9 森の中で
娘侍女に付き添われ宮殿を後にしたサディアは軽くなった腕にバスケットをかけ直す。
今日の仕事はトビアスの帽子を宮殿に届けること。残っている任務はトビアスにミンカの反応を報告することだけだ。
閉じゆく門を振り返り、サディアは遠くに見える宮殿を見上げる。
ちょうど重い金属音が響いたところだった。施錠された門の向こう側に並んだ彫像を見つめ、サディアの肩からほっと力が抜けていく。
ミンカだけでなくフェリクスの側近であるジーノと出くわすことになるとは全くの想定外だった。無事に彼らと別れられた今、心の奥底で怯えていた罪悪感がようやく眠りについてくれた。
状況から、宝石を盗んだのがフクロウだと推測はできても、その正体が人間であることなど分かるはずがない。しかし例え真実が彼らには想像もつかないものだとしても、やはり警戒はしてしまう。
とはいえ、自分が彼らに窃盗犯だと思われていないのは確かだ。宮殿を背に歩き出したサディアはもう一度息を吐きだし、無事に街に戻ってこられたことに安堵する。
深呼吸をしてみれば、先ほどとは違う酸素が鼻を通っていく。
やはりこちらとあちらの世界は違う。目の前にしたミンカの煌びやかさや使用人たちの品位ある風貌を思い出し、サディアはもう一度宮殿を振り返った。
彼らはこちらの空気の味をどのように感じているのだろう。街に来て時が経った今、この味わい深い街の匂いがサディアは気に入っていた──が、きっと彼らは物足りないと思うはず。
ミンカの美しい髪が身体の動きに合わせて揺れる光景が脳裏に浮かび、少しだけ気分が落ち込んだ。
あとはトビアスに報告するだけ。それが終われば今日は夜まで何も予定はない。夜を迎えれば、今度はあの宝石をグラハムに届けに行かなくては。
そして宝石に何か手掛かりが隠されていたとすればもうこの街に戻ることもないかもしれない。
サディアの足がぴたりと止まる。
空気を吸い込み、再び街の匂いを身体に染み渡す。
──もう、最後かもしれない
そう思えば感傷的な気分になるのも無理はない。最初はさっさと済ませたいと思っていたというのに、愛着とは厄介なものだ。
家に向けて運んでいたサディアの足が踵を返して反対側を向いた。
最後だというのならばもう少しくらいこの街を満喫しても罰は当たらないはずだ。
先ほど見た広大な森を思い返し、サディアはふらりふらりとゆっくり歩み出す。
あのような立派な木々を見ることは難しいが、確かこの近くにも似たような林が広がっていたはず。あの場所も、宮殿内と同じような空気が漂っているのだろうか。
少しの好奇心に駆られたサディアは上空から見た街を頭に描きながら迷うことなく目的地を目指した。
宮殿から少し離れ北に進んだところに思った通りの場所があった。森、というには若干心許ない程度に広がる木々にサディアは微かに頬を緩める。記憶通りだ。地上から来るのは初めてだったが、いつも見下ろしていたその場所はささやかな安らぎに満ちている。
「お邪魔します」
誰かがいるはずもなくとも自然と口にしていた。フクロウの時に想像していたことだ。緑が少なくなってきたマニュに生きる動植物たちにとってこの林はきっと楽園なのだと。
今は人間。つまりは彼らにしてみれば部外者だ。サディアはぺこりと頭を下げてから林を進む。
きらきらと木漏れ日が踊る大地を踏みしめ、サディアはスカートを持ち上げながら冒険者の気分になって林の中を探索した。
残念ながら流れる空気は宮殿のものとは違った。けれどそれよりも初々しく、快活さを感じるここの味もなかなかに捨てがたいものだった。
手ごろな岩を見つけ腰を掛けたサディアはバスケットの中に残っていたパンを手に取る。宮殿に行く前に腹ごしらえに買ったものだ。結局、緊張感に負け、空腹は静まってしまい食べ損ねていたが。
