36 心得て
フェリクスが帰ってきたのは二日後のことだった。
ジーノが彼を迎えに行く間、サディアは彼に頼まれたフェリクスの部屋の掃除をしていた。掃除をほとんど終わらせたサディアは懐中時計の文字盤に目を向ける。もう何度針が動くところを見たのか分からない。
ジーノが宮殿を出て二時間が経つ。馬に乗って行ったのでそろそろ帰ってきてもいい頃合いだ。
窓から差し込む光に目を細め、サディアは瞳に焼き付いた太陽を振り払う。まだ陽は沈み切っていない。掃除が終わり次第部屋に戻るようにとジーノに言いつけられているが、あと少し。あの薄紫色の空に藍色が落ちるまで。どうか限界まで粘った後でこの場所で彼を迎えたい。
懐中時計をポケットにしまったサディアはソファや椅子に座ることもなく机上に置かれたオートマタと見つめ合う。
ちょうど陽が彼女の銅の瞳を照らしていた。無機質なはずの少女の瞳がきらきらと輝き、まるで今にも自分の意思で動き出しそうなほどに瑞々しい。無垢な女神の微笑みが、胸に張り付いた不安を溶かしてくれるようだった。この少女は彼の母に似ているのだろうか。そう思えば胸がちくりと痛んだ。彼女の息子に自分は無茶なお願いばかりをしてしまっている。
威厳を湛えた包容力を前に、サディアは両手を胸の前で握りしめた。願わずにはいられないのだ。あなたの息子のことを、どうか最後までお守りくださいと。
サディアがオートマタに向かって祈りを捧げた時、廊下の向こうから話し声と足音が聞こえてくる。規則正しいその靴音は確かにジーノのものだ。
サディアは急いで部屋の扉を開け、こちらに向かって歩いてくるジーノの姿に頬を綻ばせた。彼の手元の袋から小さな耳が見え隠れする。フェリクスが無事に帰ってきたのだ。
「おかえりなさい……──!」
声が詰まってなかなか言葉が出ていかなかった。サディアの押し殺したような歓喜の声にジーノが袋の中を一瞥する──と。
「ホットチョコレートの味はどうだった。今度、また作ってみてくれ」
袋からちょこんと顔を出したシマリスが微かに頭を傾けて穏やかに笑う。
「ジーノ、悪いが何か食べるものを持ってきてくれないか。ホットチョコレートのことを考えたらお腹が空いた。待っている間、さっき話したことをサディアにも伝える」
「承知いたしました。温かいものをお持ちしますね」
「ありがとう。迎えもご苦労だったな。助かった」
袋から部屋の中へと飛び降りたフェリクスに見上げられ、ジーノは誇らしげに表情を引き締めた後で扉を閉める。
「フェリクス様、ご無事で何よりです。あの……私、なにもできなくて……」
「何を言う。サディアのおかげで魔術師の面白い話を聞けた。彼らも根本は人間と変わらない。それを知れたのは、君がダリアニに会いに行く機会をつくってくれたからだ」
フェリクスは新居のごとく綺麗に整えられた部屋を見回す。
「休んでいていいと言ったのに」
「ジーノも私も、じっとしていると落ち着かないので……」
「二人は似てきた。君はすっかり、ジーノの右腕だな」
「そんな言葉、畏れ多いです……」
サディアが肩をすぼめるとフェリクスは窓枠に飛び乗ってクスリと笑う。
「自己評価が低すぎるのも二人の共通点ということか」
彼の独り言のような言葉にサディアはゆっくりと顔を上げていく。前にトビアスから同じ言葉を言われた気がしたのだ。
窓に寄りかかったフェリクスと目が合うと、彼の目元が僅かに弛んだ。いつの間にか彼の姿は戻っている。下枠に手を乗せ、軽く体重を後ろに寄せたフェリクスの気品ある佇まいにサディアの鼓動が一瞬乱れた。
「ダリアニは、何か言っていましたか」
呼吸が苦しくなる前に、サディアはどうにか息を振り絞った。
