四話 変わらぬ風の中で
飲み干した酒のボトルが空になり、机の上に乱雑に置かれた空き瓶は彼の荒んだ生活を象徴しています。瞳は焦点を失い、顔は疲労と後悔の色で覆われ、彼の魂はかつての輝きを失い、破滅への道を歩むだけの存在となってしまいました。かつて描いた『あなたの幸せの中に』は、遠い過去の輝かしい記憶となり、純粋な情熱はもう残っていません。深いしわと疲れ果てた目が、彼の堕落と絶望を物語っています。
優作のかつての栄光は崩れ落ち、彼はその破片を拾い集めることすらできなくなってしまいました。アトリエには未完成の作品が掛けられ、絵具が散乱し、キャンバスには以前のような輝きがなく、名声に溺れた彼の心の変化が作品にも表れています。人気というものは不思議なものです。名声が高まれば人々は集まってきますが、一度陰りが見えると「知らぬ存ぜぬ」となり、今では誰ひとりとして来ません。そんな優作を支え続けているのが靖子です。彼女は忙しい日々を送りながらも、毎朝早く起きて優作に電話をかけ、彼の声を聞くことで一日の始まりを感じていました。遠距離恋愛の困難さを乗り越えるために、毎週末には上京し、アトリエや部屋を片付けたり、食事を準備したり、優作が再び絵に向き合えるように生活費のお金を渡していました。
「大丈夫よ、私がここにいるから」と包むような靖子の暖かさが優作の心を打ちますが、いまだに放心状態から抜け出せず、廃人のようになっています。それでも靖子は、いつか立ち直れると信じ、未来を見据えています。そんな彼女の献身的な姿に友人たちは心配していました。
「靖子ね、彼からは金づるとしか思われていないわよ。欲しいものも買わず、みんなとの食事会にも参加しないで…本当にそれでいいの?」
「あなたに何がわかるの。この気持ちは形じゃないの。私は彼を支えたいのよ。私が支えなければ誰が優作を支えるの?」
「だめよ、これは。今の靖子は重症よ。優作さんしか見えていない」
「あなたにはわからないのよ。私は優作との夢を共有している。優作は、いつかもう一度花が咲く画家なんだから…」
「その『いつ』って、いつよ。いつ花が咲くのよ。彼が売れるまで靖子は献身的に支えるわけ?とにかく、ズルズルはだめよ。期限を決めないと…」
靖子は友人たちからの真心あるアドバイスに涙が出るほど感謝しています。ただ、自分の幸せは「あなたの幸せの中に」あるのです。彼を支えることが靖子の喜びとなっています。いつまで続くのでしょうか、いつまで続けるのでしょうか。翔一と春子は、靖子が選んだ道を黙って受け入れていました。彼女は娘と言っても大人です。自分の人生の舵は彼女自身に任せていたのです。
時が経つにつれ、靖子は自分の存在が優作をダメにしているという自覚から、何かを断ち切ったようでした。彼の幸せを願うあまり、彼が本当の自分を見つけられなくなるのではないかと悩みました。愛とは「あなたの幸せの中に」あるもので、彼が本当の幸せになることを願うことだと考えました。献身的に尽くすことが彼の人生を壊してしまうかもしれないと。
優作は、靖子との別れを通じて、自らの愚かな行いに気づき、深く反省しました。当たり前のことが当たり前でないことに気づいたのです。靖子がやってくる週末は楽しく、彼女が来られない時には、クール宅急便で料理された食材が届きました。朝起きるとコーヒーの香りが部屋中に広がり、豪華な朝食ではありませんが、煮物などの家庭の味がテーブルに並んでいました。クローゼットを開けると、一週間分の着替えがきれいに畳まれ、アトリエは整理整頓され、手の届くところには全てが揃っており、髭を剃らないとカミソリが置いてあり、無言の圧力で髭を剃るように促されているようでした。
優作は思いました。「靖子もこんな自分に愛想を尽かしたのだろう。それは仕方ない。自分でも愛想が尽きているのだから」と。振り返るほどに、靖子の愛と信頼を裏切った過去が重く心にのしかかります。誰とも会いたくないと思っていたはずなのに、無意識のうちに白いワンボックスカーを運転し、靖子の生まれ育った宮城に向かっていました。どこでどう間違えたのか、いつの間にか宮城山に迷い込んでしまいました。
「こんな山で一人で生活でもしたいものだ」と脇見をしながら運転していると、目の前に鹿が現れました。「危ない!」と思うと同時に、無意識にハンドルを左に切り、路肩に乗り上げてしまいました。しばらくハンドルを握ったまま呆然としていると、「大丈夫か?」と、偶然通りかかった地元の人が声をかけてくれました。
「どうしたんだ?」
「鹿が飛び出してきて」
「この辺は鹿も熊も出るから気をつけなよ」
「はい、ありがとうございます」
「あれ、あんた優作さんだよね。あの画家の?」
偶然にもその人は絵画に興味があり、優作のことを知っていたのです。そこから親しくなり、その晩はその家でお世話になりました。
