダメなんだ。
そんな言葉で落ち込む自体、私は新人から抜け出せていないんだ。
仕事だけでも芦屋さんに認めて貰えるようにならなきゃ。
決意の勢いが余って思わず立ち上がってしまった瞬間、閉めたはずのドアベルが音を立てて、私達は一斉に振り返った。
「あれ、どしたの、こんな時間に」
先輩はさっきまでの好戦的な空気をあっという間に消してのんびりそう言いながら歩み寄って行くけど、ドアの前で立ち止まっているその人に私は咄嗟に背筋を伸ばす。
先輩のお兄さんて特に佇まいがきちんとしているって言うか、ちょっと厳しそうにも見えるから思わずそうなってしまうのかも。
やっぱり二人が並ぶと兄妹には全然見えないなあ、二人とも凄くモテるんだろうなって事には変わりないけど。
「買い物ついでにちょっと寄った」
そう言いながらお兄さんはちらりと視線をずらして芦屋さんの方を見る……と言うかちょっと睨んでる。
もしかして先輩に男の人が無闇に近づかないようにしてるのかもしれない。
確かに先輩はお客さんからよく声を掛けられてるみたいだし、これだけ可愛い妹がいたらお兄さんも心配になるよね。
私に兄弟がいてもそんな心配なんかされないだろうし。
「これ、差し入れ」
「いぎゃー!三日月亭の最中ー!さっすがわかってる愛してる愛されてるー!!」
先輩は万歳してぴょんとお兄さんの首に抱き付く。
私よりずっと背の高い先輩を物ともせず、長身のお兄さんは軽々と片手で抱き締めた。
うわあ、やっぱり凄く仲がいい……けど。
ちらりと視線を流すと、芦屋さんはその光景を拒否するように背を向けてカウンターに向かってなにやら本を広げている。
お兄さん相手でも流石に妬いちゃうよねこれは。
私だって先輩みたいな人にやきもちやいちゃうくらいだもん。
「あ、あのっ」
そう思うと居ても立ってもいられなくなって、思わず声を掛けてしまっていた。
芦屋さんはそんな私に怪訝そうな目を向けて来る。
「あの、……何読んでるんですか?」
「マスターから借りた本」
何とかあの二人から芦屋さんの意識を反らせないかと思ったけど、取り付く島もなさそうな言葉が返ってきた。
けれどすぐに開いた本を横にずらして中身を見せてくれる。
そこには色取り取りの綺麗な写真で溢れていた。
「うわあ、凄く綺麗ですね!あ、これカクテルなんですか?」
「ん、そう」
「見てるだけでも楽しいですね。芦屋さんが目指してるのはこんな素敵な物を作るお仕事なんですね」
テレビとかでは少し見た事があるけど、グラスの中で色が分かれているものなんて初めて見る。
どうやったら色が混ざらないように作れるんだろう。
グラスの形も色んなのがあって面白い。
「興味あんの?」
「え、あ、すみません、取り返しちゃって。こんなに色んな種類を見たのは初めてです」
「ああ、まだ未成年だっけ?」
「……えっと、一応去年成人しました……」
年齢を知られてないくらい当たり前なのに、なんでこんなに芦屋さんの言葉ってぐさぐさ胸に来るんだろ。
おまけに未成年に見られるほど子供っぽいって事だよね。
今まで手抜きしてたけど、これを機にお化粧とか覚えようかな。
うん、少しくらい見た目も変われば気持ちも変わるかもしれない。
少しずつでも何か変えていかなきゃ。
芦屋さんだって先輩やマスターにだって沢山フォローをして貰ったんだから、これから仕事で恩返しをしていこう。
「そ、だっけ?」
「え?」
私が考え込んでいると、僅かに困惑したような声が降ってきた。
え、あれ、でもそもそも私、年齢の事なんて芦屋さんに言った事なかったような?
もしかして芦屋さんも聞いたつもりになってただけ?
