番外編3 笹原勝利の秘密
※本編後。勝利視点。「嫉妬」「風邪」リク。
シャワーと着替えを終えてから渡り廊下に出る、そして奥の柱に凭れている悠を見つけた。
再会して二年目、背中の半分まで伸びた髪が風に揺れてる。
すでに見慣れたはずなのに、たまにどこか酷く別人のように見えるのは何故だろう。
「勝利ー、お疲れさーんっ」
俺を見つけて笑顔で大きく手を振る悠に歩み寄りそのまま廊下を並んで渡り切ろうとしたところで、お互い動きを止め振り返った。
俺は持っていた竹刀を、悠は筒状になった何かの紙を、後ろの男に突き付ける。
がばっと両手を上げた男にどちらからともなく溜息が落ちた。
このところ毎日これだ。
「いい加減にして下さいよ」
「いいや、俺は絶対に諦めない!笹原勝利、君には絶対に生徒会に入って貰う!」
意気込みが空回りしてるのは格好からも明らかだ。
「君が入れば漏れなく相庭悠が付いてくるからな!」
……俺はバーターか。
「それならこいつに直接交渉すればいいでしょう」
「私、勝利がいない生徒会には魅力を感じないから」
「こういう訳だ!」
どういう訳だ!
「頼むよ、中学剣道覇者の君ならもっと剣道部を盛り上げたいと思うだろう?我が校ときたらそりゃあ進学率は高いかもしれないが、なんというか部活動のやる気に欠けると思うんだよ。先生方はちっともわかってない!そこで教師対策として相庭悠を我が生徒会に――っていないし!」
長々とした演説は講堂ででもやるべきだな。
生徒会の現副会長からさっさと逃げ出した俺達は下駄箱に向かってまたゆっくり歩き出す。
そろそろ暖かくなってきて、悠はシャツの上にセーター一枚という格好だ。
「そういえばうちの学校って基本部活に力入れてないよねえ。まあ、だから入ったんだけど」
「俺もそうだからここ選んだんだっつーの」
確かに高校受験の時には散々言われた、なんで設備も充実した剣道部がある高校に入らないんだって。
ここは殆ど同好会のノリの部活ばかりで、いっそ女子の方が部活としては盛り上がってる。
しかし何せ面倒臭くなった。
剣道はそりゃ好きだが、大会だの何だのが正直鬱陶しい。
主にそれにおいてのやたら熱血した対戦相手だとか応援という大義名分引っさげた女子とか。
お蔭でここに入ってからの方が練習には身が入っていた。
爺さんもそれがわかっていたのか、受験の時にはそういえば何も言わなかったっけな。
「お前もそもそも入る気なかったのか?」
「入ってみようかなと思った事もあったけど、体力テストの騒動考えると先々面倒だし」
なるほど、こいつも大体俺と同じという訳だ。
確かにこいつが打ち込めば俺以上に周囲が騒ぐのは目に見えてる。
ヘタすりゃ学生大会通り越して世界大会になっちまうしな。
そりゃあなんだか面倒そうだ、俺も。
「ぶえくしょい!」
「なんつークシャミだ」
校舎を出てすぐ体を折ってクシャミをした悠がずるずると鼻をすする。
「花粉症か?」
「えー、そんな高尚なもんじゃなかったはずなんだけど。風邪かなー」
花粉症が高尚なもんだったとは初耳だ。
いっそある意味こいつにとっては風邪の方が高尚なもんなような気がするが。
ブレザーを脱いで手渡してやれば、キャアキャアはしゃぎながらそれを羽織った。
かなり余っている袖をぶらぶらさせながら歩いているのを見ると、何かのキャラクターに似ている。
何だっけな。
「しっかししつこいねえ、滋田先輩も」
「任期も間もないし、選挙制じゃないのが仇になってるな」
別に先輩の言う事を否定する訳じゃないが、人を巻き込むなと言いたい。
今の体制で満足してる奴らは多いし、大体不満があれば最初からうちの高校は選ばないだろう。
