33 冒険者のごとく
その日、いつになくジーノの様子がおかしかった。
滅多なことでは動揺を見せない彼が、この日だけは浮足立って落ち着きがない。
「陛下。必要なものはすべてまとめました。万一雪でも降った場合に備えて暖かいお召し物も用意しております。食事についてですが、急なものでして戦闘糧食しか対応できず……ああそれから、靴も環境に相応しいものをご準備いたしました。登山に近いですからね。いつもの靴では足を悪くしかねません。それと──」
部屋の中をあっちへこっちへ行き交うジーノの身体と同じく、彼の口も休むことなく動き続けていた。
フェリクスが仕上げた書類を整理し机の上を片付けていたサディアは彼の異様な焦りに首を傾げる。その隣では、仕事を終え一休みするフェリクスが少しばかりの苦笑を浮かべてジーノを見守っていた。
「ダリアニに会いに行くと言うといつもこうだ。俺の方から訪ねる機会は多くない。それだけでジーノにしてみれば一大事ということになる」
ジーノを心配そうに観察しているサディアに向かってフェリクスが小声で囁く。サディアは束ねた書類のズレをトンッと机で均してからソファに積まれた大荷物を見やった。鞄は一つ二つではなく、まるでこれから旅回りに出る商人のように多い。フェリクスが言った通り、今夜、彼はダリアニのもとへ向かうことになっている。
「ダリアニは、山奥で暮らしているのですか」
「山というより崖に近い。森の奥に切り立った崖に小屋を作って住んでいる。近くには村すらない。暗くて寒い場所だ」
「魔術師ならば好きな場所を選べるのに、ダリアニは静かな場所が好きなのでしょうか」
「なぜそこを選んだのかは教えてくれない。が、彼があの場所を好んで選んだ。あまり人付き合いが得意ではないようだから、彼にしてみればのびのびと暮らせる楽園なのかもしれない」
フェリクスはどんどん増えていく荷物に辟易しながら肩をすくめる。
「危険な場所ですか」
「いいや。だからそんな顔はしなくていい。ダリアニは自分の領域の秩序を乱されるのを嫌う。そのおかげか、彼のいる場所は世界中のどこよりも安全だから」
「そう、ですか……」
「今更気が変わったということはないだろう。グラハムとの取引にはダリアニが不可欠だ。サディア、君は毛布にくるまって寝たいのだろう? 最近はあまり眠れていないようだ。なら、早いところ問題を解決しないとな」
目を伏せ身体を縮こまらせてしまったサディアに対し、フェリクスは飄々とした口調でふざけて笑う。シマリスの優しい眼差しにサディアはこくりと頷いた。
「夜、姿が戻り次第出発するがすぐには戻ってこられない。だからジーノにも伝えたがサディアも俺が不在の間は休んでいい。帰りは街の近くまでジーノが迎えに来てくれる予定だ。戻ったら、すぐに結果を伝えよう」
「──はい」
「ミンカの侍女のミシャが生徒のことを楽しみに待っている。彼女にホットチョコレートの作り方を教えてもらう約束をしたと聞く。サディアもたまにはなんでもない一日を満喫するといい」
シマリスの愛らしい表情にサディアは何も言えずにこくこくと頷く動作だけで返事をする。彼女の反応に安堵したのか、フェリクスはそのまま机を下りてジーノのもとへと駆けていく。
「ジーノ。荷物が多すぎる。大冒険に繰り出すわけじゃないんだから」
ジーノへの苦言を呟きながら去って行くシマリスの背中をじっと見つめ、サディアは束ねた書類をぎゅうと抱きしめる。
ついに目的としていたダリアニの姿が目の前にまで来た。グラハムとの約束に決着がつくまであともうほんの少しだ。フェリクスがダリアニを説得することができれば二人の魔術師の対面が実現する。ずっと待ち望んでいた瞬間にサディアの鼓動も徐々に加速していく。
しかしどこか心は浮かない。
この街に来た本来の目標が達成される念願の時だというのに。サディアの胸は複雑に絡まり合った感情で本心がすっかり隠されてしまっていた。
ダリアニはフェリクス一人でないと姿を現してくれないという。つまり衛兵も誰も彼とともに行動することが許されない。ただでさえ皇帝という身で命を狙われいるかもしれないのに。加えて山奥の崖にある家を目指すなんて。サディアはその事実に罪悪感を抱いた。
