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8 昼の宮殿



 険相な顔つきの彫像に見下ろされると、すべてを見透かされているようで居心地が悪い。

 胸に抱えた箱を持つ手に力が入る。見上げた先の全身乳白色の巻き毛の男たちに睨まれ、サディアはごくりと息をのみ込んだ。

 普段彼らを空から見る時とは印象が大きく異なる。妙な緊張感が喉を走った。


「トビアス・エリエの代理人です。ミンカ様へ帽子をお届けに参りました」


 目の前にいる人間に全くの関心を持たぬ眼差しをした門番に向かって丁寧に頭を下げる。彼女が手にした丸い箱を一瞥し、門番は声を発することなく頷く。


「来客だ。案内しろ」


 そのまま、彼はサディアに対してではなく五メートルほど先にいた同僚らしき男に声をかけた。サディアがもう一人の男の方へ目を向けている間に、最初の門番の視線は定位置へと戻っていった。


「エリエ工房の者か? ご苦労だったな。中へ案内しよう。その箱は重くはないか?」


 サディアを案内するように指示された彼が駆け足で寄ってきた。彼は目深にかぶった衛兵帽を人差し指で持ち上げ、爽やかな笑顔でサディアに訊ねる。


「大丈夫です」

「そうか。ならこのまま行こう」


 サディアの返事に衛兵はにっこり笑って前を歩き始める。恐らく、重いと言えば代わりに持つつもりだったのだろう。差し出しかけていた彼の手が下がっていくのを確認し、サディアは大人しくその背中に続く。


「エリエ工房って最近人気らしいな。私の姉も旦那に買ってもらって大喜びしていたよ。一体どんな人間が作っているのかと思ったが、噂のトビアスとやらは今日はどうしたんだい。折角の晴れの日だというのに」

「トビアスは、今日は体調を崩しているので家で休んでいます。この帽子を完成させるためにずっと眠れていませんでしたから」

「まさに身を粉にしたってところか。直接会えないのは残念だが、その帽子がミンカ様の頭に乗ることを思えば、彼の苦労は報われるからいいのかな」


 衛兵は軽やかな口調でトビアスへの同情の言葉をこぼす。最初に声をかけた門番とは打って変わり、こちらの衛兵はお喋りが好きなようだ。人懐っこい表情を見上げてサディアは瞬きする。宮殿にいる人間はもっとお堅く、とっつきにくい者ばかりかと思い込んでいたからだ。

 太陽の光を浴びる宮殿を間近で見ることは初めてだった。闇夜の中に佇む宮殿の、身が引き締まるような厳かさとは違い、陽に照らされた瀟洒な建物は少しの親しみやすさすら感じる。


 最初の門番が夜中の宮殿の化身だとするならば、前を歩く衛兵の彼はまさに昼間の和やかな宮殿の姿を体現していた。

 知っている場所のはずなのに、受ける印象は真逆だ。

 宮殿まで続く道の両脇には見事に整備された美しい庭が構えられ、ちょうど庭師たちが働いているところだった。

 一人の庭師がサディアの姿に気づき顔を上げる。目が合えば、壮年の彼は愛嬌のある笑顔で会釈してきた。不意のことに驚いたサディアは笑みをつくる余裕もなく急いで会釈だけを返す。


 庭の向こうには宮殿を取り囲むように森が広がっている。発展の目覚ましい帝都マニュではここまで広大な自然の姿を見られる場所は少ない。そんな貴重な木々たちのおかげだろうか。門を抜けてから宮殿の扉に近づくにつれて徐々に空気が澄んでいく気がした。

 衛兵に気づかれぬようにサディアはそっと空気を吸い込む。肺が広がり、気分が晴れて楽になっていく。

 フクロウ姿の時にはあまり気づかなかった。視覚で捉える豪華絢爛な建物だけでなく、場に漂う空気すらここは違う。すべてが格別だ。

 世間と乖離した浮世離れの空間はまさしく許された者だけに与えられた特権なのだろう。


「さぁ、お入り。応接間でミンカ様の侍女たちが待っている。まずはその帽子に危険がないかを確認しないと。まぁ、私はそんな変なことはないと思っているけど、一応、ね。決まりだから。気を悪くしないでくれ」


 宮殿の扉を開けた衛兵は、煌びやかな調度品に意識を取られていたサディアに左側の部屋に入るよう指示をする。


「ありがとうございます」


 サディアがお辞儀をすると衛兵は敬礼を返して来た道を戻って行った。

 彼に示された部屋はすでに扉が解放されていた。様子を窺いながらサディアは足を踏み入れる。


「お待ちしておりました。さぁ、こちらに掛けてください」


 待ち構えていたのは若い侍女と彼女の母親と思しき妙齢の女の二人だった。

 二つに結んだ髪を背中に流すサディアとは違い、二人の髪の毛は肩より上に収まるようにまとめられている。


「トビアス氏が直接来られないのは残念でしたね。でも、また機会があればお会いすることも出来るでしょう」


 二人と向かい合う位置の椅子に座ったサディアに最初にかけられた言葉はやはりトビアスに関することだった。それも当然か。サディアは箱を机に置き、彼女たちの気遣いに礼をする。