半数以上の奴は部活より塾や校外の活動に力を入れてるからな。
「ぶえくしょい!よい!」
「なんつークシャミだ」
「えらいすんません。あ、今日道場行く?」
俺が首を振るとお菓子作ったから家においでと誘われる。
「悠、手ぇ上げろ」
そう言うと鞄を掛けた反対側の手を真上に上げ、余った袖がずるりと肘辺りまで落ちた。
そして出て来たその手を握る。
視線をやらなくても隣から物凄い勢いの花が飛んで来るのがわかった。
付き合って数ヶ月にもなるっていうのにまだまだこんな事が嬉しいらしい。
そういえば初めて指を絡める握り方した時は凄かったな。
恐らく落ち着く事はないだろう、何せそれがこいつの性格だから。
「親父さん帰ってんのか?」
「一昨日からね。まあ毎日どこかしら出歩いてるけど」
一度悠に家に一人で寂しくないかと聞いた事がある。
うちの家族が多いのがやたら羨ましそうだったから。
そうして「慣れた」と一言が返ってきた。
慣れるまではどうしていたのかと、何故か聞けないままでいる。
あの家に一人でいる事が想像つかないからか、それとも想像したくないからか。
家を通り過ぎ悠の家まで行けば、聞かずともさっきの答えはわかった。
本当に相変わらずだな、悠の親父さん。
「うるせええええええええっご近所迷惑だっつってんだろうが!終いにゃしばくぞワレ!」
「あばばっばばっばっばっばばっばっばっあばっばばっあばしり!――」
中に入っていきなりの悪魔首折り弾……そして完全沈黙。
「んもう、言いながらしばくなんて反則って言ったじゃない!」
しかも復活早ぇな。
「お、笹原のジジイの孫、おっす!」
「こんにちは」
むくりと床から起き上がり首をポキポキ鳴らしながら親父さんは片手を上げる。
悠が俺を振り返り、恐らく二階に上がれと言いかけた瞬間、声はバタバタという足音に遮られた。
「おおー?悠ーっ、ひっさしぶりやなー!」
そんな声と共に抱き付いて来た長身の男に対し、上げられた悠の手は殴るのかと思いきや男の背中に回った。
「正しくないけど正兄ちゃんかー、久しぶりー!」
「やー、デカなったなあ、お前!特に胸が!はははは!」
「テメエもしばかれたいのか!はははは!」
……なんだこのカオスな世界は。
とりあえず抱き上げられた格好の悠を男の手から取り上げると、俺よりまた少し上にある目がこちらを向いた。
やたらと体格のいいごつい男は、それに正反対な人懐こい笑みを浮かべる。
「悠の友達か?」
「彼氏と言う名の恋人なのだよ、兄ちゃん」
「……は?」
俺と悠を見比べぱちぱちと音がしそうな勢いで大きく瞬きを繰り返した彼は、暫しの沈黙の後大きく口を開いた。
「なんやてええええええええええええ!アカン、アッカアアアアアアアアアアアアアアアアアン!お前まだ16やろうが!オトコなんぞ最近のファミレスの冷やし中華始める時期より早いわ!」
「違ぇよ、この間17になったよ、また一歩大人の階段上ったよ」
そこじゃねえだろ。
「天地さんもぼんやり見とらんと何かびしっと言うたってや!」
「悠、ジジイの孫」
「なんだよ」
「なんですか」
「避妊はちゃんとしろよ!」
「天地さあああああああああんそうとちゃううううううう!!」
「いやお前だって高校ん時子作り騒動みたいなのあってドエライ目に遭っただろうが」
「せやねん。……いや、今その話ええやろこの際!」
ギャアギャアと騒動が続く中、悠に背を押されながら二階へと上がる。
どっしりとベッドに腰を下ろした悠は大きく溜息をついた。
「うるさくてごめんねえ。あの人親父様の友達の息子で昔からの知り合いなんだけど、なんつーかあの調子で」
「類は友を呼んでる訳だな」
「類に私が入ってなけりゃいいが」
そんな訳がない。
「ひ……っくしょ!」
