37 港町の家
運河を抜け、丘を越え、辿り着いたのは小さな港町だった。
朝を迎えるのを待ち、灯台の下で波の音に瞼を閉じる。
真っ暗闇に淡い光と温もりが滲んでいく。
波の雫が睫を濡らし、その冷たさにサディアはゆっくりと目を開けた。
眩しさの源に顔を上げれば、果てのない水平線の向こうに太陽が君臨している。
身体を起こし、サディアは鈍い頭に鞭を打つようにして首を払う。
朝が来た。桟橋が浮かぶ方向にはいくつもの漁船が戻ってきている。
誰かに見つかってしまう前に動かなくては。
一刻も早くその場を離れるためにサディアはまだ完全に目覚めていない脚を走らせ町外れの家を目指す。一晩中休むことなく飛び続けていた疲労が溜まっているせいか、全身が鉛のように重かった。
港町の賑わいは早い。サディアは人が集まっていく港の中心を避け、迷路の如く入り組んだ細い路地を通りながら黄色い屋根の家まで向かった。
辿り着いたその家は最後に見た時と大きな違いはなかった。強いて言えば家の前に咲いていたはずの花が消えているくらいだろう。時期的にも枯れているのは不思議ではない。
しかしそのほんの僅かな記憶の違いにこの場所を離れた時の景色が鮮明に蘇ってくる。月日が経つのは思うよりもあっという間だ。
「戻りました。グラハム、報告があるの」
感傷に浸るのはなんだか居心地が悪い。サディアは余計な考えを頭の隅に追いやってから家の扉を叩く。するとサディアが言い終わると同時に扉が内側へ開いた。
「期日ぴったりだ。良い報告と思っても構わないよね?」
扉の向こうから黒髪の背の高い男がニタニタと笑いながら顔を出す。黄金を閉じ込めたような黄色の瞳はサディアを見るなり妖しく垂れた。
「ダリアニを見つけた」
久しぶりに見たグラハムは記憶よりも顔色が良い。壮年の顔つきに変わりはない。が、艶やかな肌には一切の皺もシミも出来物もなく、つい先ほど殻を剥いたと言わんばかりだ。
「サディアが期待に応えるなんて予想もしてなかった。ワタシの勘が外れることなんてあるはずないのに」
目を丸めつつも満足気に笑うグラハム。客観的に見れば彼の端正な容貌は麗しく、その笑顔に多くの人が騙されるのも頷ける。
「それは褒めているのでしょうか」
「人の言葉くらい自分で解釈できるようになったらどう。まぁよい。とにかく入りなさい」
グラハムは煙たそうに表情を歪ませつつもサディアを家の中へと招き入れる。家の中の様子もほとんど記憶と一致していた。外観はごく普通の小さな家だが、一歩足を踏み入れればそこは垢ぬけた上品な空間が広がっている。内部は見た目では分からぬほどに広く、平凡な家の印象が豪邸と言っても過言ではない立派な屋敷へと変貌する。どれもこれもグラハムの術でつくられたものだからだ。
ダリアニを探しに行けとサディアに命じる一か月ほど前からグラハムはこの港町を拠点としていた。当時、グラハムがこの場所を選んだのは森に飽き、次は海が見たいからなのだとサディアは思っていた。しかし今となっては、マニュに一番近い手頃な場所がこの港町だった、というのが本当の理由だろうと察せられる。
きっとマニュの近くに控えることでダリアニを炙り出す機会を虎視眈々と狙っていたのだろう。
フェリクスの話によれば彼はマニュに行くことができない。ただし今夜だけを除いては。彼はそれを知っていたはず。ここにいれば、すぐにでも行動を起こすことができる。
「今でも皇帝との繋がりを持っているなんてダリアニも信心深いやつだ。忠誠心などとっくに葬っているかと思ったが」
グラハムは飾った絵画のズレを直しながらゆったりと廊下を進んでいく。
「──ダリアニは、ヴェネシアの形見を持っているとか」
どこまで踏み込んでいいのかは分からない。が、サディアはグラハムの表情を窺いながら知り得た情報を報告していく。知らないふりをしたり嘘をついたりしたらグラハムに罰せられる。彼は嘘も隠し事も大嫌いなのだ。もちろん、それを自分がする分には気にしていないようだが。