なんでそんなに意外そうにするんだろう。
自分で言うのもあれだけど、やっぱり私が幼く見えるには違いないのに。
「ここに最中置いておくから二人もお食べー」
先輩がカウンターの脇に箱を置いて奥へ入って行こうとすると、突然立ち上がった芦屋さんがそれを押し退けて行ってしまった。
私何かまずい事言ったかな?それで怒って行っちゃったとか?
どうしようかと思っていると、先輩が歩み寄って箱を差し出してくれる。
そういえばいつの間にかお兄さんは帰っちゃってたんだ、まだお礼も言ってなかったのに。
「ありがとうございます。あの、折角差し入れを頂いたのにお礼も言ってなくてすみません」
「ああ、いいのいいの。私の事見に来ただけだから。こっちはホントについで」
わあ、そう言い切っちゃうところが凄い。
も、もしかして先輩のお兄さんって相当シスコン?
考えてみると、お兄さんがお店に来るのって先輩がピンチヒッターで突然呼ばれたりとか、休日出勤で帰りが遅くなったりする時とかだよね。
「仲がいいんですね。羨ましいなあ」
ちょっと流石に過保護とも思うけど、一人っ子にしてみたらそうやって兄弟の仲がいいっていうのは憧れる。
「自分でもわかっちゃいるんだけど、他人に言われると照れるわ。だからもっと言えー!」
「あははっ」
「んで、さっき進展はあったのかい?」
突然にやりとして言われて、自分でもわかるくらい微妙な顔になってしまう。
「私、何かまずい事言っちゃったかもです。芦屋さん、怒って行っちゃいましたし」
「ええ?あー、怒ってないよ。そういう気配じゃなかった」
け、気配って……。
でもなんだろう、先輩が言うと妙な説得力が。
「だから進展したんじゃないかと思ってたのになあ」
「あ、あの、そうだ!先輩、私にお化粧教えて貰えませんか?」
「はい?なんでまた化粧……あーあー、なるほどねー、ハイハイ」
「そそ、そういうんじゃないんです!だ、だからっ、私成人しているのにいつまでも子供っぽいのはどうかなと思ってですね!」
「あーあー、ハイハイ」
「そうじゃないんですってばー!」
一頻りにやにやした先輩はちょっと待ってなさいと言い置いて奥へ行くと、鞄を片手に戻って来た。
首を傾げている私の前にポーチを取り出し、その中身を広げてみせる。
予想とは違って、出て来たのはマスカラらしき物と口紅だけ。
「マスカラの方は使ってないからあげる。今日貰ったばっかりだよ、試作品らしいけど」
「いいんですか?あ、でも私付け方わからなくて。先輩はいつもどうやって付けてるんですか?」
「え、いつも付けてないよ。精々冠婚葬祭の時くらいかな」
へえ、いつも綺麗にしてる先輩が私と同じ感じなんてちょっと意外だな。
…………。
「それでマスカラしてないんですか!?付け睫毛じゃないですよね!?」
「植毛でもなく自前だよ。よし、ビューティーレッスンは向こうでやろう。流石にここじゃ外から丸見えーる」
神様って本当に不公平過ぎる……ある意味平等過ぎるのかも。
呆然とした私を引っ張って店内の隅の席に二人で並んで座る。
テーブルの上には先輩がテキパキと取り出した鏡とティッシュ、それから例のマスカラと口紅。
コスメ売り場でも臆してしまうから、こうして手解きを受けるのって初めてだ。
いい歳してと思わなくもないけど、これから覚えればいいんだもんね。
「お、お願いしますっ」
「んな緊張せんでも。いやまあ、恋愛は戦場に等しい。故に化粧は女の武器である。武器を制する者はすなわち戦場を制する。わかるな?」
「はい、師匠!」