「酷いな、本当に風邪じゃないのか?」
ティッシュ箱を手渡すと、悠は二三枚紙を引き抜いて鼻をかむ。
高校で出会って以来風邪なんぞひいた気配すら見せなかっただけに、俺ですら疑問だが。
風邪という単語になんとなくその体を引き寄せて膝の上に置き腕の中に収める。
ごろごろと喉を鳴らす猫みたいにべったりとくっ付いてきた悠をそのまま抱き締めた。
「ぬくいー」
「春だってのに最近また寒いしな」
ベッドの座ったまま向かい合った形で抱き合い、自然と何度か唇を重ねる。
唇を離したとたんふっと俺のそれに掛かった吐息が熱いような気がした。
「ゆ――」
「なにさらしとんねんこのこわっぱあああああああああ!!」
バンッとドアを蹴破るように突然上がり込んで来た例の男が俺の背中に足を振り上げてくるのに、立ち上がろうとした悠を片腕で逆に引き寄せて、向かってくる足をもう片方の腕で受け止める。
びんと骨まで衝撃で震えたのがわかった。
流石、類友。
正直吹っ飛ばされないようにするのが精一杯だ。
「俺の蹴り受けたんは褒めたるわ。せやけどなあ、そんなんでこいつのオトコ気取れる思うたんなら大間違いやで!」
「気取るも間違いも、実際そうなんで」
「正兄ちゃん、マジ空気読めって」
「あー!俺の悠が変わってもうた!こないな男に誑かされて変わってもうた!」
今度は顔を両手で覆ってわっと泣き出した……なんなんだこの人。
ちらりと悠に視線を向ければ、どでかい溜息を吐き出して彼の頭を撫でる。
「兄ちゃん、お菓子食べない?昨日私が作ったやつ」
「ホンマか!食う!」
とたんぱっと笑顔になった男は悠に抱き付くなり頬擦りをしだした。
「勝利ごめん、この人暴れると面倒だから……」
「面倒てなんやねんなー。んな事よりはよ行こ行こ」
鼻歌まで歌い出しそうな勢いで彼は悠の手を引いて部屋を出て行く。
ドアから消える間際、しっかりと俺を見て鼻で笑いながら。
……これってアレだよな、つまり、牽制されてる訳だよな?
「これってアレだよね、つまり、喧嘩を止めて私の為に争わないでえええぇん的な?」
次いで階下に行って、リビングでテーブルを囲みつつ、悠の親父さんが言う。
その斜め向かいのソファでは男をべったりと張り付かせた悠が溜息の連続だ。
ぴりぴりとした空気の中、菓子を食べる音と茶を啜る音だけが響く。
何故か悠の親父さんが一番そわそわしてる気がするが。
「いい加減離れてもらっていいですかね」
自然と自分の米神が引き攣るのを感じながら言った。
「ええ訳あるかい。お前みたいな小僧と不純異性交遊なんぞ俺が許さん!」
「何の権利があって」
「俺は悠がこーんなちっこい頃から知ってんねんぞ」
「そいつの小さい時なら俺も知ってますけど」
「知っとるだけのお前と一緒にすんなや」
「むしろ今は俺の方が知ってると思うんですけどね」
恐らく人好きのする顔であろう彼の顔があからさまに冷たく色を変えた。
昔の知り合いだか近所の兄ちゃんだか知らないが、だからなんだって言う。
ああ、なんだこれ……そうだ、イライラする。
当たり前みたいに俺のもんに触ってるこいつに、逃げようともせず他の男の腕の中に収まってる悠に。
自分の体の内側が何かぶつぶつと千切れるような音を立てたのを感じた。
前にもあったような感覚に思うが、それでもここまで酷くなかったはずだ。
エセ外人の時だって、ここまで苛立った事はなかったってのに。
じゃあなんだと考えて思い当たった。
悠の親父さんの友人だとかっていう男が悠に触れているのを見た、あの時に似ている。
でも多分それも比べものにならない。
今俺はもうこいつの腕に収まっているその体の感触さえ知ってるからだろうか。
ああ……あー、ムカツク!
