32 契約条件
「やはり、少し冷えていたか」
フクロウの身体が冷たいことに罪悪感を覚えたのか、フェリクスは申し訳なさそうに表情筋を崩す。
「ホー」
温かい手に包まれ、身体がぽかぽかとしてきたサディアは嘴でその指を優しく甘咬みして感謝を示す。フェリクスはフクロウの健気な態度に唇の端を柔らかに持ち上げた。
「不便だよな──サディア、ほら、これを」
フェリクスは肌身離さず持っている首元のネックレスを外し、フクロウの首にかける。喋ることができない彼女を気遣っているような声色だった。これまでも何度かそのネックレスを貸してくれたことはある。が、今夜はこれまでと違って彼の表情には何の迷いも懸念もない。
「これ、お借りしてもいいのですか」
「ああ。この方が君も楽だろう。俺も君と話がしたい」
「──ありがとうございます」
背もたれに身体を預けたフェリクスの自然体な飄々とした表情にサディアはどきりと胸を鳴らす。もしや風邪をひいてしまったかもしれない。彼に温めてもらったせいか余計に体温が上昇していき、サディアは若干の焦りを覚えた。
「あの──……ありがとうございます。部屋に入れていただいて」
「これまでが気が利かなすぎたんだ。君が気を遣ってくれていたから。それに甘えていたんだろう」
「そんなことは……そもそも、訪ねてくる私が勝手なことをしているのですから」
「何を言う。折角の翼だ。羽を伸ばすのは悪いことじゃない」
「……──はい」
フェリクスが机に腕を置いてにこりと笑いかけてきた。ぐっと近寄った彼の顔にサディアは視線を下げて小さく頷く。
「昔、真っ暗な部屋の中、窓の外を横切ったフクロウにすっかり心を奪われた。ミンカには呆れられたが。空を悠々と自由に飛び回るその姿に自分を重ねていたんだ」
「──それって」
「そうだ。もうジーノから聞いたんだろう。俺が母に軟禁されていたことを」
フェリクスはもう一度椅子の方に身体を預けて軽く首を傾げてみせた。遠慮しなくていい。その仕草はサディアにそう言っているようにも見えた。
「君の兄も人体売買組織に攫われたと言っていたな。俺の父もそうだった。家は財産が尽き、困窮していたが彼は気丈な人間だった。俺とミンカ、そして母の前では決して弱音は吐かなかった。いつだって俺たちのことを笑わせてくれた。今となっては彼の抱える不安もすべて吐き出して欲しかったと願ってしまう。が、当時の俺たちは無力な子どもだった。時が経って悔やんでも虚しいだけだな」
フェリクスは過去を想って乾いた息で笑う。その時の自分を恥じているといった顔だ。
「サディア。君は前に過去のことを話してくれただろ。君には酷だっただろう。だが正直に話してくれた。感謝している。今を知るためには過去を知ると言うだろう。皇帝になる時に覚悟と同時に多くを学んだ。それと同じだ。ある人のことを知るにはその人の過去を知らないと始まらない。別人になりきろうとも過去はいつまでもついて回る。その人間自身を織りなしてきた糸のようなものだからな」
「話を聞いてくれたことは、こちらも感謝しています。あなたは、私を一方的に断罪しなかった」
「──君は教えてくれた。だから今度は俺の番だ」
フェリクスの眉が凛々しく持ち上がる。先ほどまでのリラックスした表情が一気に引き締まっていく。
「ミンカも知らぬ真実だ。ジーノも本当のことは知らない」
「え……でも、そんな大切なお話、私ごときに──」
「サディア」
覚悟が滲む彼の瞳がサディアを捉える。その艶やかな眼差しは周りの空気をも制してしまう。フクロウの嘴が静かに閉じていく。
「君だからこそ聞いて欲しい。どうか、嗤ってくれ」
気品を帯びた彼の笑みが僅かに歪み、憂いが混じる。
