四捨五入出来へん唯一解
誰に急かされるわけでもなく、ふと目が覚める。
頭の中で靄がかかっているような眠気を晴らすべく、カーテンを投げるように引っ張り開ける。
乱暴にされたせいか、しゃっ、と悲鳴みたいに一瞬鳴いたクリーム色の布。朝日を少しだけ覗かせる。
だが、目覚めない。
転がり落ちるようにベッドから出て、とぼとぼ幽鬼みたいな足取りで洗面所に向かう。
手探りで蛇口を求め、歯磨き粉のチューブを倒し、化粧水のボトルを揺らし、お目当てのレバーを引く。
じゃー、と水を吐き出し始めた滝に手を突っ込む。
冷たい。手の平で溜め池を作り、顔にぶちまける。
少し、目が覚めた。
ばしゃ、ばしゃと繰り返すうちに額と頭皮が少し伸びる感覚と共に視界が開けてくる。
クリアになった視界の情報量を脳も受け止められるようになり、私の思考も冴え始める。
頭に残るのは僅かな酒気から来る頭痛。
酒を飲んだのは今日が休みだから。
――それと。
リビングに向かいコンセントの根元を探る。
リードに繋がれ大人しく待っている忠犬の如きスマホをそっと撫でた。
浮かび上がる8:36の表示と下に並ぶ通知欄。
『返事、ゆっくりで良いから聞かせて』
メッセージアプリの最後の通知。
そういえばそんなことも言われたなと何処か他人事のように思う。
酒気を帯びていた理由も思い出し、ほんの少し嬉しくなる。無論、このあとの心労で体は重くなるのだけれど。
仕方ないと独り言ち、スマホの通知欄をタップ。
既読の足跡を残し、別のトークルームを開く。
平たい板を指で叩いて簡素な文章をしたためる。
『9:45にモーニング、来て』
直ぐに足跡は付かなかった。
それに構わず洗面所に戻って淡々と支度を始める。
最低限の見栄を整え、壁にかけたトートバッグを引ったくる。
財布とメモ帳、シャーペンと消しゴムが入った筆箱。
足りない物は道中の暇潰し。
フル充電のスマホを鞄に、
ローバッテリーのイヤホンを耳に。
画面も見ず、鞄の底で横たわる画面を触り、流しっぱなしだったらしい音楽を再生させた。
流れ出す恋愛ソング。悲哀を唄う歌詞に興味はなく、ただ好みのメロディの情報刺激に体を起こさせ、軽やかな足取りで家を出た。
舞い踊るようなピアノの旋律が耳朶を打つ。
けれど、話しかけられても答えられないほど世界を遮断していない。
それくらい私は寛容だ。むしろ耳に忍び寄る雑音が心地いい。
私の横数メートルで往来する鉄箱の駆動音。
出勤か、お出かけか、はたまた退勤か。
目的も知れぬ車が駆ける音を遠くに、コンクリートを踏み歩く。
近隣住民の暮らしを支えるスーパーに目もくれず、
SALEの文字を掲げる服飾店も通り過ぎて粛々と歩く。
スーツを着た社会人が出入りする横文字のカフェも置き去りに。
手広く生息するバス停からも忘れ去られた街の端。
土地代は安そうな畑と建物群の境界。
家と見間違えかねない喫茶店の前で立ち止まる。
ドアの上に掛けられた手書きの『喫茶セッタ』のホワイトボードと、取っ手に吊るされたOPENの板が店の証明だった。
迷うことなく取っ手に手をかけ惰性で引っ張る。
ドアを潜れば鼻をつくタバコのきつい匂い。
嫌いじゃない。工事現場で匂うシンナーみたく、好きでもないが妙に癖になるあの匂いだ。
「いらっしゃい」
カウンター越しに愛想のない挨拶。
丸椅子で足を組んで新聞を開き、客に目もくれぬ店主の声。
煙草を加えたまま煙を昇らせている様はどうにも店員に見えない。というか接客する気はあるのかと疑う。
「いつもの、アイスで」
「あいよ」
同レベルの愛想を返してやれば彼は静かに新聞を閉じ立ち上がった。
