4 大抜擢
「────ええッ⁉」
少しの間を開けて、アンドレアをはじめとする女性たちのどよめきが後を追う。
「ちょ、ちょっと待って。ミンカ様ってあのミンカ様? 夜帝の妹の? あの愛らしいミンカ様⁉」
「だからそう言ってるじゃないか」
困惑するアンドレアにトビアスが鼻高々に答える。
「うそ嘘っ⁉」
「ねぇ聞いた? ミンカ様だって」
アンドレアが顎が外れそうなほどあんぐりと口を開いて固まっていると客たちも口々にその名前を囁き始めた。
「そうだぞ! 皆の思うあのミンカ様だ。なんでも光の日の祭典にお忍びで街に出ていたミンカ様が俺の作った帽子を見かけたそうで。面白いデザインだから是非お願いしたい、と興味を持ってくれたらしいんだ」
「すごい。光栄なことね、トビアス」
彼が前にミンカの話をしていた時のことを思い出し、サディアはそっと彼に微笑みかける。見覚えのある彼の笑顔はあの時のものだ。
「ありがとうサディア。これからミンカ様の帽子作りのために忙しくなるが、何か問題があったら遠慮せず俺に言ってくれて構わない。店に来れる回数は減るかもしれないが……悪いな、サディア」
「ううん。気にしないで。アンドレアさんがいるから大丈夫。私も仕事には慣れてきたところだから」
「ああ。二人はほんと頼りになるな。ありがたいよ」
トビアスはニィッと歯を見せて笑う。なんだか彼に褒められたようでサディアはぎこちなくはにかんだ。
「ミンカ様かぁ。彼女、素敵な方だものね。なんでも着こなしてしまうし、これは重大な仕事になるわね」
客の一人がトビアスの腕をポンッと叩いて彼を鼓舞する。
「これをきっかけにトビアスの名前がもっと売れるわね。ミンカ様、白黒ハッキリした性格だって話だからどうにか気に入ってもらえるようにしないと」
「ええ。そうよ。先の選挙でもミンカ様は自ら立候補したって聞いたし。とても上昇志向の高い方みたいよ。だから下手なものはお渡しできないわね」
「──ああ。もちろん気を引き締めていかないとな」
トビアスは客の忠告に真剣な顔をして頷く。すると客たちは話題に出たミンカの選挙話に興味が出たようで──。
「へぇ。選挙ってミンカ様自ら手を挙げていたのね」
「そうらしいわ。ミンカ様、野心に溢れていて意欲の強い方なんですって」
トビアスの話を一旦置き、皆は次にミンカの人物評に興味を示し始める。
「あまり詳しいところまでは分からないけれど、会った人の感想だと彼女は頭も良く、才能のある方だと聞くわ」
「そうそう。いつでも兄の代わりが務まるのではないかって、冗談で囁かれているくらいだものね」
「冗談で言っていない可能性もあるわ。夜帝様、滅多に顔を出してくれないし、その点では不安になることもあるもの」
「今のところ順調だけど、もし重い病気でも抱えていたら大変よね」
「その点ミンカ様にはそう言った話はないものね」
「ええ。でも、あの夜帝様の顔を一切拝めなくなるのは悲劇だわ。私は彼に頑張ってもらいたい」
「まぁ、あなたって人は素直なんだから」
皇帝たちの話に盛り上がり、客たちは賑やかな笑い声を上げる。やはり夜帝たちの話題は皆が共通して好奇心を抱くらしい。
「ねぇ、そういえば前に私の近所に住む女性が宮殿に呼ばれたの。教師をやっている人なんだけどね」
「へぇ! それって、まさか──!」
「ええ。きっとそうよ。宮殿でのことを聞いても答えてはくれないのだけど、話を振ると決まってぽうっとした顔になるの。間違いないわ」
噂好きの常連客が確信めいた口調で語るので周りの客は皆はぁ、と愁いを含んだため息を吐き出した。
「なんだよ。結局皆の関心は夜帝様ってか」
話題がすっかり皇帝の方へと向いてしまい、トビアスは少しつまらなそうな顔をしてぶっきらぼうに言い放つ。
「トビアスの話も凄いよ。ミンカ様に帽子気に入ってもらえるといいね」
「ああ。ありがとうサディア。これまでの集大成だ、全力で挑むよ」
