六話 ラストレター:季節の終わりに
「Stand by Me」というフレーズは、「私のそばにいて」という意味を超えて、困難な状況に直面したときの助けや支えを求める声として響きます。人は時に深い弱さや孤独を感じることがありますが、その際に「自分を支えてほしい」「助けてほしい」と願うことは自然なことです。このような感情を率直に表現できることこそが、実は強さの一部なのかもしれません。
優作と別れてから3ヶ月しか経っていない時のことです。靖子は優作との過去を思い出していました。「あの日に戻れない」と分かっていながらも、優作と過ごした時間を思い出すたびに未練が募り、心が締め付けられます。会ってはいけない。会えば、優作を独占したくなる。そんな感情が抑えきれなくなるのが怖かったのです。靖子は「あなたの幸せの中に」という思いを胸に抱きながら、遠くから見守ることが最善だと考えていました。
それなのに、「東京までだったらいいのよ。彼の家には行かないから」と東京行きの新幹線に乗ってしまいました。会いたいという気持ちを抑えきれなかったのです。東京駅に着くと、「ここまで来たのだから、せめて玄関先だけでも…」と激しく鳴り響く鼓動を抑えながら合鍵で扉を開けました。
扉を開けると、驚くほど静かで物音ひとつしない空間が広がっていました。部屋の中はもぬけの殻で、家具や思い出がすべて取り去られ、冷たい空気だけが充満していました。
靖子の目からは涙が溢れ、手は小刻みに震えました。部屋に残されたのは、優作の面影と二人が共に過ごした暖かな日々です。それらが一瞬にしてフラッシュバックし、楽しい記憶や共有した悲しみが溢れ、悲しみと未練が胸を締め付けました。
二人で過ごした日々は夢のように感じられます。淹れたてのコーヒーの香りに誘われて目覚めると、「おはよう」と優しく語りかける優作。コーヒーを飲み干すと、「散歩に行こうか」と言って、朝靄の公園に手をつないで出かけました。夕暮れ時にはキッチンに立ち、夕食を作りながら笑い合ったり、悲しんだり、些細なことで喜んだりしたことが、走馬灯のように浮かびます。
なぜ人は寂しさを感じるのでしょう。優作のいない空間には、ただ冷たい静けさだけが漂っていました。
コチコチと時計の音だけが響き渡る薄明かりの部屋。水割り片手にあなたへ最後の手紙を書いている。
時折流れる楽しい日々。時折流れる涙のしずく。書き始めたばかりの便箋が涙で汚れる。
優しすぎる。優しすぎる。愛の終わりゆえに。あなたへ最後の言葉が見つからず、ただ、ただ、季節の終わりに。
ふと気がつけば、いくつもの季節が目の前を走り去っていた。ひとりで過ごすことが自然になっていた。辛く悲しいことを真っ白な便箋に書き込んだ日々。
色とりどりの思いが今では懐かしく思える。優しすぎた。優しすぎた。愛の終わりだった。あなたへ最後の言葉が見つからず、ただ、ただ、季節の終わりに。
別れてからの痛みが靖子の心に深く刻まれてから一年が過ぎ、二年が過ぎ、三年が過ぎました。その年月は、冷たくも温かい、時間の流れの中で淡々と彼女を磨き上げていきました。季節が移ろうたびに、彼女の内なる世界もまた変わりつつありました。
冬の寒さが春の息吹に溶け込むように、靖子の心も徐々に変化していきました。最初の頃、彼女の心はひどく傷ついていました。彼との未来を信じて疑わなかった彼女にとって、信頼していた彼が裏切ったという事実が、彼女の心に深い傷を残したのです。彼の面影が夢の中でさえ鮮やかに蘇るたびに、冷たい涙が無意識のうちに頬を伝いました。夜の静けさが彼の声を再び呼び覚まし、彼の微笑みが記憶の中で痛々しくも鮮明に残っていました。彼の言葉や仕草が、彼女の心の中で何度も再生され、その度に傷が広がるように感じました。
