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48 5/1440の君


 フェリクスが宮殿に戻ってから二日後。がらんとした部屋の中でサディアはエプロンを丁寧に折り畳む。これが終わったらトビアスにこのエプロンを返しに行かなくては。

 サディアの手の動きは遅かった。彼らを待たせていることを知りつつも、この部屋を出ていく覚悟が持てないのだ。

 開けっぱなしの窓から聞こえる街の活気に視線を投げ、サディアはぼうっと太陽を見やる。皇帝が昼間も姿を見せるようになって間もないが、珍しい出来事に未だ街は興奮が収まらないらしい。楽しそうな街の人々の声にサディアは微かに口角を持ち上げた。


 街の噂話は今日も尽きない。フェリクスの病気が治ったのではないかという話題に加えて、法曹界の頭であるロントン氏の娘が出家したという話もあり、皆は憶測とお節介に忙しいのだ。

 話によればロザリアは精神が参ってしまい、かつての華やかさが燃やし尽くされた灰のようだったとの証言もある。どれもこれも噂話にすぎないが、中には魔術師に魂を売ったのではないかと推測もあった。が、実際はそんなことはなく、兄たちを危険に晒したミンカが彼女に術の実験を行っただけのことだった。


 その術が成功したのか失敗したのかは定かではない。ただ、昨日荷物を届けてくれたジーノがそう教えてくれたのでサディアは最低限の真実だけは持ち合わせていた。

 パティオで別れたジーノの背中を思い出し、サディアは不意に手の動きを止める。

 彼は感傷的なことは何一つ言わなかったが、その表情を思い出すと心が色々な感情に飲み込まれてしまうのだ。

 だがもう決めたこと。

 帝国の象徴でもあった遺産カダリア城を壊したのもグラハムの企みを見抜けず皇帝たちを危険に晒したのも自分は無関係ではない。とにかく罪悪感でいっぱいだった。

 この国にいられないことは理解している。最初から戻れないことは分かっていた。が、一瞬でも期待した記憶がある限り、予想以上に落ち込んでしまう。


 結局トビアスとの約束も果たせなかった。もしかしたら一緒に働けるかもと思ってしまったせいで、彼にも優柔不断な奴だと嫌われてしまうのだろうか。

 ある意味では保護者のような存在だったグラハムもまた自分のことを気にかけてなどいなかった。はじめから一貫して彼は自分のことを嫌っていた。

 フェリクスもきっと、面倒に巻き込んだことに愛想を尽かしたに違いない。優秀な妹がいなければ彼は呪いに縛られたままだったのだ。

 いつも結末は同じ。後味は悪く、誰も彼にも嫌われる。


 エプロンから手を離し、サディアは窓辺に佇んで空を見上げる。

 大空を飛び回れたあの頃とは違い果てのない空は延々と高く伸びていた。これも望んだ景色だったはず。けれど気は浮かない。

 考えることを止めたサディアの瞳からはぽろぽろと涙が流れ出ていく。



 「サディア、ほんとうに行っちゃうのかな」


 目が覚めるほどに鮮やかな花々に囲まれたパティオでニコラが机に顎を乗せてぐだーっと脱力する。


「みたいだなぁ。今度は宮殿での奉公とは違い、本当に国を出ちまうみたいだからな」


 ワインやジュースの瓶を机に並べるトビアスは強がりの笑顔をニコラに向ける。が、彼の眉は悲しそうに垂れ下がっていた。

 トビアスの表情を上目遣いで見たニコラはイヤイヤと手足をばたつかせる。


「そんなぁ。かなしいよ……せっかく宮殿から戻って来たっていうのにもう行っちゃうなんて。トビアスだってまだ一緒に仕事したかったでしょ?」

「ああ。彼女の代わりを探すつもりもなかったから残念には思ってる。俺も寂しい──とはいえ、サディアも悩んで決めたことのようだしなぁ。彼女が決めたことは応援したい。あまり浮かない顔をしてたが──サディアなりに何か思うところがあるんだろう。宮殿にいたんだ。俺たちじゃ見えないような世界も見えたんだろう」