「期日である祈りの満月の夜にカダリア城でグラハムを待つとのことだ。どうも二人にしか解決できない問題がある。二人もまた魔術師の掟に縛られているらしい。二人が会えるのは祈りの満月の日、カダリア城でのみ、と定められているそうだ」
「──それって」
「ああ。そうだ。ダリアニは彼と会うことを承諾してくれた。サディア、グラハムにこのことを伝えてくれないか」
「それ……そんな……ほ、ほんとうに?」
「嘘はつかない。ダリアニからの条件として俺も同行するようにと言われた。満月の夜、俺とダリアニはカダリア城で待つ。サディアにはグラハムを連れてきてほしい」
彼の発する一音ずつに力が込められていた。その毅然とした声を脳内で噛み砕く度にサディアの身体中に驚きと喜びが巡る。ダリアニの返事はサディアにはまったく想像のつかないものだった。サディアもグラハムのことは知っている。ダリアニの性格によっては彼と二度と関わりたくないと断られてもおかしくはなかったはずだ。
しかし今、確かに未来が確立された。
信じ難い喜びにサディアの唇が微かに震える。いずれ興奮は指先にまで伝わり、サディアは対処できない感情に困惑すら覚えた。寒いわけでもない。けれど胸の奥から突き上がる感情に心までもが震えてしまうのだ。
「ダリアニにもグラハムの本当の目的は分からないそうだ。が、二人が愛したヴェネシアという女性の形見をダリアニが持っているという。グラハムの望みはそれだと」
「グラハムが、人を愛す……?」
「そんな過去があったとダリアニは言う。サディアには信じられないか」
フェリクスが眉尻を下げて参ったように笑うのでサディアは頭を左右に一度ずつ振る。
「自分が一番ではないことが気に食わないのであれば分かりますが。あまり、想像は……できません」
「一番ではないと、か。ダリアニの言った、ヴェネシアを取り戻したいのかも、という線は意外にもあるかもしれないな」
「ヴェネシアはもう亡くなられたのですか?」
「亡くなったというよりも封印されたという方が正しい。現世と常世の狭間に取り残されたと聞いた。いくら魔術師でも失われた命を復活させることは難しい。が、そうでないのであれば──グラハムにはそれくらいの力があるのか」
「──彼の野心をもってすれば不可能なことはないかもしれません」
「そうか。ならば用心しないといけないな。何が起こるのか分かったものではない」
「ヴェネシアを取り戻すことがグラハムの狙いだとするならば……形見を求めるのは理にかなっています。物は、その持ち主との結びつきが強いですから──フェリクス様、やはりフェリクス様は同行されない方が……グラハムのしようとしていることは、想像よりも危険なことかもしれない」
「本当の目的が何かはダリアニにも俺たちにも分からない。すべては憶測だ。グラハムにしか説明ができない。が、俺は行く末を見届ける」
「でも……──しかし、フェリクス様を危険な目に晒すことなんてできません。もう充分、この取引に尽くしてくれましたから。フェリクス様はエンダロイツ帝国の皇帝です。皆の希望なのです。それを奪いたくなんかない。その可能性がほんの少しでもあるのならば、私は──あなたを、傷つけたくはない」
サディアの悲痛な声にフェリクスの表情が哀切に歪む。が、その眼差しはすぐに柔らかなものへと切り替わる。
「サディア、気持ちは嬉しいが俺もじっとしていられない性質なんだ。ダリアニとも約束した。首を突っ込んだのは自分の選択なのだから最後まで責任を持つ」
「フェリクス様──! グラハムは、理屈なんて通じない。彼が何をしようとしているかも分からないのに、あなたをこれ以上巻き込むことなんてできません」