危険を冒してまでダリアニに会いに行くフェリクス。彼の決断にサディアの表情は揺らぐ。嬉しいのに、彼が遥か遠くに消えてしまいそうで寂しくもあった。
けれどもう後戻りもできない。
例えダリアニを見つけられなかった場合でも、グラハムはサディアを見限って今度こそ両親のように捻り潰すかもしれない。いや確実にそうなる。期日を迎えるや否やサディアを街から引っ張り出すに違いない。結局、行くも戻るも未来は変わらないのだ。
──それなら
ジーノと問答を続けるフェリクスをサディアは虚ろな眼差しで見やる。
グラハムの狙いが何だろうと任務が終わり次第サディアはこの街を離れるつもりだ。呪いが解ければ行動の自由も広がる。ならば皇帝の事情を知ってしまった自分は彼らから離れるのが得策だと分かっているからだ。トビアスの誘いを断らなければならないのは心苦しいが、思った以上に宮廷と関わってしまった以上きっと彼らもそれを望む。厄介ないざこざなど過去のものにした方がずっといい。そうサディアは覚悟を決めていた。
だから余計に考えてしまう。待ち構える未来が同じならば、彼を近くに感じたままその身を滅ぼした方がずっとマシなのかもしれないと。彼のことを知った今、その存在を知りながら遠くに生き続ける方がきっと遥かに苦しいのだから。
出発の準備を整えたサディアはジーノとともにフェリクスの部屋を出る。大幅に荷物を減らされはしたが完璧な支度を遂げたジーノは達成感に満ちた涼しい表情で扉を閉めた。
「さて。私は陛下をお見送りしてから休みます。サディアは先に部屋に戻っていていいですよ」
「いえ。私もフェリクス様のお見送りがしたいです」
「え? しかし──」
サディアの申し出にジーノは自分の懐中時計に目を落とす。
「お願いします。フェリクス様はすぐに出発なさるのですよね。それなら、急いで部屋に戻れば間に合うはず。彼がダリアニのもとへ行くのは私に責任があります。お供できない分、どうか彼の背中だけは見送らせてください。無事に戻るよう、祈りたいのです」
「────そこまで言うなら。ただし、すぐに戻るのですよ」
「はい……! ジーノ、ありがとうございます……っ!」
ジーノの承諾にサディアが深々と頭を下げたところでついさっき閉めたばかりの部屋の扉が大きく開く。
「まだそこにいたのか」
小さな荷物一つを身体に襷がけしたフェリクスが二人を見てクスリと笑う。
「お見送りします。サディアも一緒に」
横目でサディアを捉えつつ、ジーノはフェリクスに軽く頭を下げてから行く先に向かって腕を広げる。ジーノに続いて歩き出したフェリクスはサディアの不安そうな視線に気づき柔く口角を持ち上げた。
「心配は無用だ。こう見えて、俺はそこまで弱くもない」
「それは……──承知です」
彼が人体売買組織をその手で壊滅させたことが頭をよぎり、サディアは両手を身体の前で重ねて俯く。余計な心配をしていることは分かっている。けれどどうしても気持ちが落ち着かないのだ。もやもやして、ざらざらした想いが喉の奥を塞いでいく。
「ダリアニのことも、説得してみせるから」
彼女の心配の先が身体能力ではなく自らの交渉力にあると思ったのか、フェリクスはサディアの肩を優しく叩いて彼女の前を通り過ぎていった。
サディアは小さく「はい」と返事をした後で彼の後ろに続く。少し前までシマリス姿を見ていたせいか、いつもよりもその背中は大きく見えた。
「留守の間、何かあればミンカが対応する。迷惑をかけてすまない。できるだけすぐに戻るように努める」
「どうぞお気をつけて。予定の時刻にお迎えに上がりますので」
「ああ。小さいからと見逃さないようにな」
「はは。抜かりはありませんよ」
シマリス姿のフェリクスを回収予定のジーノは自らの胸をトンッと叩いて誇らしげに笑う。広間に出たフェリクスは最後にサディアを振り返る。
「行ってくる」
「──はい。行ってらっしゃい。どうか、ご無事で」
彼女の見送りの言葉が彼にとっては大仰に聞こえたらしい。フェリクスは目元を緩めた柔らかな表情のまま宮殿を後にした。
