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八話 移ろいゆく時の中で:心の中の風景

 嫌われると分かっていても、つい口を出してしまいます。今では、じっと聞いてくれるのは、人生の風雪を共に越えてきた春子だけです。


「それはね。毒っけのあるトゲのあるそんな言い方だからなのよ」

「そんなこと言ったって、これが私だからなあ」


 説教をしているわけでも、自慢話や昔話をしているわけでもありません。ただ、今までの経験や体験から、失敗してほしくないという思いが強すぎるのです。その体験談が説教と捉えられ、不快感を与えてしまうこともあるようです。


 若い頃は、自分の意見を押し通そうとして、何度も衝突しました。しかし、年を重ねるにつれ、言葉の持つ重みと、それが相手に与える影響を痛感するようになりました。それでも、心の奥底から湧き上がる思いは、口から出る前に止めることができません。


「それでも、私の言いたいことは伝えたいんだ」と。


 春子は黙って翔一の話を聞き続け、時折、優しい微笑みを浮かべます。その微笑みが、彼の心を少しずつ和らげていきました。彼女の存在が、彼にとっての安らぎであり、心の支えなのだと改めて感じているようです。


 終活を考えるようになってから、家や車、名誉、地位といったものよりも、お金が重要だと感じるようになっています。物は自分にとって価値があっても、価値観の違う人から見れば邪魔なだけです。しかし、お金は違います。価値観が違っても、邪魔にはなりません。


 それなのに、お金の話をすると、自慢話に捉えられ嫌がられることが多いです。昼も夜も身を粉にして肉体労働や精神的な苦痛に耐え、家族と離れ離れになりながら得たお金なのに、「お金は持っている」と言うと、金額の多寡に関係なく自慢話と受け取られてしまうことがあります。


 お金があるからこそ、熱中症防止に電気代を気にせずエアコンを使い、寒ければ暖房を入れ、月一回の健康ランド、半年に一回の温泉、年一回の旅行、しまむらでの服、日高屋での外食、欲しい物は百均で取り揃え、好きな食べ物も飲み物も楽しめます。お金は、その人が築き上げてきた人生を物語る証ではないでしょうか。


 そんなわけで、最近気をつけていることがあります。それは「昔話をしない」「説教をしない」「お金の話をしない」です。


 翔一と春子は、二人の世界を大切にしています。夫婦が仲良く暮らしていることは、娘の靖子にとっても一番の幸せなことではないでしょうか。


 靖子が親の手を必要とする時、親としての役割を全うするために、時間もお金も子育てに全力を尽くしてきました。それは特別なことではなく、親として当たり前のことです。しかし、靖子が大人になり、自立した今、どんな問題が起こっても、それは靖子自身で解決しなければならないのです。それが自然の摂理なのです。ですので、靖子のための時間ではなく、誰にも束縛されない自由な時間を自分たちのペースで穏やかに過ごすこと、それを大切にしています。


 翔一と春子は、長年住んできた家も、愛用していた車もすべて手放しました。「終活」と称して、身軽な生活を選んだのです。


「家なんて、子供服みたいなもんだからね」と翔一がいいます。

「子供服と同じ?そんなことを言うから偉そうに聞こえて嫌われちゃうのよ。やっとの思いで長期でローンを組んで必死に働いて手に入れたんだから」と春子が眉をひそめました。

  「そんな意味ではないんだ。子供服って子供が大きくなったら着れないだろ。その意味なんだ。散歩で空き家になっていたり、廃墟になったりしている家を見ると感じちゃうんだ。私はそうなる前に処分して物に縛られるより余計な心配から解放された方がいいんじゃないかと。そう思っているだけなんだ。別に家から離れられない人にとやかく言っているんじゃあないんだ。それはそれで素晴らしいと思っているよ」


 二人は実際に、身軽な生活によって多くの心配事から解放されました。30年も住んでいた家を手放したことで、雨漏りや下水の詰まり、エアコンの故障、災害による被害、火災保険や災害保険の手配など、煩わしい問題から解放されたのです。また、車も手放したことで、維持費や修理費の心配もなくなり、公共交通機関やレンタカーを上手に活用する新しい生活スタイルにシフトしました。


 何かの統計によれば、亡くなる人の全体の80パーセントはストレスなどの精神的な問題が大きいようです。ストレスを溜めずにゆったりしている人は病気にもならず長生きしているようです。


 病弱と言われていた翔一と春子でしたが、靖子の心配をよそに80歳を超えても元気で精力的に人生を謳歌しています。驚くほどの食欲で、痩せこけていた定年前の面影はなく、丸々とふくよかな体型となっています。それはそうです。牛肉を食べ、赤ワインを飲み、風呂上がりには缶ビールを飲み干し、朝食には白米を二膳食べます。