「父を失ってから、母は冷静さを失った。我が子を同じ目に遭わせぬようにと屋敷に俺たちを幽閉した。いや、監禁と言った方が近いかもしれない。好奇心旺盛なミンカは縄で縛られ自由を奪われた。俺も、錘をつけられ母の言うことを聞かなければ罰せられた。当時を知る連中に大丈夫だったのかとよく聞かれる。もっぱらの噂だからな。皆、興味津々だ。お決まりの慰めに、俺はいつも問題ないと答えた。が、本当は大丈夫ではなかった」
前にジーノに聞いたフェリクスの母の話が現実味を帯び、サディアは思わず息をのみ込む。
「母を怒らせてはならない。失望させてはならない。これ以上、母を壊してはいけないと常に気を張っていた。同時に、まだ幼かったミンカを守らなければと責任も感じていた。だが何もできない。極度の緊張と重圧と無力感に気が狂う暇もなかった。その時は錘が邪魔をしていたから無力なのは仕方がないと自分に言い聞かせていた。だが──」
フェリクスはちらりとオートマタに視線を投げた後で再びフクロウを向く。感情の見えない瞳だ。
「その後、母は心中を試みて屋敷に火を放った。幸運にも、父の古くからの友人であるミュドール伯爵が助けてくれた。彼らに引き取られ、自由を得たと思った矢先だ──俺は顔面神経麻痺を患い、本格的に無力を思い知った。自分のことすら思うままにいかない。笑うことも、泣くことも、少しの感情を伝える術すら失った。錘もないのに。自分は本当に何もできないのだと落ち込んだ。今度はミンカに気を遣われる側になってしまった。妹の優しさは嬉しかったが、それ以上に情けなかった。思えば、あの時からミンカには敵わないな」
「だから……ダシティア医院で──」
彼があの夜言っていた言葉を思い出しサディアがぽつりと呟く。人の身体は思うままにいかない。まさにそれを彼は経験していたのだ。
「ミュドール伯爵の計らいで幸いにも母は施設に入院できることになった。その時に世話になったのがダシティアだ。まだあの時には自分の医院は持っていなかったが──彼女は母によくしてくれていた」
「そうだったのですね」
「ダシティアはいい医者だ。だが、結果的に俺たちと入れ替わりで母が閉じ込められることになってしまった。結局俺の力では母を救えなかったんだ。もう無力なのは嫌だった。だから今度こそは母の力になると誓った」
「それで、皇帝を目指したのですか」
「ああ。サディアは察しがいい。そうだ。皇帝になればあらゆるところに顔が利く。母を救う手段も見つかると思ったから。単純な話だが。母はもう、俺たちのことも忘れかけてきていた。焦ってたんだ」
フェリクスは机の上で指を組んで肩をすくめた。
「貴族選挙に出ると決意した頃だった──ダリアニが、俺の前に現れたのは」
「ダリアニ──」
その名を聞いたサディアの息が止まる。グラハムが探す魔術師。フェリクスをシマリスに変えた契約者だ。
「ダリアニはずっと昔からこの地を治める人間に仕えてきたらしい。エンダロイツ帝国が築かれてからもずっと、密かに皇帝たちを支えていたと得意気に話してきた。時代が進むにつれ、彼もあまり力を使う機会は減ってきたと言うが。次の皇帝の有力者だと聞いて俺を訪ねてきたという。ミンカも有力らしいと伝えたが、彼は断固として言い放った。いや、次は君だ。我には分かる。耳がいいから空気の本音が聞こえてくるのだと。意味が分からず彼に関わるのは控えようと思った。だがしつこく現れる彼と話をしているうちに、もしや彼こそが求めていた人間ではないかと思うようになっていった」
「それは、なぜですか」
「彼はどんな願いも叶えるという。代償はあるが、次期皇帝の願いなら断ることはないと偉そうに言うんだ。だから訊ねた。母が正気を取り戻し健やかな人生を送ることはできないかと。俺たちのことを忘れてもいい。ただ彼女が、心から笑えるようにと願った」
机の上で組まれた彼の指先にギリギリと力が込められていく。
