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三話 崩壊の瞬間  

 靖子は宮城東欧大学農学部を卒業後、都市銀行仙台支店に就職しました。農学の道に進むはずでしたが、虫が苦手で農業に従事するには問題が多かったのです。バッタや毛虫を見ると、失神しそうになるほどの恐怖を感じます。


東京での就職は考えていませんでした。病弱な両親と過ごす時間を大切にしたかったからです。あと何年こうして一緒に暮らせるだろうと考えると、離れられなかったのです。それだけ両親を尊敬し、大好きだったのです。とはいえ、優作も大好きで、遠距離恋愛を続けながら絆を深めていました。毎日電話やビデオ通話で近況を報告し合い、時折手紙を書いて、心がつながっていることを確認していました。


金曜日を心待ちにしている靖子は、仕事を終えると仙台駅へ向かい、東京行きの新幹線に乗って優作のアトリエへ向かいます。その途中、スーパーで買い物を済ませ、アトリエに着くと掃除や洗濯、そして食事の準備です。食事は日曜日から木曜日までをタッパーウェアに入れて冷凍庫に保存し、電子レンジで温めて食べられるようにします。洗濯物もすべて綺麗に畳んで曜日ごとに棚に入れます。まるで家政婦のようです。


金曜日の夜、優作が風呂から上がると、着替え用の下着とパジャマが用意されています。キッチンには靖子の家庭料理がテーブルに並び、ビールで乾杯し、今日の一日に感謝します。少し酔いが回り、ベランダに出て月を眺めながら「幸せがいつまでも続くことを願っているわ」と言って優作の肩に軽く頭を乗せます。


土曜日の朝、柔らかな日差しがカーテン越しに差し込み、部屋中にコーヒーの香りが広がります。靖子が作る朝食は豪華ではありませんが、煮物や味噌汁といった家庭の味がテーブルに並びます。優作が起きると、アトリエは整然と整理され、必要なものが手の届くところに揃っています。靖子は掃除機をかけ終え、窓を開けて新鮮な空気を取り入れています。


優作が鏡の前で髭を剃らずに立っていると、靖子がさりげなくカミソリを洗面台に置きます。無言の圧力を感じた優作は、その小さなジェスチャーに気付き、苦笑します。靖子の細やかな気遣いは、彼に心地よい安心感をもたらしていました。


日曜日の夕方、アトリエの窓から見える夕焼けが部屋を温かく染めます。オレンジ色の光の中、靖子は静かに荷物をまとめ、そっと優作の側を離れます。優作が作品に没頭している姿を見つめながら、静かにアトリエを後にし、新幹線に乗り込む前にアトリエの方向を振り返り、深い愛情と少しの寂しさを胸に抱きながら仙台へ帰っていきます。


愛する靖子を描いた絵画「あなたの幸せの中に」は、日常の中にある小さな幸せを美しく表現し、見る者に心温まる感動をもたらしました。優作の筆によって描かれたこの作品は、細やかな色彩と繊細な筆致で、日々の生活の中に潜む喜びを映し出しています。作品の評判が高まり、多くの人々がその温かなメッセージに共感しました。その結果、優作の名声は高まり、芸術家としての地位も確立していきました。


有名になるにつれ、優作にはテレビ番組からのオファーが続々と入りました。インタビューでは、独自のコメントスタイルで経済や社会の問題に切り込みます。「経済学には無知ながらも、私は経済の本質を探るんですよ。それは人々が日々の生活で感じることであり、アートと経済の交わる点だと考えています」と笑顔で語り、視聴者を引き付けます。


彼の言葉は率直でありながらも鋭い視点が光ります。バラエティ番組では政治的な問題にも独自の角度から切り込み、「私たちの未来を左右するのは、政策の本質とその実行力です。ここに経済と社会の課題が交錯していると感じるんです」と真剣な表情で語ります。その一方で、コミカルな一面も人気です。「経済の話をするとき、もちろんユーモアも忘れませんよ。経済は重い話題ですが、私たちは皆、日々のお金の使い方から経済活動に影響を与えていますからね」と笑いを誘います。


優作のコメントスタイルは彼のアートと人生観を結びつけ、視聴者やファンの心を魅了しました。靖子と優作の関係は、遠距離という試練を超えながらも、お互いの愛情と絆で深まっていきました。優作がテレビで注目を浴びる中、靖子も彼の成功を支える存在として、陰ながらその役割を果たしていました。


優作の出演するテレビ番組では、彼の独自のコメントがますます注目を集めました。政治経済の問題に対する鋭い洞察とアートを通じて見る視点は、多くの視聴者に新たな気づきを与えました。彼の発言はしばしば議論を呼びましたが、それがまた彼の人気を高める要因となっていました。ある日、優作はテレビのインタビューで次のように語りました。「靖子と過ごす時間は、私の創作にとって非常に大切なものです。彼女がいなければ、私の作品はここまで人々の心に響くものにならなかったでしょう。彼女の支えがあってこその私です」と。


その言葉は視聴者に深い感動を与え、靖子もまたそのインタビューを見て胸が熱くなりました。二人の絆は、言葉にするまでもなく互いにとってかけがえのないものでした。優作の言葉や行動、そして靖子との関係は、多くの人々に希望と勇気を与え続けました。彼のアートは単なる芸術作品にとどまらず、人々の心に深い感動を与え、二人の物語は永遠に語り継がれるはずでした。


