7 大切なもの
*
初めて宮殿を訪れてから数週間が経った。
夜中に自分の部屋からフェリクスの部屋へ向かう習慣がすっかり身体に馴染んできたサディアは今晩も規則的に空へと飛び立つ。
「今日も会えたな」
「ホー」
フェリクスは毎晩決まって自分の元へ訪れてくるフクロウを歓迎し、見つけるなり窓を開けてくれるようになっていた。サディアもまた不安定な枝よりも足場の安定した窓の方が良く、彼が窓を開ければすぐにそちらに移動するのが定番になった。
「よしよし。よく来たな。今日は雨が降っているから無理かと思っていたが」
全身が雨に濡れて毛羽立ったフクロウの姿を見たフェリクスは大きめの織物を持ってきてフクロウの身体をふわりと包み込んだ。
そのままわしわしと優しい力で水気を拭き取っていく。彼の声は明るかったが、思った以上に湿り気のあったフクロウの身体の冷たさに遠慮したのか、笑みは控えめなものだった。
水気を拭きとられた羽根が少しずつ乾き、ふわふわと浮足立ってくる。精悍な顔つきに似合わず、ぼさっとした毛によって愛らしさが増していくフクロウの形姿にフェリクスの青緑の瞳が細まっていく。
「ホー」
特に騒ぐことも抵抗することもなく、サディアは拭き終わりの時を大人しく待っているだけだった。最初に彼に頭を撫でられた時には意味が分からず放心していたが、慣れれば案外心地の良いものだ。
誰かに肩もみをしてもらうと凝り固まった疲れが癒えるのと同じで、彼が良い塩梅の力加減で身体を撫でていくことで全身の筋肉が解されていくようだった。
フクロウの瞳がゆっくり閉じていくのに気づいたフェリクスがクスリと息を漏らす。
「君も疲れているんだな。この雨の中の飛行は大変そうだ。じきに雨は止むはずだから、それまでゆっくりしていくといい」
「ほー」
いつもより緩やかな声が喉から出ていく。フクロウの気持ちよさそうな伸びやかな表情にフェリクスの口角が柔らかに持ち上がる。閉じていた瞳を開けたサディアは一番に映ったその眉目好い微笑みにビクリと心臓を震わせた。
「あ、悪い。ちょっと強かったか?」
「ほ──っ、ホー」
小さな心臓に同期した身体が跳ね、フェリクスの手が止まる。気が咎めたのか彼はフクロウの身体から手を離し、濡れた織物を近くのポールハンガーに雑に掛ける。
「大丈夫か? 悪かった」
急いでフクロウのもとに戻り、フェリクスは眉尻を下げて謝った。ひどく申し訳なさそうな面持ちだ。
しかしサディアにしてみれば彼が謝る理由などなく、そんな顔をされれば逆に気まずくなってしまう。自分が驚いたのは彼の顔が存外近くにあったからというだけだ。窓辺に来るようになって彼を近くで見ることにはだいぶ慣れたが、あのような穏やかな表情を見るのは初めてだった。それが意外だったのだ。
「ホー」
大丈夫です。と言いたくて、サディアはいつもより大きめに鳴いた。元気なフクロウの声を聞いたフェリクスはほっとしたのか強張っていた頬を緩ませ、床につけていた片膝を立ち上がらせる。どうやら仕事に戻るらしい。
ここ最近の彼のこの部屋での過ごし方はサディアも熟知している。
側近であるジーノと別れ部屋に入った彼はまず息苦しい上着を脱いで椅子に掛ける。次に分厚い本の続きを少し読み、休憩を取ってから本格的に仕事に取り掛かる。彼が部屋で行うのは主に書類仕事だ。その間、玉乗り少女のオートマタを動かす時もあれば、フクロウと会話をすることもある。
サディアは窓辺に留まって、彼の一挙手一投足を見逃すまいと目を見張らせ続けた。だがここまでの成果は特にない。
さすがの夜帝と言うべきか、彼は一晩中起きていることの方が多いが、たまに寝落ちしてしまうこともあった。そんな絶好の機会に部屋の中を少し探索してみたこともある。
が、結果は同じ。グラハムが探す魔術師に関する手掛かりは未だ何も手に入れていない。
分かったことと言えば、彼がいつも疲れていることと、五つ年上の側近ジーノがなかなかに曲者であるらしいこと、そしてどうやらフクロウが好きらしいということくらいだ。
彼はやたらとフクロウのことを褒めてくれる。話を聞く限り、同じ猛禽類である鷹や鷲だって十分に彼の理想に近いのに。彼は目の前のフクロウ相手にも気を遣ってくれているのだろうか。それとも日光アレルギーの話は本当で、夜行性であるフクロウに共感しているのか。
妙な違和感はあれど人の好みは勝手なことで、サディアの干渉する範囲ではない。
関心外と言えばもう一つ、サディアには少し気になることがあった。
ニコラによれば、彼は夜な夜な宮殿に女を呼びつけて楽しんでいるとの話だった。ティーハウスに集う客たちも同じようなことを話していたことがあった。