落ち着ける場所を見つけたからか、今になってその空腹感が戻ってきたらしい。サディアはパンにかじりついて木の葉の音に耳を澄ませる。心なしか、真夜中に聞くよりも軽やかな音程だった。森に隠れ住んでいた頃を思い出す。
グラハムのもとへ戻ればまた同じ日々に戻るのだろう。窮屈で、少しだけ退屈で。帰る場所もない。けれどサディアにはまだ望みもあった。
もし、あの魔術師を見つけることが出来れば。そうすればきっと、いつもとは違う結末を迎えることができるはず。
最後の一口に希望を託し、サディアは力強くそれを飲み込んだ。すると。
「ワンッ──ワンワンッ──ワッ‼」
そう遠くもない位置でけたたましい犬の咆哮が弾けた。静寂に割り込んだ轟音に驚き、サディアの身体も反射的にびくりと飛び上がる。
野良犬か。
さっと立ち上がり、サディアは声のする方向をじっと見やる。野生の動物たちに対する恐れはないが、もし病気を持っていたら厄介だ。危険が迫っているかを確認するためにサディアは慎重な動きで木の影から様子を窺った。
「がうう──ワンッ‼」
さっきまでとは声色が変わる。犬は何かを威嚇しているようだった。足音を顰めて近づくサディアにもだんだんと状況が見えてくる。
がさがさと、視界の一部が不自然に騒がしい。最後に一声吠えた大型犬が急ぎ足で去って行く後ろ姿よりも手前で、巨体が翼を広げて地面を啄んでいるのだ。どうやら犬もその迫力に観念して逃げ去ったらしい。
「きゅるるるるる──きゅー‼」
地面を夢中でつつく巨体の下からは口笛とも錯覚する、鈴が転がるような甲高い喚き声が突き上がる。
「あっ……!」
雄大な巨体に気を取られていたサディアは慌てて近くに落ちていた太い枝を拾った。巨体に押しつぶされ、今にも身を切られそうな小動物の姿が目に入ったからだ。
「こらっ! だめっ」
咄嗟に出てきた叱責とともにサディアは両手で持った枝を棍棒のように振り回す。巨体はばさばさと翼を泳がせサディアの攻撃に対抗してくる。サディアはなんとか反撃に耐えながら相手を宙へと誘っていった。
フクロウ姿であればとっくにやられていたかもしれない。なにせ今サディアが相手にしているのは猛禽類の頂点に近い存在である鷲なのだ。しかも平均よりも身体が大きく、下手すれば人間の子どもでも楽々連れ去れるくらいの巨大な鷲だ。
「やめて‼」
枝を器用に振り回し、鷲の視界を錯乱させながらサディアは少しずつ前に出ていく。彼女の足元には一匹のシマリスが血を流して倒れていた。
本来なら林にお邪魔している身。彼らの食事に関して干渉する権利もないはず。だがサディアはどうしても、目の前で起こる惨い悲劇を放ってはおけなかった。
例え相手が人間だろうと動物だろうと、傷つき苦しむ姿を見過ごすことなどできないからだ。
──もう充分
そんな光景はもう見たくはないのだ。
「ピィイイイイ」
しつこく攻撃してくるサディアに嫌気がさしたのか、木々を揺らす咆哮とともに鷲は高く飛び上がって空へと消えていった。食事の邪魔をされたことに鷲は激怒しているに違いない。静寂が戻った林の中で、サディアは息を切らしながら苦虫を嚙み潰したような顔をする。──嫌われてしまった。
しかし肩を落としている暇もない。倒れ込んでいるシマリスを両手で抱えそのまま耳に近づける。呼吸は浅く、今にも息絶えてしまいそうだった。
「大変。すぐに手当てしないと……」
僅かな呼吸でしか動かない小さな身体をゆっくりとバスケットの中に収め、サディアは駆け足で街に戻った。
不運にも今日は街唯一の動物病院はお休みだ。サディアは薬局で応急処置に使える道具を買い家へと向かった。ちょうどパティオには誰もいなかった。二階に上がる時間も惜しく、サディアはその場で手当てを始める。
フクロウになってまだ間もない頃、よくグラハムに手当てされていたことを思い出す。その時の記憶を頼りに、サディアは小さな身体から汚れを落とし、微かに裂けた皮膚を縫ってから丁寧に包帯を巻いていった。