「悪いがサディア、俺は君だけで行かせることに耐えられない。危険な相手ならなおさら。グラハムは君を縛り続けた奴だ。サディア、俺は何があっても君を」
フェリクスの精悍な声が途切れた。威勢とは裏腹に大人しくなった彼の様子にサディアが瞬きをすると、憑き物が落ちたように彼の表情が穏やかになった。
「──君たちを守りたい。ダリアニのことも、サディアのことも。それにダリアニは頑固だ。俺が引っ張り出さないと、きっとカダリア城に来てはくれないさ」
フェリクスは霧に遮られた視界を払って片膝をつく。
「心配は分かる。が、俺の我が儘を許してはくれないか」
フクロウの深い瞳が切なく揺らぐ彼の青緑の瞳を捉える。
「ホー」
「ありがとう、サディア。いつまでも不安に思わせたままですまない」
「ホー、ホー」
フェリクスの手がフクロウの頭を撫でると、フクロウは大丈夫、と言いたげな眼差しで返事をする。
「やはり年長者の言うことには耳を傾けなければな」
「ホー?」
ダリアニに何か言われてきたのだろうか。
彼の呟きの真意が読めなかったサディアは不思議そうに首を傾げる。が、フェリクスは緩やかに微笑んだまま何も教えてはくれなかった。
ただ手から伝わる彼の体温が暖かく、そのたわやかな顔つきがどこか晴れ晴れしいことが分かるだけ。けれどそれだけで心は満たされるようだった。サディアはこちらを見て微笑む彼と目を合わせたまま、伸びやかな声で囁く。
彼女の低い声はくぐもって扉で隔てられた廊下までは聞こえないものだった。しかしそれはあくまで普通、である場合のみでのこと。
「──ロザリア様?」
名を呼ばれ、ハッと扉から身体を離したロザリアはわざとらしくスカートの汚れを払う。
「ジーノ。あら、それはフェリクスへ? あなたは部屋にいたわけではなかったのね」
慌てて踵を返したロザリアは皿の載ったトレイを抱えたジーノに向かって作り笑いを浮かべる。
「ええ。それよりロザリア様こそそんなところで何をしているのです。扉にぴったりくっついて何やら集中されているように見えましたが」
「何を言っているのよ。そんなの見間違いでしょう? わたしが聞き耳を立てていたとでも? そんな下品なこと、わたしがするわけないじゃない」
「──作用ですか」
「そうよ。使用人の分際で主の友人に無礼な目を向けないで頂戴。生意気ね」
「それは失礼いたしました。陛下は──」
「ええ。ええ。分かってる。どうせ会えないとでも言うのでしょう。言われずとも分かっているわ。ちょっと宮殿内を散歩したかっただけ。もう帰るわ。どうもお邪魔しました」
ジーノの顔を見るのも嫌なのか、ロザリアは彼から目を逸らしたままやれやれと両手を肩の位置まで上げて勘弁してと言いたげな仕草をする。
そのままジーノの隣を通り過ぎ、ロザリアは自らの宣言通り大人しく階段を下りて行った。彼女の珍しくやけに素直な態度にジーノは眉根を寄せて唇を歪ませる。あまりにも簡単に彼女が帰るとなるとそれはそれで怪しさが増すものだ。
「今日はやけに物分かりがいいですね……」
意外なことではある。が、彼女もただの暴走女というわけでもない。法曹界の重鎮である父から受け継いだその脳みそはしっかりと機能しているはずだ。
パーティーでフェリクスがはっきりと意思表明をしたおかげできっと彼女の気持ちにも変化が起きたのだろう。ジーノはそう考え、気を取り直してフェリクスの部屋に食事を運ぶ。
フェリクスの部屋の扉が閉まる音が宮殿内に響き、ロザリアは順調に階段を下っていた足を止める。
音の方向を振り返り、ロザリアは両手の拳を力いっぱい握りしめた。上階を睨みつける彼女の顔には、もはや宴の華と言われた愛らしさの面影はなかった。