なんだかすっかり先輩の勢いに呑まれ、最早目的がなんだったかも忘れて夕方の開店時間まで、まさしく格闘を続けた。
マスカラと口紅だけとは言っても、その奥の深さに私はすっかり打ちひしがれた。
マスカラはまずダマにならないようにするのが難しいし、口紅はムラにならないようにするのが一苦労だ。
私同様にすっかり熱の入ってしまった先輩は、携帯で恐ろしく色っぽいお姉さんを呼び出したかと思うと、そのお姉さんも交えてあれでもないこれでもないと格闘した。
帰り間際お姉さんが太鼓判を押してくれた結果といえば、……正直よくわからない。
鏡を見てもどうにもいつもの自分の顔とは違っていて、綺麗かどうか冷静に見る前に違和感だけを覚えてしまう。
「うん、うん、流石百戦錬磨の姉さんの手管は違うわ。二つのアイテムでこうも素材を引き立たせるとは。私もいい勉強になった」
「ありがとうございましたっ。……あの、でも、本当に変じゃないですか?」
「ああ、段々化粧してる自分の顔にも慣れるよ。要は経験値の積み重ね。てな訳で、いざ戦場へ繰り出すぞ!付いて来い猛者共!戦じゃ戦じゃー!であええええいっ」
ああ……すっかり戦ごっこになってるよ先輩……。
手を引かれるまま歩いて行くと、騒ぎを聞き付けたのか丁度芦屋さんが顔を出したところだった。
咄嗟に足を止めてしまって先輩に強く手を引かれる形になり、勢い余って芦屋さんの目の前に飛び出して行ってしまう。
心臓が止まりかけると思った瞬間、見上げた芦屋さんの表情に、今度は確実に心臓が止まったと思った。
「ぶはっ」
「ぶふっ」
そしてお互いを見たままの格好で固まっている私達を見て、それぞれの後ろから出て来た先輩とマスターが同時に噴き出す。
しかもそれだけには留まらず、お腹を抱えてその場に膝をつくなり大笑いし始めてしまった。
そんなに似合わなかった?大笑いされるほど?もしかして先輩が似合ってるって言ってくれたのは嘘だった?
頭の中で色々な考えが巡る中、目の前の赤くなった顔の芦屋さんを見ていると、じんわりと視界が滲んでいく。
もしかしたら笑いを堪えているのかもしれない。
こんな状況でも、やっぱり芦屋さんは優しいなと思ってしまった。
「すみません……っ」
勢いよく頭を下げて奥の事務室へと駆け込む。
出入り口近くにある水道の蛇口を捻って、飛び出した水を一気に顔に目掛けて叩き付けた。
見られたものは仕方ないけど、せめて自分でも納得出来るくらいの顔の状態になってから見て欲しかったな……。
そういえば子供の頃にお母さんの口紅を付けて、皆に笑われたっけ。
多分先輩達だってそれと同じで微笑ましいって意味で笑ったんだろうな。
でもあの時も酷く恥しかった。
「おい、何してんだ、止めろって!……ずぶ濡れだぞお前」
私の手を掴んで止めた芦屋さんは溜息をつきながら、ポケットから小さいハンカチを取り出して私の髪や顔を拭いてくれる。
「す、すみません」
「謝る事はないだろ別に。むしろ謝るのはあいつらの方で」
「先輩とマスターは悪くないですっ」
むしろ今はこんな子供じみた行動をしてしまった事に後悔が湧き出て来た。
先輩は本当に一生懸命一緒になって考えてくれたのに、笑われたくらいで飛び出して来てしまった私の方が悪い。
「それ、俺が笑われるのが当然って言ってんの?」
「は――……え?えっと、笑われたのって、私の方、ですよね?」
すると芦屋さんは盛大に溜息をついて、反対側のロッカーからタオルを取り出すと、それを放って私の頭に被せる。
お礼を言いながら慌ててそれで髪を拭き、水道の上にある鏡を見て顔も拭こうとして驚愕した。
あれだけ水に濡らしたのに全っ然崩れてない!