それが時間の流れと共に、靖子はその痛みを受け入れ、ゆっくりと自分を見つめ直すようになりました。心の深層に眠っていた本当の自分を掘り起こし、彼女は自身の内なる強さと向き合うことができました。別れの決断が、彼女を内面から再生させる機会を与えたのです。
靖子は感情の嵐を乗り越えたことで、心は以前の脆さとは打って変わっていました。彼女の目には、以前のような寂しさや悲しみの影はもはやなく、深い冷静さと穏やかな強さが宿っています。彼女の穏やかな微笑みには、自分自身の心の荒波を乗り越えた者だけが持つ静かな自信が漂っていて、感情の波に流されることはありません。靖子は自らの心の荒波を乗り越え、その経験が彼女を一層強くしなやかにしました。
靖子は「あなたの幸せの中に」という座右の銘を掲げて日々の業務に取り組み、銀行の中間管理職としてその存在感を示しています。デスクには、小さな額に入ったこの言葉が飾られていて、彼女の信念と決意を象徴しています。この言葉には、彼女自身の幸せだけでなく、周囲の人々の幸せも大切にするという意味があり、靖子の行動指針となっています。
靖子は仕事に生きがいを感じ、日々の業務が楽しくてしょうがない毎日を過ごしています。彼女は現在、銀行の中間管理職として、部下と上層部の橋渡し、育成や評価、意思決定、業務遂行、そしてコミュニケーションに至るまで、その手腕を多岐にわたって発揮しています。
「靖子さん、すみません、少しお時間いただけますか?」
「もちろん。どうしたの?」
「このプロジェクトの進行について、少しアドバイスをいただきたいんですが…」
「いいわよ。具体的にどこで詰まってるの?一緒に考えてみましょう。」
「靖子さん、すみませんが、この件について上層部からのフィードバックが遅れているのですが、どうすればいいでしょうか?」
「その件については、私が追跡してみますね。もし急ぎのことであれば、私からもリマインダーを出しておきます。」
彼女のオフィスには常に笑顔が溢れ、扉はいつも開かれています。部下の意見には常に耳を傾け、理解し、適切な指導を行うことで、その積み重ねが部下たちからの信頼を得ていました。部下たちが気軽に相談にやって来る環境が整っているのです。
上司が相談にやってきて、「靖子さんの意見を聞きたい。どう思う?」靖子は上司から受け取った資料をじっくりと見ながら、穏やかな声で答えます。「私の考えとしては、まずこのデータを基に進捗を評価することが重要です。具体的には、こちらのグラフを見てください。」と言いながら指をさし、「ここに示されているトレンドは、昨年度のパフォーマンスと比較しても一貫しています。つまり、リソースの配分に関しては、もう少し集中させる必要があるかもしれません。」と冷静に説明し続け、「また、予算の使用状況についても、これからの数ヶ月での変動を見越して調整が必要です。これにより、プロジェクトの進行がよりスムーズになると考えます。」
「そうだな。その通りだと私も思う。靖子さんのリーダーシップがなければ、今の進捗はなかっただろう。ありがとう。」
「ありがとうございます。ただ、これもチーム全体の努力のおかげですから。」
上層部に対しても、靖子は適切な情報をタイムリーに提供し、的確な意思決定をサポートしています。彼女の冷静で理知的な意見が尊重され、その信頼を得るようになっていました。彼女のリーダーシップとコミュニケーション能力は、まさに組織の柱となっています。
靖子は、かつての痛みを抱えながらも、過去と向き合い、成長し続けています。彼女の心の奥深くには、優作との思い出と共に、彼女自身の成長と変化が刻まれているのです。その姿は、感情の嵐を乗り越えた者としての強さと冷静さを醸し出し、その存在感は職場の誰もが認めるようになっていました。