「が、ダリアニは無理だと答えた。心の病を甘く見るなと。惑わすことはできても心を取り戻すことは不可能だと。ヒトの心は元来不可侵なもので、天気と同じで思うままに簡単に変えることなど出来ないのだと断られた。何でも叶えると言ったのにな。魔術師は気まぐれだ。だが彼のおかげで悟った。母はもう、永遠に苦しむことしかできないのだと。ならばと──」
フェリクスの声が一瞬だけ詰まる。フクロウが彼の赤くなった指先にそっと寄り添う。
「我を失いもはや虫の息の彼女が安らかになることを望んだ」
指先に寄り添うフクロウを見下ろすフェリクスの瞳は冷たい。けれどどこか物悲しく、悲劇に怯えている。
「代償はあのシマリスだ。ちょうど皇帝選挙の結果が出る直前のことだった。ダリアニは思った通りだと嬉しそうに笑っていたよ。お前が皇帝だって。屋敷に戻ると──母の訃報を聞いたミンカのひどく腫れた顔に迎えられた。彼女はもう泣いてはいなかった。まずは俺の皇帝就任を祝い、嫌味の一つを言って父のように気丈に振舞ってみせた。だが無理をしているのはすぐに分かった。いつも頭の片隅にはミンカへの後ろめたい気持ちがある。彼女の母親を奪ってしまった。最低の兄だよ」
フェリクスの淡々とした声は自らをひたすらに嘲っていた。彼の瞳がフクロウの隣にあるオートマタに向かっていることに気づいたサディアは玉乗り少女の無邪気な笑顔を振り返る。
「──人体売買組織を潰したのは彼女への弔いだ。ダリアニは野蛮なことには力を貸してくれないからな。ようやく自らの力で何かを成し遂げられた──もう、すべてが遅かったが」
オートマタに触れたフェリクスの指が虚しく机上に落ちていった。サディアはフェリクスを見上げ、一度息をのみ込んでから声を張り上げる。彼女なりに勇気を振り絞ったせいか、その声は少し震えていた。
「遅くなんてない。皇帝の偉業を聞いたとき、私がどれだけ救われたか──思い出すのも辛かった兄の顔と、ようやく向き合うことができたんです。兄は私を嫌っていたけど……それでも、それでも私は、兄の仇を打ってくれた人がいるのだと、すごく嬉しかった。たった一人の兄だもの。相性は……良くなかったけれど、私にとって大事な人に変わりはなかった──その失われた穴が、癒えていくようだったんです」
サディアの想いをフェリクスはしっかりと目を見て聞いてくれていた。彼の表情はまだ憂いに支配されている。が、少しずつ、重たい瞼が持ち上がっていく。
「──過去を話すことも、悪いことではないな」
「はい。誰かに聞いてもらうことで、ずっと心が楽になることだってあります。自分の過去だからといって自分一人だけで抱える必要はないのです。フェリクス様が──……それを教えてくれました」
最後はぼそっと独り言を呟くような小さな声だった。けれど彼の耳には一語一句欠けることなく届いたようだ。
「君は賢い。グラハムは君を見誤っているようだ」
そっとフクロウを撫で、フェリクスは強張っていた表情を柔く綻ばせていった。儚くも頼もしい微笑みにフクロウは嘴に力を込める。
「確かに少し心が軽くなったように思う。だが君に過去を話したのは、それだけが理由じゃない」
「──え?」
フクロウを撫でていた手は離れ、フェリクスはその手で頬杖をついた。
「君はあまり口に出さないが、本当は気にしているのだろう」
「そ、それは──ダリアニの、ことでしょうか」
「ああ。もっと懇願しても罰は当たらないものを。グラハムに怒られるぞ」
ニヤリと意地悪に笑うフェリクスの表情は少し楽しそうだった。サディアは気まずそうに視線を下げて嘴を開く。確かに彼の言う通り自分はあまり意欲的には見えないだろう。が、本当は喉から手が出るほどにダリアニの情報を求めている。しかし、彼女の脳内はいつも欲望同士が葛藤しているのだ。