そうだ、こういうのって専用の洗顔フォームを使うんだった……。
余計に見っとも無い顔を見られなくてよかったような気がしなくもないけど。
「茶淹れるから、そこ座れ」
いつになくぎこちない動作で、芦屋さんがポットからコップにお茶を注ぐのを見つめる。
奇妙な空気に心臓だけがドキドキと鳴って、聞こえてしまわないか心配になるくらいだ。
「それで、あー……お前、彼氏とかいるの」
「ぅわっち!」
「何やってんだっ」
まさにカップを持ち上げようとしたところでそんな事を言われ、落としたカップから飛び散ったお茶が手に降りかかる。
伸びて来た手に強く腕を引かれて水道の所まで連れて行かれるとざばざばと大量の水を掛けられた。
「大丈夫ですよっ、軽く掛かっただけなので!」
「火傷を軽く見るな」
それよりも心臓の方がどうにかなりそうだ!
がっちりと手首を掴まれて引く事も出来ず、されるがままになって芦屋さんの大きな手を見下ろす。
私が最初に好きになったのは、この手だった。
沢山の食器を軽々と抱えていた大きな手、男の人の手を初めて見た訳でもないのに、目に焼きついて離れなかったっけ。
その手が初めて私の頭に触れた時、死ぬんじゃないかと思うくらいドキドキしたなあ。
今もそうなんだけど。
……ていうか、いつまでこうしてるんだろう、そろそろ本当に心臓がもたない。
「これでいい」
わざわざ救急箱から出した薬まで塗ってもらって、私は縮こまりながらお礼を言った。
芦屋さんはふと息をついて再び椅子に座ると、じっと私を見る。
いつも落ち着いている芦屋さんがどこかそうじゃなく見えて、私までそわそわとしてきた。
さっき先輩は芦屋さんが怒ってないと言っていたけど、本当にそうならもしかして具合が悪いのかも。
そう考え出したら止まらなくなった。
「芦屋さん具合悪いんじゃないですか?」
「は?や、別に」
「でもさっきも顔が赤かったし、もしかして熱があるんじゃ……」
「……ないから」
「風邪の引き始めこそ軽く見ちゃダメですよ!」
「そんな事より、さっきの質問に答えろって」
はい?と聞き返そうとしたところで、すっかり忘れていた事を思い出して喉が変な音を立てた。
「いないです……」
むしろどうやったらいるように見えるのか聞きたい。
溜息をつきながら「ああそう」と言った芦屋さんは、カップのお茶を飲むと私から視線を逸らして言う。
「男の好みとかは」
「はい?」
「あるだろ、何か。年上とか、……年下とか」
何か後半が怒っているように聞こえるんですけど。
たまにこうして怒っているのかなって時があるけど、私にはあまりよくわからない。
先輩ならわかってあげられるのかな……ああああダメダメ、こういうの止めよう。
それにしても何と答えたらいいんだろう。
もういっそ言っちゃいたい、でも言ってしまって彼がどんな顔をするか考えるのすら怖い。
気まずくなって芦屋さんが昼間に店に来られなくなったら申し訳ないし。
言い訳かな、こういうのも。
「……年上、の人がいい、です。わ、私、この通り子供っぽいしっ、その……」
「何歳くらい上までいいの」
「えっ?あ、えー……な、何歳とか、そういう拘りは特に」
流石に芦屋さんの年齢は言えないよね……でもこれ何の質問?
あ、もしかして、誰か紹介とか、されちゃうのかな。
前にも誰かを紹介してくれるって言う友達からこんな事を聞かれた事があった、結局私が断っちゃったけど。
芦屋さん自身からそんな事言われたら、どうしよう。
でも彼は私の気持ちを知らない、私だって言っていないのにそれを残酷に思うのはおかしい。
「じゃあ他には」
「私……仕事を、真面目にする人が、好き、です。何か、夢を持ってたりとか、そういう姿が、いいなあって」
いつの間にか、芦屋さんのそういう姿を垣間見れる事が、楽しみになっていた。
私にはまだ明確な将来の夢みたいなものがない所為か、憧れもあるんだと思う。
でも何より、時々見るそういう姿の芦屋さんが、とても素敵だった。
思わず自分の思考に入っていた事に気付いて顔を上げると、芦屋さんが私を見ている。
その視線だけで顔が爆発しそうになった。
「え、ええと……」
「なら、俺と付き合ってみないか」
「は、……い?」
言われた言葉があんまりにも想像外過ぎて、理解が追いつかない。
つ、付き合うって、付き合うって事!?