サディアがトビアスの隣に並んで彼を見上げるとトビアスは眉を勇ましく吊り上げて気合いを入れた。
「ミンカ様は帝国のお洒落番長だからね。変なものは作らないでよ」
ここでようやくトビアスへの注目が戻り、皆の視線が彼に集中する。
「大丈夫でしょう。トビアスがいつもつけてるネックレス、とても素敵だもの。そのセンスがあれば問題ない」
「ね。トビアスもお洒落さんだものね」
「街の男の中では一番ね」
いくつもの双眸が暖かい微笑みで自分の方を向き、トビアスはぎくっと動きを止める。急な賞賛に少しだけ焦っているようだ。
「いや、このネックレスは祖母の形見で、俺のセンスと言うか、その……」
「はいはい。照れない照れない。トビアスのことをこんなに褒める機会なんて次はいつあるか分からないんだからね?」
「いやそこはいつでも褒めてくれよ」
客のからかいに照れ笑いするトビアス。フロアはティーハウスに集う人々の軽やかな笑い声で包まれていった。その中にはサディアの声も含まれている。友人である彼に悪いとは思いつつ、気の抜けた彼の焦った表情が可笑しかったのだ。
こうやって、些細な話から思いがけない表情に出会えてしまう。
サディアにしてみればティーハウスで働く時間はあまり仕事という概念に縛られてはいない。それくらい客と一緒になって素直に楽しんでしまうことがあるのだ。
けれど自分の笑い声が耳に届くたびに、頭の片隅では罪悪感がひっそりと顔を覗かせる。
*
ティーハウスの仕事を終えたサディアが店を閉める支度をしていると、最後の客を見送ったトビアスが近づいてきた。
「サディアお疲れ様。今日は一段と賑やかだったな。疲れただろ? 大丈夫か」
「ええ。大丈夫。トビアスの大きな仕事の話で盛り上がってしまったから、皆も気を良くしてくれたみたい。今日の売り上げはここ最近で一番だと思う。だから私も嬉しいの」
「それは確かに嬉しい話だ。アンドレアさんはどうした?」
厨房に姿の見えない彼女を不思議に思ったトビアスがサディアの背後に目を向ける。
「表の掃除をしているはず──あ、ふふふ。お隣の店主とお話をしているみたい」
厨房からフロアを覗き、窓の向こうにアンドレアの横顔を見つけたサディアは目を細めた。彼女の表情を見るに、隣の陽気な店主と大いに盛り上がっているようだ。
「なるほど。それは邪魔しちゃ悪いな。まぁそれはいいか。今はサディアに用事があるんだ」
「私に?」
「うん。サディアもそろそろ仕事に慣れてきたと言っていただろ? で、ティーハウスの仕事だけじゃ物足りないかなと思って。サディアは要領がいいからさ。だから俺の本業、デザインの仕事にも興味がないかと聞いてみたくて」
「デザインって、帽子の──?」
「うん。もちろんティーハウスの方も任せたいんだけど──帽子のデザインの事業ももっと拡大させていきたくて、そっちも人手が足りてないんだ」
「トビアスは本当に多忙なのね」
「欲張りなだけだよ」
「でもどうして私? まだ私はこの街に来たばかりの新参者なのに。ほかにも、工房には頼もしい方がたくさんいるでしょう?」
「サディア、俺は君のことをもう新参者だなんて思ってないよ。大事な友だちだ。すごく頼りになる、ね」
トビアスは屈託のない笑顔でサディアの弱気な発言をどこかへ追いやっていった。サディアは何も言えずに小さく頷くのみだ。
「ここ帝都で少しずつ名を広めてはいるけど、他の地域や国の人たちにも知ってもらえたらもっと楽しいことになると考えててさ。そのために街を留守にする必要も出てくると思う。それで、その旅の助手として、サディアがいたら心強いなって思って」
彼の眼差しは真剣だった。表情は朗らかだが、ふざけて言っているのではないということが分かる。
「私に……? そんな大役、きっと務まらないよ」