厨房に消えていく彼を横目に、窓際にある2人掛けの席へ足を運ぶ。
「4分遅刻やで?」
2つある席の一つを埋めている男がにっこり笑いながら腕時計を指先で叩いている。
目が笑ってないぞ、もっと愛想振りまいた方がいいと思う。
4以下は四捨五入で0になると義務教育で教わったはずなのに、騒がしい奴だった。
「四捨五入したら45」
「50だアホ」
「かもね」
机下の荷物置きにトートバッグを投げ入れる。
先に入れていた彼のショルダーバッグが、ぐしゃと潰れていた。
「……遠慮って知ってんか?」
「知ってる、慮るんでしょ」
「慮ったか?」
「どうせ何も入ってないから潰れるんでしょ」
彼は肩を竦めた。
私の勝ちらしい。
胸を張ったら彼は鼻で笑い、話を切り出してくる。
「――で? 土曜日の朝っぱらから何の用や。俺も暇やないんやで」
「って言いつつ来てくれる所は好きだよ」
「もうちょい愛嬌あったら嬉しいけどな」
「女の子とお茶できる幸運噛みしめて」
「まあ、あんたとの時間は嫌いやないからええけどな……」
で? と再び促される。
意外と暇そうでもないらしい。用事でもあるのだろうか。いいな、私は暇なのに。
──ともかく、ぐだぐだ引っ張れなさそうなので本題に入ることにした。
「いい感じの断り方、教えて」
「また? もうブロックしぃ」
「したら怒られるし、色々面倒だし」
「せやな」
肩を竦める。
世の中やっぱりままならない。
「付き合って、適当にあしらって別れたら円満やろ」
「そういうのは嫌い」
「んなこと言われても、マジョリティはあっち側やしなぁ」
恋愛対象に取られるということ自体が苦手だ。
第一そういう目で見る準備もない。
「対象に取られない方法、ない?」
「どこぞのカードゲームみたいに特殊能力持ってたら行けるんやない? この人は恋愛対象に取れません、的な」
「カードの世界、いいな」
「除去できへんから大概は嫌われ者やで」
「なんで」
「ゴキブリをゴキジェットの対象に取れないの、嫌やろ」
それは困るので口にチャック。
でも、なんか違う気がしたので反論してみる。チャックなんて知らない。
「嫌いなものを排除出来ないのは勿論嫌だけど、好きになれるものを好きにならないようにするのとは違うでしょ」
「……人のこと返事も見ずに呼び出すのも似たようなもんやないか。俺を愚痴の対象にしんなや……」
机の上に置かれたスマホの画面には私が送った9:45の召集文と数分後に『嫌や』と送られている簡素な文が残っていた。
私は知らないので既読などしていない。
「それはそれ、これはこれ」
「言いたい放題やー……」
手の施しようがない、と諦めたように彼はコーヒーを啜る。
「人間って人を好きになるなんてよくできるよね」
「お前誰なん」
「人を好きになれない人間」
「……よう知ってる」
こういう相談を何度もした彼は首を深く縦にふっていた。私への理解が深くて大変助かっている。
彼みたいな人間が増えれば助かるのに。
そう思ったけど、ここまで自己開示出来る人間を作る面倒さの方が勝つかもしれない。
「……手軽に君みたいな人間作る方法ないかな」
「ハガレン読めば分かるで」
「人体錬成は世界の倫理に反してるじゃん」
「じゃークラスメイトとかに話し」
理解してもらえる気ないから嫌だ。
そう口にしかけて、問題の本質に気づいた。
「理解しあえた。そう思えたのにそうじゃないパターンが多いのがいやだ」
「――モーニングです」
「あ、どうも」
決め顔で言ったのに店主に邪魔された。
けど、焼き立てのパンのいい匂いが美味しそうなので許すことにする。ふっくらほかほかだ。……ごはん?