「真面目とは言い難いけど、まあ、夢がない訳じゃないし。俺みたいなのでもよければ、お試しで」
そんなデパ地下の試食じゃあるまいし!
「お、おた、おためしって」
「二人で出掛けたりとか、そういうの?友達の延長みたいな感じで、そういうのしてみて嫌だったら無理って言ってくれればいいし」
どこかの方向を見ながら言う芦屋さんを見ていたら、目が熱くなっていくのがわかった。
かと思うと、自分でも驚くくらいの勢いで涙が出て来る。
その気配を察したのか、目を向けた芦屋さんがビックリしていた。
でも止められない。
「出来ません、そんなの、出来ないです」
「泣くほど嫌かよ……」
「好きなのに、お試しとか出来ませんっ」
別の誰かを紹介されるより酷い。
そんな事をしたら私はきっと益々芦屋さんが好きになる。
なのにお試しして無理なんて言われたら、……そんなの酷過ぎる。
顔を両手で覆って、もう自分で引くくらいさめざめと泣いてしまった。
もう絶対こんな顔を芦屋さんに見せられないと思ったのに、ガタンと大きな音がしてつい顔を上げてしまう。
立ち上がって私の方に歩いて来る芦屋さんに驚く暇もなく、横まで来たと思った瞬間には強い力で抱き締められた。
驚き過ぎて涙も声もなくしている私の頭を彼の大きな手が撫でる。
「あーもう俺かっこわる!」
「芦屋さん格好いいじゃないですか!」
そりゃ好みに合わない人だっているだろうけど、格好よくないなんて事は絶対にない。
芦屋さんが気付いていないだけで、芦屋さんを探して昼間にきょろきょろしているお客さんだっているくらいなんだから!
「格好悪いんですよ……年下の子好きになって未成年だと思ってぐだぐだ言い訳して好きだの一言も言えないくせに昼間にわざわざその子の顔見に店に来てちょっかい掛ける男がいないか牽制してみた挙句未成年じゃないとわかってもお試しなんて言葉で逃げようとする程度には」
……それって、その、つまり?
「お前が好きだ」
「先輩が好きなんじゃなかったんですか!?」
「誰があんなメスゴリラ!」
「先輩に失礼ですよ!」
「お前はどっちの味方だ!」
「私のどこがいいんですか!自慢じゃないけどいいとこないです!」
「あんなマスターがいるのに見向きもしないで仕事頑張ってるとことか控えめに笑うとことか可愛いと思ったんだよ!気がついたら気になってそれで……あー、だから、……俺と、付き合って下さい」
「……はい」
夢見心地で、そう頷いた。
え、何これ、え、え、え、ホント?ホントに夢じゃないよね?なんか頭がふわふわし過ぎてとても現実とは思えないんですけど!
どうしよう、どうしようどうしよう、嬉しい、どうしようっ。
「じゃあ、これから、その、よろしく」
「は、はい」
「そういう訳で……我慢の限度」
何が、と聞く前に立ち上がった芦屋さんは、そっとドアに近づいて一気にそれを開いた。
するとマスターと先輩がこちらに耳を向ける妙な格好でしゃがんでいる。
きっ、聞かれてたんじゃ……。
「はは、ちょっと芦屋を応援しようと……ぶふおっ……ぶはははははは!!ヤバイ、ごめん明ちゃん、ダメだ、腹が捩れるっ」
「マスタ、笑っちゃ……うぶふっ、うあはははははは!!ひい、芦屋超かっちょわりー!ぎゃはははははは!」
……聞かれてたみたいだ。
「ぶん殴る」
そう宣言した芦屋さんが拳を上げると、二人は笑いながら店の中へ逃げて行く。
向こうから笑い声と怒鳴り声とが聞こえて来る中で、私は熱くなった顔を冷ますのに精一杯だった。
おまけ?