 朝の光がリビングに柔らかく差し込み、二人の穏やかな時間が始まります。翔一は新聞を広げ、春子はお気に入りの本を手に取ります。静かなリビングには、心地よい風が吹き込み、二人の間に流れる幸福感が満ちています。

 

「ここのアパートに引っ越してから、本当に自由な時間を過ごせるようになったね」と春子が微笑みながら言いました。彼女の顔には、心からの安らぎと満足感が表れています。

「そうだね。何にも縛られず、心配事もなく、こうして二人の時間を楽しめるのは、本当に幸せなことだ」と、翔一も穏やかな表情で応えました。彼の声には深い感謝と喜びが込められています。


「今世で最後かもしれないと言ってアメリカに行ってルート66を走破したり、カナダに行ってナイヤガラの滝に行ったり、ロッキー山脈で温泉に浸かったり、グランドキャニオンに行ったり、クルーズ船での旅に出たり、よくまああっちこっちに行ったわよね」

  「あの時はそう思っていた。病弱だったからね。それが心の安らぎができてから病気しなくなった」


 突然靖子がアパートにやってきます。勢いよく玄関の扉を開け、まっすぐにキッチンへと向かい冷蔵庫を勝手に開け、中身を一つ一つ手に取り全部食べてしまいます。「忙しくて食べる時間もないし、作る時間もないのよ」と彼女は言い訳します。50歳を過ぎてもまだ独身の靖子は、市内のマンションに住んでいます。


「何もこんな狭いアパートじゃなくてもっと綺麗で広いところがいいんじゃあないの」

「ここがお母さんも私も気に入っているんだ。目の前は公園だし、小学校からは子供達の元気な声がするし、隣近所の人もいい人だから」

「それにね、バス停は目の前で、買い物にも便利だし、散歩コースの公園もあるし、春には桜が満開だし、取り壊すから退去してくれとも言ってこないし、最期まで住めるのよ。ここは終の住処には最高よ」

「家賃が安いからいいとかじゃないんだ。とっても居心地がいいんだ」

「何見栄を張っているのよ。家賃が安いって最高でしょ」

「そうは言っても、お父さん、お母さんがこんなアパートに住んでいるって恥ずかしくて言えないんだからね」

「言う人には勝手に言わせておけばいいのよ。そんなものに縛られてもしょうがないでしょ。それに靖子はあの家に住まないでしょ。空き家になるだけよ。何にも縛られないで自由奔放に生きなさい」


 限りある自由な時間の中で、翔一と春子は毎日の小さな喜びを大切にしながら、人生を楽しんでいます。これからも共に歩んでいきたいと願いながら…。



 優作の老いた父、一茂の顔には長い年月が刻まれた深いしわがあり、目にはかすかな悲しみが宿っています。妻の秋子に先立たれた一茂は、思い出が深く刻まれた家から一歩も出ることができずにいました。家の中には、秋子との思い出が詰まった家具や写真が並んでいます。リビングの一角には、秋子が愛用していたソファがそのままの形で残され、壁には二人で撮った旅行の写真が飾られています。


 秋子の香りがまだ残っているかのように、彼女の部屋には誰も触れることがありません。一茂は毎朝、秋子が好きだった花を庭から摘んで部屋に供え、静かに手を合わせます。窓から差し込む柔らかな日差しが、秋子の遺した温もりを感じさせ、一茂の心を少しだけ癒してくれるのです。


 一茂は庭の手入れをしながら、過ぎ去った日々を思い出します。秋子と一緒に植えた桜の木や柿の木が、季節ごとに美しく咲き誇る様子を見て、一茂は小さな幸福を感じています。しかし、その美しさを見るたびに、秋子がいない寂しさも一層深まります。


 家の中では、秋子の声がまだ聞こえてくるような気がしています。一茂はその声に耳を澄ませながら、静かに日々を過ごしています。彼の心には、秋子との思い出が深く刻まれていて、家の中のすべてが彼にとっての宝物であり、秋子との絆を感じさせるものなのです。


 優作の行方は今もなお謎に包まれたままです。かつて一世を風靡した優作の父親として、また母親として、テレビやマスコミ、そして近所の人々からは熱い視線を浴びる日々が続きました。華やかな舞台の上での輝く姿は、急に増えた友人や知人たちとともに、賛美と興奮の渦に包まれていました。テレビに映る優作の姿は、一茂と秋子にとって誇りでしたが、それ以上に不安の種でもありました。