「生意気なガキにちぃっとばっかし物の道理っちゅうもん教えたらなあかんみたいやなあ?」
「ガキの事に口挟んでくるのがどれだけ見っとも無いか、言ってもわかんねえみたいだなオッサン」
ガチンと視線がぶつかり合ったのを感じた。
頭のどこかでうっすらと、あの時聞こえたのは俺の理性の切れる音だったのかもしれないと思う。
ふつふつと血が沸騰したように全身が熱くなって、目の前の男を叩き潰せと本能がそう命じた。
袖を捲って立ち上がる彼に、俺もゆっくり立ち上がる。
「わー!止めっ止めっ!止めろ親父!」
「いいぞーやれやれー!ぶぎゃんっ……悠たん殴らないでっ、顔は女優の命よ!」
「黙れダイコン!駄目だって勝利!」
叫びながら俺の腕にしがみ付いた悠に、今度は頭のどこかがかちんと鳴った。
そして考えるよりも先にその体を抱き上げ、ダッシュで相場家を後にする。
怒鳴り散らす関西弁がしつこく聞こえてきたが、俺の家に近づいて行く度にそれも耳に届かなくなった。
「あれえ、勝利兄ちゃん帰って――って、何悠さん担いでんだよ!とうとう人攫いか!?」
「ケン、二時間出て行け」
「サー、イエッサー!」
家に入ると棒アイスを銜えたままで出て来た弟はびしっと敬礼するなりサンダルを足に突っかけて脱兎の如く姿を消す。
流石に荒くなった呼吸を整えながら、部屋のドアを足で開け、最近よく軋むベッドに担いでいた体を放り投げた。
「ぐわっ」
イカレたスプリングでは大して弾まなかった体に覆い被されば、ちらちらと揺れる目が俺を見上げてくる。
「しょ、勝利さん、違うんですよ、これにはてーへん深い訳がござんして」
「無理、今聞く耳ない」
「聞か猿とな!それは親が子供の健やかな成長を願うぶえっくっしょいよい!あー、よいよい!」
「なんちゅークシャミ……おい、悠?」
俺の上を彷徨っていたその目が大きく揺れだしたか思うと、まさにぐるぐると回った。
そして瞼を閉じぐったりと大の字になったその姿にぎょっとする。
頭に上っていた血は一気に地の底まで引き下がった。
「悠!?」
「ぅぎょー……」
「うわ、熱っ」
気付けば真っ赤な顔をしている悠の額に手を当てれば、思わず声を上げてしまうほど熱かった。
咄嗟にポケットを探り携帯電話を探すも、中には財布しかなかった事に舌打ちする。
玄関脇にある家電の元へ走り出そうとした瞬間ぐっと体が引かれて、悠の手が俺のシャツの端を握っているのが見えた。
「おい、聞こえるか?今救急車呼ぶから、手ぇ放せ」
「だが、断、る。……すぐ、治る、まかせろ……」
「任せられるかバカ!」
しかしこの熱だというのにどうにもこうにも放そうとしない。
終いにゃ病院行くなら暴れるとまで脅しかけてくる始末だ、こいつは本当に風邪なのか。
頭に更なる細菌でも入った可能性を考えたが、とりあえずそうしている時間も惜しい。
駄々をこねる彼女を抱き上げて、台所で水だの氷だのタオルだの用意して、戻った部屋のベッドにまた押し付けた。
適当に俺の服に着替えさせタオルを額に置いてやる頃には、真っ赤だった顔が頬に赤みが差す程度になっていると気付く。
俺はシャツを握られたまま、どっとベッドに凭れ座り込んだ。
まるで全身の細胞が揺さ振られたみたいなざわめきが、今も色濃く自分の体に残っているのを感じる。
ぞっとした、なんてもんじゃない。
世界をシャットアウトするように、力なく一気に閉じられた目を見た瞬間、言葉には出来ない恐怖を感じた。
「ごめん……酷くなったの気付かなかった」
風邪じゃないかと気が付いていたくせに、下らない喧嘩に乗じてそれを見過ごした事に苛立つ。
布団に手を突っ込んで引き出した熱い手を握りこむと、シャツを掴んでいた手が放されゆるゆると細い指が握り返してきた。
眠っているのだとわかっていても、まるでそうしていてさえ俺を安心させているようだった。