「まあつまりね、芦屋の行動なんてバレバレだった訳。いやあ、寝る間も惜しんで明ちゃん心配して昼間の店にも出たいなんて言い出した時にゃあ、マスターと私も腹抱えて笑……いや、涙が出るほど笑……えー、まあそんな感じで」
後日先輩のお家に邪魔して、そんな話を聞いた。
私をフォローしてくれてたのも、先輩曰く「点数稼ぎ」だったらしい。
ちょっと恥しいけど、でも嬉しい。
「あいつねえ、昔っからヘタレだから。明ちゃんも苦労が多いと思うけど、リードするくらいの気持ちでやってよ」
そして二人は昔馴染みなんだそうだ、年下の芦屋さんを先輩が面倒見てたらしい、芦屋さんは猛烈に否定してるけど。
先輩は小さい頃一度引っ越して高校の時くらいにまた戻ってきたらしい、芦屋さんは逆に先輩の引っ越し先から数年前にこっちに越して来たと言っていた。
芦屋さんの話では、この辺じゃ(ていうか住む場所どこでも?)知らない人がいないくらい有名な人みたい。
やっぱり美人て事で有名なのかなって聞いたら、物凄く苦い顔をしていた。
なんでだろ。
「でもよかったね。明ちゃんだったらもっといい人見つかりそうな気もするけど、まあ人の趣味はそれぞれだからね」
「先輩のお蔭です」
嫉妬もしたけど、本当にそう思う。
先輩っていう存在がなかったら、私の恋はただの憧れで終わっていた。
嫌な気持ちも経験して、それでも私は芦屋さんが好きなんだって気付けた。
先輩には一生頭が上がらないかも。
「そうだ、よかったら夕食も食べてってね。次のデートに向けて相談しよ」
「ありがとうございます!あ、でもお家に人に迷惑じゃないですか?」
「そんな事ないよ。今息子は小学校も春休みで泊まりに行ってるし」
…………。
「え」
「え?」
「し、小学校って、息子さんって……先輩結婚してるんですか!?」
「おい、今どっちの意味で驚いた!?」
「だ、大学生くらいだと思ってました……」
「ならよし」
ええええええっ、た、確かに先輩の年齢って私も聞いた事がなかったけど、外見だけなら私とは違う意味で高校生でも通じるよ!
あ、あれ?じゃあ、もしかして……。
「あ、いらっしゃい。矢神さんの店の子だったよな?」
「おっ、お邪魔してます!」
頭に浮かんだその人がまさに奥から出て来て、私は慌てて立ち上がってお辞儀した。
「そっ、その節は大変失礼しました!」
私ってば前に完全に勘違いして「先輩のお兄さん」って本人に呼んじゃったよ!
慌てている私に、彼が少しだけ目を細めて首を振る。
「気にしてないから。ごゆっくり。悠、何か要るか?」
「アサリよろしくー」
「ん」
頷いた彼が先輩に歩み寄って来たかと思うと、腰を屈めて……その、……キスをして行った。
「ら……ラブラブですね」
小学生の息子さんがいるって、多分新婚とは呼べない年数だろうに。
なんでか私の方が恥ずかしくなってしまった。
そ、そうか、そういえば、あの人が旦那さんだったなら、ラブラブな訳だ。
遅くなったりすると先輩の事迎えに来たし、様子に見来たりしてたし、……いや、ラブラブ通り越しちゃってない?