「無闇に言ってもあなたには効きません。あなたは人を大切にするから。ダリアニを尊重する想いには敵わない。グラハムに叱られるのは慣れています。彼に叱られるよりもあなたに無理をさせる方が辛いのです。あなたを──苦しめたくはないから」
「サディア、自分を軽んじるな。勝手に諦められては困る。願いは恥じゃない。人間が持つ最も愛おしい感情の類だ。それを放ってしまっては勿体ないだろう」
フェリクスはくすくすと笑いながら机の引き出しを開ける。
「──それは?」
「花火だよ。スボ手花火という名らしい。昔の遊びだ。カダリア城の将軍が好んだ物だと聞く。こうやって立てて、小さな花火を楽しむんだ」
説明しながらフェリクスは木の枝よりも細い棒を香炉に立てて先端に火をつけた。するとしばらくして可憐な火の花が咲く。ぱちぱちと音を立て、フクロウの瞳を明るく照らした。
「ロザリアに秘密を話した借りもある。過去を話したのは俺なりの決意だ。君に協力しよう」
「えっ……?」
「信じられないか。俺は立派な人間ではないが、約束は守る」
「もちろん、フェリクス様の言うことを疑うはずはありません……でも、まさか……少し、驚いてしまって」
「ダリアニは大事な契約者に違いない。だが君も、もう放ってはおけない。無関係だとは思えないから」
机上に咲く小さな花火を見つめるフェリクスの朗らかな笑みがほんのりと色づく。最初は一色だった花火が数多の色に移り変わったのだ。
「祈りの日も近い。そろそろ時間がないだろう。君も帝国市民の一人だ。願いを捨てないで欲しい。帝国の皆の幸せを守るのが俺の仕事なのだから」
フクロウの喉がカラカラに乾いていく。彼を信じているのは確かだ。それでもまだ彼の言葉を受け入れることができない。
あまりにも希望に満ち、夢を見ているようだった。信じられない喜びに耐えられず涙が出そうになる。
「フェリクス様も、願いは捨てていないですか?」
「ん? 俺?」
「はい。帝国はフェリクス様が守ってくれます。ですが、フェリクス様は──? フェリクス様には、お願い事はありますか。皇帝としてではなく、フェリクス・ミュドールとして。呪いを解くことをダリアニに頼むことはできないのですか」
涙を堪え、サディアは感情を抑えた声でフェリクスに訊ねる。前から気になっていたことだ。彼はあまり自分の願望を話さない。いつも周りに気を配ってばかりだ。
「俺の願いが解かれることはないと思う。ダリアニは信念が強い。いい奴だが頑固者だから。魔術師の矜恃を大事にしているんだよ。それにこの代償はちょうどいい罰だろ。解いてくれなんて言う資格はない」
「なら、フェリクス様は今度の祈りの満月に何を祈りますか?」
「そうだな。あまり考えたことはない。だがもしできるのなら、陽の下で皆の笑顔を見てみたい。こそこそしないで堂々と。夜の世界も好きだ。が、多くの人は明るい時間に活動するだろう。息づいた世界を知りたいんだ。世界は、どのような呼吸をしているのだろうかと──これじゃ皇帝の願いになってしまうか。どうしてもそうなる。帝国の発展と平穏を祈ってしまう。面白味のない答えで悪い」
「いいえ。それも素敵な祈りです」
フクロウが頷くとフェリクスは目尻を緩めて微笑んだ。次第にその顔が暗くなっていく。花火が萎み、彼の表情を照らしていた光源が消えたからだ。
「この花火はダリアニに教えてもらったものだ。光の祭典が近くなるとくれる。これが最後の一本だった」
「最後の? 使ってしまってよかったのですか」
「問題ない。また貰いに行くよ」
フェリクスの力強い言葉にフクロウの無垢な瞳が揺れる。彼の手がまたフクロウの頭を撫でた。大きく、温かな手のひらに包まれたフクロウの表情が綻び、安堵したように瞼を閉じていく。
くすぐったいのに心地いい。久しぶりの感覚に、ずっと留守にしていた眠気がサディアのもとへと帰ってくる。




