五話 風に揺れる心の中の光景
食材が底をつき始めています。優作は一週間ぶりに山に狩りに出かけました。鹿や猪を仕留めるのは決して容易なことではありません。鋭い感覚と熟練の技が要求されます。弓を引き絞り、静かに狙いを定めます。矢が放たれる瞬間、時間が止まったかのように感じます。
捕獲した獲物は貴重な食材です。まず、解体する前に行うのは放血と洗浄です。川で毛皮についた泥を丁寧に洗い流し、腹膜を破らないように腹の中腹から股の付け根にかけて皮を切ります。その際、尿道を傷つけないように注意します。尿道を傷つけると尿が漏れ出て肉に付着してしまいます。それを防ぐために、尿道を体の外に垂らしておくと、これを減らすことができます。
内臓を取り出し、腹腔に溜まった血を洗い流した後、臭みを取るために冷やします。皮を剥ぎ、枝肉に分割して各部位を解体します。肉を適切な大きさに切り分け、塩やスパイスでしっかりと漬け、風味を増し、保存性を高めます。漬け込みを終えた後は、風通しの良い場所に吊るし、数日間肉を乾燥させます。
そして、燻製の準備に取り掛かります。燻製に独特の香りと風味を与える桜やリンゴの木火で火を起こします。火が安定した後、肉を燻製小屋の中に吊るし、低温でゆっくりと燻します。燻製作業は数時間から数日間続けられ、肉がじっくりと煙に包まれることで、独特の風味と保存性が高まります。燻製を終えた肉を取り出し、乾燥させて鹿の燻製肉が完成します。
その香ばしい香りと深い味わいを楽しみながら、自然の恵みに「いただきます」と言って感謝しながら噛みしめます。その日も山小屋で、完成した燻製肉を味わっていました。孤独な生活ですが、この瞬間だけは心が満たされます。
一台のリヤカーが宮城山の山道に迷い込んできました。彼のリヤカーは単なる荷物運搬用のものではなく、トイレ、シャワー、小さなキッチンも完備した、狭いながらも寝泊まりできる小さな家です。老人の旅はすでに7年にも及びます。家を出てからの年月は長く、彼は日本全国を歩き回り、さまざまな景色や人々と出会ってきました。戦後の昭和の時代には、貨物船に乗り込み、一等航海士と共に食事をしながら台湾、イラク、イラン、トルコ、イスタンブールなどを訪れ、日本を外から見つめる経験を積みました。しかし、65歳を迎えた時、彼は新たな決断をしました。手作りのリヤカーで日本全国を放浪する旅に出ることを決めたのです。
彼は家も自ら立ち上げた会社も捨て、孤独な旅に出ることを選びました。洗濯もほとんどせず、何日も着続けた穴だらけの黒いシャツを身に着けています。日焼けで顔は茶色くなり、前歯が二本抜けた痩せた体をしていますが、悲壮感はなく、生き生きとした満面の笑顔を浮かべています。
「いやあ、香りに誘われてやってきてしまいました。三日間水だけでしたから。どうでしょう、包丁を研ぐ代わりに何か食べさせてくれませんか?」
「それはありがたいです。猟にはなんとか慣れたのですが、包丁を研ぐのはまだまだです。研いだばかりなのにすぐに切れなくなってしまうんです。」
「皆さんがそんなに簡単にできたら、私の仕事がなくなりますからね。」
「そうですね。餅は餅屋ですから。ところで、鹿の肉はお好きですか?」
「まだ食べたことはないけど、口に入れられるものでしたら何でも。」
「じゃあ焼きますね。ところで、どうしてこんなところへ?」
「歩きながら一度も踏みしめたことがない道を歩くって、人生の旅の楽しさっていうやつです。たまたま寄らせていただきました。」
優作は笑顔で老人に応え、鹿の燻製肉を網の上でじっくりと焼き始めました。火の音とともに肉の脂がじわじわと溶け出し、香ばしい香りが辺りに広がります。老人はその香りに引かれるように、近くの木陰に腰を下ろしました。
「これが鹿の肉?」 老人は興味津々に焼き上がる肉を見つめています。
「ええ、これが自然の恵みです。山での生活は大変ですが、この味わいは格別ですよ。」 優作は笑顔で答えながら、慎重に肉をひっくり返し、焦げないように注意を払っていました。
「私も昔、自然と向き合って生きていたことがありました。しかし、今はただの旅人です。リヤカーを引いて、あてもなく旅を続けています。」
「それは素晴らしいですね。自由で、風の向くままに生きるというのは、誰もが憧れる生き方です。」
「深く考えるのに疲れただけなんですよ。ケセラ・セラの生き方なんです。では、いただきます。」
焼き上がった鹿肉を一口食べた老人の顔に、驚きと喜びが広がりました。 「これは…本当に美味い。こんなに美味い鹿の肉は初めてだ。」 老人の言葉に、優作は誇らしげに微笑みました。
「この山の恵みです。自然の中で生きることの素晴らしさを感じながら、日々を過ごしています。」
「お前さんも、ここで何かを探しているのかい?」
優作は少し驚きながらも、素直に頷きました。 「はい、そうかもしれません。自分自身を見つめ直すために、ここに来ました。」
老人は深く頷き、笑顔を浮かべました。 「私も同じだよ。旅をしながら、自分を見つけるためにね。でも、人は一人ではなく、他人との関わりの中で本当の自分を見つけることが多いんだ。」
宮城山の山道もまた、彼にとって一つの挑戦でした。険しい道のりに疲れながらも、自然の美しさに心を打たれ、足を進め続けました。時折立ち止まり、深呼吸をして新鮮な空気を肺に取り込み、リヤカーの中でお茶を沸かして一息つくこともありました。夕暮れ時にはリヤカーを止め、山の景色を眺めながら簡単な夕食を作り、日が沈むのを静かに見守りました。
夜になると、彼はリヤカーの中で寝袋にくるまり、星空を見上げながら一日の疲れを癒しました。リヤカーの小さな窓から見える星々は、彼にとって旅の友でした。過去の思い出に浸りながら、明日の冒険に胸を膨らませて眠りにつきました。名声、地位、財力があったために欺瞞と邪智に囲まれ心が傷つきボロボロになっていたあの世界にいるよりも、財力も名誉も地位もない今の方が疲れないと感じています。人生で本当に大切なものは目に見えず、形にも表せない「心」であることに、彼は気づいたのでした。
異なる背景を持つ優作と老人の二人は、過去の出来事について問うこともなく、今をどう生きるか、未来に何を求めるかについて深く考えさせられる瞬間を共有しました。
少しずつ、優作は過去の出来事や感情を整理し始めました。都会での生活は一時的な成功をもたらしましたが、靖子との関係を蝕んでいったことに気づきました。靖子の深い愛情と信頼を裏切り続けたことが、彼の心に大きな傷を残していたのです。
孤独な山での生活は、彼に新しい視点を与えました。自然の静寂と共に過ごす日々は、都会の喧騒から解放され、「心」に豊かさをもたらし、新しい希望と支えとなって、過去を乗り越える力を少しずつ取り戻す手助けとなっています。
山小屋での生活は、これまでの人生のすべてを受け入れるための場所となりました。「心」の中に小さな光を見出し、過去の重荷から解放され、新しい自分を見つけるとともに、靖子への感謝の気持ちと共に自分自身を再発見し、新しい未来を築くための道を歩み始めようとしています。そんな姿が靖子に届くのでしょうか、届いて欲しいと祈っています。