「ほほう。やはり思った通りだ。あいつは一途という名の変態だからな。彼女を手放しはしない。気の毒だ。美しい彼女があの汚い手の元に閉じ込められているのは」
一階で一番広い部屋であるリビングに入ったグラハムは片手を振って暖炉の火を燃やし始める。サディアは部屋の中で最も古びた椅子に腰を掛けた。ぼろぼろの椅子は今にも崩れてしまいそうだが、それ以外に座るとグラハムの機嫌を損ねてしまう。
「ワタシのもとにいれば彼女も幸せだった。毎日息を吹きかけ磨き、ワタシの枕元に置いてあげるというのに」
「その形見は一体どんなものなの?」
「ワタシも実物を見たことはないよ。ほとんどの彼女の私物は灰になってしまった。悲劇だろう。偶然ダリアニが彼女のモノを一つ盗んでいたから、それだけは無事だっただなんて」
「盗む?」
「ダリアニは卑しい奴だ。彼女の愛がワタシに向いていると知り、嫉妬のあまり部屋に押し入ったのだろう。ただ狙いは外れ彼女は部屋にいなかった。ワタシと一緒にいたからね。奴は怒り狂って彼女の私物を盗んだ。ああ気持ち悪い。彼女が封印されたのはその日の晩のこと。可哀想なヴェネシア。死してなお、物狂いに取りつかれるとは」
「彼女は死んではいないと聞いた」
「この世にいないのならば死と同じ。サディア、それくらい言わずとも分からないか」
グラハムは心底呆れたといった口調で責めた。暖炉の前にある豪勢なソファに身を沈めたグラハムは委縮するサディアを見てニタニタ笑う。
「ところでサディア。どうやって皇帝からダリアニの情報を掴んだ。君はまだダリアニに会っていない。そうだろ?」
「ダリアニには会ってない。皇帝が交渉してくれたから」
「余計に興味深い。皇帝がお前のために動くなんて天変地異と同じ事態だ。一体どんな手を使った」
「どんな手も何も……お願いをしただけ」
「お願い。便利な言葉だ。反吐が出るほど誠実な行為もどこまでも汚い狡猾な行為もどれも一括りにすれば”お願い”になる。お前とはもう十年以上一緒にいるが、そのどちらの技術もお前は持っていない。何か引っ掛かるものがないと──自分に利益もなく、親しくもない相手の”お願い”を聞いてくれるはずもない。ようは偶然にも物好きな皇帝だったという一匙の幸運がお前の味方をしたか。現皇帝のことはあまり知らないが、女好きという噂は有名だ。この様子じゃ彼の取り柄はそれくらいということか」
「──彼を悪く言うのはやめて。そんな人じゃない」
「ほう。そいつを庇うのか。だが勘違いしてもらっては困る。別にワタシは彼を貶してはいない。思うがまま人生を楽しむのは強者に許された特権。彼もまたそれを享受しているというだけだろ。ワタシはそういう奴を責めるつもりもない。お前が彼にどんな奉公をしたのかなんてどうでもいい」
グラハムのため息がサディアの身体の奥底に煮えた感情を刺激する。胸を裂く怒りにサディアは唇を噛みしめた。世界が微動しているように錯覚する。目の前で優雅に脚を組み替えるグラハムの仕草一つ一つに嫌気がさす。彼に対してこんな憤りを抱いたの初めてだ。よく知りもしないフェリクスのことを嘲笑う彼の態度が哀しかった。
「本当にダリアニは来るんだろうな」
宣言通りサディアとフェリクスの関係など気にも留めない様子のグラハムは大股を開いて肘を膝に置く。そのまま身体を前に倒し、念を押すようにサディアに訊ねる。
「今晩、あなたたち二人が最後に別れた場所に。次に会うのはこの場所だけだと、嫌でもグラハムも知っているはず。二人の呪いが始まった場所なんでしょう」
「当たり前のことを言うな。ワタシが忘れるはずがない。二百八十八年に一度。たったそれだけの機会だ。次を待つなど短気なワタシができるわけない」
「じゃあ、本当にダリアニに会いに行くのね──目的はなに? ヴェネシアの形見だけなんて思えない」
「何のためにサディアをマニュに行かせたと思う。サディアはワタシを誤解している。ワタシはヴェネシアを心底愛していたんだよ? 彼女を想えば身がほろほろと溶けていくようだった。会いたくて会いたくて堪らなくて。そんな彼女の僅かな手掛かりを望んで何が悪い?」