「そうか、いろいろあったんだな。でも人生はやり直せるから。まあ焦らず、がんばらず、のんびりと、自分の居場所を見つけたらいいさ」
「ありがとうございます」
「『雨が降れば傘をさす』だよ。当たり前のことを当たり前にやる。自然体でいけばいいんだよ」
「そうですね。自然体ですね」
「そうだ。この先に山小屋がある。もしよかったらそこを貸すから、そこで暮らしてみたら?」
「えっ、いいんですか?」
「いいとも。どうせ使ってないんだから。それと猟師としてのイロハを教えてあげるよ」
優作が山小屋で暮らしている場所は、靖子が住んでいる仙台から車でわずか30分の距離にある標高1,175メートルの宮城山です。この山は仙台の北西端にそびえ立ち、船形連峰の一支脈をなしています。宮城山には豊かな自然が広がり、多くの生き物が生息しています。朝、優作が目を覚ますと、鳥のさえずりが耳に届きます。ニホンカモシカが木々の間を優雅に歩く姿や、ニホンヤマネが木の枝を器用に渡る様子も見られます。彼の住まいの近くにはホンドタヌキやホンドギツネが姿を現し、静かに彼を観察しているようです。時折、遠くからニホンツキノワグマの姿を垣間見ることがあり、その存在感に圧倒されることもあります。
日中は山の中を歩き回り、自然の美しさに触れながら心を癒しています。宮城山の自然は四季折々の表情を見せ、春にはサクラやヤマザクラが咲き誇り、夏には青々とした木々が生い茂ります。秋になると山は紅葉に彩られ、美しい景色が広がります。冬には雪が積もり、一面の銀世界が広がります。優作はこの美しい自然の中で、自分自身を見つめ直し、新たな一歩を踏み出す勇気を持つことができました。
夜になると、星空が広がり、月の光が山々を照らします。ホンドモモンガが木の間を滑空する姿に心を奪われる日々が続いていました。
食事も自然と共にありました。庭で育てた作物や山で採れる食材を使った料理は、地元の味に満ちており、新たな食の喜びをもたらしています。庭の鶏たちに餌を与え、彼らが提供する新鮮な卵や肥料を利用することで、食材の循環を実感していました。質素ながらも栄養価の高い食事を心がけ、季節ごとの恵みを最大限に活かしていました。
山小屋での生活は、優作に新たな視点と深い感謝の心をもたらし、彼の人生を豊かに彩り続けています。
熊との遭遇もありました。優作の山小屋の前に突然、巨大な熊が現れました。その熊は体長二メートル以上あり、膨れ上がった体と荒々しい黒い毛並みが風に揺れていました。優作は恐怖に囚われ、山小屋の扉を開けようとしましたが、体が凍りついたように動けません。「このままでは殺される。殺されてたまるか」と心の中で叫び、必死にどうすればいいのかを考えました。
まず、熊と目を逸らさず、冷静に熊を睨みつけ、後ろ姿を見せないようにしました。熊と向き合い、緊迫した時間が数分続きましたが、その数分は何時間にも感じられ、体力が徐々に消耗していくのを感じていました。それでも、熊との対峙はこの山で暮らすための試練であると受け止め、優作は勇気を振り絞って立ち向かう決意を固めました。
熊は低い唸り声を上げながら、巨大な体を揺らして威嚇してきました。その凶暴な表情からは明らかな脅威が感じられましたが、優作はそれに圧倒されることなく向き合いました。冷静になろうと周囲を注意深く見渡しました。幸運なことに、昨夜の焚き火がまだ燻っていました。優作は熊の目を見つめ続けながら、慎重に足元の枯れ葉をかき混ぜて種火に火をつけました。火が勢いよく燃え上がると、驚いた熊はその場を立ち去りました。
この出来事は、優作の人生観や価値観を大きく変えました。どんな状況に直面しても、冷静に状況を判断し、逃げずに困難に立ち向かう姿勢が成功への鍵であることを学びとったのです。
三年間の山小屋での生活を通じて、優作の生活は劇的に変わりました。自然と共に過ごす日々は、彼に感謝と調和の大切さを教えました。暗くなると焚き火を囲み、明るくなると鳥のさえずりを聞きながら河辺に立つ日々は、自然のリズムに合わせた生活の喜びと安らぎをもたらしていました。
「東京に戻るつもりはないの?」と猟師仲間に聞かれると、優作ははっきりと「ないですね」と答えます。東京の喧騒とは無縁のこの生活が、彼にとって至福であり、心の平穏をもたらしていました。彼の傍らにはいつも忠実な雑種の犬たちが寄り添い、共にこの静かな山の生活を楽しんでいます。
この山での生活は、優作に新たな視点をもたらしました。自然のリズムに従い、シンプルでありながらも豊かな日々を過ごすことで、彼の心は豊かになり、感謝の気持ちが育まれています。夕暮れ時、焚き火の暖かさに包まれながら、優作は過去を振り返り、自分がどれだけ変わったかを感じることができました。
雑多な都会生活から離れ、自然と共に生きることで、優作は真の幸福と成長の意味を見出しました。この新たな生活が彼にとっての成長と感謝の源であり、心の平穏と充実感をもたらしています。