「今回のお話、とても光栄だとトビアスも喜んでいました。ミンカ様に気に入っていただけるかは分かりませんが……彼は全身全霊をかけ、渾身の作品を創り上げることが出来たと、私も思っております」

「それは楽しみ。ではさっそく、私たちの方で確認させていただくわね」

「もちろん、エリエ工房を疑っているわけではないのよ? でも規則だから。ミンカ様たちの命を狙う輩だっていないわけじゃないのよ」

「はい。十分に、承知しております」


 親子が申し訳なさそうに肩をすくめたので、サディアは両手を膝の上に揃えたまま姿勢よく頷いた。

 皇帝の妹であるミンカ・ミュドールが兄に引けを取らぬ有望株だという噂は聞いている。皇帝や王族、貴族たちのような特権階級の世界をすべて知っているわけではないが、思うほど穏やかではないこともサディアは察しがついていた。グラハムがよく言っていた。血なまぐささのない生活など、彼らは生きた心地がしないのだと。


「まぁ、なんて素敵なの……‼」


 サディアが彼らの生活に思いを馳せているうちに、箱から取り出した烏色の中折れ帽を見た侍女たちの歓声が飛び出す。

 今回トビアスがミンカのために製作した帽子は女性がかぶるには珍しい中折れ帽だった。ミンカが着ることの多い広がりの少ない服装に合うようにと敢えてその形を選んだらしい。


 通常のものよりも長めに設定したツバと帽子の山をぐるりと囲むメルティピンクのレースの装飾が全体の印象を華やかにし、品の良さと遊び心の両面を味わえるデザインに仕上げている。

 取り外し可能な造花の飾りはミンカをイメージした架空の花だ。若い侍女はうっとりした眼差しでため息を吐いた。


「本当に可愛い帽子ね。毒味代わりとはいえ、一度でもこの帽子を身につけられたことが嬉しいわ。ああ。箱に戻すのが惜しい……ねぇ、もうちょっとかぶっていてもいいじゃない。もしかしたらまだ針が残っていたかも」


 母親に頭に乗っていた帽子を取られ、若い侍女は名残惜しそうな声で唸る。


「もう十分に確認したでしょ。そもそも、こんな想いのこもったものならば危険なんてないはずよ。形を崩してしまったりしたら大変でしょ。ほら、レースもとても繊細なつくりなんだから」

「もー。お母さんはケチなんだから」


 ぶーたれる娘の文句をものともせず、母親の侍女は帽子を丁寧に箱に戻した。


「ごめんなさいね、お騒がせして。とても素晴らしいものをありがとう。きっとミンカ様もお気に召されるわ」

「ありがとうございます。トビアスもその言葉を聞いて喜びます」


 危険なんてあるはずない。

 母親が何の疑いもなく言ったその言葉にサディアの胸がチクリと痛む。

 確かにトビアスの作った帽子には一寸の危険も潜んでいない。そんなこときっと考えもしないはず。けれど自分は──。


 閉じられていく箱の蓋を眺めながらサディアはぎゅっと唇の裏を噛む。

 自室にしまい込んだ紫色の宝石が瞼の裏で輝く。

 あの時、姿こそ別物ではあったものの、フェリクスの胸元から宝石を奪ったのは確かだ。

 自分自身が危険を孕んだ異物なのに、目の前の侍女たちはそんな疑念を一切持ち合わせていない。なんだか奇妙な感覚だった。


 まだあの宝石に魔術師への道標があるかは確認できていない。持ち帰ったはいいが、見る限りただひたすらに美しい宝石で、自分には何の解読もできそうになかったからだ。

 だが自身も魔術師であるグラハムならば何か分かるかもしれない。早いところ彼のもとに戻って、出口の見えないこの任務を終わらせなければ。

 サディアが自らの決意を固めた瞬間、膨らんでいた娘の侍女の頬からぷう、と空気が漏れていった。


 間の抜けたその音にサディアが顔を上げると、侍女二人が扉の方を見て慌てて立ち上がった。

 二人の表情が一気に引き締まったところを見てサディアも何事かと立ち上がり入口の方を見やる。すると、開かれたままの扉の前で薄い生地の羽織を纏った麗人が微笑んでいた。


「まぁ、もういらしていたの。先取りするつもりだったのに負けてしまったようね。確認なんて面倒なこと、必要ないのに」

「ミンカ様、そうは言われましてもこれは規則でして」

「わたしはそんなにヤワではないの。少しの危険くらい、自分で見分けられるのだから」


 母親侍女の言葉を押しのけ、ミンカはつかつかとサディアの横を通り過ぎていく。


「トビアス・エリエ、って、男の方だと思っていたのだけれど」

「いえ、私は彼の代理人です。この帽子を必ず届けるよう、仰せつかって参りました」

「それは結構なこと。ふふ。まぁいいでしょう、肝心なのは中身。ねぇ、二人はもう先に見ているのでしょう? わたしをあまり嫉妬させないで?」


 サディアに向けられた視線は一瞬だった。ミンカはすぐに侍女たちに顔を向け、いじらしい表情で二人を急かす。

 フクロウ姿で宮殿に通っていたサディアも彼女を近くで見るのは初めてだった。遠くで見た時よりも圧倒的な存在感がある。すらりとした骨格自体は華奢で、比較的長身であることが実感できる。