「それって帝国の汚いところとか? 陰湿な関係とか? 陰謀? 暗殺? 汚職──⁉」

「いやいや。そうは言ってないけど」


 トビアスが苦笑するとニコラは酒瓶を奪い取ってごくごくと喉に流し込む。と、瓶を口から離すと同時に閃いたと言わんばかりに瞳孔を開く。


「じゃあ何さ。あもしかして、やっぱあの皇帝に嫌がらせとかされたのかな。昨日昼間に初めて顔を見たけど、太陽光の下で見ると余計に発光して見えた。そんな人だよ? 完璧で何もかも持ちすぎてるから人の不幸とか知らなさそうじゃん。持たざる者の苦悩ってやつを。慣れない仕事に右も左も分からないサディアのこと虐めてたのかも」

「いやぁ、俺はそれには賛同しかねるねぇ。サディアも宮殿は良いところだったって言ってたし。それにミンカ様の兄でもあるんだぞ? 俺たちの手仕事を褒めてくれた。ニコラだって最近仕事が増えたのは彼女の宣伝効果もあるだろ。サディアも優秀だ。彼女のことを、あの人たちは無下にはしないよ」

「ほほう。随分と宮廷の肩を持ちますねぇ。ふっふっふふ。この前ミンカ様にお会いした時は緊張のあまり吐きかけたくせに」

「な──っ、それは関係ないだろっ」

「ふふふ。しょうがない、確かにミンカ様はお美しいから。帽子だけじゃなくてトビアスのことも気に入ってもらえるといいねぇ」

「やめろからかうな。こらっ、楽しんでるだろ。いいからお前も飲んでばっかじゃなくて手伝えよ、サディアのお別れ会の準備!」

「へへへへ。へーい」


 慌てふためくトビアスに敬礼し、ニコラは大きな声を出しながらどっこいしょと立ち上がった。朗らかな陽日のもとでニコラはトビアスの指示に従って酒瓶片手に椅子を並べ始める。順番に並べていく途中、大家の娘が用意してくれた手作りの装飾が門から剥がれかけていることに気づく。


「トビアスー! 身長が足りないから手伝ってー!」


 なかなか届かない装飾に向かってニコラは手を伸ばす。が、トビアスを呼ぼうと目を離した少しの隙にその落ちかけていた飾りが元の場所に戻っていった。


「この場所で良いか」

「うん? へ? あ、ハイ」


 聞き慣れない声に問われニコラは反射的に返事をする。声の方向を見やれば、つい先日見たばかりの彫刻顔がそこにはあった。


「──飲みすぎたかな。皇帝の幻覚が見える」


 何度も目を擦り、ニコラは茫然とした調子で呟いた。


「幻覚じゃない。ニコラ、しっかりしろ」


 トビアスに肩を叩かれニコラは再び目の前の彫刻に視線を向けた。

 門の前にいるのは正真正銘のフェリクス・ミュドールだった。


「ええええっ⁉」

「うるさいぞニコラ。失礼しました。彼女、ちょっと酔っ払っているもので」


 言動に感情そのままを乗せるニコラを叱責し、トビアスは申し訳なさそうに頭を下げた。


「いや構わない。賑やかでいいことだ。君は確かトビアス・エリエだな。妹が世話になっている。そして──こちらの女性はニコラ・ブノワか。君が作り出すレースのドレスは芸術的だ。素晴らしい仕事をする職人に会えて光栄だ。これからも皆を魅了する作品を作り続けて欲しい」

「ありがとうございます。勿体ないお言葉です──ところで、今日はまた何故こちらに? サディアの荷物なら昨日届けてもらいましたが。忘れ物でもありましたか」


 胸に手を当てて一礼した後でトビアスが冷静な口調で訊く。ニコラもまた彼の隣で首を傾げた。フェリクスは二人と目を合わせた後で一言だけ告げる。


「忘れ物をしたのは俺の方だ」



 数十分かけて畳んだエプロンには皺ひとつない。

 すべての荷物を鞄一つに詰め込んだサディアは最後に部屋の窓を閉めた。

 あとはこの部屋を出れば、皆との別れが待っている。

 サディアが窓に鍵を閉めたところでこれから開けるはずの扉が叩かれる音がした。


「ニコラ? トビアス?」


 痺れを切らして二人が呼びに来たのか。

 そう思ったサディアは急いで扉を開ける──すると。


「サディア、突然悪い」

「ふぇっ、フェリクス様⁉」


 扉の向こうにいたのはニコラでもトビアスでもなくフェリクスだった。今日の彼は過度に着飾ってはいない。恐らく公務ではないことを格好から表明しているのだろう。二日ぶりに見たその顔はとても凛々しく健康そうなものだった。