「皇帝は、あなたがヴェネシアを取り戻すかもと……」
「ああ取り戻す。形見を手にして取り戻すさ。彼女との思い出の日々を。それともなんだ? ワタシが彼女の死んだ魂を取り戻せるとでも思っているのか? さすがにそれは買い被りすぎだ。確かにワタシは素晴らしい魔術師、それは認めよう。期待させてしまうのもしょうがないと。ワタシの能力が罪なことだと認める。とはいえ魔術師にだって限界はある。全知全能の神というわけじゃない。前に禁忌を冒して自分がどうなったか、今もそれは身に染みている。反省してるというのに君らはワタシを疑うのか。ヴェネシアを生き返らせるのが目的だと」
「彼女が生き返ればあなたは彼女の一番になれるから。それを願ってもおかしくないって──」
「確かにヴェネシアの一番を取り戻したい。けど生き返らせたとてそれはもうヴェネシアではない。ただの亡霊だ。そんなの気味が悪い。ワタシが欲しかったのは生きた愛、たったそれだけ。亡霊にはそれがない。だがヴェネシアの形見にはその名残を感じられる。ワタシの一途な想いをサディアは信じてくれないということか」
グラハムは目元に手を被せて俯く。ぐす、ぐす、と悲しむ声が彼の胸元にくぐもった。サディアは瞬きもせず彼の嘆きをじっと観察する。少し前ならこんな言葉を誰かに言うとは思いもしなかった。けれどマニュでの生活がサディアの心境を大きく変えた。この言葉を口に出すことを愚かだとはもう思わない。
彼がこんなに悲しみを露にする姿をサディアは初めて見た。彼もまた三百年近く生きている。本人が望まなくとも自然と多様な感情を抱えてしまうのだろう。ただこれまでそれを知らなかっただけ。
「──信じる。グラハムも愛を知っている人なんだと」
サディアの静かな声に小刻みに揺れていたグラハムの肩の動きがぴたりと止まる。
「サディア。さすがは我が娘。恩人であるワタシのことを信じてくれるか」
「うん」
「目が霞むせいかなんだか今のお前がかわいらしく見える。褒美だ。今日だけは他の椅子に座ってもいいぞ」
グラハムは赤くなった瞳を擦りながら軽快な口調で喋る。そこでサディアはもう一つの問題を思い出す。
「褒美と言えば……ダリアニを見つけたということは──その、本当に私の契約を解いてくれるの?」
「もちろん。サディアが約束を破らなければワタシも約束を守る。だがそれはダリアニに会ってからのことだ。先を急ぐな」
ソファから立ち上がったグラハムは部屋の隅に集められていた数個の袋をサディアに投げる。
「お前が不在の間の土産物だ。どれも一口食べたがあまり美味くはなかった。繊細なワタシの舌とは違ってお前の幼稚な口には合うかもしれない。捨てる前に食べておけ」
「ありがとう──グラハム、旅に出ていたの?」
「大人しくこの家でお前の報告を待つ義務があるか? 厄介ごとを自分で処理するのは愚者のすることだ。お前がそれをこなす間、ワタシはワタシの時間を楽しんだ。当然のことだろ」
「──うん」
グラハムが次々に投げてくる袋を受け取りながらサディアはこくりと頷く。
しばらく傍を離れていて忘れかけていたが、確かに彼はそういった考えの持ち主だった。
「じゃあ、本当ならダリアニにこっちに来て欲しかった?」
「当たり前だ。なんでワタシがわざわざあいつに会うためにあんな古びた城に行かなきゃならんのか」
最後の袋を投げ、グラハムはあからさまにげんなりした声で唸る。
「クソ。面倒だが、これも呪いのせいだ」
不機嫌な彼にサディアが愛想笑いをすると、来客を示す鈴の音が鳴った。
「誰かと約束事?」
「今日は特にない……が、ワタシは魅力的すぎるから。また誰かが依頼にでも来たってとこだろ。ワタシが相手をする。お前はその菓子でも食べていろ。ワタシの邪魔をするんじゃないよ」
髪を整え、グラハムはサディアを奥へ追いやって玄関に向かう。愛想の良さを出すための発声練習が廊下に響く。
たくさんの袋を抱えたサディアの視界はグラハムが閉じた扉によって遮られていった。