だが毎晩フェリクスのことを偵察しているサディアはそのような女性たちの姿を見たことは一度もない。
もしや時期の関係でただの偶然かもしれない。けれど部屋にいる彼を見ればあまり遊んでいる時間もなさそうだ。むしろいつも時間を惜しんでいるようにすら見える。
結局のところ噂は噂止まりなのだろうか。
サディアは真剣な表情で書類に目を通すフェリクスの横顔を見やる。恐らく彼が今見ているのは囚人の死刑執行許可証だ。物騒な文字がちらりと瞳を掠めた。彼が一筆書くだけでどこかの罪人の命が消える。しかし相手は罪人だ。フェリクスの手が筆に伸びていくのを一瞥し、サディアは静かに俯いていく。
やはり色欲に浸る気配など彼には微塵もない。
愛だの恋だの、そういった色情にまつわることはサディアの頭では一切の想像が及ばない。
サディアはこれまで誰とも深くかかわることなく生きてきた。だから自信はない。だが、彼が纏う雰囲気からはなんとなくそう感じ取れた。
フェリクスも自分と同じとまでは思わないが、少なくとも彼を観察していると今はそういったことに精神を割く余裕はなさそうな印象を抱くのだ。
とはいえティーハウスで耳にした宮殿に呼ばれた教師の話もあるくらいだから、まったくの嘘でもないのだろう。本当のことなどいつも靄の中に包まれているものだ。
刑務執行許可証にサインしているはずのフェリクスに視線を向ければ、ちょうど彼の胸元が光ったところだった。
そういえば彼はいつも胸にネックレスを下げている。美しく透き通った紫の宝石がちょうど机上のロウソクに照らされたらしい。
──トビアスみたい
彼もまた、祖母の形見だと言って肌身離さずネックレスを首に下げている。彼のネックレスはシルバー製の雪の結晶飾りがついた物で、一度チェーンが切れた時にはトビアスは大騒ぎして慌てていたものだ。
フェリクスのネックレスもトビアスと同じように大事なものなのか。
もしくは前に彼が語っていた通り、あのネックレスも威厳を演出するひとつなのか。
──いや、違う気がする。あれだけ、なにか違うものを感じる
観察の限り、アクセサリー類を身につけている時は上着とともに外すのが慣例だ。
ならば簡素な服の時も肌身離さず持っているあのネックレスが演出とも思えない。
そんなに大切なものなのだとしたら、もしや魔術師に繋がる助けとなるかもしれない。
自らの勘がそうだ、と狙いを定めた瞬間に思考がするすると冴えていく。
サインを終えたフェリクスの動きが止まった。ハッと息をのむ。彼は椅子に背を預け、くったりと腕を下ろす。
休憩のためか──そうではない、運がこちらに味方した。
サディアは出来る限り物音を立てないようにそっと翼を動かす。慎重に、かつ迅速に部屋を横断し、サイン済みの書類が置かれた机に下りた。背もたれに身を委ねて眠ってしまったフェリクスを正面に見やり、サディアは視線を彼の胸元に移す。
ネックレスの先にぶら下がる宝石は、あまり明るいとは言えない部屋の中でもきらめきを失うことはなく、意思を持って輝きを放っているように錯覚する。
サディアは嘴を器用に駆使してチェーンと宝石を繋ぐ金具を破壊し、宝石が落ちる寸前のところで見事にそれをキャッチした。
嘴で宝石を咥えたまま机上を跳ね、少しずつフェリクスから距離を取っていく。
寝落ちした彼の健やかな寝顔に心の中で詫びを告げ、サディアは躊躇うことなく翼を広げた。
自分の狙いはグラハムが探す魔術師への道案内を手に入れること。
そうすれば、きっと彼は約束を果たしてくれるはず──。
乾いた身体はまたすぐにぐっしょりと濡れていく。
再び雨空を舞う中で脳裏にぼんやりと浮かんだフェリクスの申し訳なさそうな顔を振り払い、サディアは一目散に帰路を駆けた。
*
「嘘だろ……──⁉」
フェリクスの絶叫が部屋の外まで響き、斜め向かいの部屋で控えるジーノが大慌てで部屋に飛び込んでくる。まだ夜が明けて間もないというのにジーノの身なりは磨かれた靴から乱れのない毛先まで完璧に整えられていた。
「如何なされました⁉ 陛下‼」
落石の如き勢いで転がり込んできたジーノが見たのは真っ青な表情で呆然と立ち尽くすフェリクスの姿だった。
「────ネックレスが、ない……‼」
「なに⁉ 何と仰いました⁉ な、一体、なにが起きたのです!」
焦燥するフェリクスの調子に引っ張られ、ジーノもパニック寸前だ。
「あっ、陛下、お気を確かに……! 陛下ー!!」
ふらりと倒れ込みそうになる主人の身体を支え、ジーノは彼の胸元に目を向けた。
いつもあるはずの輝きがそこにはなく、一瞬にしてジーノの顔からも血の気が引いていった。