お兄さんならまだしも、旦那さんがあんなに過保護って珍しいかも。
「高校の時から変わってないって、誰に会っても言われるんだよね。でもラブだし?変わりようがないじゃない?」
にっこりとそう笑う先輩は、やっぱり素敵だ。
私もいつか、堂々とそんな風に言える時が来るかな。
照れ臭くて、彼氏が出来たって友達に言うのにもちょっと勇気要るけど。
でもそうだよね、何も恥しがる事ないよね。
「高校の時から付き合ってるんですか。いいなあ」
「お互い一目惚れしてから長いから、ブランクはあっても人生の殆どの付き合いになるわー」
「うわあ……益々凄いですね」
「明ちゃんも、後悔がないように頑張りな。あの時ああすりゃよかったこうすりゃよかったって、そう思うと新しい事も上手く行かなくなるよ。特に恋愛はね」
はい、と頷く。
あの時私がうっかりにでも口に出していなかったら、そうなっていたかもしれない。
私の性格だから、この先も引き摺る事になっちゃってただろうな。
そうやって後ろばかり見てて、前にあるものも気付かないで。
思いがけず手に入れた恋、大事にしよう。
手に入れようと思っても、絶対に手に入るなんて保証がないものなんだから。
「あの時来てもらったお姉さんにもお礼を言いたいんですけど、連絡先とか教えてもらえますか?」
「ああ、あの人マスターの奥さんだし。その内また店に来るんじゃないかな」
「え。………………あの二人もお似合い過ぎて想像を絶するんですけど」
「気持ちはわかるよ。並ぶだけならリアルでドラマカップルて感じだし」
まさしくそれかも。
美男美女過ぎて、先輩達もそうだけど、なんだかドラマの話を聞いてるみたいだ。
「しかしこれでやっと勝利も少しは安心するわー。いやあ、近頃芦屋抹殺五秒前って感じだったもんな」
「ええと?」
「あ、勝利ってうちの人ね。……今の自然だった?自然だったよね!?今更だけど最近人様に話す時になんて呼んだらいいもんか模索した結果一番いい感じに聞こえる呼び方にしてみたんだけどどうかね!?ほら夫じゃ硬過ぎるし旦那じゃある意味軽く聞こえるしさあ!うちの人って何かいい感じじゃない!?」
勢いに呑まれながら頷くと、先輩は「だよね!」と嬉しそうににこにこする。
ホンットーにラブラブなんだなあ…………なんだか芦屋さんに会いたくなって来た。
「あ、今芦屋の事考えたね?会いたくなっちゃったね?」
「なんでわかるんですか!」
「人の聞いてると会いたくなるよね。行っておいでよ、うちにはいつ来てくれてもいいからさ。明ちゃんが行ったらむせび泣いて喜ぶぞあいつ」
それはどうかなと思いつつも、私は自分の心に従う事にした。
お礼を言って先輩の家を出ると、つい早足になってしまうのがわかる。
そろそろ彼も家に帰っている頃だ、突然行ったらどんな顔をするだろう。
今までだったら、迷惑かなと考えて足が止まってしまったと思う。
でも今は会いたい、足が止まらない。
それに、芦屋さんが絶対に笑顔で迎えてくれるって、信じてる。
余談だけど、その後芦屋さんに先輩の家のラブラブぶりを話したら、彼はとっくにわかっていたみたいだった。
「店に来る度刺し殺しそうな目で睨まれりゃわかりたくなくても気付くだろ。大体、笹原の奴、前に仕事帰りの時に痴漢だかに遭って投げ飛ばしたんだと。痴漢の方が警察駆け込んで助け求める始末だよ。そんな女わざわざ迎えに来てるんだから、そりゃよっぽどなんだろうなと思うって」
――だ、そうだ。
先輩って有名な格闘家の娘さんの上、旦那さんも剣道場をやってて、なんでも凄く強いらしい。
今度護身術みたいなのでも教わろうかなと思っている。
そう芦屋さんに言ったら凄い勢いで却下された。