もう片方の手をそっと赤さが滲む頬に当てればじわりと熱が指先から流れ込んできて、思った以上に緊張で指先が冷えていたのだと気が付いた。
何をやっているんだと、自身に失笑する。
彼女の指をゆっくりと外して立ち上がり、もう一度台所に戻ってあちこちの棚を物色した。
台所の事を覚えるより道場に立て、の爺さんだったから未だに何がどこにあるのかさっぱりだ。
今ではいっそ悠の方がこの台所には詳しいだろう。
棚を開けては漁り、また違う棚を開けては漁り、繰り返してやっと見つけたのはレトルト粥と果物の缶詰一つ。
そういえば俺が前に体調を崩した時には、あいつが一から出汁までとった中華粥を作ってくれたっけなと思い出し、鍋に水を入れながらイライラと指がシンクを叩いた。
俺って真面目に役立たずだ。
鍋で煮た粥と缶詰から出した果物を器に移して、それに水と薬を添えトレイに乗せる。
床に散らばったあれこれを足で掻き分けながら時計を見上げれば、探し始めてからすでに一時間も経っていた。
額に手をやりたくなるのを堪えてトレイを手に部屋に戻ると、ベッドに寝たままで悠がうっすらと目を開けているのが見えた。
「起きれるか?頭痛とか吐き気あるか?」
「んーん、ない。大丈夫。熱は一気に来るからちょっと疲れた」
一気に来過ぎだ、そして一気に引き過ぎだ、そりゃ疲れもするだろう。
しかしすっかり赤みが引いたような顔にはほっとする。
上半身を枕に凭れさせ起き上がった悠の足の上に持っていたトレイを置いてやると、ぱっと輝いた目が俺に突き刺さるようなビームを放ってきた。
「作ってくれたの!?」
「ただ出してあっためただけだ」
「レトルト一つあっためた事ないような子が私の為に……っ」
確かに事実だが、なんかむかつく。
「早く食え、んで薬飲め」
「はぁい。いやあ、ビックリさせてごめんね」
そりゃ驚いた事は驚いたがと言い募ろうとしたら、するりと手が撫でられて、視線をやれば俺がいつの間にか悠の右手を掴んでいた事に気が付いた。
「あ……悪い」
「いいよ、左手でも食べられるから」
にやにやと笑いながら俺の手を握るその手を少し強く握ってやる。
そして痛いよと声を立てて笑うその顔を見て、力が抜けそうなほど安堵した。
後から後から、呼吸すら忘れるほど焦っていたのだと気付かされる。
は、と細く息を吐き出し吸い込んで、やっと酸素が体に行き渡ったのがわかった。
「梅干でもあればよかったけど、もうどこに何があるのかさっぱりで」
「いい、いい。ありがとう、嬉しい」
スプーンを銜えたままでにこりと笑う。
「さっき、ごめん。気付かなくて。それから、……」
「いいって。あ、あのね、さっき勝利の事止めたの、兄ちゃんが強いからじゃないよ」
見透かされてたか、と思った。
あの時俺の方を止めたのは、俺があの男より、弱い所為かと思っていた。
それに苛立って気付かなきゃならない事もすっ飛ばしてたなんて、ガキだって言われても仕方ない。
「まあ強い事は強いんだけど、そうじゃなくて――」
また手を持ち上げてスプーンを噛もうとした手を止めて、その唇に付いていた粥に舌を伸ばす。
ぺろりと舐め取って深く唇を重ねれば、こくりと悠の喉が鳴った。
「いいんだ、あれは俺が悪かった。結果的に止められてなかったらまずかった」
そうしたらもっと気付くのが遅くなっただろう。
何も出来ない俺の横で、あいつが倒れた悠を救い出していたかと思うと、肌のすぐ内側がざわざわとする。
手を伸ばして抱き締めると、トレイを脇に置いて悠が俺の首にしがみ付いてきた。
「私、勝利が好きだよ。一番じゃなくて、勝利が、好き」
「――俺も、俺も好きだ。お前だけ」
なんで女は強いって言われるのかって、こういう時わかる。
勝手に歩く男を、そうやって心でも抱き止めてくれるから。
ふふと笑った悠の吐息が首筋をくすぐった。