 傍で聞く話し声は愛らしさを兼ね備え、表情の豊かさも相まって彼女の仕草はとても可憐に見えた。

 生物学的には同じ枠に当てはまるはずなのに、そんな事実はまるで信じられないくらい彼女は魅力に溢れている。


「ねぇ見て? このレース‼ とても緻密に編まれている。すっごく綺麗だと思わない? ふふふ。これぞ職人技ね」

「それはトビアスの友人であるニコラ・ブノワが作ったものです」

「思いがけずいい名前を聞けたわ。エリエ、ブノワ……ふふ、これから覚えていなくっちゃね」


 箱から取り出した帽子に無邪気にはしゃぐミンカの屈託のない笑顔を見つめ、サディアの強張っていた緊張の糸が解けていく。トビアスだけでなくニコラの仕事までも認められたことが純粋に嬉しかったのだ。

 どんな人かと身構えてはいたが、想像以上に明るく気さくなミンカの態度にほっとしたのもある。と、同時に、やはり罪悪感が胸をよぎった。


 彼の兄であるフェリクス・ミュドールは、宝石が消えたことをどう思っているのだろう。もしやフクロウのことを嫌いになってしまっているかもしれない。

 次にズキン、と大きく痛みを覚えたのは胸ではなく頭だった。

 いつまで経っても自分が迎える最後は決まっている。それを思い出してしまったのだ。

 皆に敬愛されるミンカの伸び伸びとした笑顔を見ていると自分との違いをまざまざと見せつけられてしまう。


 彼女とは生物学的観点に留まらず、境遇すら似ていたはずなのに──こうも違うものなのか。

 痛むこめかみに指を沿わせ、サディアはミンカたちから目を逸らして暗い眼差しを扉の方へ逃がす──と。

 思いがけずその場所に見知らぬ黒髪の男が立っていて、サディアはつい驚いた声を出す。

 サディアの驚嘆に男の存在に気づいたミンカが手を叩く。


「あらジーノ。ちょうど良かった。この帽子、わたしの部屋に運んでくれない?」

「なぜ私が」

「どうせ今の時間は暇でしょう? わたしこの後用事があるの。上に行くのは手間だから、ならジーノにお願いしたいなって思って」

「私はミンカ様の侍者ではありませんが」

「細かいことを気にしては駄目じゃない。二人もまだ仕事が残っているのだから。いいでしょうジーノ。兄様あにさまの部屋に寄るついでに、ね?」

「────はぁ」


 特大のため息が男の口から出ていった。仮にも皇帝の妹であるミンカ相手に平気で露骨な態度を取るこの男の正体にサディアは興味を持つ。が、ふと先ほどミンカが呼んだ名前に聞き覚えがあることを思い出す。


「しょうがないですねぇ」


 気怠い声をして重い足取りで箱を取りにきたこの妙に身なりの整った男はフェリクスがよく話していた側近のジーノに違いない。サディアの身体が無意識に一歩後ろへ下がる。フェリクスの側近という事は、恐らく宝石が失くなったことを彼も知っているはずだ。


 サディアの発する気まずい空気を感じ取ったのか、ジーノはちらりと尻目を向けた。ヘーゼルの瞳に心を悟られぬようにサディアは咄嗟に頭を下げる。と、下げた視線の先でジーノの上着のポケットがもぞもぞと動いたように見えた。

 見間違いかと、サディアはお辞儀をしたままもう一度ポケットをよく見る。何も動いていない。予想外の人物の登場に焦るあまり幻覚を見たか。


「それでは失礼するわ。二人ともあとはよろしくね」

「はい、ミンカ様──それでは、お客様をお送りしましょう」


 母親侍女は部屋を出ていくミンカに深々と頭を下げてから娘の背を叩く。


「ちょうどダズの散歩の時間だし、門まで送り届けてあげなさい」

「はーい」


 娘侍女は母親に緩く返事をしてからくるりと身体をサディアの方に向ける。


「ダズ……?」

「そうなの。番犬のことよ。まだ子どもでやんちゃなの。毎日同じ時間に散歩しないと機嫌を悪くしちゃうから困っちゃうよね」


 娘侍女は恐らくサディアよりも年下だ。部屋を出る間際、彼女はまだ幼さの残るあどけない表情でサディアに笑いかける。


「でも、今日は素敵な帽子を試着できちゃったから気分もいいし、いつもより長めに散歩に付き合ってあげちゃおっかな」


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