 フェリクスは衛兵に外で待っているように伝えてからサディアの部屋に入る。

 突然のことで慌てふためくサディアはひとまず部屋の扉を閉めて彼を振り返った。

 フェリクスは久しぶりに入った彼女の何もない部屋を見回し数か月前の出会いを懐かしんでいるようだった。


「フェリクス様、こんなところへ何を──?」


 サディアが訊ねるとフェリクスの瞳が真っ直ぐにこちらを向く。


「君が好きだ」

「──え?」


 はっきりとした声が耳を突く。滑舌良くしっかりと発せられたその言葉を聞き間違えるはずがなかった。だが、サディアは勘違いではないかと困惑した顔をする。彼がそんなことを言うはずがない。彼女の瞳はそう訴えかけていた。


「フクロウだった時から──君がいない毎日が考えられない」


 フェリクスは扉の前で固まるサディアに向かって想いを紡ぐ。


「サディアは自分の道を選べばいい。もうグラハムもいないのだから。でも、国を去るという君にどうしても伝えたかった。これまで出会った誰よりも愛おしいことを。君といられた日々がとても幸せだったことを」


 フェリクスの澄み切った瞳がサディアを映す。彼の告白に戸惑っていることは明白だった。縮こまるサディアにフェリクスは眉尻を下げて微笑む。彼女を困らせることは本望ではないのだろう。


「私は、もうフクロウではありません。フェリクス様はフクロウが好きだと仰っていました。きっと──フクロウと私を重ねて、思い違いを……」

「サディア、分かってる。確かに俺はフクロウが好きだ。だがサディア、君は違う。君はフクロウではない。フクロウは好きだが君のことは愛している。姿形など関係ない。どんな君も、君のすべてを見逃したくない」


 フェリクスの誠実な瞳と目が合うと身体の熱がふつふつと沸き出す。サディアは彼から目を逸らし、赤みを帯びた頬を隠した。フェリクスは隠しきれていない彼女の赤い耳を見て見ぬふりをした。


「この身体を取り戻した時も、本音を言えばそこまで嬉しくはなかった。ミンカには感謝している。だが扉を出ていく君の背中を見た時、胸には虚無しか残らなかった。君が離れてしまったから。君の手に包まれていた時の方がずっと満ち足りていた。確か君は壊したと言っていたな。カダリア城も、俺の望みも。でもそれは違う。あの時に、もう俺の願いは叶っていたのだから」


 サディアの顔がゆっくりと持ち上がる。部屋の中央に立つフェリクスはサディアと目が合うと穏やかに微笑んだ。彼の言うことを疑うはずがない。彼の表情を見れば、彼が正直に話していることは分かる。嘘偽りない彼の想いにサディアは恐る恐る口を開く。きっと、どんな馬鹿げた発言も彼は笑わない。


「私は──あの手が恋しいのです。雨に濡れた時に触れたあの温かさ。不安な心を落ち着かせてくれるあの大らかな手のひらが。でも、私はもうフクロウではないから──二度と、触れることなど許されないと思っていました」


 サディアの震える声にフェリクスは優しく相槌を打つ。彼の声に導かれれば不思議と言葉にする勇気が湧いてくる。


「私は人を愛するということを知りません。愛なんて──分かりません。でも、この気持ちがトビアスやニコラたちへ向かうものとは違うことくらいは分かる。たぶん……これは──あなたを、愛しているのです」


 緊張で耳鳴りが止まなかった。雑音を振り払い、サディアは力強い瞳でフェリクスを見上げる。


「まだ怖いです、この気持ちが。でも私は──あなたに恋をしたい」


 太陽の光がサディアの瞳を照らす。光を背負ったフェリクスの表情が一瞬見えなくなってしまう。が、近くに寄れば求めていた眼差しがこちらを見ていることが分かる。


「すぐに怖くなくなるよ」

「はい──」


 頷くサディアにフェリクスはふと片手を差し出してきた。


「ここからはじめよう。思えば、きちんと自己紹介もしていなかった。俺はフェリクス・ミュドール。こう見えて、この帝国の皇帝を務めてる。最近、苺や木の実が好きになってきた」