うっかり背中を抱き締めていた手が他所へ伸びそうになるのを堪える。
「はあ、まあ喧嘩にならなくてよかった。兄ちゃんぶち切れるとアレな事になるから」
「あの人、そんな強いのか?」
「いやあ、そうじゃなくてね、……人のアルバム持ち出してきて自慢大会が始まるから」
「なんだそれ」
渋々といった感じの悠曰く、一人っ子の彼は昔から妹が欲しかったらしく事ある毎に悠を構い倒していたらしい(妹属性と言うらしいが……なんだそりゃ)。
彼が高校生になり突然父親と同じ医者になると言い出してからは、それに過保護が重なったようだ。
悠が何か無茶をしたり寄り付く男が現れては、「昔の悠はああだったこうだった」とアルバムを開きながら一人大会を開催するそうだ、しかも素面で。
「あれはまさにこの世の生き地獄、いやむしろ逝く」
「俺も見たいな、写真」
「やー、あんま変わりないよ?」
そうかなと、ぼんやり初めて会った時の悠を思い出す。
顔はあまり憶えていないが、えらく小さかったのははっきり憶えていた。
何せチビの俺よりチビだったんだ、よくこんなに育ったもんだと思う。
「あ、胸と背はこんなに大きくなりました!」
なんというどや顔。
でも確かに、今年は市民プールにも人の多い海にも行けそうにない。
「確かめてみます?」
「……また今度な」
「チッ、ケチケチしやがって、出し惜しみかよ」
お前はどこのストリップを見に来たチンピラだ。
「そろそろトミさんが帰ってくる」
「じゃあ、こっち」
ん、と目を瞑って顎を上げられた。
その肩を引き寄せてキスを落とそうとした瞬間、いつの間にかとっくに帰って来てたらしいトミさんの悲鳴が家中に響き渡った。
……台所散らかしたままだったの忘れてた。
「こっちのはキウイジャム挟んでてね」
「あー感じ悪ぅー」
「それでこっちのはクリームチーズでね」
「あーやってられんわー」
「そんでこっちがフルーツ入りのパウンドケーキ」
「あだだだだだだっだだっだんまつま!」
隣でにこにこと菓子の説明をする悠の斜め横で彼は足を投げ出し不貞腐れ、親父さんは横から伸ばした手を容赦なく捻り上げられていた。
日曜をいい事にそのまま悠を家に泊まらせ、翌日再び相庭家に行って手作り菓子を披露されている。
最近凝り出したと言っていた菓子は、口に入れれば丁度いい具合にふわりと融けて美味かった。
「なんでまた急に菓子なんだ、テレビの影響か?」
「そりゃ花嫁修業の一環に決まってるじゃないの、みなまで言わせんなコノヤロー!」
きゃっと言いながら可愛らしく頬を染めたかと思えば、実に可愛らしくない馬鹿力で人の背中を叩き、お茶のおかわりを持って来ると奥へ引っ込んでしまった悠を見送る。
するとすぐさま突き刺し射殺すような視線とにやにやとした不愉快極まりない視線が飛んで来た。
「調子乗ってんなや。悠の体調に気付いたんは褒めたるけどなあ、そんなもん彼氏や名乗るんなら当たり前ん事やで」
「そうっすね」
むしろもっと早く気付くべきだったのには、未だ後悔が残る。
「かー、かわいない!悠もこいつのどっこがええ言うねんな。なんや無愛想やしまだ全然ひょろいし」
「全部いいらしいですよ」
付き合い始めてから、結構自分でも自覚あるなしの欠点は悠にも言われてきた。
でもそれを嫌いになれないと言う、そんなもので消えるほど安い好きじゃないと言う。
自分で口にしてみると、かなり恥しい言葉だな。
「天地さん、こんなんでええんか!こんなんが悠攫って行くかもしれんでええんか!」
「別にあいつが選んだんだし、何でもいいけどな」
それはそれで大いにテキトーだ、まあ助かるけど。
実際この男みたいなのが悠の父親だったらと思うと目も当てられない、駆け落ちなんて言葉が頭を過ぎる。
そしてフツーに俺の先の人生に悠が並んでるんだなと、我ながら可笑しく思った。