「もう大丈夫。きっとすぐによくなるからね」
無事に治療を終え、サディアは人差し指で優しくシマリスの頭を撫でた。するとずっと閉じられていたシマリスの瞳が僅かに開く。
「きゅ……」
何が起きたのかまだ理解できていないようだ。が、命は助かった。ぼんやりとしたシマリスの表情を見やり、サディアは胸を撫でおろして頬を弛ませる。
一仕事を終えたサディアがようやく心を落ち着けた時、背後から亡霊のごとく薄い声が彼女を呼んだ。
「サディア……」
「──トビアス! 寝ていないと駄目でしょう。ほら、そんなにふらふらして」
彼の部屋の扉の前にその不健康な姿を見つけ、サディアは急いで彼に駆け寄る。
「わかってる。けど、サディアが帰ってきた音が聞こえて──居てもたっても居られなくなったんだ」
「気持ちはわかるけど……無理をしては治るのが遅れるだけ。そうしたら、またミンカ様に帽子を届ける日も遅れてしまうでしょう」
「──え?」
トビアスを心配そうに見上げ、額に滲んでいた汗を拭きとるサディアの言葉に彼の目が開く。
「いま、なんて……?」
「だから、"次の機会"が、延びてしまうでしょう。トビアス、ミンカ様に会いたくはないの?」
「つぎの……きかい……?」
「うん。ミンカ様、トビアスの帽子をとっても気に入っていたの。絶対に次の声がかかるはず。ふふ。もしかしたら、もう明日には使者が送られてくるかもしれない」
「それ──ほんとか?」
「本当よ。ミンカ様だけでなく侍女の人たちも気に入っていたのだから。トビアス、だから今はゆっくり休んで。次はトビアスが直接ミンカ様に届けてあげてね」
「サディア──っ‼」
「うわぁ……っ! ちょ、ちょっとトビアス──!」
サディアが口を開く度に輝きを増していったトビアスの表情がついにしわくちゃの笑顔に変わる。よほど嬉しかったのか、トビアスは汗を拭いていたサディアの身体を勢いのままに持ち上げ、その場をぐるぐると何回転もした。
「目が、目が回る、とびあす……!」
「ごめんごめん。嬉しくてつい。サディア、やったな。ついにエリエ工房の名が国を飛び出す機会を得たぞ!」
「うん。おめでとうトビアス」
「あのミンカ様に気に入って頂けたら、未来は相当明るくなる」
「ええ。そうね。だからトビアス、部屋に戻ってちゃんと寝て。まだ身体が熱っぽいもの」
のぼせた顔のまま希望を語るトビアスの夢見心地な表情につられサディアもほんのりと笑顔を広げた。しかし、朗報はともかくとして彼は病人だ。心を鬼にし、サディアは足元のおぼつかない彼の背中を押してベッドに寝かせる。
「やったぞ……さでぃあ……これで、たびにでても、だいじょう──……」
「──おやすみ、トビアス」
緊張の糸が切れたのか、眠りにつくのも早かった。最後の方は寝言のようでしっかりとは聞き取れなかった。けれど彼が未来の展望を語っていることは窺い知れた。トビアスに毛布を掛けてから部屋を出たサディアだったが、その後ろ髪はまだ未練を残していた。
彼に会うのもこれが最後。そう、きっと最後なのだ。
「──あ。ふふ。見ていたのね」
そんな沈んだ心と同じくらい浮かない瞳が捉えたのは机に置いたバスケットの中からこちらを見ているシマリスの姿だった。
「きゅる」
「目が覚めたのね。お腹空いたでしょう。何か食べられるものを持っていくから、少し部屋で待っていてね」
バスケットを手に二階に上がったサディアは気持ちを切り替えるように無理矢理に笑顔を作ってみせた。部屋の扉を開け、シマリスをバスケットに残したままサディアはもう一度部屋を後にした。
扉を閉め、サディアは二階の廊下からトビアスの部屋を名残惜しそうにぼうっと見やる。彼に誘われていた仕事も必然的に断らざるを得ない。
ちくり、ちくりと、身体が少しずつ切り刻まれていくような感覚だった。
これではまるで、鷲に襲われていたシマリスと同じだ。