「私、はサディア・クィンスです。まだ、この国に来たばかりです。でも、もうここが大好きって分かる」

「よろしく、サディア」

「はい、フェリクス様」


 握手を交わすとサディアの頬に涙がこぼれた。フェリクスの大きな手にぎゅうと握られ、懐かしさに涙が戻ってきてしまったのだ。

 繋いだ手を引き彼女を寄せたフェリクスは心配そうにその涙を指で拭う。


「これは悲しいからじゃないのです、フェリクス様」

「ああ、分かるよ」


 まさか自分が前向きな涙を流すとは夢にも思わなかった。意図を汲んでくれたフェリクスに笑いかけると彼がサディアを抱きしめる。


「私、この国にいてもいいのでしょうか」

「誰が拒む。君がいなければ、街はきっと悲しむ。君が望むならそうするべきだ」

「ふふ……私は、ここにいたい」


 精悍な胸に抱かれサディアは額を預ける。彼の抱擁に自分の腕で抱きしめ返す勇気はまだなかった。頭を撫でられるのとはまた違う。が、それ以上に安心感を覚えるのは確かだ。サディアが顔を上げるとフェリクスの長い睫が上下したところだった。先ほどよりも顔が近い。瞼を閉じ、サディアはおずおずと背伸びする。

 愛を知らぬサディアだが、そうしたいという想いが溢れてきたのだ。サディアはフェリクスの上唇を柔く甘咬む。キスの仕方が分からないサディアにはフクロウの時の嘴の記憶が色濃く残っていたらしい。

 唇を離せばフェリクスと目が合った。急に恥ずかしくなったサディアは不安げに眉を歪める。


「やっぱり、おかしいですか……?」

「いいや、可愛い」


 真っ赤になるサディアの額にキスし、フェリクスはもう一度彼女を抱きしめた。サディアが彼の胸に顔をうずめるとフェリクスはその頭頂にもキスをする。


「なんだか恥ずかしいです。愛って、こんなにそわそわするものなのですか」

「恥ずかしがることはない」

「そう言われても……もう、フェリクス様の顔を見るのもなんだか恥ずかしいです。ずっと顔を上げられないかもしれません」

「それはいい。ずっとこうして君を抱き締められる」


 フェリクスがわざとらしく腕に力を込めるとサディアは思わず吹き出してしまう。


「フェリクス様は、きっとたくさんの愛を知っているのでしょうね」

「それはどうだろう」

「ふふふ。私も、色々なことを知っていきたいです」

「学ぶことがたくさんあるのはいいことだ。サディア、君はトビアスの助手をしたいと言っていたな」

「はい。私、この国が好きです。ティーハウスの仕事も大好き。だからここで働き、学んでいきたい。でも同時に色んな世界を見てみたいとも思うのです。これまで翼で飛んでどこまでも行けたはずなのに──翼を失った今こそ、強くそう思ってしまいます。ようやく、羽ばたけるような気がしているから」


 顔を上げたサディアは希望に満ちた笑顔を湛えていた。


「トビアスも喜ぶだろうな。優秀な君を助手にできて。少し嫉妬しても彼は許してくれるだろうか」

「ふふふ。きっと──」


 サディアの柔らかな笑い声が途絶える。フェリクスの唇が重なり、塞がれてしまったからだ。

 サディアのはにかみを瞳に映し、フェリクスが微笑みかける。


「会いに行くよ。陽のもとを歩いて。君のホットチョコレートを飲みに。帰り道には星空の下を並んで歩こう。君の話をたくさん聞きたい」

「その時に、一緒に星を探せますか?」

「もちろん。すべての星を見つけよう」

「それはとても時間がかかりそうですね」

「問題ない。急ぐ必要もないのだから。ほら、今だってもう五分以上経っている。でもご覧の通り」


 フェリクスが片手を広げて自分たちの姿を指し示す。そこにはシマリスもフクロウもいない。サディアは嬉しそうに肩を弾ませて笑う。


「とても待ちきれない」


 サディアの面持ちはフェリクスが部屋に入って来た時とは一転して晴れ晴れしい。彼女の素直な反応にフェリクスは目元を緩める。彼女が控えることなく心の底から感情を露わにするのを見るのはきっとこれが初めてだ。純粋な高揚感に胸を躍らせるサディアをフェリクスは再び抱き寄せた。

 愛を知ったばかりの彼女にはまだ彼の言葉の真意を読むことは難しい。けれどそれでも構わなかった。


 多幸感で一杯の小さな部屋の中心で、フェリクスはサディアに囁きかける。


「次の祈りの満月を迎えるまで、ともに空を数え続けよう」



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