「天地さんはそれがあかん言うねん。あないに可愛い娘おって、信じられへん、考えられへんわっ。要らんならくれ、むしろ寄越せ、こうなったら籍移して俺の正式な妹にする」
「やーなこった。君達はホラ、血の繋がりもクソもない、精々法律上でしか縁のないスカーレッドな他人だろうけど、俺と悠たんは遺伝子上の繋がりがあるのよ、わかる?切っても切れない、でーえぬえーなの、わかるぅ?」
「オッサン、感じ悪いで」
流石に同意見だ。
「大体俺なんかお前らが知らない写真も山ほど持っ――……イヤン悠たん、家庭内でも銃刀法イ・ハ・ン」
やたらと鈍い色を放つ出刃包丁を親父さんに突き付けた悠は、持っていたトレイを片手でテーブルに置いた。
「よくはわからんが今そうするべきな気配を感じた」
「んもう、お前は本当に母親そっくりだな。お前のママもよくそんな事言ったよ」
嫁に包丁をよく突き付けられる夫ってなんだよ。
「正兄ちゃんも、アレ出したらコレだからな?」
「ハーイ、わかってまーす」
今度はやって来た宅配便に、判を持って部屋を出て行く悠を見送る。
「よかったら、持ってる写真見せて欲しいんですけど」
「ええ訳あるかい。これは俺の宝物なんやで」
「ああ、大した写真持ってないと」
「んな事あるか!お前、これ大した事ない言えるもんなら言うてみい!」
あっさり彼がどこからか出しテーブルに叩き付けたアルバムを覗き込めば、脳裏でぼんやりしていた悠の小さな時の顔がはっきりと形を作っていく。
恐らく奇跡の一枚と言ってもいいのだろう、大事そうに大きく引き伸ばされた一枚の写真は他のように傷だらけでもなく、綺麗に着飾った小さな悠が笑ってカメラへと手を振っていた。
「あーっ、なんだこれ!俺これ知らんぞ!?」
「あんたがカナダだか行ってた時に写真屋行って撮ったんや。どや、可愛えやろー、始めは恥しがって撮られへんかったけど、実はあいつこういうのむっちゃ好きやねん」
懇々と自慢しながら別のアルバムを取り出し、その写真屋で撮ったんだろうかなりの枚数の写真を見せびらかされる。
確かに最初はピンクやらの女の子らしいワンピースやドレスを着て恥しげにもご機嫌にしていた悠の様子は、だが様々な衣装に着替え枚数を重ねる毎に疲れたような表情へと変わっていた。
最後の方は最早幼いながらの愛想笑いときた。
……幼児に気を遣わせてどうする。
「フン、甘い、賛歌亭のロールケーキより甘いな」
「なん……やて……?」
「俺はこれだ。君に決めた!」
訳のわからないセリフを言いながら親父さんがどんとテーブルに叩き付けたのは、中学の時だろうセーラー服姿の悠だ。
だが明らかに盗撮だ。
「こ、これは……っ」
「どうだ、神崎姉弟がひた隠しにしてた超ドレアのセーラーだ。あんま隠すもんだから俺が自分で撮った貴重な一枚よ」
最早父親のセリフかと。
「うおーっ、めっちゃ可愛え!」
「そうだろそうだろ、あいつも俺に写真撮られようもんなら力一杯逃げ出すから、入念に計画を重ねてだなあ」
「ほう、この角度だと座敷の柱の陰からだな?」
「そうそう、あそこからだと死角になって…………えーっと、えへっ」
親父さんの首の脇からはにょっきりと出刃包丁が生えている。
「よし、そこの二人、そこに並べ、成敗してくれる」
「すんませんっしたああああああああ!!」
脱兎の如く逃げ出した二人を悠が追いかけ、一人リビングに残された。
目の前には、セーラー服を着てスカートを揺らし、これから登校するんだろう中学時代の悠がいる。
「勝利君、その伸びてる手は何かな?」
「あー、……手に取って見ようかな、と」
写真に伸びた手を引っ込めると、いつの間にか戻って来た悠はそれを取り上げ視線を俺に落とした。
「この制服、まだ取ってあるけど?」
僅かに微笑んで言った悠に、俺が頷いたかどうか。
それはとりあえず、彼女以外への、生涯の秘密にしておく。