 人気者として持て囃された優作と一茂と秋子。しかし、その人気は泡のように消え去り、風に流される砂のように儚いものでした。華やかな舞台の裏には、常に変わりゆく周囲の評価と、それに伴う虚しさと不安定な現実がありました。舞台裏での優作の疲れた顔や、無数のカメラのフラッシュに照らされた中での微笑みは、一茂の心に深い傷を残しました。


 一茂は、「人気」というものがいかにはかなく頼りにならないものであるかを、身に染みて感じていました。「人気」とは「人の気」です。人の気ほど当てにならないものはありません。それはまるで猫の目のように刻々と変わるものなのです。歓声が静まり返った後の静寂は、彼にとって耐え難いものでした。


 かつての栄光と称賛の陰に隠れたのは、常に不安と虚無感がつきまとう現実でした。周囲の評価が変わるたびに、一茂の心も揺れ動き、確かなものなど何もないことを深く実感していたのです。人々の期待と失望の間で、一茂はただ、秋子との静かな日常を懐かしむばかりでした。


 一茂の心の中には、優作の行方を知りたいという強い思いが広がっていました。どこにいるのか、無事であるのか、何をしているのか、その全てが謎のままなのです。一茂の心の片隅には、後悔という感情が静かに根を張っています。残された時間を二人だけで過ごしたいからと、母・秋子の病床のことを知らせなかったことへの悔いです。知らせたくても、知らせる手立てがなかったとしても、その事実が心の奥深くで痛みを伴っています。それにしても、音信不通とは親子とはそんなものなのかと、悲しみの中でぼんやりと考えています。親としての思いは、庭の手入れをしているときも、秋子との思い出にふけるときも、心の中心にあり、優作への思いが絶えず流れています。


 優作が小さかった頃、一緒に遊んだ記憶が、一茂の心を暖かく包みます。桜の木の下で、優作と秋子と過ごしたひとときの記憶は、今も一茂の心の中で輝き続けています。秋子の笑顔と優作の無邪気な声が、彼の思い出の中で鮮やかに蘇ります。


 秋子と一緒に植えた桜が今年も満開です。縁側に座って桜を眺めていると、「お茶が入ったわよ」と秋子が言って隣に座ります。

「今年も綺麗に咲いたわね」

「ああ、そうだね。桜を見ていると、どうしてこんなに穏やかな気持ちになるんだろう」

「昼間から早いかもしれないけど、雪見酒じゃないけど、桜見酒にでもしましょうか」

「そうだな。もうすぐ散ってしまう儚い命の桜だから、それもいいな」


 そんな秋子との思い出に縋りながら、「昼間の酒は酔いが回るのが早いなあ」といいながら、酒を飲みつつ桜を見ているのです。


 じっとしていられない性格なのでしょうか、庭先に出て急に草むしりをしたり、植木に水をやったり、フェンスのペイントをしたり、伸びた枝葉をカットしたり、目についたことを頭で考える前に体が勝手に動くのです。気がつくと、西の空が赤くなり始めていました。今日はいつもよりカラスの鳴き声が多いような気がしています。


 遠くから見覚えのある影が近づいてくるのが見えました。夕焼けに照らされたその姿に、一茂は言葉を失いました。優作です。息子が目の前に立っているではありませんか。


「お父さん、ただいま」その一言に、目から涙が溢れ、とまりません。優作の顔には、過去の栄光と苦しみが刻まれていますが、その瞳には決意と優しさが宿っていました。

「おかえり。ずいぶん長い旅だったね。まるで寅さんのようだ。ふらっと帰ってきてさ。元気にしていたのか…」

「お父さん、これからは一緒に過ごしたい。母さんの思い出とともに、家族としてもう一度やり直したいんだ」

「そうだ。一緒に暮らそう。家族なんだから…。甘えていいんだ。困ったことがあったらいつでも助けてあげるからな」

「秋子、良かったね。優作が戻ってきたよ」


 桜の花が優しく風に揺れています。いつの間にか心地よい夢物語に入っていたようです。桜の花びらが風に乗って舞い落ちる庭を見つめながら、一茂は深い安堵感に包まれました。夢の中で感じた優作の温もりと秋子への感謝は、現実の中でも一茂の心を温かくしていました。彼は静かに息を吐き、胸の中に広がる穏やかな気持ちを噛みしめながら、夢の中の優作との再会の余韻に浸り、桜が舞い散る庭で、残りの酒を飲み干しています。そんな一茂を、春は桜が慰め、秋は柿の木が慰めてくれるのでした。


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