固く閉じられた扉を見つめ、サディアは結んだ指に力を入れる。しかし余韻に浸っている暇もない。気持ちを切り替え踵を返し、サディアはジーノとともに階段を上がる。もういつフクロウになってもおかしくない時間だ。早歩きで最上階を目指す二人の間に会話はなかったが、考えていることはまったく同じだった。が、そう簡単に物事が運ぶわけでもなく──
「あら。そんなに急ぐことないじゃない。ねーぇ? わたしともお話ししましょうよ」
ロザリアの甲高い声が階段を急ぐ二人の背後に響き渡る。急な声に驚いたのか、ジーノは表情をつくる余裕もなくあからさまな嫌悪を滲ませた顔で振り返った。
「ロザリア様? いらしてたのですか」
「ええ。ミンカに会いに来ていたの。前に見たパーティーでのドレスがすごく素敵だったものだから」
「陛下なら出掛けられましたよ」
「それは残念。でもこの宮殿にいるのはフェリクスやミンカだけじゃないわ。ねぇ?」
ジーノの感情のない語調に一切物怖じすることなく、ロザリアはサディアを見上げてニヤリと意地悪く笑う。
「フェリクスも不在なのでしょう? なら、多少騒いでも困る人間はいないはず。せっかくの機会なのだから女だけでの晩餐会でもやりましょうよ。ミンカも呼んでいいわ。フフ。ちょうどあなたにぴったりのお夜食も持ってきたの。もしかしたら会えるかもしれないと思って」
ロザリアは近くにいた自分の使用人を指を鳴らして呼びつける。彼女の不穏な発言にジーノは怪訝な表情で眉根に皺を寄せた。
「ほらみて? あなた、大好物でしょう?」
使用人に持ってこさせた巾着から硬直した鈍色の物体を取り出したロザリアはそれをサディアに見せつけてくすくす笑い出した。視界の中央で、長い尻尾をつままれ宙に吊り上げられたネズミの死骸がぶらんと揺れる。
「────ヒッ」
突きつけられた悍ましい光景にサディアは思わず口を塞いで悲鳴を上げる。みるみるうちに彼女の顔は青ざめていき、ショックのあまり言葉も失ってしまった。
ロザリアはそんな彼女の反応を楽しんでいるのか、声高に笑いながらネズミを持ったまま一歩ずつサディアに近づいていった。
「ほんとう愚かな女。こんな汚物を食べるんですもの。きっと中身も腐っているのね」
悪気に満ちたロザリアの声はいつもより低く、猫の唸り声のようだった。不意打ちの出来事にサディアの身体は固まり逃げることもできない。何もできない彼女に向かってロザリアはネズミの死骸を投げつけてきた。無情な鈍色が宙を舞う。もはやサディアの思考は働かず、目の前が真っ白になっていく──すると。
「いい加減にしてください。大人げない。例え害獣だろうと敬意を払ったらいかがです。これではこのネズミよりあなたの方がよっぽど畜生ですよ」
目の前からジーノのため息交じりの呆れた声が聞こえてきた。
サディアが背けていた顔を正面に戻すと、彼女の前に立ち塞がったジーノの手にはネズミの死骸があった。どうやら放り投げられたネズミの死骸を彼が受け取ったらしい。
「何よ。女同士の会話に割り込んでこないでよ」
「これは失礼。しかし私にも、限界というものはございますので。このようなものを宮殿に勝手に持ち込まれては困ります。疫病でも流行ったらどうするのです。ロザリア様、すぐにお引き取りください。もしやあなたにも菌がついているかもしれない。早々に消毒された方がいいでしょう」
「────フン。いいわ。わたしはその女のことを思って餌をあげただけなのだけれど。あなたたちにはわたしの思い遣りなど伝わらないようね。さすが下等生物だわ。まったく会話が成り立たない。そもそもの次元が違うのね。かわいそう。無垢で馬鹿なあなたたちは一生わたしたちの下でこき使われてつまんない人生を閉ざせばいいわ。行きましょう」
冷静なジーノの態度が気に食わない様子のロザリアは鼻息を荒くして早口でまくしたてる。言いたいことを言った後は自分の使用人に鼻先で指示をして二人の前から去って行った。
「……ジーノ」
「お礼やらなんやらは後でいいです。ほら」
サディアの震えた声をかき消し、ジーノは彼女の背中を押して先を急ぐ。が、放心状態のサディアの足にはなかなか力が入らない。そのおぼつかない足元に痺れを切らしたジーノはサディアの肩をぐっと抱いて彼女の身体を支えた。
ジーノの力強い足取りに押され、サディアはできる限りの速度で最上階を目指した。