出会いには良い出会いとそうでない出会いがあります。あの一瞬の出会いが全てを破壊するとは…


優作は、テレビ番組の収録後、ホテルのロビーで静かにため息をつき、部屋に戻ろうとしていました。彼は疲れ切っていて、肩が少し落ち、瞼が重くなっていました。ロビーの明かりは柔らかく、静かな空間が広がっていました。


突然、柔らかい声が彼を呼び止めました。「山崎優作さんではありませんか?」

その声に振り向くと、そこには彼が長年夢見ていた女優、和泉華子が立っていました。彼女はロングドレスを纏い、微かに香る香水の匂いが漂ってきました。彼女の瞳は夜空に輝く星のように煌めき、その笑顔は春の陽光のように温かく、心臓の鼓動は耳に届くほど激しくなりました。高校生時代の情熱と憧れが鮮やかに蘇り、まるで時間が逆行したかのような感覚に包まれました。


華子の微笑みは、優作が心の中で描いていた理想そのもので、その女優が目の前にいるのです。夢が現実になった瞬間でした。


「優作さんの絵って、女心をくすぐりますね。私はとっても好きです」彼女の声は、少年キャラクターを演じる緒方恵美さんのように、心の奥底から湧き上がる深い感情を表現していました。一つ一つの言葉が、ピアノの鍵盤を優雅に奏でるように流麗でありながらも、強烈なインパクトを与え、彼の心は感動と興奮で満たされました。

「どうですか、これからバーで赤ワインでもご一緒しませんか?」彼女の誘いに、優作の心は弾むように舞い上がり、夢心地のような感覚に包まれました。これは一生に一度のチャンスだと感じた彼は、「こんな私でいいんですか?」と少し不安になりながらも頷き、エレベーターに乗りました。

エレベーターの中で二人きりになると、華子は優作の腕に身を寄せ、彼の腕に胸を押し付けながら密かに寄り添ってきました。彼女の柔らかな髪の香りが漂い、華子の胸が腕に触れるたびに、優作は夢と現実の境界線が曖昧になっていくのを感じました。彼女の肌の温もりが、優作の心を一層高鳴らせました。


「バーで飲むより私の部屋で飲みませんか?美味しい赤ワインもありますから」

「部屋?和泉さんの部屋で、ですか?」

「いやですか?」

「そんなことはありません。こんな私でよければ」


優作は和泉華子の魅力に圧倒されました。部屋に入ると、彼女は優作に向かって微笑み、その微笑みによって彼の胸の鼓動はさらに速くなりました。彼女の部屋は上品なインテリアに彩られ、暖かい光が部屋全体を包んでいます。優作は、夢の中にいるような感覚に包まれていきました。


あれ以来、寝ても覚めても華子の華麗さが忘れられません。靖子の献身的な支えにもかかわらず、煌びやかに輝く彼女のことを忘れることができなくなっていました。


彼女の注意を引くために、高級バッグやダイヤの指輪、ネックレス、ステージ用のドレスなど、彼女が欲しいと言えば何でも買ってあげました。二面性のある彼女はこれを巧みに利用し、外見はしおらしく振る舞いながら、心の中では異なる感情を持っていました。もらったバッグを高価買取店に持ち込んで現金に換金していたのです。


金の切れ目が縁の切れ目です。心のこもっていない彼の絵画は誰からも見向きをされなくなってしまいました。もう高価な贈り物も高級なレストランでの食事もできなくなりました。そんな時です。彼女から別れ話が持ち出されました。


「今日で終わりにしましょう。色々とありがとう」

「えっ!」

「そうよ。今日で終わりにしましょう」

「そんな…急に…」

「だってそうでしょ。私は名声とお金のある人が好きなの。だからよ」

「なんだそれ!わかった。別れよう。だから最後に」そう言って迫り、強引にラブホテルに誘い、愛に燃えました。


 一ヶ月後、週刊誌の表紙一面に華子と抱き合っている姿が大きく報じられました。記事は彼のプライベートな一部始終を暴露し、これまでの優作の清廉潔白なイメージを覆すものでした。世間の反応は冷酷で、彼の行動に対する批判が瞬く間に炎のように広がり、彼の名声を焼き尽くしました。SNSやメディアは彼を非難する声で溢れ、炎上が止まることはありませんでした。


最初に影響を受けたのはテレビコマーシャルでした。彼が出演する全ての広告契約が次々と打ち切られ、テレビ画面から彼の顔が消えていくのを見て、優作は何も言えずただ立ち尽くすしかありませんでした。


それだけではありません。今までのレギュラー番組も次々と降板を通告され、プロデューサーや共演者からの電話は冷たいものでした。「申し訳ないが、もう君を使えない」と告げられ、かつての仲間たちも彼を遠ざけ、孤独感が彼を襲いました。


優作はこれまで築き上げてきたキャリアが、一瞬で瓦解していくのを目の当たりにしました。自分の努力と成功が砂の城のように崩れ落ちる様を、ただ無力に見つめるしかありませんでした。世間のバッシングは彼の心を深く傷つけ、絶望の淵へと追いやりました。


暗い部屋の中、優作は一人で立ち尽くし、全てが失われていく音を聞いていました。それはまるで、静寂の中で響く崩壊の音のようでした。建設は死闘、破壊は一瞬です。


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