「理解の押し付けやろ、それ。嫌なら男と喋らなきゃええしな」
「でも、男友達の方が喋りやすい」
女友達も居るけど、どっちかというとそんな気がしてる。
朝ごはんはパンと白米どっちでも良いけど、選べるならパンを選ぶ、みたいな。
「じゃあうっすら好きなんちゃうか?」
「うっすら?」
「男性は女性のことが大体うっすら好きで、女性は男性のことがうっすら嫌い、みたいな言説や」
「なにそれ、私当てはまってないんだけど」
八つ当たりのようにパンをちぎって口に入れる。
うっすらと塗られたバターの香りが鼻をくすぐった。
「理由はどうあれ。人間は常に比較していて、プラスの方を優先しがちってやつやな」
「優先したつもりも、ないけど」
他にも友達が居るのに彼を呼んだ理由、
もっと近くにも喫茶店があるのにここを選んだ理由、
他にもメニューがあるのに、頑なにアイスコーヒーとトーストのセットを食べる理由。
「ごめん、嘘。ぜんぜん優先してる」
「謝るほどでもあれへん」
「でもだからといって恋愛どうこうになるのは違うじゃん」
少なくとも私は彼を気安く呼ぶが恋愛対象と見てはいない。
「そうか? どんくらい異性として、対象として意識してるかの違いだけちゃうかと思うけど」
さも当たり前のように言いのけた彼はテーブルに備え付けられている砂糖のスティックを抜き取った。
入れるのかと思いきや、ペンのように回して弄ぶだけだった。
店主に謝ったほうがいいと思う。楽しそうだから私もやるけどね。
「度合いの話やな」
回すのをピタリとやめた彼が弄んでいたスティックの口を開ける。
「こいつを人への気持ちで、砂糖が愛やとする」
残り半分程のコーヒーにスティックの中身を少し注ぐ。冷め始めたそれに溶けるのは時間を要していた。
「溶けてしまえば、見えへんなら、味でしか中身は分からん。ほんなら、その愛が友愛か親愛か、情愛かなんて分かるわけもないっちゅうわけよ」
「友愛以外に私はないけど」
「そんなの本人も知らんやろ。そう思っとるだけ」
それは決めつけだ。マジョリティが正しいと信じて疑わない狂信だ。
四捨五入しても一緒になるわけがないくらい違うものだ。
彼が口にする言葉にしてはやけに不快な言葉だった。
「中にはそれみたいに味と見た目両方を変えるのもあるしな」
まだ注いでいないミルクを指さされる。
どこぞの小人の世界を彷彿とさせる指先サイズの銀カップ。けれど、なみなみと揺れる白いそれは自分よりも何倍も大きい体積の液体を容易に塗り替えるやつだ。
こんなものがなければ皆一緒なのかな。
「それに直面して困ってるってワケ、だろ?」
「味が無理って言ってるんだけど」
「違うね、愛の見た目が分かったからだよ。んで、それが自分の好みじゃないってのも同時に知った」
「……だからなに」
何が言いたいかを促す。話すことに困ったのでパンを食べて無言を誤魔化した。
「俺かてあんたを普通に好きやーって時たま言ってるのに特に嫌われても無いやん、それが答えちゃうんか?」
「それは……」
言葉に窮した。チャックとかじゃなくて、まず言葉が出てこない。
コーヒーとミルクが混ざり始めの混濁した色合い。頭でぐるぐるとかき混ぜられている。
彼の「好き」と今話題にしている「好き」は違う。文面は──見た目は一緒だけど絶対に違う。
「……この好きとは違って、受け入れられる好き、だから」
「味が違うんか?」
「……多分」
手つかずのコーヒーを飲む。いつもの味だった。
確かに、改めて口にされるとちょっとよく分からない。自分でもよく分からない。
けれど、私は彼のことが好きだ。それは恋愛的なとかでは──ないと思う。
自分でも分からなくなってきた。
「簡単に言えばさ、許容できるか出来ないか、その程度の違いなワケよ」
「きょよー……」
「度合いはどうあれ、あんたが許容できる愛の範囲はそんなにひろない。それだけや」
結論です。そう言わんばかりに彼はコーヒーをぐいと飲み干し、空のカップをかつんと置いた。QEDの3文字が脳裏によぎる。
でも、納得してない私はそれに零点を付ける。
気分は出来の悪い子のテストを採点する先生だ。びた一文……一点たりともくれてやらない。
「そんなの、人によって全然違うのに一口で言いきっていい訳──」
「告白を告白と一口で言い切れる程種類少なくないで」
「でも、もっとこう、ね? 恋人って高尚な感じじゃん」
「それは四捨五入しすぎや」
四捨五入はそんなに便利じゃない。あと君が使っていい権利もない。
私が特許を取っている。使ったら百ま──百円でいいか。
「告白ってのはな、その人の愛を許容できるか出来ないかって確認作業やろ? 一世一代の大勝負でもなんでもない」
「そんなの、私の方が知ってる」
君よりは告白されてるんだぞ、私。ふふん。
胸を張ったらまた鼻で笑われる。何がおかしい。
「……その勝ち誇った笑み、腹立つからやめてな」
「勝ってますし?」
「あっそ。──んなことより。どうなるかが重要やなくて、どうしたいかの一致が大事なんよ」
一致。私は数学の証明でもやらされているのだろうか。
二等辺三角形の証明とかそんな感じのだったっけ、辺の長さー、とか?