「サディアは自己評価が低すぎる。ニコラにも相談したんだ。彼女もサディアがぴったりだって大賛成だったよ。アンドレアさんも、工房の人たちも。君以外の人間は皆、君のことを高く評価しているのに。それをもっと自覚しても誰も君のことを責めないって」
「でも──私──」
サディアの視線が下がる。すっかり俯き、言葉に詰まって黙りこくってしまった。
「あっ、そんな困らせるつもりはなかったんだ。ごめんな、急にこんなこと言って。すぐには決めなくていいから。ゆっくり考えて。俺だってまだ準備が全然進んでないからさ」
思った以上に暗くなってしまった彼女の表情に焦り、トビアスは彼女の肩をとんとんと優しく叩きながら飄々と笑ってみせる。
「悪かった、仕事終わりで疲れてるのにな。もうあとは俺が片付けておくから」
トビアスはサディアが手にしていた布巾を取り上げてから代わりに彼女の鞄を差し出す。
「この時間ならまだニコラも自分の工房にいるはず。酔っ払いに捕まる心配もないから、部屋に戻るなら今のうちだ。ゆっくり休め」
「うん。ありがとうトビアス」
まだ浮かない声をしていた。サディアは鞄を受け取り、最後に淡い微笑みをトビアスに向ける。気まずい空気を作ってしまった中、彼女なりの精一杯の笑顔だった。
店を出たサディアは雑談を続けているアンドレアに会釈し、重い足取りで家を目指した。彼女の右頬が夕焼け色に染まっていく。もう夕暮れだ。
日が落ちるにつれてサディアの足運びが少しずつ速くなっていった。彼女の頭の中を反芻していたトビアスの声も次第に遠のいていく。
夜が来る。
通り過ぎていく街並みは少しも彼女の視界に入らない。
ただひたすらに帰路を急ぐサディアの心拍は上昇し、息遣いも荒くなってきた。
早く帰らなくては。
今や彼女の思考はそのことで一杯だった。
「あら、お帰りなさい、サディア」
パティオで花に水を注いでいた大家の娘が急ぎ足で階段を駆け上がるサディアに気づいて声をかける。
「ただいま帰りました。おやすみなさい」
サディアは落ち着きのない足取りと同じ早口で返事をし、ぺこりと頭を下げて自分の部屋の扉を開けた。
「────うっ──あぁ……っ」
後ろ手で扉を閉めると同時にサディアは呻き声とともに後頭部を扉に預ける。
背にした扉に縋る指先が木目を引っかく。鞄はとうに床に落ち、サディアの膝もその隣にがくんと崩れた。
荒い呼吸を繰り返し、一直線上に見える窓の向こうを見上げる。夕焼けは遠のき、星の瞬きが薄っすらと姿を現し始めていた。
夜が来た。ここから先は月のみが支配する闇夜の世界だ。
窓の隙間からは夜霧が伸びてくる。まるで部屋から何かを奪うかのごとく霧は室内を行き交う。
外を見つめていた苦しげな瞳から少しずつ緊張が和らいでいく。悶え、歪んでいた濃紺の瞳からは力が抜け、ゆっくりと、大きく開いていった。
ぱちりと一度瞬きする。見上げる空の色は変わらない。呼吸が平常に戻っていくとともに濃紺の瞳は冷静さを取り戻し、横に並ぶエプロンの飛び出た鞄を見やる。目線と同じくらいの高さにあるそれを見た彼女の口が開いた。
「ホー」
空気に染み入る切ない声が狭い部屋の中に響いた。
またエプロンが飛び出てしまっている。注意しているのになかなか癖になってしまったらしい。
いかにもあわてんぼうみたいでみっともなく見えるそんな光景に濃紺の瞳はきっと呆れたのだろう。
もう一度窓の外に視線を戻し、サディアは身体を大きく跳ね上げて視界を上昇させた。バサバサと、足音の代わりに力強い羽音が鳴る。
窓際に寄り、わざと少しだけ開けていた窓を頭で押し上げて開く。
窓にぼんやりと映るのは二つ結びをした長い髪の女の姿ではなかった。
「ホー」
もう一度声を上げ、肺を膨らませ気合いを入れてからサディアは飛び立つ。
雄大に風を切る音が耳元に伝わる。
大きな翼を広げて空を横切る物静かな瞳が捉えるのは遠くに見える街一番の高雅な建物だった。
今から彼女が向かうのは、フェリクス・ミュドール──エンダロイツ帝国現皇帝の住む宮殿だ。