そのうち微分積分まで行きそうな勢いなのだけれど。
辞めて欲しい。私は数Ⅲやってないんだから。
「別に恋人としたいことなんてないけど、だから要らないんだし」
「だから告白は受け入れられへん。それで終わり」
「…………??」
何も解決していない気がする。
意味わかんないなコイツと思っていたら、掌が空を切る。
いつのまにかトーストは消えていた。コーヒーも氷が解けた水状態。
首をかしげ、胡乱気な目で彼を見返し、「えー」と呟く。
つまり、全身でクエスチョンマークを表現していると彼がため息を吐いた。
「友達としたいことはあるんやろ?」
「今もそうじゃん」
「それ、友達全体に当てはまってない時点でちょっと違うで」
「じゃあお出かけ」
「行先によっちゃ変わる」
「んんー……」
友達の定義が広すぎるのが悪い。
友達にも度合いがある。0から10まであるものを四捨五入したら一言で話せるわけもないでしょ馬鹿やろー。
ほんとに困る。困ったので、ここは0から10じゃなくて、10の話をすることにした。
「……君だったらまぁ、どこでも連れてけるんじゃない?」
「せやな、否定はせん」
「──意外と傲慢だね君」
「俺もあんたなら大体行ける程度に好きやで。……そういう話やんな?」
やっぱり言葉に窮する。その答え自体は想像の域を越えるモノじゃなかった。
ニュアンス自体はもとより分かっていた。
でも、いざ言葉にされると……的な。
嫌悪感というよりは、返す言葉に困るみたいな。この感情を素直に表現できない。
少女漫画的トキメキじゃなくて、じんわり胸の奥があったかい感じ。少なくとも正の感情なのは確かで。
「あ、やべ」
戸惑う私を他所に彼がおきっぱなしのスマホに目を向けると、慌てて伝票を取って立ち上がった。
「ごめんな、11時から約束あるから行くわ。会計持っとくから今度よこせ」
「ちょっと。全然解決してないんだけど?」
「納得出来るか出来ないかの問題はあんたの問題やから完璧には無理やわ」
「えぇー……」
「んじゃ。──てんちょー! お会計お願いしまーっす」
言うが否や、スマホでぱぱっと支払った彼が慌ただしく店を出る。
店長、機械音痴の癖になんでバーコード決済だけやけに慣れてるんだ。解せないよ私。あいつ引き止められないじゃん。
私も食べ終えてしまったし、このままダラダラするよりかは買い物を済ませた方がいい。
「ごちそうさまでしたー」
また新聞を読み始めた店長に一応挨拶をする。
なんだかんだ客の好みを覚えている良い人なので、私も感謝ぐらいはしておくべきだと思ってる。
「アンタ」
「んえ?」
いつもなら軽く頷くだけの店長が新聞から目元だけ出して私を捉えた。
まさか呼び止められるとも思わなくて、変な声が出た。
「誰の一番になりたいんだ?」
「かけっこ?」
下手くそな逆質問は新聞で目元を遮られることで無視された。
「……あざしたー」
よく分からないけれど、あの店長のことだ。何か意味はあるんだろう。
よく分からないけど。
店を出て耳にイヤホンを突っ込みなおす。
なんだかムカつくので音量は引き上げた。
「あいつ、何しに行ったんだろ」
今まで気にかけもしなかった疑問。
けれど、考えても仕方がない。保留していた返事を画面に打ち込んで、スマホは鞄の奥へ押しやった。
──とりあえず、良いニュアンスは手に入れた。この場の問題は解決したので奴は許してやることにする。
『ごめんなさい。あなたの一番にはなれないです』
リハビリ作